Web展示会「復興の礎として 平和記念都市建設法と広島」 被爆からの復興構想

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ページ番号1033215  更新日 2025年2月16日

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昭和20(1945)年8月6日の原爆投下により、広島の市街地は一瞬にして壊滅した。

被爆から3か月後の11月、生存していた市会議員らにより戦災復興対策委員会が、翌月には市内の町内会長を中心として広島市戦災復興会が設置された。また、翌年1月、具体的な復興事務を統一的に処理するため、市役所に復興局が組織され、翌月には「復興ニ関スル恒久計画ノ樹立ヲナス」ことを課題として復興審議会が置かれた。復興審議会は、各界の代表者、学識者、地域の代表者など、幅広い分野の委員と顧問で組織され、多様な観点から復興構想を議論した。一方、国の復興都市計画としては、同年10月に街路と土地区画整理の計画が、11月には公園の計画が戦災復興院から告示され、広島平和記念都市建設法制定まで広島の復興の指針となった。

広島の復興構想は、この他にも、様々な立場の人から提案された。その中には、広島の都市機能を他所に移し爆心地の保存を訴えるもの、水害対策として地盤のかさ上げを推奨するものなど大胆な提案もあったが、大規模な幹線道路の建設や平和記念施設・公園の設置など、その後の平和記念都市構想で実現した構想案も出された。

町中の供養塔 昭和21(1946)年 (広島市公文書館所蔵個人寄贈写真)

写真:被爆した町の中に建てられた供養塔と供養する僧と人々


被爆直後、原爆の犠牲者を弔う供養塔は市内に点在していた。その後、広島市戦災死没者供養会(現広島戦災供養会)によって、昭和21年5月慈仙寺鼻に「広島市戦災死没者供養塔」(仮供養塔)が建てられ、昭和30年7月には現在の供養塔が建設された。

市長事務引継書(「被爆直後の市政一件」より) 昭和20(1945)年 (矢吹憲道資料)

写真:被爆後の昭和20年度予算に関する引継ぎ書


広島市財務課が作成した、被爆後の昭和20年度予算等に関する文書。戦災によって歳入の中枢となる税収入、使用料の大半が喪失したことで、現行予算の執行が不可能となったことなど、被爆直後の混乱と市財政の窮迫した様子がうかがえる。

広島市勢要覧 昭和21年版 昭和22(1947)年3月 広島市発行

写真:広島市勢要覧昭和21年版の表紙

昭和21年の復興計画(『広島市勢要覧 昭和21年版』より)

写真:広島市勢要覧昭和21年版に掲載の復興計画


被爆の翌年度、復興第1年号として発行された市勢要覧。原爆による被害状況と、その後1年間の復興状況を調査した概況の紹介を中心とした内容となっている。「復興計画」の項では、復興に向けた取り組みを述べる中で、既に「広島は世界平和の記念都市」という認識が全市に満ちていることが言及されている点に注目される。

広島市事務報告書並財産表(昭和21年度) 昭和22(1947)年

写真:「昭和21年度広島市事務報告書並財産表」より、復興局建築課のか所


広島市役所の各課が昭和21年度に行った業務の概況をまとめた報告書。昭和21年1月に設置された復興局(1室2部7課)もこの年度から項目に加わった。復興局建築課の工事状況を見ると、学校や病院、図書館など公共施設の再建だけでなく、市営住宅や店舗住宅など戦災で家を失った市民への対策も図られていたことがわかる。

復興審議会一件 昭和21(1946)年

写真:復興審議会一件の表紙

第4回復興審議会議事録(「復興審議会一件」より)

写真:第4回復興審議会の会議録の一部


復興審議会は、復興に関する市長の諮問に対し、助言・答申をするための機関として、昭和21年に設置され、昭和23年3月まで22回開催された。その議論の中では、今後の広島の都市計画の方向性について多様な意見が交わされた。この第4回の審議会では、防災道路(現平和大通り)の辺りに道路の代わりとなる運河の建設が提案されている。

広島復興都市計画街路網公園配置図 昭和21(1946)年12月 広島市共済組合発行

写真:昭和21年作成の広島市都市計画図面


昭和21年10月から11月にかけて、戦災復興院から告示された街路、土地区画整理、公園の復興都市計画に基づき作成されたもの。

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