Web展示会「復興の礎として 平和記念都市建設法と広島」 戦前の広島の都市計画

Xでポスト
フェイスブックでシェア
ラインでシェア

ページ番号1033214  更新日 2025年2月16日

印刷大きな文字で印刷

近代以降人口流入が続く都市部では、無秩序な都市の膨張を避け、郊外を含めた計画的な都市づくりが課題となり、大正9(1920)年1月、国は都市計画法を施行した。広島市への適用は大正12年7月からであったが、早くも大正9年4月の市会において臨時都市計画調査委員を選出し、10月には市役所土木課内に都市計画調査係(大正12年10月都市計画課に改組)を設け、適用の準備体制を整えていた。

大正末から昭和初期にかけて、広島市では「大広島」の構想、計画が提唱された。当時の市の見解を報じた新聞記事によると、この都市計画構想は、単に合併による市域拡大と人口増加を企図したものでなく、公園の新設や河川の整備など、近代都市として広島の都市機能を整備、充実させることを目指したものであった。

特に、太田川を始めとする河川の整備は、度重なる水害に見舞われてきた広島の都市計画から切り離すことができない問題であり、広島港の整備に当たっても不可欠な要素であった。太田川改修工事は、昭和9(1934)年に河口側から着工されたが、工事の途中で土地買収が難航し、昭和12年に日中戦争が始まると、大幅な予算削減により、実質中断の状態に陥った。

大正期「大広島計画」の事業別構想概要

一覧表

接続町村との合併

  • 海田市町から草津村に至る14か町村との合併
  • 広島市の人口(当時)が、15万余→20万余に増加。面積が1方里77(27.3平方キロメートル)から6方里弱(92.59平方キロメートル)に拡大

公園の新設

  • 泉邸(5,000坪(16,500平方メートル))、国泰寺(2,000坪(6,600平方メートル))など15か所を新設公園とする
  • 公園面積を既設のものと合わせて40万坪(1.32平方キロメートル)とする

河川整理

  • 次の2案を提起(いずれも分岐点に水門を新設)
    1. 戸坂から分岐して淵崎に至る新川を造り、猿猴川下流に合流させる
    2. 長束から西へ分岐して山手川に沿い海に達する新川を造成
  • 東部台屋町奥の先端~相生橋の一線以南の各川を整理
  • 各川幅30間(54m)とし、10尺(3m)ずつ掘り下げる

運河の新設

  • 御幸橋を起点に、京橋川と元安川を連結する運河を建造
  • 水主町下手を起点に、元安川以西の各川を連結する運河を建造
  • 運河の幅は30間(54m)とし、10尺(3m)ずつ掘り下げる

市街電車網の拡充

  • 既存の東西線(広島駅己斐間)に併行して東西支線(4線)を拡充
  • 南北線(9線)と巡環線を新設
  • 新設電線の延長は、東西16マイル(25.6km)、南北20マイル(32km)余、巡環線の一部は3マイル(4.8km)

道路の新設

  • 1級道路80マイル(128km)・幅5~12間(9m~21.6m)
  • 2級道路40マイル(64km)・幅3~5間拡充(5.4m~9m)

新開地埋立て及び住宅・工業地域の制定と充当

  • 埋立坪数は200万坪(6.6平方キロメートル)
  • 埋立地は工業地(東新開、宇品新開など)及び住宅地(白島新開、皆実新開など)に指定し、残部はいずれも商業地に充当

宇品港

開港場とし、広島の発展に資する

広島市が内務省に回答した大広島建設計画の内容に基づき作成(大正11(1922)年9月26日「中国新聞」掲載)

大広島案内 昭和4(1929)年3月 昭和産業博覧会協賛会発行

写真:昭和産業博覧会の際に出された広島の案内冊子


昭和4年、広島市主催の昭和産業博覧会が開催された際に出版された、来広者向けのガイドブック。広島での博覧会の開催については、これ以前から広島商業会議所の機関紙で、「大広島を建設する門出の表象として、一大記念産業博覧会を開催」し、市民の意識を発奮し、広島の産業を広く紹介しようと提言されていた。

広島市鳥瞰昭和産業博覧会会場分布図 昭和4(1929)年 広島第一印刷発行

写真:昭和産業博覧会の会場俯瞰図


昭和産業博覧会は、昭和4年3月20日~5月13日西練兵場、比治山公園、向宇品をそれぞれ第1~第3会場として開催された。会期中の来場者は、各会場合わせて174万人を超える盛況ぶりであった。

大広島之創造 昭和5(1930)年12月 広島政界廓清会発行

写真:荒川五郎著『大広島の創造』の表紙


第7章「広島の保護が第一」(『大広島之創造』より)

写真:『大広島之創造』第7章「広島の保護が第一」


広島出身の衆議院議員荒川五郎の著書。大広島の実現に向けた構想案を提起したもの。「広島の保護が第一」として、治水治山事業の重要性などが訴えられている。

広島県太田川水害実況写真(アルバム) 昭和6(1931)年 (広島市公文書館所蔵個人寄贈資料)

写真:太田川の水害の被害写真をまとめたアルバム


広瀬町、上流川町の水害写真(「広島県太田川水害実況写真(アルバム)」より)

写真:「太田川水害実況写真アルバム」より、広瀬町と上流川町の被害


太田川の治水は、度重なる水害への対策、宇品への商業港開港のために避けられない課題であった。このアルバムは、太田川改修の必要性を政府・国会に訴える目的で、水害の新聞記事や惨状を伝える写真をまとめたものである。

太田川改修工事平面図 昭和11(1936)年 内務省大阪土木出張所発行

写真:昭和11年作成の太田川改修工事平面図


内務省大阪土木出張所発行の『太田川改修計画概要』の付属図面。

太田川改修工事は、昭和7年に帝国議会で15か年継続の改修費用の支出が決定され、調査・測量を経て、昭和9年4月から新放水路建設工事が始まった。

広島都市計画街路網並地域図 昭和12(1937)年1月 広島市土木部都市計画課発行

写真:昭和12年の広島市都市計画図面


昭和12年当時の広島市都市計画における路線の拡張計画のライン、住居・商業・工業の指定地域が色分けして示されている。

このページに関するお問い合わせ

企画総務局 公文書館歴史情報係
〒730-0051 広島市中区大手町四丁目1番1号大手町平和ビル 6~8階
電話:082-243-2583(歴史情報係) ファクス:082-542-8831
[email protected]