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広島の歴史(平成30年版広島市勢要覧)

ページ番号:0000012474 更新日:2019年10月21日更新 印刷ページ表示

原始・古代

現在、市街地がある太田川下流域は、ほとんどが海中にあり、牛田・矢野・五日市や広島湾に浮かぶ島であった比治山に縄文時代の遺跡が、また、中小河川による沖積地を見下ろす丘陵を中心に、市内各地域に弥生時代の遺跡があります。
古墳時代前期になると、口田の中小田古墳群、緑井の宇那木山古墳群、神宮山古墳群など太田川流域に大型の古墳が築造されるようになり、後期になると可部や白木などの内陸地域でも古墳が盛んにつくられるようになりました。
律令制度下の地方政治は国府を中心に行われていました。
安芸国では西条(東広島市)又は府中(安芸郡府中町)に国府が設けられ、平安時代中期には既に府中にあったとされています。白木の三田郷などは国府と関係がありました。

律令制度が揺らぎはじめると、貴族・寺社や皇室は荘園を所有するようになり、8世紀末には牛田荘が大和国の西大寺領となったほか、可部荘(可部)、三入荘(三入)、田門(たと)荘(口田周辺)などが設けられました。
当時の太田川河口付近であった祇園地区の山本周辺には、内陸部にあった厳島神社の荘園からの物資を運び出すための倉敷地がありました。

中世

承久の乱(1221年)後、新たに安芸国守護職となった武田氏は、武田山に築いた銀山(かなやま)城(安佐南区)に本拠をおきました。
城下付近には市(いち)が立つなど、にぎわいをみせるようになり、政治の中心も府中から移ってきました。武田氏は、南北朝時代に入ると、足利尊氏の誘いに応じ、毛利・吉川・熊谷氏などを味方にし、矢野城(安芸区)などで、反幕府勢力と激しい抗争を続けました。
その後、武田氏は守護職を追われましたが、15世紀の初めには、太田川流域を支配する分郡守護として復活しました。
このころ、現在の市街地のあたりには太田川によって運ばれた土砂が堆積し、砂洲や自然堤防ができ、次第にデルタが形成され、漁撈を主業とする人々が生活を営むようになりました。やがてこの地域は、広島湾頭における武田氏と山口の大内氏の勢力争いにまきこまれるなど次第に政治的・経済的に重要性をおびるようになりました。この地が、文書に初めて出てくるのは、応永4年(1397年)のことで、厳島神社領安摩(あまの)荘(しょう)(矢野周辺)の付属地として五ケ浦の名が記されています。
天文10年(1541年)武田氏は滅亡し、代わって毛利氏が次第に勢力を伸ばし、弘治元年(1555年)の厳島合戦で陶(すえ)氏を破ると、急速に勢力を中国地方に拡大しました。毛利氏は豊臣秀吉の全国統一の過程において、その勢力下に入り、中国地方の大半を領有する112万石の大名となりました。
この広大な領地経営の中心は、毛利氏の本拠地である吉田の郡山城(安芸高田市)でしたが、軍事・政治・経済等あらゆる面で、海陸交通の要衝の地に本拠を移すことが必要となってきました。

近世

天正17年(1589年)毛利輝元は、当時五ケ(五ケ村)といわれた太田川デルタの上に築城を始め、この地を「広島」と命名したといわれています。その後、約2か年の歳月を費やして築城工事は完成し、19年(1591年)、輝元は家臣を従えて入城するとともに、領内各地から職人や商人を招くなどして、京都・大坂(大阪)にならい城下町の建設を行いました。
豊臣秀吉の没後、慶長5年(1600年)に起こった関ケ原の戦に敗れた毛利輝元は、防長2か国に移され、代わって尾張清洲(愛知県)の福島正則が芸備49万8千石の領主となりました。福島氏は毛利時代に引き続き城下町の拡張や整備を行うとともに、西国街道(山陽道)を城下に通し、出雲・石見国への雲石街道の整備を図りました。
しかし、福島氏は幕府から広島城の無断修築の罪で改易され、元和5年(1619年)紀州(和歌山県)から浅野長晟(ながあきら)が、安芸一国と備後8郡42万6千石を領して入城しました。
江戸時代には、広島城下の南方の干潟は次々と干拓されていき、文政年間(1820年頃)には新開の町村数は35を数えました。
このころ、町・新開の人口は4万8千人を超え、これに武家・寺社の推定人口2万人を加えると、城下の総人口は7万人前後となり、江戸・大坂(大阪)・京都・名古屋・金沢に次ぐ大都市でした。
また、内海航路沿いの最大都市として、本川や元安川沿いは他国船でにぎわいをみせ、中でも中島界隈は街道沿いに大店が並ぶ商業の中心地でした。
城下近郊では沿岸地域で綿が、太田川流域では麻苧(まちょ)・紙・竹細工・野菜、広島湾では海苔・かきなどが生産され、多くが城下に集められた後、上方へ積み出されました。

城下絵図

明治・大正・昭和(戦前)

明治4年(1871年)7月、新政府による廃藩置県が行われ、翌5年(1872年)4月、広島城下は広島県第一大区となり、続いて11年(1878年)11月、郡区町村編制法の実施により、広島区と改められました。
次いで、21年(1888年)4月市制町村制が公布され、翌22年(1889年)4月1日、広島は全国で最初の市の一つとして市制を施行しました。その時の面積は約27平方キロメートル、戸数は2万3,824戸、人口は8万3,387人でした。
明治22年(1889年)11月には、千田貞暁県令(県知事)の努力により、17年(1884年)9月以来、5か年に及んだ宇品港の築港工事が完成し、皆実新開以南、宇品島へ至る浅海は広大な陸地となりました。さらに、27年(1894年)6月には、山陽鉄道が広島まで開通しました。
同年8月に日清戦争が始まると、広島‐宇品間の軍用鉄道(宇品線)が2週間余りの突貫工事により開通し、宇品港から多くの兵員・物資が戦地へ送り出されました。9月には大本営が広島城内に移され、10月には臨時帝国議会も開かれました。
以後、明治37・38年(1904・1905年)の日露戦争など相次ぐ戦争により、軍関係の諸施設が次々と設置され、本市は、「軍都」としての性格を強めていきました。一方で35年(1902年)の広島高等師範学校の設置をはじめとし、広島高等工業学校、広島高等学校、広島女子専門学校、広島文理科大学などの学校が設置され、文教施設が充実していきました。こうして本市は次第に中国地方における政治・経済・文教・交通の中心都市となっていきました。
軍事施設の設置などにより上水道の敷設など都市基盤の整備も進みました。なかでも城濠の埋立は、その一部に電車軌道が敷設されるなど街の景観を大きく変貌させました。
大正元年(1912年)11月、広島電気軌道株式会社経営の市内電車が、広島駅‐紙屋町‐相生橋線など3路線で開通し、従来の乗合馬車に代わり市内の主要交通機関となりました。
大正4年(1915年)4月には御幸橋-宇品線、6年(1917年)11月、左官町-横川線が開通すると、市内の交通は一段と便利になり、八丁堀・紙屋町付近が、城下町時代からの経済的中枢であった中島本町・堺町付近と比肩することとなりました。

10年(1921年)、新天地が創設され、活動写真館等を中心に各種の店が集まる新たな繁華街が誕生し、昭和4年(1929年)には広島初の百貨店福屋が八丁堀に開業しました。こうして本市の中心的な盛り場は八丁堀付近に移り変わっていきました。中島と新天地を結ぶ本通も次第に繁華街として成長していきました。
また、明治37年(1904年)9月仁保島村字宇品島を市域に編入(新町名:元宇品町)、さらに本市が大正8年(1919年)に制定された都市計画法の適用を受けたことから、昭和に入り本市とともに都市計画区域となった隣接町村に合併を働きかけ、昭和4年(1929年)4月、隣接7か町村(仁保村・矢賀村・牛田村・三篠町・己斐町・古田村・草津町)との合併が実現しました。これにより、人口は27万人を超え、全国で7番目に人口の多い市となりました。
近世以来、新開開発により河口に向けて発達してきたデルタ地帯の宿命として、本市は長く洪水、高潮による被害に悩まされました。昭和7年(1932年)には太田川改修工事が着手され、また、宇品港は広島港と名を改め、翌8年(1933年)には修築が始まり、15年(1940年)からは工業港建設と埋立地を臨海工業地帯とする事業が始まりました。

明治27年(1984年)広島市で開催された臨時帝国議会の仮議事堂被爆前の相生橋と広島県産業奨励館(現原爆ドーム)

昭和(戦後)・平成

昭和20年(1945年)8月6日、人類史上最初の原子爆弾が市中心部上空約600mで炸裂しました。広島の街は一瞬にして焦土と化し、多くの人々の生命が奪われ、全ての都市機能は壊滅的な被害を受けました。同年末までの死者は約14万人(誤差±1万人)と推計され、生き残った人々は様々な形での後障害に苦しめられ、その影響は今なお続いています。

瞬時に壊滅し、廃墟の街となった本市の復興は、鉄道・電車などの輸送機関や通信・電力などの復旧から始まりました。市民も食糧や物資の欠乏に苦しめられながらも生活の再興を進めていきました。一方、市は、昭和21年(1946年)秋には、復興都市計画を決定しましたが、資金難などによりなかなか進みませんでした。

こうした状況を打開したのが、24年(1949年)8月6日に公布された「広島平和記念都市建設法」でした。これにより、道路・橋梁・住宅などの整備が本格的に進むこととなり、高度経済成長前夜の市域拡張期を迎えました。
被爆から2年後の昭和22年(1947年)8月6日には平和祭が行われました。朝鮮戦争がぼっ発した25年(1950年)の第4回の平和祭は、開催の直前に治安を理由に中止されましたが、翌26年(1951年)からは「原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」となり、現在に引継がれています。

30年(1955年)には、平和記念公園内に広島平和記念資料館が開館し、原水爆禁止世界大会も開催され、名実ともに平和記念都市として、実質的な一歩を踏み出しました。

被爆の惨状を残す原爆ドームは、戦後しばらくその存廃が論議されていましたが、35年(1960年)から盛んになった市民による保存運動を契機に、41年(1966年)保存が決定されました。
戦後、市町村が所管する事務の増大に伴い、その能率的処理のためには自治体規模の合理化が必要となり、昭和28年(1953年)町村合併促進法、31年(1956年)新市町村建設促進法により、町村合併は全国的機運になりました。広島市では30年(1955年)4月安芸郡戸坂村、31年(1956年)4月安芸郡中山村、同年11月佐伯郡井口村と合併を行い、翌32年(1957年)人口は40万人を超えました。こうした中、市は33年(1958年)に「大広島」構想を発表し、本市を中核に広域都市圏を建設しようという構想を相次いで打ち出しました。
市内中心部の戦災復興は、新たな公園や河岸緑地、平和大通り等広幅員の街路の整備を行う復興計画により大規模な区画整理が必要となり、昭和47年(1972年)の完成までに30年弱の期間を要しました。この間、都市流入人口の増加と区画整理事業等の影響から、河岸地帯はバラック建ての不法建築により占拠され、特に基町地区は大規模な不法建築群、いわゆる「原爆スラム」を抱えることになりました。

53年(1978年)、これらを撤去し高層住宅や公園を整備する基町地区再開発事業が完了し、戦災復興に一つの区切りを与えました。一方、原爆被災の影響が少なかった段原地区については、狭隘な細街路等が大きな課題として残されていましたが、平成26年(2014年)、43年かけた再開発事業が完了しました。

戦時中、一時中断していた太田川改修工事は昭和26年(1951年)に再開し、40年(1965年)の新放水路への通水開始により完了しました。これにより長く悩まされ続けてきた太田川流域の水害が激減しました。
高度成長期に入ると、昭和36年(1961年)に広島空港(現広島ヘリポート)が開港、39年(1964年)の山陽本線全線電化開通、40年(1965年)の広島民衆駅完成、41年(1966年)の国道2号新広島バイパス開通等交通基盤の整備が進み市勢が一段と伸長、広島都市圏が形成されました。

その結果、市域を越えて広がった日常生活圏内の諸問題を一体的に処理するため、周辺町村との合併機運がさらに高まりました。昭和43年(1968年)1月、周辺19町村による広島地区広域行政懇談会が設置され、45年(1970年)3月、魅力ある広域生活圏の形成を掲げる広島市基本構想策定により、周辺町村との合併は一挙に進みました。

46年(1971年)4月の安佐郡沼田町との合併をはじめとして、同年5月安佐郡安佐町、47年(1972年)4月安佐郡可部町、同年8月安佐郡祇園町、48年(1973年)3月安佐郡安古市町、佐東町、高陽町、安芸郡瀬野川町、同年10月高田郡白木町、49年(1974年)11月安芸郡熊野跡村、安芸町、50年(1975年)3月安芸郡矢野町、船越町の計13か町村が本市と合併しました。
そして、昭和55年(1980年)4月1日には、全国で10番目の政令指定都市となりました。これにより、県の掌握する事務や権限が市に移譲され、行政運営の円滑化、新たな財源の確保による各種都市施設の整備の促進等の市民サービスの向上、行政区制の導入による市民と行政の結びつきの強化が図られました。

60年(1985年)3月、佐伯郡五日市町と合併、人口は100万人を超えました。平成17年(2005年)4月には佐伯郡湯来町と合併し、現在人口119万人を超える都市となっています。
政令指定都市移行後、広域生活圏の住民に供するスポーツセンター、図書館、文化センターが各区に順次整備され、さらに郷土資料館、現代美術館、アステールプラザ、陸上競技場(ビッグアーチ)、国際会議場などの中四国地方の中心都市としての広域的な文化・スポーツ施設が充実していきました。
なかでも、国際大会に使用できるスポーツ施設を持つ広域公園では、ここを中心に、平成6年(1994年)、地方都市としてははじめてアジア競技大会が開催されました。

同年4月には、対面する丘陵地に広島市立大学が開学し、周辺地域の開発も加速しました。
昭和57年(1982年)には、大規模な卸売団地と住宅団地の造成を同時に行う西部開発事業が竣工、アジア競技大会前後には、西風新都の開発、平成13年(2001年)の紙屋町地下街「シャレオ」開業等、新たな市街地の開発が進められました。
昭和50年(1975年)の山陽新幹線の全線開通、54年(1979年)の広島空港(現広島ヘリポート)へのジェット機乗り入れ開始などの社会資本の整備とともに本市の経済も順調に伸びました。

平成6年(1994年)には市北部からの慢性的な交通渋滞を解消するため、祇園新道とともに新交通システム(アストラムライン)が開通し、27年(2015年)にはJR山陽本線との交差部に新白島駅が開業し、より一層公共交通網の強化が図られました。また、13年(2001年)には広島高速4号線(広島西風新都線)が開通、その後1号線、2号線、3号線が開通し、本格的な都市高速道路時代を迎えています。

一方、高度成長期を過ぎても、戦後に建てられた老朽建物が存続した広島駅周辺地域では、広島の玄関口としてふさわしい姿へと整備するため、昭和56年(1981年)広島駅南口Aブロック第一種市街地再開発事業の計画を作成し、平成11年(1999年)に事業が完了しました。

駅周辺の整備は、21年(2009年)3月の広島市民球場(マツダスタジアム)の完成を契機に一挙に加速し、29年(2017年)に隣接するBブロック、Cブロックの再開発が完了して新たなにぎわいを見せています。駅北側の二葉の里地区についても再開発による新しいまちづくりが進んでいます。

市街が整備され被爆建造物が取り壊されていくなかで、被爆の証人として残された原爆ドームは、平成8年(1996年)には世界遺産へ登録されました。14年(2002年)には、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が設置され、広島平和記念資料館とともに被爆者の遺品や体験記などにより、原爆の悲惨さと平和の尊さを発信しています。

核兵器廃絶と世界平和の実現を訴え続ける広島は国内外から高い関心を寄せられており、世界各国の要人が訪れています。最近では、平成28年(2016年)4月のG7 広島外相会合の開催、5月のオバマ米国大統領(当時)の広島訪問が世界の注目を集めました。なかでもオバマ大統領の広島訪問は、現職大統領としては初めてのことであり、核兵器廃絶に向けた歴史的な一歩となりました。

完成を待つ広島平和記念資料館アジア競技大会開会式

新しい市民球場(マツダスタジアム)が完成オバマ大統領の広島訪問

資料:公文書館