Web展示会「絵はがきからたどる広島あの頃 市街中心部」 大手町、郵便局、細工町、横町、紙屋町
38 大手町
「大手町」の町名は、この通りが広島城大手門前から南に延びる大手筋(現エディオン広島本店東館と西館の間)に沿う町であることに由来する。江戸時代には城下随一の目抜き通りだった。
左側の3階建の建物は広島県農工銀行。中央右に見える洋風の塔は日本火災広島支店、この通りの突き当たりには、広島戦捷記念碑(西練兵場内)が、通りから見通せるように設置されていた。
左側に広島県農工銀行、右側には洋風の塔がある日本火災広島支店が写っている。
39 広島郵便局
細工町の広島電信郵便局。旧西国街道と細工町筋のY字の交差点に明治26(1893)年に建てられた木造2階(一部3階)建ての洋風建築。交差点の角の玄関に部分に3階建ての時計台があり、ランドマーク的存在であった。
明治26(1893)年に旧西国街道と細工町筋のY字の交差点に建てられた。
40 細工町
明治23(1890)年に著された『広島名所』(園田逸太郎画)には、当時の山陽道沿いの繁華街5か所の第一として、西横町、細工町から元安川にかかる元安橋付近をあげている。
また、『広島諸商仕入買物案内記』(46-2)からは、細工町には、高さ11間半(21m)の五階楼を含めて3つの擬洋風様式の木造高層建築が並んでいたことがわかる。
細工町の通りから現在の本通りの方を撮影したもの。右側に広島郵便局の2階建て(一部3階建て)の建物が見える。
41 横町
現在の本通りの西端にあたる。横町の名は、東西方向の道を基準とした横型の街の総称のようなものが、そのまま町名になったものとされている。
明治22(1889)年には広島商工倶楽部、同41年には横町勧商場が作られ、大正4(1915)年頃まで営業を続けていた。
横町を東端から西向きに撮影したもの。中央には広島郵便局の時計塔が見え、道の両側の店舗には広島県物産共進会のマークが入った提灯が飾られており、物産共進会開催中に撮影されたものと思われる。
42 紙屋町交差点
大正元(1912)年に開通した鯉城通りと相生通りを通る路面電車の軌道は、紙屋町交差点でT字に交差し、交差点の中心には、モダンな外観のポイント操作員の詰所兼待合所が設置された。
城下の運河であった西塔川を埋め立てて造られた電車通りである現在の鯉城通りの東側には、大正2年に煉瓦造2階建ての洋風建築の大同生命中国支社が、その後、昭和2(1927)年には芸備銀行(現 広島銀行)本店、翌3年には住友銀行広島支店と大規模なコンクリート造りの建物が建設された。
正面左側には大同生命中国支社、隣に芸備銀行(現広島銀行)本店等のコンクリート造りの建物が並ぶ。
43 広島紙屋町交差点
ポイント操作員の詰所兼待合所が写っている。
44 広島電車紙屋町停留場
絵はがき「開通記念花電車」と一緒に保管されていた2枚のうち1枚。大正元(1912)年の路面電車開通当時の写真を元に作成されたものと思われ、紙屋町交差点を南に進む御幸橋行の電車と八丁堀方面に進む電車、そしてそれを見守る大勢の人々の姿が写されている。電車の背景の石垣は、広島城外堀のもの。
45 昭和9年起 事務書類 草津南町
草津南町(現西区草津南)の町総代文書のうち、昭和9(1934)年分の事務書類の綴。
45-1 昭和9年起 事務書類 草津南町 表紙
これは、昭和9年6月に広島郵便局が作成したチラシ。
広島市の戸数増加により郵便局の業務が増大したことから、その効率化を図るため、
- 各戸に家族・同居人を含めた氏名を書いた標札を掲出すること
- 他人の家に同居中の者は、郵便の宛名の肩書(〇〇方など)を明記すること
- 不在が多い場合は、盗難・湿潤等のない見やすいところへしっかりした箱に郵便箱と表示して設置すること
の3点について協力を求めている。
広島郵便局長から町総代へ、町内各戸へのチラシ配布と集会などでの周知を依頼する文書も同じ簿冊に綴られている。
46 『広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』より大手町、郵便局、細工町付近
画面奥の橋は元安橋。左手にはその東詰南側にあった駅逓局(後の逓信省の母体)出張所と郵便局が、右手には「汽船乗客荷物取扱処」で描かれていたものと同じ「広島県里程元標(りていげんぴょう)」が描かれている。
この場所に明治初期に置かれていた広島郵便局は、買物案内記が発行された明治16(1983)年には平田屋町に移転しており、元郵便局であった建物に当時郵便制度を管轄していた駅逓局の出張所が入り、郵便局の役割も残されていたと思われる。
店の看板は「御菓子処」、暖簾(のれん)には「松花堂」の文字が見える。
店頭には菓子が並び、店内は砂糖樽が並んでいる。砂糖を計量しているらしい人や、菓子作りをしている人も描かれており、製造と販売の両方を行っていたことが伺える。
店の正面の通りが西国街道で、店の角には電柱が描かれ、街道の北側を電線が通っている。
明治初期に細工町に建てられた5層の料理店。買物案内記には高さ11間半(約21メートル)と書かれている。
店の看板には「沖魚、牛肉、かしハ、うなぎ、まむし、しる、なべ焼、さけ、つくり、かハ魚、めし」とあり、口上でも、魚・鶏料理のほか牛肉も宣伝されている。広島の文明開化を代表する建物で、初期の歓楽街の中心となった。
このページに関するお問い合わせ
企画総務局 公文書館歴史情報係
〒730-0051 広島市中区大手町四丁目1番1号大手町平和ビル 6~8階
電話:082-243-2583(歴史情報係) ファクス:082-542-8831
[email protected]