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ひろしま八区ぐるっと散策「みち」めぐり 一般的な用語

ページ番号:0000128891 更新日:2020年2月27日更新 印刷ページ表示

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一般的な用語

宿場
とは、江戸時代に五街道をはじめ脇街道において、駅伝の事務を扱うために設定された町場のこと。規定の人馬を常設し不足の時には助郷を徴発しました。
公用人馬の継ぎ立てや公式の宿泊に本陣(広島藩では御茶屋)・脇本陣・問屋場が、他に一般の旅籠・茶屋・店舗などがありました。

草津宿草津宿
「小泉酒造」には通称「大門」と呼ばれる関所の門の金具が伝わっています。

 

 

上瀬野一貫田上瀬野一貫田宿
海田市と西条四日市の間宿として栄えました。

 

 

 

 

一里塚(いちりづか)
とは、街道の1里(約4km)ごとの両側に設けられた塚のことで、多くはその上に榎を植えて旅人の目印にしました。
1604年(慶長9年)に江戸日本橋を起点として、東海道・中山道・北陸道に設置されたのが始まりで、西国街道にも江戸初期の寛永年間にすでに設けられました。

地蔵河原一里塚跡地蔵河原一里塚跡

 

 

 

 

出雲石見街道の一里塚跡

新庄一里塚跡
◎広島城下から北1里 安佐南区長束三丁目の新庄橋北詰にあります。かつては新庄村一本木原にありましたが、太田川放水路の拡張工事により現在の場所に移されました。

古市一里塚跡
◎広島城下から北2里 安佐南区古市一丁目・二丁目の境にあり、現在は水準点となっています。

八木一里塚跡
◎広島城下から北3里 安佐南区八木四丁目の八木峠にあります。

可部一里塚跡
◎広島城下から北4里 安佐北区可部二丁目の船入堀にあり、可部宿の入口となっています。

壱ノ坪一里塚跡(出雲路)
◎広島城下から北5里 安佐北区三入二丁目の馬通川の傍らにあり、東善坊の南西にあります。

台一里塚跡(出雲路)
◎広島城下から北6里 安佐北区大林町台地区にあり、出雲街道の難所・上根峠に至ります。

地蔵河原一里塚跡(石見路)
◎広島城下から北5里 安佐北区可部九丁目にあり、史跡一里塚として塚跡には地蔵堂が建てられています。

可部峠一里塚跡(石見路)
◎広島城下から北6里 安佐北区可部町南原、石見街道の難所・可部峠にあります。北へ下ると本地宿に至ります。

西国街道の一里塚跡

長尾一里塚跡
◎広島城下から東6里 東広島市八本松 宗吉の国道2号沿いにあります。雌雄四本ずつ、あわせて八本の松は、この地の語源で、跡地には石碑があります。

凉木(すずむき)一里塚跡
◎広島城下から東5里 安芸区上瀬野の山陽線下にあり、石碑がたっています。

落合一里塚跡
◎広島城下から東4里 安芸区瀬野二丁目の河岸上にあり、石碑が建っています。

鳥上(とりのうえ)一里塚跡
◎広島城下から東3里 安芸区中野二丁目の市街地にあり、石碑が建っています。

海田市一里塚跡
◎広島城下から東2里 安芸郡海田町新町の市街地にあり、石碑が建っています。

矢賀一里塚跡
◎広島城下から東1里 東区矢賀新町三丁目の県道84号沿いにあります。

高須一里塚跡
◎広島城下から西1里 西区高須一丁目と二丁目の境の住宅地にあります。

龍神山一里塚跡
◎広島城下から西2里
西区井口鈴が台一丁目の鈴が台第三公園付近に石碑が建っています。

岩戸山一里塚跡
◎広島城下から西3里 廿日市市佐方本町の岩戸山の麓に石碑があります。

街道松
とは、街道の景観に変化をつけるため両側に植えられた松並木。戦国時代では脇街道に松並木が一条に延び、江戸時代には五街道を始め西国街道でも植えられています。
西国街道では約3間(5m強)ごとに植えられましたが、現在では廿日市街道松の1本、佐伯区楽々園の2本、安芸区砂走の出迎え松の6本の計9本が残るのみとなりました。

 

廿日市街道松廿日市街道松

 

 

 

渡場
とは、渡し銭(賃)をとり、人馬・荷物などを船で対岸に渡す所。番小屋があり、渡し守が常駐しました。
渡しのある地域は船運の交易地として栄えました。「八木渡場」は雲石路の難所で殆どが徒歩渡しで、両岸の番所に渡賃を払えば、人夫により通行できました。

砂走出迎え松砂走出迎え松