古代には高田郡三田郷(現在の白木町域)から安芸国府へ往来があり、安芸高田市の吉田郡山(俗に・吉田道)と三次支藩(俗に・三次往来・中郡道(なかごおり))への連絡道として、中世以来数多くの武家が駆け抜けました。
尾長の大内越峠より中山・温品・馬木・福田・小河原・深川・狩留家を通り、白木町三田地区から井原市に至ります。
江戸時代には狩留家からは、賀茂・豊田の各郡の年貢米が繰り出され、三田船=三篠川舟運により広島城下に運ばれ、内陸地域への重要な交通路ともなっていました。
三篠川最大の難所・轟の瀬
江戸時代には三篠川舟運(三田船)の中継地として、また広島藩の蔵入地として宿駅が置かれました。
本陣は割庄屋の黒川家に置かれ、湯坂地区から豊田・賀茂両郡の年貢米が長町の米蔵に運ばれ、広島城下へ船積みされました。
江戸時代の石垣が残る順正寺や、川の東西にある八幡神社や志和林薬師堂、三篠川に沿う抱岩や湯坂湯治場跡など旧跡が存在します。
割庄屋の黒川家は本陣跡
中深川の明光寺薬師堂は市指定の重要文化財、弘法大師作ともいわれる本尊の木造薬師如来坐像は県の重要文化財です。
1566年(永禄9年)に毛利元就等が建立しました。
江戸時代に描かれた「明光寺境内ノ景」があります。
古絵図には川船が描かれています。
(明光寺蔵)
尾長の大内越峠から温品に入り、清水谷神社前の清水の池で一休み。
馬木の馬木八幡神社の社叢を横目に、福田の北に弥生時代の銅鐸・銅剣等が出土した木の宗山遺跡があります。
旅人がのどを潤した清水谷神社
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