第2回平和記念施設あり方懇談会(広島会議)会議要旨

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ページ番号1020900  更新日 2025年2月16日

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1 日時

平成16年(2004年)10月28日(木曜日)9時30分~12時00分

2 場所

市役所本庁舎14階第7会議室

3 出席委員(6名)

福井座長、地井委員、坪井委員、舟橋委員、森瀧委員、山根委員

4 市側の出席者

市長、市民局長、被爆体験継承担当課長、都市デザイン担当課長、緑政担当課長、新たな道づくり整備担当課長

5 議題

平和記念公園及びその周辺のあり方について

6 公開非公開の別

公開

7 傍聴者

報道関係8社

8 会議資料

  • 配席表
  • 平和記念施設あり方懇談会〔広島会議〕出席者名簿
  • 平和記念施設あり方懇談会(広島会議)次第
  • 第2回平和記念施設あり方懇談会(東京会議)における意見交換の概要
    資料1 平和記念公園とその周辺のあり方に係る意見交換資料
    資料2 平和記念公園とその周辺の概要
    資料3 平和記念公園とその周辺地図、中島地区と現在の平和記念公園
    資料4 平和記念資料館の概要
    資料5 平和大通りリニューアル事業~抜粋~
    資料6 ひろしま都心ビジョン(仮称)~抜粋~
    資料7 ビジターズ倍増に向けて-千客万来のひろしま実現-~抜粋~
    資料8 中国新聞「ひろしま都心のあした」パート4平和記念公園
    地井委員提出資料 「季刊中国総研~広島の新しい都心空間—市民球場と原爆ドーム」
    ※会議資料は、市民局国際平和推進部平和推進担当(中区中島町1-5:国際会議場3階)に備え置いております。

9 会議の要旨

開会

議題:平和記念公園及びその周辺のあり方について

福井座長

それでは、第2回のあり方懇談会の議事に入る。本日配付した資料のうち先日の東京会議における意見交換の概要があるが、これについて事務局の方から説明をお願いしたい。

市民局長

お手元の資料「第2回平和記念施設のあり方懇談会(東京会議)における意見交換の概要」は、10月18日に開催された東京会議での意見の主なものをとりまとめたものである。本日、議論して頂くこの会議と同じく、平和記念公園とその周辺の役割、その利活用、また当初予定していなかったが、前回会議の関係で、原爆ドームの保存についても意見を頂いている。また、これからの広島市の取組みということで幅広い意見も頂いている。

福井座長

本日の議題は、「平和記念公園とその周辺のあり方について」というのが大きな議題であるが、これについては三つの論点を考えている。
一つ目は平和記念公園と周辺空間は今後どのような役割を果たしていくべきか。また各平和記念施設あるいはエリアの機能分担・連携はどうあるべきかといった、哲学的問題、広い立場からの大きな問題。また、平和記念公園とその周辺空間、バッファーゾーンを含めた問題を取り上げる。
二つ目は、平和記念公園等をどのように整備、活用すべきかという議題。これは整備、活用について具体的な提案をして頂きたい。
三つ目が平和記念資料館、これについては1945年8月6日の広島を次世代に伝えるため、という原則的な目的があるので、その目的に沿って今後どのような取組みを行なうべきか。平和記念資料館の方で設置している平和記念資料館更新計画検討委員会では、展示のあり方や建物整備など具体的な問題が取り上げられ、それが中心となるが、この懇談会では、もう少し大きな立場から一般的な議論をする。それにも関わらず、恐らく重複した意見が出てくるとは思うが、重複で構わない。二つの会議で同じような意見が出ても良いし、違った意見が出ればより良いと思うのであまり気にせずに議論をしたい。
この三つの論点について議論して頂くが、まず一つ目の平和記念公園と周辺空間の役割、平和記念施設・エリアの機能分担・連携という問題から議論頂きたい。
私からのお願いだが、1人大体5分くらいで要領良く発言願いたい。地井委員からどうぞ。

地井委員

私の書いた季刊中国総研における論文を資料として配っているが、これの73ページに「広島の新しい都心空間市民球場と原爆ドーム」というのがある。原爆ドームとその周辺について、75ページに簡単な絵を出させて頂いている。北側から撮った写真が載せてあるが、友人の建築家が私と一緒にこの周辺を歩いた時に、「原爆ドームがぽつんとして寂しそうですね。あの周辺のビルにドームを付けたらいいでしょうね」という風に言った。これは、かなり具体的な形、景観づくりを通して原爆ドームを考える面白い一つのネタになるのではないかということで下手な絵を描かせてもらっている。その絵の左側には、市民球場のオープンエア型のドームを想定してスケッチを描いている。原爆ドームとその周辺地域の建物や街が、具体的にどのように結び合っていくのか、あるいは溶け合っていくのかという観点が必要なのではないか。それは、広告などの規制というようなものより、もう少し突っ込んだドームとその周辺地域のあり方を考えていく必要があるのではないかということである。そういう意味で、現在指定されているバッファーゾーンは極めて無機的かつ事務的なものである。もう少し原爆ドームや平和記念公園へのアクセスあるいは眺望などを含めてバファーゾーンの拡張を考えていくべきではないか。

河川沿いの建築の用途についても、民間なのでなかなか簡単にどうこうというのは出来ないが、長期的な周辺地域の土地利用あるいは景観形成などを融合的に育てていくようなゾーンの指定が必要ではないか。
もう一点は、これも一つの事例に過ぎないが、紙屋町の地下街があり、新しい都市の一つの顔になっている。そういうものと原爆ドーム及びその周辺を何かうまい形で結び付けることによって、来広者あるいは市民に対しても原爆ドームに触れるための界隈性、界隈性というのは歩き回って一つのまとまった印象を持てるような街という意味であるが、そういう界隈性を創り出すためにも、地下街だけではなくて周辺の地域も、もう少し、視線を通して、あるいは実際に歩いてみて、原爆ドームあるいは世界平和を祈念する街なのだというイメージを創り出していく仕掛けが必要である。公園、ドームという単体ではなく、それらを含む一つの非常にアクティブな街なのだという、そのことが市民に強い意識を持って頂く、それから来広者に強い印象を持ってもらうためにも、やはり街の中にそういうものがあり、意識させるための具体的で、見たり歩いたり触ったりすることが可能な周辺整備が必要ではないかと考えた。

坪井委員

資料を読ませて頂き、市の方からあるいは各委員からの色々な思いも理解しているつもりだが、結論から先に言うと、やはり被爆者としては、あの日のことが絶対忘れられない。だからそういう被爆者の思いや訴えを色々なものに転化させて、原爆ドームや平和記念資料館を通して後の人たちが追体験をし、そこから将来のことを考えていくというものでなければならない。その物自体が語りかける物が、我々は皆亡くなっていくが、その時であっても継承できるような物でなければならない。従って平和記念公園がきれいになり過ぎるのは、被爆者としてはあまり賛成ではない。資料館もドームもそのままで良いというのが被爆者の気持ちである。

私たちは常に皆さんと同じ気持ちであり感謝もしているが、常に原点に帰らなければならないし、しかもあの原爆は人も物も何もかも破滅させた訳であり、ドームだけが問題なのではない。街全体の話をされているが、広島という所は必ずそこに原爆の原点がある。だから平和記念公園は、これは外国から見ればささやかなもので、日本的な雑然と詰め込まれた感じであるが、街全体のその中の一つの平和記念公園だと私たちは考えている。私はある会のお世話をしており、色紙運動をやった。寝たきりで名前だけ書いた人もいる。その中の言葉は「二度と我々の様な被爆者を作ってはならない」「とにかく原爆はいかん」と、皆返ってくる。私は色紙に一言残してくれとお願いし、何千人が書いてくれている。追悼平和祈念館に納めさせてもらい、キチンと保管しデータベース化してもらうことになっている。

名も無き人、その人達の訴えは、「もうあの時のことを考えると居ても立ってもいられない」「こういうことが2度とあってはならない」と必ず書いて来られる。もちろんそれがそのまま憎しみに変わっていったかと言うとそうではない。「もう我々のような人は作ってはいかん」「もう我々だけでいいです」と、だから人を憎むのではない、市長の言われる和解の気持ちは皆持っている。その人たちが訴えることをもし物に表すのならばそれが語ってくれる。私が全国から来られる人に聞くが、修学旅行だけではない、外国の人も来られるけれども、その人達の感動は、広島人とは全然違う。広島人はもう慣れ過ぎて、原点に戻ることを忘れかけている。それが風化だと私は思う。他所から来た人は、あの資料館だけでも涙を流す。佐々木サダコさんの話を聞いても涙を流す。ドームを見ても、「ああこんなかったのか」と言ってくれる。広島の人がもっともっと平和について考えるべきであり、人が来てくれないからどうこうと言う問題ではない。

舟橋委員

第1のテーマについては、キーワードは「原爆、平和、集う」ということになると考えている。被爆の実相を伝えることで、そのためには原爆のもたらした様々な痕跡が人々の記憶にきっちり残るような保存の仕方を私は希望する。人々の記憶にきっちり残ることを通して、平和の大切さを伝えていくことが出来るのではないか。
「集う」ということは、観光資源として云々ということもこれまでに議論されてきたことが資料の中に出ているが、何のために集うのかが非常に大事な問題である。そういう意味では、原爆や平和の問題について人々がよく考える場として、まず第1の役割は、そこにあるのではないか。もちろん、憩いの場として平和記念公園や周辺空間が役立つことを特に拒否するものではないが、やはり第一には原爆と平和のテーマにふさわしい人々の集いというものを積極的に進めていくべきである。もちろん、色々な集会にそういうものを認めろとストレートに申し上げているのではない。平和記念公園は、まず被爆の実相を十分伝えるものでなくてはならない。具体的な内容は第2のテーマのところでまた述べさせて頂くが、基本的な原則として今申し上げた。「原爆、平和、集う」ということをまずしっかりしなければ平和記念公園の役割は果たせないのではないか。

森瀧委員

平和記念公園とその周辺は、今まで広島の象徴であるべき歴史を持ってきており、その果たしてきた一つの役割は、被爆の実相、1945年に広島で何が起こったのかを伝えていけるに足る場所であったと思う。長い将来に渡って基本的にこの姿を失わないことが、一番大切なことではないか。例えば20年、30年経てば、被爆体験がもっと風化してきて、被爆者の方もいらっしゃらなくなる。その時代に、世論の力とか色んな形で、元々どういう目的で作られたのか、役割を果たしていくべきかということが忘れられ、変えられてしまうことがあると思う。だから今の姿を基本的に残していくべきである。先程、坪井委員が言われたが、本当にきれいになってきたし、そこに住んでいる私たち市民にとっては非常に心地良いことではあるが、その主な目的が被爆の実相を伝えていくことであれば、やはり他所から平和学習に来る次世代を担う子ども達、修学旅行で来るあるいはその家族で平和学習のために来る人達、外国から来て平和記念公園を訪れたい、広島がどういう所なのか知りたい人達にとっては、もちろん聖域でもあるが、聖域だけという意味ではなくて、本当に生々しい地獄の地であったことを学ぶべき場所だと思う。例えばその元安橋を渡って、本通りに入っていく所は今でも少しゴチャゴチャしているが、かつてあそこにあったいわゆる原爆スラムの面影は全くないし、いきなり本通りに入って広島の今の賑わいの場所に入る。しかし、そこが静寂の場であり、祈りの場であり、追悼の場であるだけではなく、そこから広島が平和を発信していく、そして創り出していく行動の場であるということ、過去と現在の接点であるということが、私の基本的な捉え方である。工夫とか色々言われるがあまり変えていく必然性はないし、再認識して常にその原点に立ち戻るべき場であると思う。ただ街全体は人間が今生きている場であるから、生き生きと今のその時代に応じて変わっていくのが当然であるが、広島が戦後の混乱の中で平和記念公園や周辺の空間を残し得たということは本当に凄いことだと、今回の資料などを見て改めて感じた。昭和20年の9月、11月からそういうことが論議され、残していくことが実行されてきたことには、先人達、広島市の当事者の人達を始め被爆者や色々な人の声が十分反映されてきていると思う。

山根委員

先程あった「原爆、平和、集う」というキーワードについて、被爆者ではなく一般市民という面から言うと、先程、坪井委員が言われたが、なぜ世界から来るのに広島市民が来ないのか、そこが一番大きな問題ではないか。私も平和記念資料館に行ってみた。原爆ドームというと小学校や中学校の時に授業の一環で行った、観光や修学旅行で来たという方はあるが、成人して平和記念公園に何度も訪れたという方はほとんどいない。これが広島市民の大方の意見ではないかと思うが、なぜ来ないのだろうか。建物が古いからとかいうことではないのだろうと思う。平和記念公園のあり方を議論する時に、原爆と平和の論理から考えていく、この委員会もそうだと思うが、都心の活性化、賑わいの中心部であるということも多少入れていかなければいけない。そこへ市民が集う場所を持ってくる。先程、何のために集うのかという議論があった。崇高な目的をもって集うのではないかと、そのとおりで異論はないと思う。ただし、そういう平和と原爆について語る場所も欲しいが、都心であるし、緑のある公園なので、これを公園として見た時にもう少し仕掛けが欲しい。その視点を是非とも入れて頂きたい。
市民の中からよく出て来るのは、関係者の方に怒られるが、あの商工会議所の黒いビルはどうにかならないのかということである。これは昔から出ている話でもある。築40年近くなっている商工会議所の建て替え問題もあった。現在市民球場の現地建て替えという話も出ている。青少年センターなど諸施設はあるが、市民球場をもし現地建て替えるのなら、良い機会だからそこの護岸を含む景観を整備していくという方法も考えてはいかがか。どう見ても原爆ドームの横に黒い商工会議所のビルは合わないと思う。なぜこのくらいのことが出来ないのかと思う。

原爆ドームと平和記念資料館、これは古いから行かないのではない。その中に何も無いからである。平和記念公園と言っても、どこが平和記念公園なのかということである。例えば第一回からの平和宣言の原文を全部、公園内に石碑として整備してはどうか。あちらこちらにあって、それを読むことにより、第1回と現在の平和宣言でどう内容が変わってきたのか、世界の平和や核といったものに対する考え方がどう変わってきたかが分かる。平和宣言の変革自体が実際に戦後の変革だと思う。そういうものを含めて、もう少し身近にやられたらいかがか。
水の都という観点からは、川に正面を向けた店舗が全く無い、いつも緑と道路と区切られてしまっている。どこの観光地に行っても大抵川沿いには船が浮かんでいて、オープンカフェのような人が集まってお茶を飲む所がある。そういうお洒落な、日本らしい空間が全くない。そういうものを市民に提供し、ここまで来たので原爆ドーム、資料館にちょっと行ってみようという、いわゆる導線作業を全くやっていない。崇高なものばかりを作って誰も見向きもしないというのではなくて、そこに持って行く導線を作らないと平和記念公園は生きてこないのではないか。

市長

時間が限られており、皆さんの発言で大前提として、考えながら言われていることを含めて、共通認識の部分と少し意見が分かれており強調するべき部分とを二つに分けて整理をして頂けると大変有難い。
もう一つは、最終的に行政・市長の立場からのお願いであるが、例えば私がここで意見を聞いていて、自分の言いたいことを言って後は市長にやらせれば良いと考えられると大変困る。行政は具体的な施策に変え、予算を付けて新しいものを作り、あるいは事業を起こし、今までのことを変えるということをしなくてはいけないので、ある程度具体的なことにつながるような形でまとめて頂くとありがたい。行政は皆さんからもらった意見を全部取り入れた建物を作るというようなことをやる。それはそれで重要で大切なことだが、往々にして今までのやり方は、例えば明かりが必要だから窓を大きくしよう、だけど台風が来たら困るからここはガラスでは駄目だということになると、ガラスの中に穴がたくさん開いているような窓をつくって、両方の意見が入りましたというような整理の仕方があり、それでお役所仕事と言われているような部分が出てくる。そうではなくて皆さんの意見はそれなりに反映されているけれども、全体として行政としても手がつけられる、しかし基本的な考え方というのはうまくそこに反映されているようなものを、もう少し具体性を持った形でご提言頂けるとありがたい。

それから、今ご意見を伺いながら感じたことだが、私は例えば広島を考える時に、外から見た広島の視点というのが欠けているということを常に考えている。市民の思いに対して行政が責任を持つのは当然だが、広島の歴史、地理を考えると、やはり世界に対する責任をどう果たしていくのかということがとても大事である。今の発言を色々聞いていると、広島の市民に対する責任というか役割という意味での、広島の役割が果たせていないのではないかという問題提起だと思う。そのあたりを両方からの視点をうまくかみ合わせながら考えていくことが必要である。それを整理する上で非常に参考になるのが、実は地理的な距離と時間的な距離は同じだということである。広島から距離的に離れているということの方が考え易ければ、時間的な距離、100年先を考える時、その100年先という時間を距離に置き換えて考えてみると分かり易くなる。同じことを指摘されているなという気がしているけれども、そこをもう少しキチンと煮詰めて議論する必要があるのではないか。
もう一つデータとして細かい部分が必要だと思ったのが、山根委員が言われた平和記念公園を使う市民があまりいないという話である。年代層にもよっても違うし使い方によっても違う。例えば、私の年代の人達はとてもよく平和記念公園を使っている。何に使っているのかというと、朝の散歩である。年を取ると運動が出来ないので、毎朝平和記念公園を散歩する。東京から単身赴任で来た人や市内に割にアクセスのある人を含めて大変よく使っている。そういう人達と外から来た人達が共通して使える公園、そうすると平和記念公園の問題だけではなくて中央公園の問題でもある。あるいは縮景園の問題でもある。その辺をもう少し大きく捉え直し、具体的に使われているところを捉えなおして改善に結び付けるということがある。

福井座長

第2点に進んで良いということであればそれでも結構である。自由に進めたいと思うので、あとで第1点、第2点を含めて議論して頂いても結構である。大きな立場からと申し上げたが、原則論のようなこと、これに関して皆さんから意見を伺った後で、付け加えておきたいということがあれば発言して頂きたい。

坪井委員

視覚的なもので訴えることが多い訳だが、平和記念公園を、聴覚というか、音楽の園にしたいというのが私の悲願である。ドンチャン騒ぐのが良いとは言わないが、平和公園らしい音の世界があると思う。視覚の方は随分あり、見て感動する人もいる。音の方で何か出来ないかと思う。色々な所にベンチがあり、芝生を造り、そこでこれを聞きなさいというのではなく、音楽が自然に流れている公園を私は夢みている。その時には平和とか原爆とかは置いておいて良い。癒しの心、穏やかな人が出来上がる。公園を散歩する場合も、平和記念公園の音があれば良いのではないか。まず全体的に見るとそういう風にして欲しい。今の技術であればそういうものはいくらでも出来る。イベントがなくてはならないとは、一切思っていない。

山根委員

坪井委員の意見に大賛成である。平和記念公園は被爆者の原点であると言われた。広島に来て原爆ドームと資料館を見る時に泣かれると、先程の話にもあった。しかし、今日の新聞にも出ていたが、きもだめしに被爆者の写真を使うという非常識が、案外常識になっているのではないか。こういう非常識なことを学校の先生がやっている。つまり広島に行くと、悲惨なんだ、むごたらしいんだ、悲しいんだ、そうするとこれは被爆公園である。坪井委員が言われたが、平和記念公園に音楽が流れているとか、人々が楽しそうに集っているとか、それが平和である。戦争がないことだけが平和ではないのであって、例えば家族が健康である、恋人がいる、奥さんがいるというようなことだと思う。そういう人と一緒にコーヒーを飲み、音楽を聴き、演劇を見る、そしてちゃんと仕事もある、そういうことも平和だと思う。平和は目の前にあって日常的なものである。それを体感できるような平和記念公園という考え方をしていかなければならないのではないか。だから、今の平和記念公園だけではないが、あまりにも行政的なものの考え方があり、お役所的な崇高なものがポンと置いてあり何か近寄り難く、何かすると怒られそうである。平和記念公園とその周辺は、そういう平和を体感できる場所にしていけば良い。

また、平和記念公園の中だけではなくて、広島は水の都であり、公園を挟んだ元安川と本川もある。その川の活用も一緒に合わせて考えるべきであるが、周辺の川は何にも使われていない。以前は貸しボートがあったが、今は遊覧船しかない。水と平和と緑と、そしてそこに人が集まって、文化が集まるというような形を作っていけば、その中心部に平和記念公園が位置付けられる。その中で見せるところはちゃんと見せ、平和を体感させるところは体感させなければならない。平和を体感させるという作業が、広島の中で欠けている。それを平和記念公園のコンセプトとして入れ込んでいく作業をすれば良い。

福井座長

それでは、第2点に進みたいと思う。二つ目の論点、平和記念公園とその周辺の整備のあり方と空間の利活用について発言して頂きたい。

地井委員

その前に坪井委員が言われた音の世界を作るというのはとても良いと思う。都市計画、都市デザインの分野でも、ランドスケープの景観に対して、音の空間、サウンドスケープという分野がある。広島らしいサウンドスケープとか、平和記念公園らしいサウンドスケープというものは、非常に良いコンセプトである。
今の姿を残すべきだと森瀧委員が言われたが、平和記念公園に限らず、記念施設といったものは、一方で常に時代とともに、変化していくのではないかと思う。1回目の議論の時に、あまりにも原爆ドームが雨風に打たれる姿は見るに忍びないので鞘堂を造って守るべきではないかという話をした。それ一つをとってみても、やはり時代と共に変わっていって原爆ドームが朽ちるのに任せるのではなく、これからの核廃絶に向けて、シンボルとして力を発揮してもらうには、新しい科学技術の力を使いながら、少し姿を変えていくというのは大いにあってしかるべきではないか。そういう観点から地元紙でこの春に連載された記事を見ていて、やはり少し行政主導的というか行政テクノクラート(高度の専門的知識をもつ行政官)の線引きに引き込まれているのではないかという気がする。

私は長い間、平和記念公園と平和大通りは国有地かと思っていた。あまりにも規制が強いからである。それから芝生なども平和記念公園だけではなく、日本はどこへ行っても「芝生に入るな」と書いてある。ゴルフ場の芝生はあの上でプレーするためにあるが、見るために芝生はあるのかと思う。だいぶ昔の話ではるが、「この芝生入るべからず。警視庁」という東京の皇居前広場の看板の話がある。今日の時代的な状況とか市民意識を考えると、あまりにも規制が強すぎて、非常に古典的である。公園利用に関する規制はやはり緩和していかないと駄目だし、もう少し時代に則したイベントや環境を作っていかなくてはならない。新聞の連載でも丹下健三は「平和を観念的に祈念するものではなく、平和を創り出すというのが必要で、施設は平和を創り出すための工場でありたい」と謳っている。慰霊を強調することに躊躇があると。私は見てないが、丹下さんはこの広場を「国民広場」と呼んでいたらしい。そういう意味では、抽象的な意見だがもっとアクティブに時代状況に即した利用のあり方を考えていくべきである。

坪井委員

昨日も、青少年センターに中学校の生徒300人ほど来てもらい、話をした。私の事務所から歩いていく時、原爆の子の像の所に小学生の子ども達がたくさんおり、国際会議場の前の方まで修学旅行のバスが停まっているのを見た。駐車場の問題は別にしても、公園内の道路をどうにかして欲しい。修学旅行生達は車が多くて道路を渡れない。参勤交代、大名行列があった道かもしれないし、生活道路だとも言われるが、もっと考えなければいけない。平和記念公園の中に車が通るのは、どうかと思う。もし人間・子どもが大切であれば、せめて時間帯を決めて、ストップをかけるべきである。修学旅行生や子どもが行き来する時間は決まっている。朝6時から動く訳はない。例えば、9時から4時頃まではストップをかける。現在の土日だけでなく、毎日にする。これはお金も何も要らない。警察と相談して、地域の人に了解を得てやらないと、このままでは危ない。誰かはねられて、万が一のことがあっては大問題である。公園とは別だとは言え、公園を管理している者の問題になる。時間制限をやるか、いずれは車が遠回りしてでも、道路としての使用は止めてもらいたい。現在は、信号も無く、心ある人が車に「止まれ」と言って子どもを渡らせている。権限も何もないが心ある人がやっている。

舟橋委員

坪井委員が指摘されたことは、資料のアンケートにもあるように、検討すべき課題である。
今のテーマとは離れるし、最初に言うべきであったが、東京会議の議事録を読ませてもらった。面白かったというのが本当のところである。冒頭の「覆いをつけるのは反対である」というのからガラッと変わり、先日の第2回東京会議だと「一度見に来たがあのままでいいのではないか」という話がまた出てきており、この問題ではとても揺れるのだという感じを持った。
資料3ページのアンケートを読んで、私が前から思っており、色々な方から指摘を受けた一番大きなことは、「旧中島地区の市民生活の復元等による追体験空間の整備」である。爆心地から500、700メートルぐらいの円の範囲というのは、昔の広島の風情のある賑やかな町であったが、今のようにきれいに整備された公園になってしまうと、原爆によって何が崩壊したかということについて実感が持てないのである。

消えてしまった町に関係する慰霊碑が多少立てられている。資料3の地図で言うと、「猿楽町通り周辺被災説明板」、「広島市中島本町被爆復元地図」、「中島地区被災説明板」、「旧天神町北組慰霊碑」、「旧天神町南組慰霊碑」、「材木町跡碑」である。この町に住んでいた人に関連する説明板を、実際に現地に行って改めて読み直してみたが、あの説明板ではまだまだ不十分であるし、これらの中には単なる碑で説明文の無いものもある。一番良く説明されているのは、原爆の子の像に近い所にある「広島市中島本町被爆復元地図」である。私が行った日には、黄色い帽子を被った小さな子ども達がたくさん集まっていた。字が読めるくらいの年齢の子どもが、「ここが映画館」である「ブラジルというお店」であると、説明板を、大きな声で読んでいた。「あっ、ブラジルって書いてある」「ここにはお店があったんだ」ということが、子ども達に伝わっていくのである。いみじくも子ども達が指摘したのは、「それでは、ここはどこなんだろう」ということである。現在地がその図面には書いてなかったのである。そういうことを入れると良いと、子ども達に教えられた。

他の碑はそのようなことを全くしていないし、していてもそこに住んでいて亡くなった人の名前が並べて書いてあるだけなので、生活空間であった、賑やかな町であったということがあまり伝わらない。あるピースボランティアをされている方が、子ども達は昔からこのような公園だと思っていると言われる。ここは最もにぎやかな場所の一つだったのが、原爆によって一面焼け野原になったのだということをもう少し伝えられるような工夫をして欲しい。最低限、説明板をもっと丁寧にして欲しい。例えば、電車通りの一番近い所にある「猿楽町通り周辺被災説明板」は多少そういうことを伝えようとしているが、あれだけでは子ども達には伝わらないし、あの説明では一定の年齢に達しないと、読んで意味をちゃんと理解するのは難しいので「あっ、ブラジルって書いてある」という話とは少し違う。本当は、ここはきれいな公園であったのではなく、もっと匂いのある生活空間だったということを何とか伝えたい。ピースボランティアの方はその辺を大変苦労しておられる。もう少し検討して頂きたい。

説明板について、最も私が問題だと思ったのは、慈仙寺の跡の被爆した墓石には、衝撃波によって墓石が飛んだということが説明してあるが、それだけでは不十分ではないかということである。ちょうど私が訪れた時に、そこは池のようになっているが実際は池ではなく、本当はここが地面だったということを、ピースボランティアの方が5,6人の観光客の方に説明をしておられた。いかに不十分であるかということを如実に感じさせられたのは、その女性がたくさん資料を持っておられて、以前の慈仙寺はこうだったということを一生懸命に説明しておられたことである。説明版には、岡本宮内という藩士の墓だということしか書いてない。そういう点では、原爆の遺跡を保存し、それを皆に記憶してもらう点において、最も不親切な遠い説明になっているのではないか。
先程、商工会議所の件を指摘されたが、資料2ページのアンケート結果の中で、大変違和感を持つと出ていたし、建て替えられるまで待たなければならないかもしれないが、違和感を持っている人は大変多いと思う。

もう一つは、資料2の中に平和大橋と西平和大橋のイサム・ノグチの欄干のデザインを撤去し保存するということが既に決まっていると書いてあり、読んで驚いた。先日の東京会議でも、この橋はユニークなものであるし良いのではという発言が出ていたが、もし撤去が決まっているのであれば、イサム・ノグチが慰霊碑のデザインをする、しないでもめた歴史的経緯もあるし、現地で保存できないとすれば、どう保存されるつもりなのか聞きたい。

福井座長

橋の話は、後で事務局の方から説明して頂きたい。

森瀧委員

平和記念施設を活用するということになると、たくさん具体的な問題があるが、一つは坪井委員から出ていて、私も感じていることである。10年前から外国から来る人に平和記念公園や平和記念資料館等を案内するピース・ガイドグループを作って活動をしており、その前は学校に勤めていたので、生徒を平和学習で連れて来るなどしていたことから、平和記念公園の有り様とか資料館について色々感じてきた。説明の工夫など努力する中で感じたことは、確かに平和記念公園の場合は、その場がどういう場所であるか、一つずつの碑はどういう人達が、どういう想いで、どういう人達のために造られているかという説明がほとんどないことである。あっても、戸外だからじっくり読むことは出来ないかもしれない。中には1人で来ている熱心な旅行者で、売店で買ったガイドブックを見ながら一つずつ訪ねて歩く人もいるが、基本的には案内者がいなくても、どういった場所かということが具体的に分かる工夫が必要である。
日本語だけではそういう目的は達せられないので、大変な工夫が要ると思う。ほとんどの人が訪れると美しい公園で心地良い空間だと思うだろうが、10や15の碑を2時間かけて案内して歩いて初めて、広島で何が起こったかということを感性的にも具体的にも理解できる。ピースボランティアも必要であるが、1人でも広島で起きたことが分かるという工夫が必要だと常々思っている。平和記念公園の目的を考え、数あるモニュメントのことを考えると説明は必要であるが、限られた所にしかないのが実情である。

坪井委員も言われた車道の件であるが、本当に危ない。むしろ修学旅行生の場合は指導者が付いており、十分指導しているので事故が無いのであろう。普通、慰霊碑の方から案内する場合、原爆の子の像を仰ぎ見ながら進むが、まさか公園の中に車が通っているとは思わない。ほとんどの場合、広島市民以外の人達は上に視線をやったまま進むのである。もちろん私達が付いているので危なくはないが、難しいのかもしれないけれど、やはり解決していくべき問題である。
いつも言われることだと思うが、私がよく見る風景で被爆者の方が今の年齢と健康状態で、一生懸命子ども達に体験を語っておられる。色んな場所で、碑の説明もされているが、何か工夫がいるのではないか。碑の周りなどにもっとベンチを置くべきで、案内される人がせめて座って話が出来るようにして欲しい。2時間くらい立って案内すると、健康な者でも辛い。さらに雨が降った場合のことを考えると、公園の中にちょっとした屋根が要るのではないかと思う。被爆体験証言をされる方の部屋の数も限られているので、公園の中だけではなく、建物の中にもっとそういうスペースが必要ではないか。
先程言われた姿を変えるべきではないという点については、物理的に言っているのではない。色んな工夫はいる。たとえば原爆ドームの保存をいかにするかという問題である。広島市が平和行政を続けている限りはないとは思うが、だんだん観光だけが目的になってくると、原爆ドームがどういう意味を持つのかを忘れられる心配がある。被爆者が将来いなくなるということを考えると、60周年を機会にしっかり考えておかなければ、広島市そのものの持つ意味が失われてしまうような恐れを感じる。

今の時代においても、同じ日本の中でしかも教育の場で被爆写真をきもだめしに使うというような考えられないことが現実に起こっている。広島であっても、平和教育や人権教育というものが学校の中から実態としてなくなっていっているのが現実である。私はそこに非常に危機感を持っている。広島の学校自体で平和記念公園での平和学習が当たり前のように、小学校・中学校・高校で一度は組み込まれていた。そういったものが授業時数の確保等の理由で無くなってきている。県外から来ている数も減っているが、1回調査する必要があると思う。県内市内の学校が訪れていないという事実がある。それは別の問題であるが、現在起きているそれらのことが将来に渡ってどういう変化を起こすか、恐れを抱いている。
芝生広場の問題について、目的をはっきり問うべきだと思うが、市民に開放すべき場所であると思う。もちろん技術的、行政的に大変なことだと想像に難くないが、今のような形では空間があまりにも利用されていない。
外から来られる人も市民もなぜ公園に集まらないかというと、休む場が無いのである。現に平和大通りの周囲の店とか喫茶店がどんどんなくなっている。成り立たないからなのか、よく分からない。資料館や平和記念公園を見た後で、話す場所が無いということである。建物の中にもアオギリの辺に休むスペースはあるが、あまりにも狭い。たくさんの人でいつも溢れている。行政ではなかなかできないが、増やしていくべきである。

山根委員

先程地井委員から、規制が厳しいという話を聞いた。確かにそうだったのだろうと思う。いわゆる聖地や墓地というイメージからすると、そうなのだと思う。知り合いに「あそこは墓地なのだから靴を脱いで裸足でお参りしよう」と言う方がいるくらいである。そういう観点からすれば、あそこにイベントや音楽、ドンチャン騒ぎなどとんでもない話である。ところが公園という意味になると、全然違ったことになる。一つの事例として、私はイマジンハウスという産業奨励館を復元する会をやっており、8月5日に産業奨励館の映像を原爆ドームの前の元安川に映すということをやった。映るはずもないものが川面に映り、実際に全国4大新聞にも来てもらって、非常に良かったと思っている。規制が厳しいから駄目かと思ったが、緑化推進部の方にお願いして、9月11日にも同じことをした。音楽会から全部やった。事前打ち合わせから、申請書を出して一週間くらいで、許可が出て無事に終えさせて頂いた。案外規制も我々が思っているほど厳しくない。随分行政の方も、市民に開放してもらえるようになってきたということは評価できるのではないか。

ただ、イベントをする時、何が困ったかと言うと、規制の問題ではなく電源が無いという設備の問題であった。親水護岸も狭すぎてテントが張れず、イベント会場にならない所がある。それから広島市の緑化推進部が管理する所と観光コンベンションビューローが管理する所と、川の部分については太田川工事事務所が管理している。3箇所に行かなければならない。それぞれ申請書を出してやるうちに、面倒くさいということになる。市民に開放する時に、一本化した事務局を設けてもらえれば、そこで相談に乗ってもらえる。
平和記念公園の中を有機的に使うためには、イベントのための設備投資が要るだろう。また、オープンカフェは要らないが椅子やテーブルという休憩施設が必ず要るし、雨対策のためのサッと出てくるテントなどあれば良い。イベント関連の整備と規制の問題である。
イベントをする時に、必ず車の乗り入れがあるが、機材を搬入・搬出するために何時間か置く駐車場が無い。駐車場代は自分達でみなければならない。確かあの近くは1時間が300円か400円する。何時間もやると、何千円という数が出ていく。何台もあると、何万円という数が出ていく。折角市民のために提供し平和を体現するのに、駐車場代まで払わなければならないというのはなかなか難しい。平和記念公園を活用する平和関連イベントに対しては、駐車場所を設けて頂きたい。裏側に空いている所があるので、観光コンベンションビューローにお願いするのだが、それは別の所へ行ってくれとなかなか難しい。その辺も一本化して頂きたい。

産業奨励館を川面に直接映した。普通映らないものが映っていた。白い発泡スチロールのベニア板状のものを70枚くらいくっつけてやるときれいに映る。私は産業奨励館を映したが、来年の被爆60周年で、原爆ドームの前に「ちちを返せ ははを返せ」というのを映したら他に何にも要らない。それでなければ「安らかに眠ってください 過ちは二度と繰り返しませぬから」などのメッセージを8月5日から6日の朝までずっと映せば、共感を得られると思う。こういうメッセージ性の強いものを石碑にすると読まなければならないが、大きな川があるので空間利用として、ビデオプロジェクター1つ持って行けば、平和の映画とか猿楽町や細工町の復元映像を見せることが出来る。川も合わせて平和記念公園ではないか。水の都の振興にも、都市の活性化にも、観光にもつながる。そのようなものを何箇所かに設け、市民がそぞろ歩きしながら、オープンカフェやストリートコンサート、屋台村もありという形にしていけば、あの近辺は商業的にも立地できる。人が集まれば導線が出来るので、平和記念資料館に入ってもらえるようになる。

資料館に久々に行ったが、入館料は50円だった。何この金、50円しか取らないのかと思った。50円ならタダで良い。1000円でも見る人は見る。それだけの価値のあるものだと思う。1000円にして年間100万人来られたら、約10億円の金が集まる。世界平和をやるために何で市民の税金を使わなければいけないのかという疑問もある。その財源を資料館が取れば良い。1000円にして残った950円を、つまり9億5000万円を、例えばガイドボランティアに使うとか、新しいビデオプロジェクターや設備投資に使うとか、イラクに対して支援する寄付金に使えば良い。平和、平和と言うだけではなくて、平和の中にはお金という部分もある。財源危機の折に、折角世界から来られるのであれば1000円くらい用意してもらえば良い。広島の儲けにするのではなく、平和のために使うということなら、1人1000円ずつ取ってもおかしいことではない。ただし子ども達については別で、タダにしても良い。50円は中途半端だ。1000円でも2000円でも大丈夫である。それだけの内容のあるものを作れば良い。
道路の問題は全くそのとおりである。土曜日と日曜日だけ、10時から4時まで通行止めとなっている。あの橋の上でコンサートをやれば、原爆ドームを見ながらコンサートが聴けるし、お茶も飲める。元安橋の所のオープンカフェでは、原爆ドームが見えず、レストハウスしか見えない。なぜ原爆ドームを見せながら、音楽を聴かせ、お茶を飲ませないのか。橋を閉鎖してしまえば問題ないではないか。もし道路がなくなるのであれば、あそこをそういう場所に使えば、平和を体現できる平和記念公園になる。

手前味噌になるが、平和記念公園の中に原爆ドームと対比できる産業奨励館を一つ建て、世界の学生や平和について議論する人達はそこで色んな勉強をする。世界から来る人達にそれを提供できる平和の館にしていけば、国際会議場とは違う使い方が出来るのではないか。もし商工会議所がなくなったら、その跡に産業奨励館を建ても良い。原爆ドームはたった一つだけだから寂しいと言われるのも当然である。景観も含めて取り組んでもらいたい。
一番の問題は、世界各国、全国から来られる方に対して、広島に来て下さいと言いながら、駐車場が一つも確保されていないということである。中心部に駐車場がたくさん出来たというが、それは中心部にショッピングに来る方々の駐車場であって平和記念公園に来る方のための駐車場ではない。おもてなし以前の問題である。設備が整ってない所へお出で下さいと言うのは間違っており、平和記念公園、原爆ドームのための駐車場を作らないといけない。川べりの駐車場を無くすという話があるが、そこを活用していく方向を考えないと難しいのではないか。

地井委員

山根委員のお話もあり、2点ほど述べたい。新聞記事にも、ここは墓地だから仕方がないという話があった。それは日本の歴史で言うお墓に対する認識と少し違うと思う。今の墓地と伝統的に造られてきた墓地というのは違う。その形は沖縄に残っているが、亀甲墓という沖縄独自の墓がある。5月の海が色づいてくる春の季節に親族が亀甲墓の前の広場に集まって、飲食する。確かお酒も飲むと思う。お墓というのはそういうものだった。ところが火葬でなくては駄目だということになり、都市に人口集中して、狭い1メートル四方の所にお墓を造らなければならなくなったので、家族や親族が集まる場所もない。しかしその分お寺や他の施設で供養が行われたりしている。お墓だからといって立ち入ってはいけないというのは、日本の歴史に対する勘違いだと思う。

山根委員

何かやったら、被爆者団体から苦情の電話が来るのではないかと言われる。今回もイベントをやった時に被爆者の団体から、「こんな不謹慎なことをなぜやるのか、聞いていない」という電話が来るのではないかと何人かの人に言われた。坪井委員には親水護岸の話をして、それを推進したいくらいだと言われ、よく分かって頂いている。二世の会の方に聞いても、これは良い話ではないかと言われている。

地井委員

もう1点は、先程、原爆ドームを守る一つの街でなくてはならないという話をしたが、10年位前にミュンヘンとレニングラードを同時に見たことがある。お互いに第2次世界大戦でお互いの街を徹底的に破壊し合った都市である。ミュンヘンはかなり詳しく見たが、被災した建物などを残し、守りながら、ミュンヘンの街を昔の街に戻している。レニングラード、今のサンクトペテルブルグもかなり昔の街に戻している。ミュンヘンの方に話を聞くと、戦争の悲惨さを伝えるためにも戦争によって破壊された街を復元しているという。街が戦争の語り部になって、あのバカバカしい戦争で、こんな素晴らしい街並みが失われたのだということである。新聞切り抜きとして今日も配られているが、被爆前の町並みをどこかに何らかの形で復元させて、この平和で穏やかな町が一瞬にして原爆で失われたのだということを町そのものが戦争の語り部になり訴える、そういうことも是非考えるべきである。

坪井委員

世論の声が多いのは、慰霊碑前の空間のことである。芝生の問題で皆遠慮しながら言われたが、オープンにしないといけないということである。芝生をそのままにするという議論もあるし、あそこに全然別のものを建てるとか、活用方法は考えるべきではないか。それは公園自体が他の同様の公園と比べると非常に小さく、あんなにたくさんのものを入れ込んでいるので、ミニチュアのようになっている。広ければ、芝生を置いていても、制限があってもそのままで大丈夫である。狭いので制限をされると、「オープンにして欲しい」「平和記念式典にだけ使うのか」ということになる。少しの時間でも良いので、この空間を利用価値があるように出来ないかという話をしても良いではないか。芝のままでもオープンにして色々活用する方法もあるし、そうでない方法もある。これについて議論してみたい。

森瀧委員

去年3月2日にイラク戦争を止めたいから何かしようという市民の動きで人文字を行ったが、普段平和運動に集まらないような人もたくさん実行委員会に含まれていた。当然、平和記念公園の芝生広場で行うと思っている人がたくさんいた。市に成り代わってと言う訳ではないが、あの広場は利用が許されていないと伝えた。なぜ使えないかということをたくさん言われた。そのようなことをヒロシマから世界に発信していく時、その後もイラク戦争に関わって活動したが、原爆ドームの所で行ってきた。数千人が集まるにはやはり狭いが、広島の平和記念公園から発信して行きたいという想いで、原爆ドームの所で行った。人文字など多くの人が結集する催しでは、市と共催という形でも良いし、限定してという形でも良いので平和記念公園を使わせてもらいたい。

福井座長

第3点の平和記念資料館について議論し、全体の意見を含めてもう一度ご意見があれば伺うということで良いか。資料1の4ページの「資料館の今後の取組みについて」、展示の問題や建て替えの問題など色々具体的な問題にも話を進めないと、今後の取組みということは出てこないと思うが、もう一つの平和記念資料館更新計画検討委員会でも検討していることを一応念頭において、できるだけ大きい立場から、また今まで原爆ドームと平和記念公園を中心に議論してきたが、一番南に位置している資料館と平和記念公園や原爆ドームの各施設間の連携・役割分担ということもあるので、そういう観点を中心にして発言頂きたい。

地井委員

これまでの1番、2番とも、市民、観光客、修学旅行生に対して、言い古された言葉ではあるが、リピーター化をどう図っていくかが大事だと思う。特に修学旅行で来た子ども達が大きくなって、結婚して自分の子どもを連れて「あそこへ行ってみようよ」「あそこに行かなきゃ駄目だよ」というリピーターを生み出すような、ハード、ソフトの仕掛けをどう作っていくかという、抽象的で申し訳ないが、その辺が非常に大きな課題であろう。平和記念資料館だけでなく平和記念公園全体あるいは周辺地域も含めてリピーターをどう作り出していくか、それは単に来るだけでなく、当然、平和を祈念するリピーターでもある。そういう仕掛けのために資料館がどういう役割を果たしていくかということがとても大事であろう。広島は修学旅行生が減っている。修学旅行が減っているのは全国的な傾向で、海外が多くなり、今は沖縄が多いのだろう。9・11のテロで沖縄も減っているが、いずれにしても金の卵ともいうべき修学旅行生にあまりインパクトを与えないで、広島の修学旅行を終えて帰らせるというのは大変もったいないと考える。

もう1点は、資料にもあるように、情報化社会における資料館の役割のようなものが致命的に重要になっているのではないか。もちろんそれだけではないが、インターネットによる情報発信等について、ここらで革命的な仕掛けづくりが必要であり、具体的には答えられないが、その辺が今後の大きな課題になると思う。
資料館の建物整備については別の委員会で検討するとなっているが確認したいことがある。資料には建物の耐用年数というのは50年と書いてあるが、耐震診断はしたのか。平和記念資料館のメンテナンスは公共施設の中でも抜群だと思うが、本当にもう駄目なのか。耐震診断をやって、危ないと言われた南消防署はまだ建っているが、資料館が駄目だというのは納得いかない。

福井座長

先程、橋の話を事務局から説明してもらいたいと言ったが、平和記念資料館の建て替えのことも、今までの経過や現状を後で簡単に説明して欲しい。

坪井委員

私から見れば、平和記念資料館はメインの施設である。色々人は感じ取って帰ると思うが、資料館は最も考えを強くする所ある。今のままでは狭いと思う。入館者が多くワイワイ騒がしい。人の頭の上から展示を見るようでは、感動も何もなくなってしまう。今の駐車場を潰して、地下に潜らせるなどして、相当なお金が要るが、もっと大きなものを造って欲しい。東館は色々な関係で段々に整備されたが、本館はもっとスペースをたくさん取って欲しい。今のような熱線、爆風、放射線という流れは結構だと思っている。中身は事実を示すだけで良く、これで明日から平和でなければならないというような押し付けがましい展示は要らない。それを見た人がどう感じるかが問題なので、あまり誘導するような説明は要らない。特に本館は、多少説明が要る所はあるが、詳細な説明までは必要ない。そこで感じてもっと勉強したい、学びたい、実際は学問的なものでなくて、放射線がどのように人間に影響したのかを知りたいといって、被爆体験記を読んでもらうようなことになれば尚よい。そこで何もかもとは思っていない。そこでは見る人がどう考えるかに任せるということで良い。

舟橋委員

資料館と呼ぶ以上は資料については、どこにも負けないようにキチンと正確に、今はデータベース化が進んでいるが、その名にふさわしい整理と量をちゃんと備えて頂きたい。大変抽象的であるが、まず役割としてそうではないかと思っている。細かいことは検討委員会が担当されると思うが、売店を本館の真ん中に入れないで、資料館に入らなくても、1階で色んな資料が買えるようにして欲しい。東館入口のドンチャン騒ぎのようなあの雰囲気は、もちろんあの音がなぜ使われているかは分かるが、大変違和感を持っている。

また、資料館のメモリアルホールや会議室、研修室が色んな平和を願う会合のために使われている。例えばパワーポイントを映す備品がやっと会議室1に入ったと聞くが、メモリアルホールにはない。主催者に持ち込んで欲しいとなっている。お金がないかもしれないが、せめてメモリアルホールには設備をきちんと整えて欲しい。1000円取れば良いという話があったが、世界の主な博物館は割合無料であるので、入場料ゼロにする方が良いと思う。
資料館の役割について、アンケート結果に出ていることはどれも欠かすことが出来ないが、せめて芝生広場が駄目なら資料館をどんどん利用させて欲しい。確かにたくさんの市民団体、民間団体が使っているが、修学旅行生に証言を聞いてもらうということを、資料館や国際会議場の一つの主たる目的として貫きたいと考えておられると理解している。修学旅行生に説明するための机やマイクや地図があって、現状復旧を厳しく言われている。復旧するのだが、時間が迫っていて主催者の交代の時間が30分くらいしかなく、非常に難しい。平生良く分かっている市のスタッフがそれを補助して頂くことを強く希望する。

森滝委員

資料館は基本的には、微に細に入り被爆の実相を伝え、見せる場であるから、あらゆる資料や証言を、実感をもって伝えられる場でなければならない。実際にその役割は果たしてきている。もう一つの資料館の検討委員会でも言われていることだと思うが、もっと生々しく伝えていく場である必要があり、系統的に東館と本館に分けているが、決定的に不足していると思うのは空間の広さである。それは展示の工夫だけでは解決できないだろう。建物そのものを建て替えることなしに、原形を残していくべきということが資料館の検討委員会でも出ていたが、その上でどのように見学者が十分に見られる空間をどう造るかということが、資料館だけでなく平和記念公園全体での平和記念施設のあり方として、検討されなくてはならない。修学旅行で大変な時期でなくても、実際に十分に見ることが出来ない。外国からの人に特にここを見て頂きたいという所には、たくさん人が集まっていて全く見ることが出来ない。それでもかき分けて見て頂こうという状況である。多少は展示のやり方で変わってくるとは思うが、もっと大胆な変革が必要なのではないかといつも思っている。東館は1階、中2階、3階とあり、空間は広い。被爆の実相は本館の方に全て任せている。そのバランスなども考えなくてはならないだろう。そこが一番大きな問題である。

資料館全体として考えた時に広島の学術的な活動や平和運動も含めて、限られた部屋で利用させて頂くことが多いが、施設の不足を感じている。国際会議場は全く別個の運営だと聞いているが、そこも合わせて基本的に考えて頂きたい。あちらは非常に広いので、恐らく色んな部屋が普段も空いている。有料で非常に高いということがあって、お金のない団体は敬遠し、余程のことがないと使わない。そういったことを含めて、考える余地がないものか。

山根委員

資料館を見させてもらい、非常にうまく出来ているというのが印象である。ガイドの方がおられて、丁寧だという印象も受けた。
先程、大胆な見せ方がないかという話があったが、一つのアイデアとして3D立体映像がある。大阪の海遊館の隣のサントリー館でやっている。資料館でも証言者が話すだけでなく、一番大事なところを証言者のメッセージとともに3D映像を用いると、非常にインパクトのあるものになるのではないか。修学旅行生は子どもなので、あまり難しい話ではない方が良い。折角広島はアニメーションフェスティバルをやっているのだから、そのアニメーターと広島の3Dを扱う業者を含めて平面的な映像ではなく立体映像で見せると、より8月6日にリアリティーが出る。バーチャルリアリティーという手法での見せ方をすれば、かなりインパクトがある。どこに造るかと言われた時には、東館になるのではないかと思う。そういう3Dという新しい技術は結構面白いので、検討されてはどうか。それも含めて1000円の入館料ならある程度納得出来るのではないか。サントリー館では45分間1000円で見せている。それは商業ベースでやっているが、十分1000円で出来るのであろう。3D技術とアニメーションフェスティバルのアニメーターを育てる意味も含めて、市立大学の芸術学部もあるのでそれも活用されれば、平和について学ぶこともより楽しくて分かり易くなる。今の子ども達にはその方が受ける。演出の仕方が学術的では、ためにはなるが面白くはない。

福井座長

まとめると言っても色んな微妙な点が出ており、後で事務局にまとめてもらうほかない。あまり前後関係を気にせずに進めてきたが、話を伺っていて気付いたことを申し上げたい。
まず、周辺を含めて平和記念公園を考えていくことになると、商工会議所の問題が一番大きい。川の問題やシャレオのことを含め全体が平和の街だという、街全体の一貫性というか広島に来た人達が市民も含めて原爆の街・平和の街という焦点を持った街にしたいと考える。民有地の商工会議所、また車道などの問題は、公の便宜のためにどれだけ強制的に変えていけるのかということである。欧米だとエミナント・ドメイン(eminent domain:公用徴収権)というローマ法以来の公共優先の考え方があるので、意外と行政が強制的・命令的に、道路を迂回させたり、建物の色を変えさせたりすることが出来るが、日本の場合にはエミナント・ドメインの思想や原則がなく、今はまさに民間・私の利益を重視するということが日本的民主主義の基本原則なので、非常に難しいと思う。市民との対話の中で車道の問題や原爆ドーム周辺の民有地、民間の建物の問題を変えていかなければどうしようもない。これがこれからの課題として大きいし、簡単には解決できない問題である。

原爆ドームや平和記念公園全体の原形を留めなくてはいけない。ユネスコの世界遺産化の一つの条件であるし、原則として基本的には変えることは出来ない。しかし変えないと言っても、どうしても変わってくる。しかも朽ちさせてはいけないとなると、どういう手を打ったら良いかという問題も非常に難しい。
公園の使い方は、坪井委員がいみじくも言われたように、狭い、空間的に限られているということが一番大きな問題だが、私は狭いことは狭いが、もう少し妥協の余地があるのではないかと思う。東京でも申し上げたが、夜は真っ暗であるし犯罪もあったということで人が行けない。夜の10時、11時まで時間を区切って照明をして行けるようにすると良い。芝生も全体を開放するのは不可能であろうが、小さいトレール(trail:小道)を造り、8月6日のために簡単に取り払えるような工夫をすれば、芝生自体に入らなくても芝生の周りをもう少し利活用すること十分可能になる。

そういう改良の本題は、坪井委員が言われた聴覚に訴えるということである。凄く面白いことだと思ったのは、写真家や彫刻家がインスタレーション(installation:展示、設置)という新しい芸術の形で、写真あり、彫刻あり、音楽あり、言葉も入ってくるという総合的芸術を、街のどこかに道路上や建物の壁を利用して行うということである。日本でも相当やられていると思うが、一週間くらい前にデンマークのキルケゴールという写真家が、デンマークの有名な美術館で平和のためのインスタレーションを行う予定なので、協力して欲しいと言ってきた。その中に世界人権宣言を世界中の言語の中から16ヶ国語くらい選んで読んでもらい、録音して展示の一環として組み込む計画であった。見る人はイヤホンか何かをするのだと思うが、自国語で話される世界人権宣言は自分の中に入ってくる。メキシコにもそういう例がある。私は広島平和研究所の所長として日本語で吹き込んでくれと言われ、喜んで入れさせて頂いた。それを考えた時に平和のインスタレーションを平和記念公園で年に2・3回、出来れば毎月1回でもやらせたらどうか。そういう優れた写真家や音楽家は広島にも日本にもおられるであろうし、1人でやらなくても共同でも、そういうことが出来れば良い。

広島平和研究所の研究員の1人が、平和のベンチを造らせて欲しいと言っている。平和のベンチというのは、ガンジーやマーティン・ルーサー・キングやネルソン・マンデラなど平和に貢献した人達の名を付したベンチである。それをいくつか置いて、それにちなんだイベント、例えば講演や音楽会をしてはどうか。そこに修学旅行の子ども達が来たら、ガンジーというのはこういう人、キングとはアメリカの人権の問題でこういう役割を演じたのだという平和に関することを話せるようになる。一般市民がベンチとして使うということをやりたいという研究員が広島平和研究所にいる。非常に面白いアイデアではないかと思う。
先程、秋葉市長が言われたが、広島市民と外から来る人、特に外国人では、世界のヒロシマという場合に随分感覚が違う。ユニタール(UNITAR:United Nation Institute for Training and Research)という国連の機関が広島にあるが、ここの所長のナスリーン・アジミさんが原爆ドームについて外国人から見ると理解できないことがあると言う。一つはドームの球場側に大きなトイレがあることである。公衆トイレであるが、私は気が付かなかったし、目障りとは思わなかった。彼女はどうしてあんな所にあんな大きなものを置くのかと言う。考えてみると、ヨーロッパは大抵地下の分かりにくい所にトイレがある。ここの場合は、修学旅行生がたくさんいるし、分かりにくくては困るのだが、キチンと案内板を示して、本体はもう少し見えない所に置く工夫が出来ないものかと思う。もう一つは、お花見の時に原爆ドームの下でお酒を飲んでゴミを散らかすことである。翌朝ボランティアが一生懸命に掃除している。あんなことをどうして許すのかと言う。外国人は広島市民・日本人以上に平和記念公園を聖地と考えて来る人が多い。一般の市民がそれとはずれた感覚で利用していることに、ショックを受ける人が意外と多い。
平和記念資料館の方は、スペースの問題と同時に老朽化の問題が大きい。これについては事務局の方から、イサム・ノグチの平和大橋の説明と合わせて簡単に教えて頂きたい。

市民局長

平和記念資料館の更新計画については、資料にも示しているように、来館者がより一層被爆の実相を理解できるような施設を目指して、この更新計画を作ろうと思っている。
資料館本館の耐震性の問題について質問があったが、築後50年を迎えるということで、建物の劣化が非常に進んでいる。現在までの調査の中でも外観目視では構造耐力上有害な亀裂はないが、中性化においてはその深さが鉄筋まで達しており、今後、鉄筋の腐食に影響するような進行状況にあるという報告も出ており、それに対応して財政的な問題もあるので、現時点で直ちに全部建て替えるということにはならないと思うが、耐震性に配慮してどの程度の建築的な対応が出来るかを検討することとしている。また、展示については導線、構成、内容、手法、空間利用のあり方等について検討を進めている。
平和大橋の架け替えに係る高欄の取扱いについては、担当課長の方から説明させて頂く。

新たな道づくり整備担当課長

平和大橋・西平和大橋のイサム・ノグチの高欄について説明させて頂く。ご指摘のように、平和大橋・西平和大橋の高欄はイサム・ノグチが生と死を表してデザインしたという非常に芸術性の価値の高いものである。被爆から広島市の復興に当たって、復興のシンボルとして市民に非常に馴染んできたことから、広島市としても価値は十分に認識しており、是非とも残していきたいと考えている。しかし、現在の平和大橋・西平和大橋の両側の歩道は、自転車・歩行者で1万人以上が通行しており、幅も1m50cmくらいしかない。非常に狭くて皆困っている。高欄の高さが現在80cmくらいしかない。正規の基準からみると、転落防止のために1m10cmは欲しい。フラワーフェスティバルの時などは転落防止の柵を付けており、非常に危ない状況である。転落事故も起こっており、将来的には架け替えが必要となってくる。そのまま残す方法も色々考えたが、ご存知のように普通の高欄と違い、平和大橋・西平和大橋の高欄は、橋げたから高欄が出ている格好で、そのまま切り取って新たな所に持って行くのが難しい。是非残したいという気持ちを持っており、高欄を残して外側に確保する案や、現在の高欄の形をそのまま残すためにイサム・ノグチ財団や広島市立大学の芸術学部と相談して同じプロポーションで、新たな橋の高欄として設置出来ないかなど、色んな方策を考えているのでご理解頂きたい。

市長

これは逆に問題点を理解して頂くことも含めて、こういう風にして残して欲しいという提案にして頂いた方が対応し易い。その提案をして頂くと難しさが分かってくると思う。現実として問題点は大きく二つある。一つは橋を拡幅しなくてはならないことである。仮に今のまま拡幅すると、あのデザインは今の幅と大きさでデザインされているので、拡幅した橋の高欄としては芸術的に評価されるものなのかというと、橋全体のデザインだから問題がある。もう一つは、今新しく設計する橋の欄干が、高さの基準を満たすかという法律上の問題である。安全性の問題は基本である。今のデザインのままで高さを高くしてはどうかということもあるが、それも、そんなことをして良いのか。横の方だけ伸ばすということは技術的には出来るが、芸術性の問題に突き当たる。今の時点で橋の幅を広くしなくてはいけないという要請のもとに、ではどのように保存すれば良いのか。担当課長が言ったのは、今の橋はそのままにしておいて両端にもう2本橋を架けると、残る。しかし今の平和大通りの問題は交通の面から言うと、片側3車線化くらいにしないと橋の所だけがボトルネックになって、渋滞の問題の解決にはならない。そういうところで具体的な提案をして頂くと、問題点の所在がよりお分かり頂けると思う。是非そういう形での提案をお願いしたい。具体的にこれなら出来るという保存の仕方があれば、それを採用するので、具体的な提案としてまとめて頂ければ大変ありがたい。

福井座長

来年の懇談会で、平和大橋の問題についてこの懇談会としての提案をまとめたいので、それまでに1人1人提案を考えてきて頂きたいと思う。最後に言っておきたいことがあればどうぞ。

舟橋委員

今日は議論しなかったし、簡単には議論出来ないのだが、レストハウスの議論をどこかでしないといけない。イサム・ノグチのデザインの橋はまだ検討中か、もう撤去が決定したのか。資料2の文章を読む限りでは、もう撤去が決まったと理解してお尋ねしたが。

市長

より良い案があれば、まだ移してはいないので、当然検討することになる。何とか保存したい気持ちはある。ただ法律と具体的に橋の拡幅をするという二つの条件を満たして、尚かつ保存するアイデアが出なかった。昨日今日の議論ではなく被爆40、50周年の時も議論されたが、誰も二つの条件を満たしてかつ保存出来るという具体的なアイデアに至らなかったのである。

福井座長

次回、議論したいと思う。事務局から、次回の予定をお願いする。

市民局長

第2回の東京会議、広島会議を終えさせて頂いたので、それらの議論を合わせた形で、取りまとめたペーパーを作らせて頂く。それをもとに年明けになろうかと思うが、また3回目の会議を開催させて頂きたいと思う。

福井座長

本日は、ありがとうございました。

以上

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