第2回平和記念施設あり方懇談会(東京会議)会議要旨
1 日時
平成16年(2004年)10月18日(月曜日)13時30分~16時00分
2 場所
東京都千代田区 霞ヶ関校友会館
3 出席委員(8名)
福井座長、飯田委員、猪口委員、岩垂委員、大石委員、山折委員、山崎委員、横山委員
4 市側の出席者
助役、市民局長、東京事務所長、被爆体験継承担当課長
5 議題
平和記念公園及びその周辺のあり方について
6 公開非公開の別
公開
7 傍聴者
なし
8 会議資料
- 配席表
- 平和記念施設あり方懇談会〔東京会議〕出席者名簿
- 平和記念施設あり方懇談会(東京会議)次第
資料1 平和記念公園とその周辺のあり方に係る意見交換資料
資料2 平和記念公園とその周辺の概要
資料3 平和記念公園とその周辺地図、中島地区と現在の平和記念公園
資料4 平和記念資料館の概要
資料5 平和大通りリニューアル事業~抜粋~
資料6 ひろしま都心ビジョン(仮称)~抜粋~
資料7 ビジターズ倍増に向けて-千客万来のひろしま実現-~抜粋~
資料8 中国新聞「ひろしま都心のあした」パート4平和記念公園
地井委員提出資料 「季刊中国総研~広島の新しい都心空間—市民球場と原爆ドーム」
※会議資料は、市民局国際平和推進部平和推進担当(中区中島町1-5:国際会議場3階)に備え置いております。
9 会議の要旨
開会
大石委員、山折委員自己紹介
議題:平和記念公園及びその周辺のあり方について
福井座長
それでは本日の議題、平和記念公園の周辺のあり方についての議論に入る。本日の議題に関しては、大きく三つの観点を考えている。手元の資料1にあるように、まず一つ目は平和記念公園と周辺空間は今後どのような役割を果たしていくべきか。また各平和記念施設・エリア等の機能分担・連携はどうあるべきかという原則論、大きなマクロの議論である。二つ目が平和記念公園等どのように整備・活用すべきかという具体的な施策の問題だと思う。三つ目に平和記念資料館は1945年8月6日の広島を次世代、将来の世代に伝えるために今後どのような取組みを行っていくべきか。この三つの議題を一つずつ取り上げていきたい。
まず、最初に一つ目の平和記念公園の周辺空間の役割、それから各平和記念施設やエリアの分担・連携という問題から議論に入りたい。この論点について、飯田委員からお願いする。
飯田委員
資料を見て、1ページの左側に1から7まで色々な理由が書いてあるが、私は全部該当するのであろうと思う。その中で2番の「原爆犠牲者の慰霊・鎮魂の場、聖地」というのが一番優先されるのではないか。
これに関連して、公園の広場の使い方に関して新聞記事の資料を見た。広場の使い方が非常に制限されているのは少し残念である。今の使い方は聖地という色が強い。もちろん聖地の意味もあるが、その他に単に原爆自体を表しているというだけでなく、広島は再生したということも一つの真実だと思うので、鎮魂の場としての雰囲気を壊さない行事ならば、むしろ許可しても良いのではないか。
芝生に入ることについて大変厳しく言われているそうだが、確かに芝生は維持が大変であるが、今のように厳しく制限しなくても良いのではないか。
もう一つは、平和記念公園には小学生がたくさん来るが、雨が降っても行く所がない。これからも子ども達がたくさん来るのであるから、将来整備をする時には考慮する必要がある。それと駐車場がないという問題があるが、これからは避けて通れない問題であるので地下駐車場を造ってはどうか。また、公園を訪れる人が散歩をしていてゆっくりお茶を飲んで休みたいという時にそういう施設がない。将来はこれも整備して、憩いの場にふさわしい公園にしていかなくてはならない。
資料の2枚目に周辺の広告看板の撤去などについて書かれている。市の方が大変苦労されていると思うが、これからも続けて頂きたい。バッファーゾーンは決まっているので拡大するのは難しいが、例えば商工会議所を見えなくする。壊せという訳にはいかないので、特に平和記念資料館から原爆ドームへのビスタ(軸線)は一番大切なものであるから、ドームの後ろを出来れば緑で囲んではどうか。
周りのビルについては、せめて25メートルから30メートルという高さの規制をしてはどうか。皇居前の広場は高さの制限によって前は非常にきれいだった。ドームの周りだけでも静かな雰囲気を保つために建物の色彩や出来れば高さの制限して欲しい。
猪口委員
周辺との調和は大変重要であり、飯田委員に共感する。
まず、憩いの場として次の若い世代がその街と空間を愛することが重要である。皆の心の中に広島を愛する気持ちを持つことが最大の慰霊ではないか。かわいそう、残念だったという気持ちはあるけれども、愛情というのは永続的なものであり、そこが現在求められているところである。
どうしたら良いかということだが、今の若い人達は社会の中になかなか居場所がない。フリーターという言葉があるが、最近はニート(NEET「Not in Employment, Education or Training」=無業者)、何もやっていないけれど内部からの自己実現を求めている。そういう人達の集う場、溜まる場、大都会には色々な場所があって、それはカフェだったりもする。広島という非常に精神的な一種の磁場がそういう若い人達の悩みを含めて受け止めながら、悩んだ時には広島に行ってみようと思うような街になっていけば、そこで自分を見つめて立ち直ろうという気持ちや、激しい運命を生き伸びた人もいるし、そこで全てを失った人もいるのだから、自分は決してここであきらめてはいけないという気持ちを惹起することも出来る。
そういうことも含めて、今後も平和記念公園は、若い世代がそこに心を寄せられるような、より広いイメージと機能を備えるべきである。東京には居たくないが、悩んだら広島に行ってみようというようなタイプの"心のふるさと"になればと思う。それは世界の若者にとってもそうである。そういう場とするための具体的な提案としては、皆が賑わえるようなカフェを作ろうという話にしかならないかもしれないが、居られる場所というのをたくさん作った方が良い。
二つ目に広島が末永く世界にメッセージを発信できるようにするためには、広島が経済的に豊かでなければならず、経済力を評価できる広島というイメージをどこかで取り入れていかねばならない。これだけの遺跡を維持するために地元の資金負担は大きく、その時の企業活動が、新たな21世紀の企業の公益性のある姿というものを先駆的に切り拓いてもらえば良いと思う。収益性ということが最大の課題であった20世紀と違って、アメリカでもフィランソロピー(企業などの慈善・社会貢献)の部分が成長する企業にとっては重視されているが、広島の企業は何をやるかと悩まなくて良い訳である。まさに反核・非核・原爆体験というところで公益的な自らの存在、企業の余地を示していけば良い訳であり、そのような企業のあり方を模索して頂ければ良い。広告塔を立てなければ収益が落ちるということでは、あまりにも20世紀的な考えであって、むしろそれによって著名になるかもしれないし、注目されるかもしれない、消費者の共感を得るかもしれない。あるいは環境に配慮した開発の仕方を示すことによって、消費者の深い心を掴むことが出来るかもしれない。そういう企業のあり方も、他の街では企業家が活動する時は別の業態を考えるかもしれないが、広島の企業は、新しい企業のパラダイムを変えていく、だからやりがいがあるということを求めていけば良いし、またそれが収益的に見合うように何らかの市民の合意が必要である。そういう企業を愛していくことも、十分に考える必要があるのではないか。21世紀になると特に構造改革も出てきて、民間で出来ることは民間でとなると、このような非営利的な記念事業を、どうやって広い市民社会の共感を得ながら、そして資金を調達しながら持続させていくかという課題になる。民間が取り組む方が大きな活動が出来るし、それをベースにNPO・NGOを育成していくことも出来るので、それが可能な、そういうことをイメージさせ、誘発し奨励するような周辺空間のあり方というのはどういうものかということである。
慰霊する街というのは静かに沈んでいるということではなくて、やはり活力ある街でないと駄目だと思う。そこを訪れる人が多くなければならない。訪れれば愛着も湧くし、本当に愛している人も出てくる。あるいはリピーターとして戻って来る人もいるだろう。元気のいいビジネスマンとして一度行った所をビジネスが行き詰って悩んだ旅人として行くかもしれない。そういう様々な人生の局面で広島という所が、決してくじけない、そこに来たらくじけるという選択はないというような場所として成長することが、課題であろう。それは広島と長崎だけが提供できる、非常に不思議な精神的な力だと思うので、その辺も展望して、発展してもらいたい。
そのような発展の見通しが立てば、Visit Hiroshima Program、Visit Hiroshima Campaignということを世界に対して訴えていいのではないか。今は内閣・官邸を上げてVisit Japanというキャンペーンをやっているが、その中でVisit Hiroshimaというのを強く示していく時代というのがもうすぐそこにあると思う。
岩垂委員
座長が三つのテーマを提案されたが、どれも関連する内容なのでまとめて申し上げる。最初は平和記念公園とその周辺のあり方というより、もう少し広い立場からの話になるがご容赦頂きたい。
一つは、平和を軸とした街づくりを、点から面あるいは点から線に展開できないかと考えている。現在、平和記念施設は平和記念公園に集中していて、そこが一種の市の聖地になり中心になっているということが良く分かるが、それ以外に展開できないかということが申し上げたいことである。私が最初に広島に行ったのは1966年で、それから40年近く毎年8・6の日を中心に広島を訪ねている。年々、感じていることは、旅行者の立場からすると、平和都市広島の駅に降り立っても、少しも原爆や平和が伝わって来ない。普通の人は広島に降り立ってもほとんど原爆をイメージ出来ないのではないか。
それでは原爆ドームとか資料館に行けばいいということになるが、そうではなくて広島に旅行者が降り立った瞬間から国際平和文化都市ヒロシマの熱気がどんどん肌に伝わって来なくてはいけないと思う。駅前にはそうしたモニュメントや原爆ドームの写真もない。平和記念公園というのは駅前から始まっていると思っている。電車で平和記念公園に行くまでに、どんどん旅行者に原爆や平和を感じさせないといけない。平和記念公園を去って駅に向かってしまえば、何も残らない。もう少し面として平和問題を展開できないかということを考えてきた。駅に降り立ったらすぐ、強烈なインパクトを与えるような空間が出来ないか、そういう街づくりが出来ないかということである。
長年、平和記念式典など色々見ていても、自らは国際平和文化都市というが、世界に向けての発信が、第三者が見るととても弱い。確かに広島は世界に良く知られているし、皆原爆と言えば広島を思い出すが、広島自身の発信する力がもう少し強くても良いのではないか。具体的には広島から世界に平和を発信するとなると、大きなイベントとしては平和記念式典と世界平和市長会議だけである。なぜ今まで広島平和祭とか音楽祭とか絵画展とかが無かったのかと思う。例えば映画といえばベニスを思い出す、カンヌを思い出す、マラソンと言えばどこかの街を思い出すように、広島と言えば音楽祭、絵画の展覧会、映画祭、そういうもっと文化的なイベントが継続的に行なわれた方が、より長期的な世界に向けての発信になるという気がする。そうした文化的な大きな催しをやって、世界の人々に来て頂く、そういう機会を創ることが必要ではないか。そういう文化資源をたくさん広島は抱えている。広島は非常に有名な画家を輩出しており、絵画という面では相当な遺産を持っていて、それを生かすという手もあるのではないか。毎年が駄目なら3年に1回でもいいし、1年置きでもいいのではないか。音楽でも広島の特徴は合唱が盛んなことだと思う。合唱では非常に実績があり、優れた合唱団がたくさんある。そういうものを生かした音楽的な催しは出来ないかという夢のようなことを考えている。参考になるのは信州の松本で開催される斉藤記念フェスティバルである。13年間続けていて、世界的な音楽祭になっている。1ヶ月に渡ってコンサートが行なわれ、日本中あるいは世界中から観客が来る。チケットを取るのが奇跡だと言われている。それくらい大勢の人が見に来る、それも数万円のチケットがどんどん売れる。行ってみれば会場は立錐の余地もなく一杯である。そのような音楽的な催しが出来ないかと考えている。こういう場合行政だけではいけないので、経済界とか文化的な団体とか、もっと総合的な地域の力で行う方が良いと思う。
3番目は、各論になるが、平和記念資料館を長年見てきた感想を言う。資料館だけでなくそこにある全体の被爆の施設についてのことだが、いくら見ても核兵器の恐ろしさが伝わって来ない。私の知り合いが広島に行って、皆そう言って帰って来る。原爆の破壊の恐ろしさは非常に強調されている。しかし、放射線や熱線による被害というのは大変なものであり、その表現、展示の工夫はされているがまだまだ弱い。本当に原爆の恐ろしさは放射線の被害なのであって、そういう面での被害の現状をもう少し、工夫した方が良い。見終わった後、「これ位の被害ならドレスデンの空襲と同じではないか」と言う人がいっぱいいる。今でも被爆者が言うのは、そういう放射線の恐ろしさ、あるいは瓦が爛れたような熱線の酷さ、それがもう少し強調されるような展示が出来ないか。活字による説明が色々あるのはやむを得ないが、もう少しビジュアルなもの、映像を使ったもの、ある意味では五感、匂いとか味とか、触覚そういう面を通じて被爆の恐ろしさを感じられるような展示が出来ないかと思う。
4番目は、平和記念資料館の近くにあるイサム・ノグチの平和大橋についてである。あんなに素晴らしい芸術家の作品があるのにほとんどの人は知らない。大変素晴らしい橋だし、芸術作品だと思うが、強調されていないため見過ごされている。イサム・ノグチの再評価がされており、もう少しこれを強調されたらどうか。
最後の点だが、修学旅行の子ども達が来て、雨の日は行く所がなく大変である。いつも資料館の下に座っているが、子ども達が休憩できるような、あるいは被爆者の話が聞けるような施設が出来たら良いと思う。雨も風もしのげる、弁当も食べられるという施設が必要ではないか。
大石委員
この資料を見て、また自分がこれまで広島に通った経験とを照らし合わせながら申し上げたい。
聖地ということは非常に大事であり、厳粛な雰囲気も必要で大事であるが、あまりにも聖地、聖地で、あれはいけない、こうしてはいけないという、いけないものが非常に多い。平和記念式典の時にもそれは強く感じるが、日常においてもそういうことが強いと感じる。もう少し自由さがあって欲しい。日本人特有かもしれないが、厳粛なときに暗い顔をしなければいけないとか、自分で自分を縛ってしまうようなとらわれ方が、平和記念公園でありながら、平和を何か片面的なものにしているのではないかということを長く感じている。外国例えばヨーロッパにあるような自由さがもう少し必要である。厳粛でありながらもっと自由な気持ちというものを大事にするということである。
また、夜間の照明が大変暗い。これもあまり明るくすると聖地で霊が眠れないというようなことがあると思うが、現実的には夜歩くのが非常に怖いし、危険性も高い。何か悪いことをしてやろうという気持ちになってしまう、人の気持ちを平和にさせなくなってしまうというような、逆の効果になっているような気がする。ここも工夫して欲しい。
雨の日のことは今岩垂委員が言われたとおりで、本当に私自身も居場所がなくなってしまうことがある。
先程、猪口委員からも出たが、レストラン、休憩所の問題である。あまりたくさんレストランとかコーヒーショップのようなものがあるのもどうかとは思うが、数も足りないし、現在の場所はとても分かりにくい。美術館でもコーヒーショップがある美術館は行ってみたくなる。それには、美術品も見たいけれど、美術品を見た後でお茶を飲み、気分に浸りたいということがあるので、原爆だけではなく20世紀から21世紀にかけての平和について考える時も、緊張した中でというよりは、もっと自由な雰囲気の中で考えることが出来ないかと思う。
それと、若い人へ伝えていくということをずっと考えていた。私も戦中の最後の方の生まれだが、あまり戦争やその被害の記憶は無い。私よりも若い人達はもっと遠いものになっているのではないかと思うので、若い人が広島の原爆などについて、いかに関心を持つことが出来るかが大事である。
駅や空港に着いた時に原爆や平和を感じさせるものが全くないという話があったが、私の経験から言うと、例えば沖縄の人は沖縄戦を語りたがらない。あるいは長崎でも同じである。同じように広島でも、「もう原爆ではない」「原爆はむしろ隠したい」という気持ちが市民の中にはとても強いという風に、今までお付き合いさせて頂いた限りでは感じる。「もう原爆ではないだろう」という考え方を変える方向にリードしていかなければいけない。例えばアウシュビッツでも、「もうアウシュビッツではないだろう」とはクラクフに着いた時に誰も言わない。何か非常に負のイメージが強すぎて、市民がそれで規制されてしまうのではないかという思いを持っているのではないか。変えていく具体的な案は無いが、その方向にもって行ったら良い。一つは、外国に行って東京や大阪を知らなくても広島を知っている人はいる訳だから、世界の平和につながるということをもう少し考えて深めていく。広島の原爆というよりは世界の平和につながっていく拠点の一つであるというようなもっと広い感じを創っていってはどうか。
それから屋台の話が資料の中に出ていたが、福岡と広島を比較した文章の中で、屋台を排除したというのは、やはり残念な気がする。何も平和記念公園の中でなくても良いので、福岡で屋台が名物であるように工夫をした屋台と平和記念公園がつながっていくようなことが出来るのではないかということも含めて、もう少し平たく身近なところで、広島が親しめるような場所になれば良いと思う。
山折委員
やはり広島の究極の面は鎮魂の場である。日本の歴史1500年を考えた場合、一番新しい鎮魂の場である。日本の歴史1500年の中で鎮魂の場はどういうものであったかという観点からすると、現在の広島のあり方は私には曖昧な空間に見えて仕方ない。本当に鎮魂の場として設定されているだろうか。具体的に言うと、原爆ドームと、平和記念資料館、追悼平和祈念館の関係がフラットにしか見えない。鎮魂の場であれば、どこかに奥の院がある。そうすると原爆ドームが奥の院で、資料館、祈念館がそこに至るまでの参道的な役割を持つということになる。そういう聖地空間としての機能が、必ずしも一体となっていない。奥の深さ、広がりを訪れる者に対比させるような形になっていない。むしろアプローチ、参道的な役割を果たしている所が中心的な空間であるという意識が非常に強い。それはそれで今日の時代的な要請で良いが、鎮魂の場としては、普遍的な存在をもう少し強調した整理の仕方にした方が良いのではないかと思う。
具体的にどのようにしたら良いかということだが、最初に思い浮かぶのは高野山の奥の院に至るアプローチは実に変化に富んでいる。宿泊の施設があり、盛り場があり、観光も出来る、山登りも出来る。もう一つは、伊勢神宮である。五十鈴川を渡り、次第次第に奥の内宮に近づいていく。その緊張感が、参内する時の普遍的な感覚を実にうまく演出している。もう一つは浅草タイプである。これこそ盛り場を中心として、先ほど屋台の話があったが、とにかく猥雑で様々な娯楽的な施設が集中している。しかし、やはり最後に観音様にお参りして、ホッとする。伝統的な文脈で言うと、浅草タイプ、伊勢神宮タイプ、高野山タイプの三つくらいあるが、その三者に共通しているのは、奥の院がしっかりしているということである。
そういう点では原爆ドームしか奥の院的役割を果たせるものはない。そういう工夫をもしもする とすれば、困難な面が出てくると思う。鎮魂の場というのは宗教的な祈りの場であるわけだから、奥の院は、当然、宗教的な象徴の意味がある。それが今日の広島市において出来るのかどうか、実際、我々がそういうことを指導的にやっていくことが出来るかどうか。多くの人々を今後集めるためには、どうしても宗教的な機能ということを考え直さなければいけないのではないか。鎮魂は非宗教的な行為であるという人が増えているが、その線を守っている限りにおいては広島は必ずしも普遍化・大衆化しない。これは言うは易しで乗り越えるのは困難な仕事であろうと思う。
山崎委員
奥の院であるべき原爆ドームだが、この前の議論では、保存の問題について意見が大きく二つに分かれた。今のままの状態でできる限りの補修を行って風化に任せる、言葉が強いかも分からないがそういう意見があった。それからプラスチックかガラスの鞘を造って、今はとても良い材料があるので、それを使えば半永久的に保存できるという意見だった。私はややその意見に近かったが、とにかく奥の院が一番大事である。奥の院が破損崩壊したら困る訳だから、いかに保存するかという問題を基本的に考える必要が前提としてあると思う。
この間テレビで散々ギリシャのアテネのパルテノンを見たが、あれも積み替えている。あれは固い石でだから鞘を造らなくても、あと数千年か1万年くらいはもつのではないかと曖昧だがそう思う。原爆ドームは、被爆し、レンガ造であり、地震災害など色々なことを想定しなければならない。手を打つのなら一刻も早く打たなければいけない。長崎には原爆ドームが無いし、今後三つ目の原爆の遺跡を作ることに絶対反対する意味でも、ドームを堅固に保存するという立場で、私は鞘で囲って少しでも長く保存できるという方法を考えたいと思う。
ただそう言うと、ご意見が多かったのは、それではイメージ壊れるということで、視覚的なところに議論のポイントがあったと思う。少しお金がかかるかもしれないが、小さいドームを造って、考えられる一番自然にマッチした鞘を被せ、それを原爆ドームの近くに置く、それを眺めてこれでどうかという一つのモデルを造って検討した方が具体的ではないか。
ただ資金については国内外の一般市民の募金に頼るべきである。それを造ることで、私たちは反核運動に主体的に参加したという意識を、小中学生を含めて持たせるためにも、私の友人の若い中国人達にも聞いてみると、「原爆が日本の戦争意欲を削いで、我々アジアの国は平和になったと思っていたが、今は考え方を改めたし、そのようなものが出来るなら寄金したい」という声もあるので、募金をして、そのようなものを造り、見た目で検討して決定したらどうかと思う。そして、そういう所には必ず説明文を付ける必要がある。
今既に色々なものが建てられている所に説明文があるが、これは日本語だけか。
被爆体験継承担当課長
説明板によっては、英語とか中国語とかハングル語を入れたものもあるが、全てがそうはなっていない。新しいものは多言語化を進めている。
山崎委員
平和展を見に行くと、大概のところが日本語だけである。この間、バングラデシュなどから来た人が「せめて英語があれば」「大きなポイントだけでも英文の説明があれば」と言っていた。特に原爆の問題は国際的な問題だから、出来るだけ訳文をつけて欲しいということであった。
それから掲示板のことを前回も申し上げたが、非常に見やすい場所に、出来れば現在どこの国に何基、どれだけの分量があるのかを示したり、その国が増えていく場合は赤色のネオンで、減ってきた場合は緑色のネオンで、点滅するような世界地図を設置し、その核保有の量が広島原爆のおよそ何倍に当たるかということも一緒に表示してはどうか。あまり高い位置ではなく、子どもの目で見られる位置にこのような掲示板がいくつかあると良いと思う。
それから見学用の大きなカプセルを造ってはどうか。私は材木町にしばしば行っていたが、平和な時代の材木町には、印刷屋、紙屋、八百屋、果物屋があった。そうした町並みを復元し、その中を歩いて、平和な広島の生活を体験したり、それが原爆投下で惨劇となった場所や復興していく町並みの中を歩けるというものを造る。その復興の中には町と人間の後遺症も何らかの形で入れていくということを考えた。
横山委員
第1回の会議で、ガラスで囲いをしてはどうかと言ったが、あの後、岩垂委員と現地を見て、必要ないということが分かった。要するに、原爆で壊れるべきところは全部壊れてしまって、もう壊れないものが残っている。この間の芸予地震でも壊れなかった。私も30年前は建築家だったが、その時の経験をベースに言うと、あれ以上のことはしなくて良いという風に判断した。
山崎委員
現在のままで、残るのか。
横山委員
残る。1万年は残らないと思うが、数十世代くらいは残ると思う。ドームはあのままで良いと思う。
私はアメリカにも住んでいたし、今もフランスに年の半分住んでいるが、予想以上に日本のことや日本の歴史について何も知らない。もっと基本的なところで、本当に知らないのなら良いのだけど、奇妙に知っているところがある。それは日本の歴史の中で、20世紀初頭の遅れてきた植民地主義者としての日本の最初の50年の軍国主義と、その後の戦後の復興におけるハイテクと規律ある産業国家という面しかない訳である。それとサムライとハラキリとカミカゼである。フランスでは自爆テロは必ず「カミカゼ」と呼ばれている。やめてもらったらどうかと思うが、ニュースで「カミカーゼ」と必ず言う。自爆テロはテルアビブで日本人のテロリストが発明したと思っている。フランスではそういうイメージであるが、日本はそういう国かというとサムライというのは、恐らく江戸時代人口の7パーセントくらいしかいない。サムライというのは地味な地方官僚だった。お金持ちで元禄文化を支えたのは商人であり町人である。百姓もそんなに搾取されておらず、30パーセントくらいの税金であった。だから本来は平和主義者の日本な訳である。世界で数少ない、中世の都市の割に城壁を築かなくて良かった国である。
それはなぜかと言うと、ジェノサイド(集団殺戮)をしないからである。戦争というのはサムライとサムライでやるのだから、堺屋太一さんが書いておられるのが本当であれば、百姓は、今日は戦いがあるというと鍬を捨てて見に行ったという。町人を殺してしまえば町の経営がうまくいかないから殺さない。信長以外はジェノサイドをしない国であった。純粋ではないけど、一定はそういうところもある。ところが実際の日本のイメージはそうではない。軍国主義者、遅れてきた植民地主義者の日本、アジアの人々は日本は植民地主義者と思っているのである。それで「カミカゼ」となる。我々が思っている以上にゆがんだイメージで、世界は日本を見ている。
日本政府の広報に頼っても始まらないので、所詮地方からやらざるを得ない。そうすると今言ったようなことを変える、それは日本人のセルフイメージ自体が間違っている訳だから、セルフイメージを変えるべきだし、日本に外国人が来なければいけない。私には原爆の記憶があるけれど、私が死んでしまえば、記憶がない人達の世代だけになる。建物は残るけど、あれは何だったのだろうくらいの感じで残るのではないか。要するにこの前申し上げた、ソフトウェアが駄目だが、ハードウェアとしてやれば残る。でもソフトウェアがほとんどなっていないという感じは受けると思う。
もう少しハードウェアのことを言うと、ドームに何か鞘があった方が良いと思ったのは、商工会議所の後ろのビルが非常に不愉快だからである。建て替えの時に目立たないようにするため、ああいう色のパネルにしたけれど、やはり目立ってしまう。センスが悪いビルである。商工会議所は高くはないけれど醜い。目隠しするためにやはりガラスではなくて、今の技術ならすぐ出来るから、見えないようにドームの後方に植物の壁を作った方が良いと思う。
もっと重要なのはソフトウェアで、知られていない日本であそこだけポンと見せたからといって、ゆがんだイメージが出来るだけである。一時期、50年程度パシフィスト(平和主義者)でない時代があったけれど、基本的にはパシフィストとしての日本の歴史と、ジェノサイド(集団殺戮)をやらなかったのにジェノサイドが起こったということを伝えるべきである。イラクの「カミカーゼ」も、違った意味での場当たり攻撃であり、違うジェノサイドが出てきたということである。そういうことも広島の研究所で研究するのが当たり前ではないか。
中途半端に「核」というと「核アレルギー」になってしまう。フランスだと主婦もイテール(ITER=国際熱核融合実験炉)は日本に行くのかフランスかと必ず聞く。日本は六ヶ所村、フランスはカタラッシュ。カタラッシュは住民投票で是非来てくれと言っている。六ヶ所村がどこにあるか知っている日本人はどれだけいるのか。イテールには世界の学者千人が集まってきて40年暮らす訳である。六ヶ所村かカタラッシュかと言うと、きれいな所だから、皆カタラッシュに行きたいと言う。日本は年額800億円を使っているが、国民はどれだけ知っているか分からない。国際熱核融合実験炉はOkであって、原爆がいけない。この辺の議論が中途半端なままになっている。そういう議論・研究もほとんどされていないということである。国に期待しても始まらないから、広島でやってみれば良い。
聖地というのはどこへ行っても奥の院がきれいだと言われたが、聖地は大体猥雑な所である。平和記念公園を猥雑にしようと言っているのではなくて、広場があるのなら、夜はバンの屋台が出ても良いではないか。サッと消えれば良い。昼間きれいであるが、夜はサッと屋台が出て来る。毎日やるのが駄目なら週に1回でも良い。広場に市が立つようなものである。どこの国の人が来ても良い。世界・アジアにはたくさんの屋台がある。それをバンでパッと店を開いて、終わったらパッと閉めてサッと消えるという風に出来る。福岡の屋台のようにずっと置いておかなくても良い訳である。夜のイベントが無いのだから、それくらいのことやっても良いと思う。
広島駅を降りたら(平和や原爆が)どこにあるのか分からないと言われたが、基本的に広島市民の感覚は、もう原爆ではない。そんなこと言っていたら生活は成り立たない。また、経済のための原爆というのも成り立たない。そこに何かを入れるとすれば、ボストン・ティーパーティー事件の時、誰かが走って行った足跡がボストンの石畳に貼ってあるが、それを観光客が辿っていくというようなものをもっと大々的に広島駅から平和記念公園まで、色を塗る、あるいはタイルにはめ込んでやったらどうか。それを辿っていくと、平和記念公園に辿り着く。また、7,8人乗り合いで静かに走る性能の良い電気自動車があるので、それを乗り合いバスとして走らせたらどうか。ある瞬間ある。ある瞬間ないという風に、あまりスタティック(静的)にもの考えないで、動かしていく方が良い。
それから原爆ドームには鞘は必要ないと思うが、広島商工会議所はあのまま残るのだろうから、緑を造って目隠ししてはどうか。また、最近はすごく良い技術があるので、商工会議所のファサード(正面の壁面)を半透明的な感覚で、目立たないようなファサードに造り直すことは出来る。それで商工会議所のファサードを変えてしまうか、そうでなければ、グリーンで囲ってしまうことは出来るので、やったらどうか。
福井座長
第2の論点についての意見が既にたくさん出てきている。お互いの意見を聞いている間に自分の意見も少し変わったり、新しいものが見えてきたということもあると思うので、「平和記念公園とその周囲の整備のあり方、それから平和記念公園の空間の利活用」という第2番目の論点にそのまま移りたい。
山崎委員からも第1回目の懇談会のテーマである原爆ドームの話が出たが、平和記念公園の一番北に原爆ドームがあって、平和記念公園があって、一番南側に平和記念資料館があるという構図である。上から降りてきて2番目の公園を中心に議論をお願いしたい。最後に資料館の話も出るが、結局ドームを含めて戻ってみないと、公園全体の周辺とかいう話ができない。この際細かいことにとらわれずに、全体に渡って結構なので、中心としては平和記念公園とその周辺のあり方、それから公園の空間の利用・活用と、話を続けて頂きたい。飯田委員からお願いする。
飯田委員
(芝生広場は)市民にも外来者にも、親しくなれるような広場というのが良いのではないか。今はなかなか行ってもそういう風にはなれない。少し考え方を変えて頂いて、もっと親しみが持てるようにして頂きたい。
あそこの全体が公園だと言われるが、元安橋から自動車が走っている。公園の中を車が突っ切るというのはどうかと思うので、少なくともオープンカットでも良いから、半分くらい埋められないかなと思う。そうすると公園の中をゆっくり歩ける。
昼間は天気が良ければ非常に良いが、夜は真っ暗になる。問題だと思うので、明るくし過ぎる必要はないが、気楽に歩けるくらいにはして欲しい。それで聖地としての雰囲気が壊れるというものでもない。
横山委員
オープンカットも良いが、車と人は本当に分離した方が良いのかという観点があって、一定量の車はあった方が良いのではないか。ニコレットモールご存知か。旭川で失敗したが、ニコレットモール的なもので、ゆっくりしか走れない、ちょっとしか走れないというのはどうか。その方が安いし、それで十分だろう。
飯田委員
そういう風になれば、それほど危険は感じなくなる。
岩垂委員
(資料に)7つの広島のイメージ、平和記念公園のあり方が出ている。死んだ方には申し訳ないが、大変な被爆の事実というか、原爆はこれからの広島のシンボルを考えた時に、観光資源だと思う。現実に今広島から原爆を除いたら観光資源は何にも無い。だから死者を冒涜するとか、聖地としてのそういう要素を無視するのではなくて、これから広島市が世界の都市「広島」となるためには、やはり原爆、原爆といっても暗い意味ではなくて、平和というもっとプラスのイメージを前面に押し出していくべきである。
広島市民の大部分の感覚が、「もう原爆は結構」「暗いのは嫌だ」と言われているのは昔からよく分かっているが、そのレベルをやはりプラスに転化しないと、広島の未来はないのではないか。事実これだけ世界がひどい状況になってくると、全世界から見て広島は希望である。その象徴として広島があると思う。もっとそれをアピールしていけば良い。
広島が戸惑っている間に、長崎の方がイメージ作りに成功している。長崎は広島以上に、「もう原爆は結構」「マイナスのイメージだから止めよう」というのが強かったが、今は一転して広島より先に行っている。むしろ原爆を積極的に観光資源として活用しようとしている。
横山委員
具体的にどんな活用をしているのか。
岩垂委員
それは今の伊藤市長の政策に出ている。例えば、NGOと連携し「核兵器廃絶—地球市民集会ナガサキ」を開催した。そういうところにも出てきているし、具体的に政策として一つ一つは言えないが、そういう視点になってきている。広島も、これからは国際文化平和都市として積極的に打ち出して行った方が良い。
もう少し被爆について具体的に説明できればと思う。アウシュビッツには、人々の脂肪で作った石鹸があり、頭髪で作った繊維があり、説明しなくてもその被害が分かる。目に見えない放射線の被害があるから、広島は分かりにくい。もう少し原爆を落とされたことが具体的にイメージ出来るものが必要である。
大石委員
鎮魂の意味を込めた前向きの平和を訴えるということをもう少し推し進めたら良い。原爆=マイナスではなく、被爆された方々を鎮魂する意味での平和の拠点にする。それが世界につながっていくという、日本の広島・原爆ではなく、世界平和の拠点の一つにするということを具体的に知恵を出し合っていくような形にした方が良い。
山折委員
原爆ドームと厳島神社は一緒に世界遺産になっている。そういう所を巡礼するコース、連携・協力関係を作って、人の流れを作るということもある。
関連して、イスラエルのエルサレムにユダヤ教の聖地である"嘆きの壁"がある。あれは風化に任せており、特別の補修をしているようには見えないが、信仰の壁として生き続けている。その目と鼻の先に黄金のドームがある。イスラム教の聖地である。本当の聖地は中に囲われている岩であり、黄金のドームは鞘堂であるが、鞘堂をイスラムの聖地としている。時間が経てば変化していく可能性はあるが、問題は、ユダヤ教徒は"嘆きの壁"に行って帰ってくる。決して黄金のドームに行かない。イスラム教徒はドームにだけ行って岩にだけお参りする。お互いには巡礼しない。それは相互に不幸なことである。お互いの聖地を巡礼し始めると良いが、絶望的である。巡礼行動は往復運動であるが、多神教の世界では円運動になる。その特徴を生かしていけば、もう少し何か出来るかもしれない。
アウシュビッツは誰でも知っているが、次世代ではそれでも必ず忘れられていく。それに対する歯止めの教育的な措置として、石畳の街路に50m・100m置きくらいに一つの石を地上に盛り上がらせるように造っている。通る人は必ずそれに蹴躓き、蹴躓かせて思い出させる。その石を見ると犠牲者の名前が書いてあり、凄いな、ここまでやらないといけないのかと思った。良い悪いは別にしてアウシュビッツでさえも人の意識から忘れられていくということがある。
先ほど横山委員が言われたが、日本は平和愛好文化国家だったという歴史を教えることは一番根本的な問題である。日本の教育現場ではそれを教えていない。日本の歴史の中で長期に渡って平和を築いていた時期が二度もある。平安時代の350年と江戸時代250年である。なぜ実現可能だったかということに対し、正面きって研究はされていないが、これは驚くべきことだった。平安時代は貴族政権、江戸時代は封建武士政権、それでずっときている。なぜ、これだけの周期の平和が続いたか。それは、恐らく思想心、宗教心が作用している。こんな事例はヨーロッパの歴史にも中国の歴史にも無い。奇跡のような事実である。なぜそういうことが可能だったかという理由は、政治・経済・軍事などたくさんある。平和を担保する一番重要な要因は、宗教と国家の関係、調和のとれた関係である。神仏共存のシステムは平安時代に出来たが、今の社会の安定つながっていると思う。これも戦後の日本の経済は完全にネグレクトしている。この辺を根本的に反省しないと日本の歴史のポジティブな意味を受け継ぐことは出来ない。
山崎委員
広島があって宮島がということだが、もう一つ呉も加えてはどうか。呉は、海軍の基地、海軍工廠、今は海上自衛隊があって、米軍の基地にもなっている。戦艦大和が復元され、海事歴史科学館が出来て、非常に近いので、戦争と平和の巡礼コースとして入れてはどうか。
横山委員
巡礼というのは宗教だけなのかというと、サンチアゴ・デ・コンポステラというキリスト教の巡礼地がスペインにあり、昔からヨーロッパ中から巡礼に行く。何がある訳でもなく、建築的にも大した教会でもない。ソフトウェアとしてそこに行くような求心的なもの、日本であれば江戸時代の伊勢参りのようなものに出来ないのかということである。何か凄いものや宗教がなくては出来ないかと言うと、巡礼先が一つのテーマなのである。"嘆きの壁"の話があったが、スペインでは建築的にユダヤ教とキリスト教とイスラム教が層状に融合した建物もある。別にお互いに嫌いあった訳でもない時期があり、建築に残っている。神仏集合というのは、日本だけではなくイベリア半島にもあったのかも知れない。
今、科学の進歩からは、ステムセル(幹細胞)の問題、遺伝子、核や環境の話もそうだが、宗教を超えた人間観が要求されている。人間論というのはギリシャ哲学の頃からあるが、キリスト教が歪めてしまって、進化論を認めたのは1952年である。その時は、認めたという訳ではなく、宗教と科学を別にするという約束であった。その後、産業革命と機械論的人間論、進化論があって、ソフトウェア、ニューロン、通信システムのような人間観、遺伝子の人間観、要するに利己的な遺伝子のキャリアに過ぎないというような人間観など、それを超えたものが求められていて、日本から出てきて全くおかしくない時期にある。そういう人間観が日本から出てきて、リーダーにならなくてはいけないのにぐずぐずしている。それを広島から発信できれば、そこに物理的に何があるということではなく、サンチアゴ・デ・コンポステラのように何がある訳ではなくても、巡礼地になり得る。広島あたりでやってみてはどうか。
猪口委員
平和記念資料館の取組みに関連する事項であるが、まず、軍縮というのは著しい日本ブランドだと思う。これを日本は推進しており、軍縮不拡散が国際政治の中で主流化する中で、その中心地は広島である。広島を背負っているから軍縮不拡散は日本ブランドであり、日本はその分野では世界の絶対的な旗手である可能性がある。これからは知識集約的時代であり、知的なパワーを発揮し、どうやったら世界を軍縮不拡散に導くことが出来るかということの研究の拠点を、広島平和研究所など色々あるが、もう少し大きく投資し、拡大して若い世代を育成し、国際会議をガンガンとやって、作っていく必要がある。
今の段階は、まだ世界から来て頂き知らせることが重要である。長い間、政府も原爆の被害を世界に対して伝えてこなかったという面があるので、例えば世界の議員に広島を見てもらうという運動をしたら良い。先程、Visit Hiroshimaという話をしたが、政策決定者・履行者に核兵器とはどのような結果をもたらすのかということを見てもらい、それを政治的に行わず、人道的な視点から行うことで、政治的な複雑性を含まないで展開できるという整理がつく。
今、テロという新しい脅威があって、何が一番恐ろしいかと言うと、今までは小型火器で全てテロが行われてきたが、核テロが一番恐ろしい。核テロの恐怖を前にすると、改めて核兵器というのは相当まずいものである。核抑止論を主要国は採っており、廃絶するという考え方について合意してもらえない国もあるが、かなり徹底的に管理しなければならない。核は最終的には廃絶するもので、それが究極のテロ対策である。そうすればテロリストの手には渡らない。そういう考え方が改めて認められ始めた入り口の所にいる。ここで日本が核テロの恐怖、核兵器の非人道性を訴えていかないと、旗手としての地位を失うこととなる。広島市(平和記念資料館)の取組みとして、それを訴えていくのに今がかつてないチャンスである。9.11以降は世界が広島の声を聞く広い意味での準備が出来たということである。日本から見ると邪道だという感じはするが、理由は何であれ世界が広島を知って、核兵器はオプションではないということを考えてくれれば、亡くなった方々の慰霊にもなると思うので、そういう運動が必要である。
それと、意思決定者が一人でも多く広島を見る必要がある。そこにターゲットを絞ってお招きする、世界の政治家の広島訪問を推進することも一つの方法である。
それから若い世代が大切である。山折委員の言われた奥の院は、ヨーロッパの色々な所にある基本的な建築構造だと思う。ヨーロッパでは、普通の美術館の前で若い芸術家たちが絵を描いていたり、道具を売っていたり、模写品を売っていたりする。これはフィレンツェのウフィッツィ・ミュージアム(Galleria degli Uffizi)へ行く沿道などにも見られる。その奥には、完成されたものが展示されているのである。美術館前には、猥雑とした今を生きる若者がうごめいていて、奥にあるものの精神を現代に生かしている。本当に重要なのは奥のものではなく、今生きている若者達の心の奥に励ましを届けることである。そこで長崎のことが参考になる。長崎の問題は原爆の被害を修復したので訴えることが出来ないことにある。広島はそれを残しているので視覚的に訴えることが出来る。長崎にはそれがない弱さがある。それが出来ないことで、被害の伝達を若い人に託すしかないということになったのではないか。ハードウエアになるものが修復されており、資料館はあるが、伝える力においては原爆ドームに優るものは無い。一例では、高校生の平和大使という若者を含んだ運動がある。色々な方法があるが、若者が自分の感性に納得いく形で、問題のコアを受け止めて、自由に表現できるようなことを考えなければならない。つまり若者にとってのオーナーシップが考えられているかという問題になる。
東京に住んでいても平和やヒロシマの問題に関わりたい人がいるが、そういう人でも、本日のこの会議のように、オーナーシップを感じることが出来る場もある。東京に住んでいる若者が広島の問題についてオーナーシップを感じる、あるいは広島に住んでいて先代が被爆しているような広島の若者がオーナーシップを感じ、表現することによって、せめて日本人がそれに関心を寄せ、さらに世界の人々が平和に関心を寄せるようになるプロセスがあるのかどうか。平和記念施設はそういうことを含んでおり、発表の場、集まりの場となり得る。重要なのはオーナーシップを感じている人が増えているか減っているかである。最後の力を振り絞っている被爆者たちの声を聞く人が、増えているのか減っているのか、心もとない。
日本の歴史の特徴として、ヨーロッパとの最大の違いは王室が軍人ではないことが挙げられる。ヨーロッパは軍人的な王室を持って、中世以降発展してきた。日本の場合違う文化を持っていたということを理論的に理解してもらうことは一つの方向である。しかし世界から見れば日本は遠い国だろうから、単純なイメージしか持ち得ない。だから軍縮不拡散というイメージで結晶化させるのが良い。なぜ日本はそういう被害を受けたにも関わらず、報復ではなく二度と世界で起きて欲しくないという答えに至ったのか。戦後どうして、平和を守るという精神構造になり、新たな政治体制へと移り、それを守ることが出来たのか。そういうことに知的な関心を持ってもらって、日本として答えを提供できる仕掛けに持って行くのが良い。
横山委員
広島平和研究所の規模はどれくらいか。
福井座長
広島市立大学の1機関で、6年前に出来た研究所である。非常に小規模であるが、研究員は7人おり、私が所長、事務が常勤の方が3名、嘱託の方が7名という規模である。平成16年度は、色々含めても約1億円程度の予算である。
横山委員
まずは20億円くらいの規模でやると、それなりのことが出来る。予算はどこから出ているのか。
福井座長
予算は全部市が出しており、税金である。
平和研究における優秀な学者を集めなければならないので、国際的な公募をしており、過去3回行って7名の研究員を採用した。人種、国籍、性別を問わず、成績、能力だけを見るが、博士号を持っていないと通用しないのでそれが条件である。スイスの人類学者でジェノサイド研究では世界の第一人者や、北朝鮮問題に関心のある韓国の政治学者とか、東南アジアを専門にするシンガポールの学者、日本の戦争犯罪史をやってきた学者など全部で7人である。次は5,6人採用したいと頑張っているところである。
横山委員
税金ではなく、もう少し別のお金の集め方があるはずで、大義名分を作れば、数十億は集められる。そうした資金で学者を揃えるべきで、先程のイテールの話でもカタラッシュの方が良いとなる。留学生が「広島は住みやすい」と言っているように、良い環境なのだから、予算をとってイメージ先行型で売り出し、大きく始めないと大きくならない。そういうことから巡礼は自然に起こる。人を集めるためには枝葉末節は大切であり、バンを集めてきて若者が屋台をやり、アウシュビッツのように戦没者の名前を全部バンに書くということでも良い。多少猥雑であるが人を集めて、1分間だけも平和を考える時間をとるなど、工夫はいくらでも出来る。ソフトウエア的な核が必要であり、研究所が世界的に知られているというようなことがあって、人が集まって来る。観光という面で気をつけないといけないのは、"ルルドの泉"という所に行ったことがあるが、観光としては意味がない所である。観光を狙わないで人を集める方が逆説的に観光になる。核になる人が集まって来るという流れがないといけない。
福井座長
この辺でまとめというか感じたことを申し述べたい。
飯田委員から最初頂いたように、平和記念施設は聖地であるのか、人が集まる所であるのか。聖地であるがお墓であってはならないし、人が集まる所でなくてはいけない。夜危なくてはいけないし、犯罪があってはいけない。そういうことでは平和記念公園としてまずい。全部を普通の公園並みに開放することは出来ない。ホームレスの住処になっても困るし、酒を飲む場になっても困るので、規制も必要である。規制は時間を制限するなどの程度の問題、バランスの問題である。
猪口委員から出された企業のあり方、企業によるチャリティのあり方であるが、企業を教育していくという発想は今まで無かった。企業のあり方も、マツダを含めて平和の為の貢献を働きかけていくことは大きな意味がある。
やはり猪口委員が言われた国際的なキャンペーンであるが、国際平和文化都市と言いながら積極的なキャンペーンはやったことが無い。お金と時間の問題だけではなくて知恵が必要で難しい問題だが、新鮮な発想であり、これから真剣に考えていく必要がある。
皆さんが言われた、若者を広島に呼び込むという問題もなかなかうまくいかない。どうすれば良いのか分からない。音楽祭のようなものをやるという案も出ているが、もう少し具体的な案を出していかなければならないと思う。私も平和音楽祭の進言をしているが、なかなか実現しない。私の発想は音楽なら何でも良い。日本の太鼓、ロック、クラシック全てである。広島、日本、アジア、世界へと広げられるよう、長期的にやって欲しい。
それから、岩垂委員が言われた駅の役割を考え直すということだが、歩いて行けない距離でもないのでボストンの足跡の例や乗り物など平和記念公園までのアクセスも真剣に考えたい。
それから、イサム・ノグチの平和大橋も朽ちてきてわびしい感じだが、あまり知られていないので、もっと積極的に知らせていけば良い。
色々な施設が平和記念公園の中にあるが、雨宿りの施設や修学旅行生の休憩所、コーヒーショップがどこにあるか分からないし、数も少ない。施設の不足、あるものも分かり易く整理していく、分かり易いサインを出していくこと、これはやろうと思えば出来ることである。お金のかかることではないのでやっていけば良い。
市民の考え・感情を変えていく必要がある。若者の原爆・平和に関する関心を引き起こしていく。そのためには、今の市民が言いたくないというのでは困る。それを変えるためには市としても市民にそういう問題を議論してもらう必要がある。
広島に屋台が無いのはやはり寂しい。市電が残っているのは良いと思う。自由な雰囲気・魅力ある広島を創っていく意味では良いと思う。これは市が呼びかけてという訳にも行かないし、広島独特のバンのような屋台を考えて演出しないといけない。
宗教的な意味を再検討するという問題だが、広島には外国人の観光客がたくさん訪れており、平和記念資料館には外国人が年間10万人訪れる。来館者の1割である。この人達の感じ方は、日本人とは違っている。外国人の方から間接的に聞いた話だが、原爆ドームに行く外国の観光客は、商工会議所側に公衆トイレがあることが理解できないと言う。ヨーロッパでは、トイレは地下や分かりにくい所にある。どこにトイレがあるのかというサインを出して、行ってもらうということで良いのではないか。また、春の季節にはお花見がある。お酒を飲んでゴミを散らかして行く。ドームの周りでそれをやることが、外国人の方には理解できない。川に観光船が走っているが、音や排気ガスが出るので、ドームの下では走らせないで欲しいと言う。環境問題も含めそう感じる人もいる。奥の院はドームであるとの意見があったが、ドーム周辺のあり方は再考する必要がある。
宮島も含めた巡礼を考えたらどうかとの話があったが、今年、国連の研究機関で文化遺産の研修があって関係者が集まった。平和記念公園や宮島を見学した。その感想を見ると、宮島に対しては非常に批判的であった。宮島には神聖さが無くて、土産物屋だらけの観光地であり文化遺産ではなくなっているという批判であった。それに対して平和記念公園や原爆ドームには批判は一切ない。広島に来る観光客は平和記念公園と宮島は分けて考えている。あるいは訪れる観光客が違うのかもしれない。
国際平和文化都市として、もう少し国際的な寄金に積極的に取り組むべきという意見については、言われるとおりだと思う。
平和記念公園から見た商工会議所の景観に関して、商工会議所が存在しないかのように目立たなくするファサードを造るか、ドームの後ろに緑の壁を造るといった意見があった。このビルの問題は色々なところから聞いているので早晩何とかしなくてはと思っている。簡単に移転させると言うわけにはいかないだろうから、あのまま目立たなくする方法があるのならば、貴重な意見であると思う。
横山委員
ファサードにするのが一番簡単である。今は建物が存在しないかのように見せるのが流行である。ハーフミラーにするとか薄い何かで覆ってしまうとか、存在感がなくふわっとした感じにするのが世界の流行であり、日本でも事例はある。
猪口委員
今まで広島は対外的な発信が十分出来ていなかったという問題がある。日本自身が被爆体験を発信してこなかったし、広島の取組みも十分ではなかった。市長は積極的に海外に出かけておられるのだが、グレート・コミュニケーターを作らなければならないということが重要である。関係が無いようで実は深い関係があるのだが、広島に育つ子ども達には、小学生の時から高い英語教育が受けられる機会がある、あるいは総合学習のクラスにおいても広島では国際的なグレート・コミュニケ-ターとして育つことが可能な道が開かれているというようなことである。実際、福井座長の研究所では本当に良い人材を集めている。市長も積極的に活動している。良い芽あるのだが、裾野が広いかどうかということを考えてみると、小学校から国際語で世界に発信できるような子どもを育成することも平和戦略だと思う。
市民が発信することについて、あまり積極的なイメージを持てないというのはどうしてかを考えてみたい。広島市民は平和の問題についても伝道師であって欲しいという願いが日本にはあるが、伝道師は尊敬されなくては駄目なのである。広島に生きて平和を伝える活動をしている人を尊敬の目で見るべきである。ベンチャー企業を起こした人の方が尊敬される国だから、子どもを育てる時もそういう目で見てしまうのであろう。ヒロシマ・ナガサキの人々は伝道師でなければならないし、世界では日本がそうである。
私の経験だが、軍縮大使としてジュネーブで活動している時に信じられないことを言われた。「あなたはネルソン・マンデラみたいだ」と。ネルソン・マンデラは人種差別反対運動をやった。日本から来た軍縮の大使だったら、被爆とか軍縮不拡散を訴えるのが役割で、そういうことが期待されたのだと思う。伝道師は色々なレベルで色々なコミュニティーにいる。日本であれば、すべての広島市民が伝道師的な役割を果たして欲しいし、世界を舞台にしてそういう人も出て欲しい。政府の代表で平和の関連の会議に出席する人は、伝道師でなければならない。私が世界で感じたことは、何もやっていないのに、軍縮不拡散を伝道しているだけで、尊敬してくれたということ。伝道師は尊敬されなければ、パワーが出てこない。尊敬されれば、何の見返りがなくても役割を演じ切ろうとする。広島市民にそういう気持ちを持ってもらいたい。日本全体として被爆の体験の伝道、軍縮・平和を説く役割を担っていく人はもっと尊敬されなければならない。
今回のノーベル平和賞はケニアの植林運動を行っている方だったが、私は広島がノーベル平和賞をとるべきだと思う。今日ノーベル平和賞がどういうことによって評価されるのかと考えると、裾野の広い運動であったということである。あの人は1本1本木を植えていってグリーンベルト運動をやった。広島としても皆を動員した運動の仕掛けを考えなければならない。広島では原爆で全ての木を無くしたが、今は大変緑豊かである。植林運動は、教育の水準に関わらず全ての人が参加できるという点で、民主的・非暴力的運動であり、運動の原点としてパワーを持っている。今回のノーベル平和賞の受賞から、私たちは多くのヒントを得ることが出来る。
横山委員が言われたイーター(イテール)の計画について、付け加える。日本は無資源国として追い詰められたところから戦争への道をとった。イーター計画は無限のエネルギーを可能にするという意味で、日本にとっては重要なプロジェクトだと思っており、私は推進派として活動してきた。今回、カタラッシュに負けるというのは非常に残念なことである。
横山委員
日本国民は、イーター計画について、よく知らない。
猪口委員
広島との関係でさらに広げて考えるのであれば、人はどういう時に戦争に追いやられたのか、つまり戦争と平和の理由を考える時に、エネルギーの不平等分配の問題と後発国の困難性が、今日多くの国で再現されている。エネルギーの逼迫というのは第3世界において最大の戦争原因になり得るので、これらにつなげて研究することが研究所の仕事でもある。戦争の根本原因についての研究は、広島だからすべきことであり、イーターとはつながらないかもしれないが、エネルギーの問題として関連がある。
最初に申し上げた企業の問題について言えば、世界の企業は皆、何をしたら良いか悩んでいる。最も高い収益率を誇っているマイクロソフトが辿り着いた答えは、アフリカの子ども達全てにワクチンを与えるという運動である。普通の国のODAをはるかに上回る拠出をし、成功を収めている。広島の企業及び広島に支店を持つ企業は、何をやるか迷う必要はない。そのことに気付かせなければならない。企業は人類益のために活動して21世紀的企業としてリーダーになることが出来るのであるから、彼らのオーナーシップを高めることが重要である。
平和研究所の機能に関してであるが、今、国連で国連総会をやっており、その第1委員会では軍縮国際安全保障の議論の最中にあるが、そこをモニターして議論をまとめて送ってくれるのは、皆アメリカのNGOである。総会の要約はEメールで毎日送られてくる。私が残念なのは、なぜ被爆国のNGOがやらないのかということである。日本語でまとめて送ってくれるシステムがあれば、もっとたくさん読めるであろうにと思う。戦後50年余り経って、反核運動のNGOはアメリカで育ってしまった。パワフルなものの多くはそうだ。日本人はそれを考えなければならないし、平和研究所は競争力のある研究者と運動論を考え抜いて、賞をとり、世界の人々に毎日Eメールが届くような知的なアウトプットを提供することが出来るような平和機関に成長して欲しい。
横山委員
なぜ日本が数百年平和だったのかということには色々な理由がある。一つの理由は、平安、江戸時代は英雄豪傑の時代ではなかったということである。筋肉の要らない時代であるため、女性が凄く進出した。ひらがななどニューメディアはほとんど女性が発明した。今はまた同じ状況にある。筋肉が必要でない、女性が進出する時代がまた来ている。
先程の伝道者の話に戻ると、秋葉市長は、広島の人ではないが平和運動、原爆反対運動に原点を持ち、広島に根付いた人である。そのことがもっと強く表現されても良いはずだが、立場上伝道者になれないのであれば、誰かが、私は女性が担うのが良いと思う。政治と切り離すのが難しい部分があると思う。
平和記念式典にはアメリカの外交官は来ていない。招待しても来ないと言うが、来年は60周年なので、ちゃんとアメリカの方にも来て欲しい。それも女性が良い。大使でなくとも良い。広島の存在感を出すために、アメリカからは理屈抜きに出席してもらうべきである。
岩垂委員
一つ確認しておいた方が良いことは、我々は市からの問いかけに対し議論しているが、平和記念公園とその周辺のあり方を考えた時に、やはり市民参加型の議論にすることを忘れてはならない。ヒロシマを発信するときに音楽祭や絵画展、映画祭の文化イベントの話をしたが、それも市民参加、市民主導で世界から市民が参加するというイメージで、また行政主導ではなく、経済界や文化団体などの協力を得ながら進めていくという意味で申し上げた。
市民局長
本日は示唆に富んだご意見ありがとうございました。これまで第1回、第2回で頂いた意見、広島での会議の意見をまとめて、議論した内容を整理したペーパーを作ろうと思う。次回は恐らく年明けになろうと思う。徐々に内容を深めていきたいと思うのでよろしくお願いしたい。
平和大橋を設計したイサム・ノグチの再評価の問題については、この6月に広島市の現代美術館でイサム・ノグチの懐古展を開催している。イサム・ノグチが平和大橋の設計に関わる経緯や、彼によって考案された原爆死没者慰霊碑を再現した写真など、イサム・ノグチと広島の関係について紹介する展示会を行った。ただ残念なことに、入場者数は1万人弱であった。今、平和大橋の架け替えの問題が議論になっているので、イサム・ノグチ再評価に関わる紹介も行っていきたい。
横山委員
平和大橋の橋げたのコンクリートが傷んでいたが、修復されたのか。
市民局長
部分的な修復はされていると思う。橋全体が現在の交通量からすると狭いので、橋を拡幅しようという話が出ている。その時に、橋のデザインを踏襲するのかどうかなどが議論されると思う。
福井座長
本日はどうもありがとうございました。
以上
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