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広島の歴史(平成25年版広島市勢要覧)

ページ番号:0000012469 更新日:2019年10月21日更新 印刷ページ表示

原始・古代

現在、市街地がある太田川下流域は、ほとんどが海中にあり、牛田・矢野・五日市や広島湾に浮かぶ島であった比治山に縄文時代の遺跡が、また、中小河川による沖積地を見下ろす丘陵を中心に、市内各地域に弥生時代の遺跡があります。

古墳時代前期になると、口田の中小田古墳群、緑井の宇那木山古墳群、神宮山古墳群など太田川流域に大型の古墳が築造されるようになり、後期になると可部や白木などの内陸地域でも古墳が盛んにつくられるようになりました。

律令制度下の地方政治は国府を中心に行われていました。

安芸国では西条(東広島市)又は府中(安芸郡府中町)に国府が設けられ、平安時代中期には既に府中にあったとされています。白木の三田郷などは国府と関係がありました。律令制度が揺らぎはじめると、貴族・寺社や皇室は荘園を所有するようになり、8世紀末には牛田荘が大和国の西大寺領となったほか、可部荘(可部)、三入荘(三入)田門(たと)荘(口田周辺)などが設けられました。当時の太田川河口付近であった園地区の山本周辺には、内陸部にあった厳島神社の荘園からの物資を運び出すための倉敷地がありました。

中世

承久の乱(1221年)後、新たに安芸国守護職となった武田氏は、武田山に築いた銀山(かなやま)城(安佐南区)に本拠をおきました。

城下付近には市(いち)が立つなど、にぎわいをみせるようになり、政治の中心も府中から移ってきました。武田氏は、南北朝時代に入ると、足利尊氏の誘いに応じ、毛利・吉川・熊谷氏などを味方にし、矢野城(安芸区)などで、反幕府勢力と激しい抗争を続けました。

その後、武田氏は守護職を追われましたが、15世紀の初めには、太田川流域を支配する分郡守護として復活しました。

このころ、現在の市街地のあたりには太田川によって運ばれた土砂が堆積し、砂洲や自然堤防ができ、次第にデルタが形成され、漁撈を主業とする人々が生活を営むようになりました。やがてこの地域は、広島湾頭における武田氏と山口の大内氏の勢力争いにまきこまれるなど次第に政治的・経済的に重要性をおびるようになりました。この地が、文書に初めて出てくるのは、応永4年(1397年)のことで、厳島神社領安摩荘(あまのしょう)(矢野周辺)の付属地として五ケ浦の名が記されています。

天文10年(1541年)武田氏は滅亡し、代わって毛利氏が次第に勢力を伸ばし、弘治元年(1555年)の厳島合戦で陶(すえ)氏を破ると、急速に勢力を中国地方に拡大しました。毛利氏は豊臣秀吉の全国統一の過程において、その勢力下に入り、中国地方の大半を領有する112万石の大名となりました。

この広大な領地経営の中心は、毛利氏の本拠地である吉田の郡山城(安芸高田市)でしたが、軍事・政治・経済等あらゆる面で、海陸交通の要衝の地に本拠を移すことが必要となってきました。

近世

天正17年(1589年)毛利輝元は、当時五ケ(五ケ村)といわれた太田川デルタの上に築城を始め、この地を「広島」と命名したといわれています。その後、約2か年の歳月を費やして築城工事は完成し、天正19年、輝元は家臣を従えて入城するとともに、領内各地から職人や商人を招くなどして、京都・大坂(大阪)にならい城下町の建設を行いました。

豊臣秀吉の没後、慶長5年(1600年)に起こった関ケ原の戦に敗れた毛利輝元は、防長2か国に移され、代わって尾張清洲(愛知県)の福島正則が芸備49万8千石の領主となりました。福島氏は毛利時代に引き続き城下町の拡張や整備を行うとともに、西国街道(山陽道)を城下に通し、出雲・石見国への雲石街道の整備を図りました。

しかし、福島氏は幕府から広島城の無断修築の罪で改易され、元和5年(1619年)紀州(和歌山県)から浅野長晟(ながあきら)が、安芸一国と備後8郡42万6千石を領して入城しました。

江戸時代には、広島城下の南方の干潟は次々と干拓されていき、文政年間(1820年頃)には新開の町村数は35を数えました。

このころ、町・新開の人口は4万8千人を超え、これに武家・寺社の推定人口2万人を加えると、城下の総人口は7万人前後となり、江戸・大坂(大阪)・京都・名古屋・金沢に次ぐ大都市でした。

また、内海航路沿いの最大都市として、本川や元安川沿いは他国船でにぎわいをみせ、なかでも中島界隈は街道沿いに大店が並ぶ商業の中心地でした。

城下近郊では沿岸地域で綿が、太田川流域では麻苧(まちょ)・紙・竹細工・野菜、広島湾では海苔・かきなどが生産され、多くが城下に集められた後、上方へ積み出されました。

城下絵図

明治・大正時代

明治4年(1871年)7月、新政府による廃藩置県が行われ、翌5年(1872年)4月、広島城下は広島県第一大区となり、続いて11年(1878年)11月、郡区町村編制法の実施により、広島区と改められました。

次いで、21年(1888年)4月市制町村制が公布され、翌22年(1889年)4月1日、広島は全国で最初の市の一つとして市制を施行しました。その時の面積は約27km2、戸数は2万3,824戸、人口は8万3,387人でした。

明治22年(1889年)11月には、千田貞暁県令(県知事)の努力により、17年(1884年)9月以来、5か年に及んだ宇品港の築港工事が完成し、皆実新開以南、宇品島へ至る浅海は広大な陸地となりました。さらに、27年(1894年)6月には、山陽鉄道が広島まで開通しました。

同年8月に日清戦争が始まると、広島‐宇品間の軍用鉄道(宇品線)が2週間余りの突貫工事により開通し、宇品港から多くの兵員・物資が戦地へ送り出されました。

同年9月には大本営が広島城内に移され、10月には臨時帝国議会も開かれるなど広島は臨時首都の様相を呈しました。

以後、37・38年(1904・1905年)の日露戦争など相次ぐ戦争により、軍関係の諸施設が次々と設置され、本市は、「軍都」としての性格を強めていきました。一方で明治35年(1902年)の広島高等師範学校の設置をはじめとし、広島高等工業学校、広島高等学校、広島女子専門学校、広島文理科大学などの学校が設置され、文教施設が充実していきました。こうして本市は次第に中国地方における政治・経済・文教・交通の中心都市となっていきました。

相次ぐ軍事施設の設置などにより上水道の敷設など都市施設の整備も進みました。なかでも城濠の埋立は、その一部に電車軌道が敷設されるなど街の景観を大きく変貌させました。

大正元年(1912年)11月、広島電気軌道株式会社経営の市内電車が、広島駅‐紙屋町‐相生橋線など3路線で開通し、従来の乗合馬車に代わり市内の主要交通機関となりました。

4年(1915年)4月には御幸橋-宇品線、6年(1917年)11月、左官町-横川線が開通すると、市内の交通は一段と便利になり、八丁堀・紙屋町付近が、城下町時代からの経済的中枢であった中島本町・堺町付近と比肩することとなり、後には、これらをしのぐ繁華街となっていきました。

なお、明治・大正年間を通じ、明治37年(1904年)9月の仁保島村字宇品島を市域に編入(新町名:元宇品町)した以外に町村合併による市域の拡張はありませんでした。

臨時帝国議会が開催された仮議事堂市内電車開通を行う花電車

昭和・平成

広島市は、大正8年(1919年)に制定された都市計画法の適用を受けて、本市とともに都市計画区域となった隣接町村に合併を働きかけ、昭和4年(1929年)4月、隣接7か町村(仁保村・矢賀村・牛田村・三篠町・己斐町・古田村・草津町)との合併が実現しました。これにより、人口は27万人を超え、全国で7番目に人口の多い市となりました。

7年(1932年)太田川改修工事に着手、また宇品港は広島港と名を改め、翌8年(1933年)には修築が始まり、15年(1940年)からは工業港建設と埋立地を臨海工業地帯とする事業が始まりました。昭和20年(1945年)8月6日、人類史上最初の原子爆弾が市中心部上空約600mで炸裂しました。広島の街は一瞬にして焦土と化し、多くの人々の生命が奪われ、全ての都市機能は壊滅的な被害を受けました。同年末までの死者は約14万人(誤差±1万人)と推計され、生き残った人々は様々な形での後障害に苦しめられ、その影響は今なお続いています。

瞬時に壊滅し、廃墟の街となった本市の復興は、鉄道・電車などの輸送機関や通信・電力などの復旧から始まりました。市民も食糧や物資の欠乏に苦しめられながらも生活の再興を進めていきました。一方、市は、昭和21年(1946年)の秋には、復興都市計画を決定しましたが、資金難などによりなかなか進みませんでした。こうした状況を打開したのが、昭和24年(1949年)8月6日に公布された我が国最初の特別法「広島平和記念都市建設法」でした。これにより道路・橋梁・住宅などの整備が本格的に進むこととなり、高度経済成長前夜の市域拡張期を迎えました。

広島平和記念都市建設法の住民投票のポスター

戦後、市町村が所管する事務の増大に伴い、その能率的処理のためには自治体規模の合理化が必要となり、昭和28年(1953年)町村合併促進法、31年(1956年)新市町村建設促進法により、町村合併は全国的機運になりました。広島市では30年(1955年)4月安芸郡戸坂村、31年(1956年)4月安芸郡中山村、同年11月佐伯郡井口村と合併を行い、翌32年(1957年)人口は40万人を超えました。33年(1958年)末には、戦前の最高を突破し、39年(1964年)4月には人口50万人を超えました。

また、36年(1961年)の広島空港(現広島ヘリポート)開港、39年(1964年)の山陽本線全線電化開通、40年(1965年)の太田川放水路通水、広島民衆駅完成、41年(1966年)の国道2号新広島バイパス開通等交通基盤の整備等を通して市勢は一段と伸長、広島都市圏が形成されるようになりました。

民衆駅として完成した広島駅ビル

その結果、市域を越えて広がった日常生活圏内の諸問題を一体的に処理するため、周辺町村との合併機運が高まりました。

33年(1958年)には「大広島」構想を発表し、本市を中核に広域都市圏を建設しようという構想を相次いで打ち出しました。こうした動きのなかで、43年(1968年)1月、周辺19か町村による広島地区広域行政懇談会が設置され、45年(1970年)3月、広島市基本構想策定により、周辺町村との合併は一挙に進みました。

46年(1971年)4月の安佐郡沼田町との合併をはじめとして、同年5月安佐郡安佐町、47年(1972年)4月安佐郡可部町、同年8月安佐郡祇園町、48年(1973年)3月安佐郡安古市町、佐東町、高陽町及び安芸郡瀬野川町、同年10月高田郡白木町、49年(1974年)11月安芸郡熊野跡村、安芸町、50年(1975年)3月安芸郡矢野町、船越町の計13か町村が本市と合併しました。

そして、55年(1980年)4月1日には、全国で10番目の政令指定都市となりました。その後、60年(1985年)3月に、佐伯郡五日市町と合併して人口は100万人を超え、平成17年(2005年)4月には佐伯郡湯来町と合併しました。

昭和49年(1974年)バスセンターのオープン、50年(1975年)山陽新幹線の全線開通、53年(1978年)7月基町地区再開発事業が完了、54年(1979年)広島空港(現広島ヘリポート)へのジェット機乗り入れ、57年(1982年)西部開発事業の竣工など、相次ぐ社会資本の整備とともに本市経済も順調に伸びました。アストラムラインが開通した平成6年(1994年)にはアジア競技大会、8年(1996年)にはひろしま国体・おりづる大会ひろしまを開催し、12月に原爆ドームの世界遺産一覧表への登録が決定しました。

13年(2001年)には紙屋町地下街「シャレオ」が開業し、広島高速4号線(広島西風新都線)が開通しました。

18年(2006年)7月には広島平和記念資料館の本館が国の重要文化財に、19年(2007年)2月には平和記念公園が国の名勝に指定されました。

21年(2009年)3月には、新しい広島市民球場(マツダスタジアム)が完成しました。

アジア競技大会開会式の集団演技新しい市民球場(マツダスタジアム)

資料:公文書館