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広島市重要無形文化財『亀山八幡の祭りはやし行事』
新型コロナウイルス感染症の影響もあり、令和2年から開催が見送られていた阿戸町「亀山八幡の祭りはやし行事」が、令和5年から再び開催されています。広島市の重要無形文化財に指定されている「祭りはやし行事」についてご紹介します。
亀山八幡神社の由来
亀山八幡神社(阿戸町宮の郷2910)の御祭神は品陀和気尊(ほんだわけのみこと)で、大昔(800年頃)宇佐八幡宮から勧請され、雷(いかづち)八幡宮と称しましたが、天正3年(1575)に亀山八幡宮と改称され、明治期になって亀山八幡神社と呼ばれるようになりました。
享保12年(1727)の火災により社殿や記録等一切を消失しましたが、逐次復旧事業が行われ、享保19(1734)年に社殿、享保20年(1735)に拝殿が再建されたと思われる「棟札」が現存しています。
祭礼の日は、正徳5年(1715)の「寺社辻堂・森・荒神御改帳」には9月19日(旧暦)と記載されていますが、近年は新暦の10月19日に、最近は10月19日に近い日曜日に行われています。
祭りはやし行事とは
祭りはやしは、阿戸町内(1区~6区の町内会)にある三つの庭(にわ)、上庭(1区と2区の半数)、中庭(2区の残りと3区)、下庭(4区、5区、6区)の各庭が、飾り付けした傘袋を中心にして、鬼を先導役に、大人が横笛、子供が大太鼓、小太鼓、鉦(かね)などで曲を奏でて奉納します。なお近世には、上庭、中庭、下庭は、それぞれの荒神社で「はやし」を演奏し、氏子のいる地域を廻った後に亀山八幡神社に集まったものと推測されますが、その名残として、現在は祭礼当日午前中に鬼のみが各荒神社氏子の全家庭を廻っています。
祭りはやしの由来については、享保年間に始まったと伝えられており、当時、亀山八幡神社の宮司を務められていた「富永家」は、東広島市安芸津町風早の「祝詞山八幡神社の宮司も務められており、「亀山八幡の祭りはやし」は「祝詞山八幡神社の神賑行列」の影響を受けているのではと推測されます。
阿戸町の「庭」とは
阿戸町には、江戸期の「寺社辻堂・森・荒神御改帳」から、「国草」「寺山」及び「八幡之内」の3か所に「荒神森」があり、それぞれ祠(ほこら)があったとされる。町内の地域区分を示す「庭」の語は、御改帳に寺山荒神森を「正徳2年御改メ中庭と申候」と記載されており、この記述から、同時期に他の荒神森も上庭、下庭と称されていたものと推定されます。
この三つの庭は、それぞれの荒神社の祭礼行うと共に亀山八幡神社に奉納する「祭りはやし」の実施主体として今日まで受け継がれています。
広島市重要無形文化財の指定
「亀山八幡の祭りはやし行事」は、平成26年に広島市指定重要無形文化財に指定された安芸区で唯一の無形文化財です。文化財価値について、「近世の荒神祠を中心とする地域の信仰組織が、「祭りはやし」の伝承組織である「庭」として現在に継承され、「祭りはやし」の内容も旧来の形態をよく残している点で貴重であり、藩政時代の安芸国の農村部における信仰と共同体のあり方を考える上で重要である」とされています。
文化財申請に係る経過や資料等は「文化財申請の手順」として冊子にまとめ、阿戸公民館図書コーナーに置いてあります。
保存伝承活動について
平成20年に三庭共同で「亀山八幡の祭りはやし行事保存会」を組織し、祭りはやし行事の保存・伝承を行っています。
毎年9月初めから、八幡神社の総代である庭長を中心に、小学生に「祭りはやし」の指導と太鼓等の道具等への飾り付けの準備を行っています。以前から、祭りはやしの所作や準備作業の方法などは口頭や見よう見まねで受け継がれて来ましたが、時代の変遷とともに従来の方法では伝承が困難となり、囃子の状況を文書や写真、映像で残すため、平成20年から2年間をかけて冊子「下庭囃子おぼえがき」とビデオを作成しました。
以前は、祭りはやしに参加できるのは代々阿戸に住む家系の男の子のみでしたが、現在は少子化とともに参加するこどもが減少し、希望する子は誰でも参加できるようになるなど、保存・伝承に向け、価値を守りながら地域で受け継がれています。