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2016年03月29日「市政車座談義」の開催結果
概要
「広島の歴史・文化を次代へ」をテーマに、合人社ウェンディひと・まちプラザで市政車座談義を開催しました。
談義には、歴史・文化の共有と郷土愛の醸成に取り組んでおられる方々に参加いただき、市長と意見を交わしました。
市長は、「広島の歴史・文化を基軸に置いたまちづくりが、これから地方分権にしっかり取り組む上で欠かせないコア・コンセプトです。皆さんが取り組まれている、地域を愛し、大事にする活動を続けていただければ、それが子や孫に伝わり、地域がしっかりしたものになります。そうした活動が長続きするよう、共に取り組んでいきたいと思いますので、アイデアをどしどし出してください。」と述べ、積極的な意見交換を行いました。
結果
1 日時
平成28年(2016年)3月29日(火曜日)13時55分~16時07分
2 開催場所
合人社ウェンディひと・まちプラザ マルチメディアスタジオ(北棟6階)
3 参加者
6名(※敬称略)
- 茶道上田宗箇流 第16代家元 上田 宗冏
- 広島仏だん通り活性化委員会 会長 西原 幸二、事務局長 久保田 育造
- 雁木組 副理事長 山崎 学
- 安の花田植実行委員会 委員長 寺尾 一秀
- 井原郷土史研究会 会長 佐々木 恒
4 テーマ
「広島の歴史・文化を次代へ」
~歴史・文化を共有し郷土愛を育むまちづくりに向けて~
5 傍聴者
7名
6 会議次第
- 市長あいさつ
- 各団体からの取組紹介及び意見・提案
- 意見交換
7 会議の要旨
司会(文化振興課文化財担当課長)
ただいまから、市政車座談義を開会いたします。
私は、本日の司会を担当する、文化振興課文化財担当課長の江崎と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
今回は「広島の歴史・文化を次代へ」をテーマに、歴史・文化の共有と郷土愛の醸成に資する活動をされている皆さん方と市長とで御議論いただきます。
それではまず、本日御参加の皆さんを御紹介いたします。
まず、茶道上田宗箇流・第16代家元、上田宗冏様です。
御承知のとおり、子供から高齢者まで多くの方々へ、広島の茶道上田宗箇流の伝承・普及に努められ、また国内外にその精神を広めるとともに、広島の魅力のPRと広島の歴史の継承・文化の振興等に御尽力いただいております。
続きまして、広島市中心部の旧西国街道中の「仏だん通り」の歴史・文化の継承と地域の活性化に取り組んでおられます、広島仏だん通り活性化委員会・会長の西原幸二様です。
同じく事務局長の久保田育造様です。
次に、歴史的に水辺との深い関わりの中で都市づくりが進められてきた広島で、川の船着き場「雁木」を現代に生かしながら様々な活動を展開しておられます、特定非営利活動法人雁木組・副理事長の山崎学様です。
次に、先人たちが残した伝統芸能を後世に伝えたいとの思いから、安佐南区「安の花田植」を平成18年に47年ぶりに復活させ、またさらなる充実に取り組んでおられます、安の花田植実行委員会・委員長の寺尾一秀様です。
次に、古墳や山城跡、毛利氏ゆかりの古道などの歴史資源についての掘り起こし、研究を重ねながら、地域内外の多くの方々にその魅力を伝える活動を展開しておられます、井原郷土史研究会・会長の佐々木恒様です。
それでは、開会に当たり、市長から一言御挨拶を申し上げます。
市長
皆さん、こんにちは。今日は本当に年度末のお忙しい中、「市政車座談義」に御参加いただきまして、ありがとうございます。
今日は「広島の歴史・文化を次代へ」ということで、いろいろ話を進めさせていただければというふうに思っております。私が市長になりまして、広島を是非世界に誇れるまちにしたいと。そのためにはまずは、活力、にぎわいが必要ですと、その上でワーク・ライフ・バランス、お一人お一人の生活を仕事と家庭生活とのバランスが取れるようにするということ、さらにはこの広島、平和への思いを共有するということが皆さんできるようにしようということ、この三つの要素を柱としてまちづくりの方向性を踏まえながら、様々な施策を展開しているところです。そして、これらの行き着くところをあえて極論すれば、この広島で実際に日々の生活を営んでおられる方々が、この広島という地に郷土愛を持ってもらえるようにするということ、これが入口であり、そしてまた出口というか、そのようなものではないかなと思っているところです。
実際に見ていただきますと、今の国内は少子高齢化ということに伴う問題が顕在化するという、いわゆる成熟社会というようなことが言われております。同時に国の外に目を向けてまいりますと、今盛んにニュースに出ていますが、テロが多発するとか、覇権を競って各国が競り合いをするというふうな中で、正に激動の国際社会という状況です。その中にありながら、この広島の地で日々の生活をすることで、その人自身の人生が確かに充実しているな、あるいは自分を含む家族、子や孫、そういった人々が自分の人生を過ごす上で、この広島で過ごすことが間違いなくプラスの経験になる、いいことだということを実感してもらう。だからこそこの広島で住み続けて、そしてもし力があれば、余裕があれば自分自身もこの広島をもっといいものにしてやろうじゃないかと、そんな思いを持っていただくというのは、実はいわゆる郷土愛がもとになる。こういった思いを持つ原動力こそ郷土愛ではないかなというふうに思うわけです。
そうした考えの下で、これまでいろいろ施策をやっていますけども、この思いをしっかり深めるためには間違いなく、この広島のいろいろな所で、1945年8月6日という日以前のこのまちの歴史・文化、これをきちっと掘り起こして多くの人が知って、自分のものにする。そして、常日頃語り合えるようにして、自分たちが住んでいるまちはこんなまちなんだということが言えるような状況にするということが必要ではないかと思っているわけです。
そのために、今ここにおられる皆さんに熱意を持って、それぞれの目で取組をやっていただいています。それは必ずや地域の歴史・文化の理解と形成につながることでして、最初申し上げた郷土愛ということにつながってくる。それを育み、醸成していくということに必ずつながっているということになっていると思います。
その中で昨日も、西国街道の、広島市内中央部に入る東の入口に当たります猿猴橋を竣工当時の姿に復元するのに合わせて、地元で「えんこうさん」のお祭りまで開いていただいて、「我が広島の歴史の厚みを皆さん知っていますか」というふうなことを問い掛けていただく絶好の機会になったのではないかなと思うんですね。そういうことができたのも、元々猿猴橋のある地域の皆さんが、自分たちのまちは自分たちでつくるという、その思い、どうしたら機運醸成を図れるかということについて時間を掛けて熟成されてこられたものを、行政としてきちんと受け止めて、市の財産とすべく取り組んだ成果だというふうに私は思っています。そういう意味では、広島の歴史を折に触れて振り返るということは、必ずや我が広島を未来に向けてどう発展させていくかという気持ちと地続き、一緒であります。そういう意味で、郷土愛を醸成させるという思いを一つにしていただいて、是非ともしっかりした議論をしていただきたいと思っています。
今日お集まりいただいた皆さん、西原さん、久保田さん、山崎さん、寺尾さん、佐々木さんは、それぞれ個々具体的な取組をされていますので、そういった事例を紹介していただき、その思いとか、こういうふうにしたらいいんじゃないか、ということを言っていただき、行政とコラボできる所を探すというそんな議論にしたいと思いますし、上田さんについては、言わば、正に江戸時代の歴史を今に背負っておられますので、全市的な視点での助言もいただくという、そんな議論になればというふうに思っていますので、どうぞよろしくお願いします。ありがとうございました。
司会
ありがとうございました。
本日の談義の進め方についてですが、お手元にお配りいたしました資料の次第にありますとおり、まず御参加の皆さんから、それぞれの立場で取り組まれていることを御紹介いただき、併せて、テーマの実現に向けた御意見や御提案を賜りたいと思います。それを踏まえまして、市長と皆さんで自由に意見交換をしていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
それでは、御参加の皆さんから順次、御発言いただきたいと思います。
最初に、広島仏だん通り活性化委員会の西原様、お願いいたします。
各団体の取組紹介及び意見・提案
広島仏だん通り活性化委員会会長
我々、仏だん通り活性化委員会は文字どおり、仏だん通りを活性化していきたいということで活動しております。「昼も夜もにぎわうまちづくり」をスローガンにいろいろな活動をしてまいりました。
まず、広島仏だん通り活性化委員会の紹介から始めたいと思います。
仏だん通りは、旧西国街道の時代から仏壇店が軒を連ねる由緒ある通りで、戦後の復興に伴い、飲食店などが混在するようになった全国でもユニークな通りです。流川・薬研堀地区の健全で魅力的なまちづくり協議会の主導で、南北軸である薬研堀通り活性化事業にめどが付いた段階で、次は東西軸として旧西国街道である仏だん通りをいろんな面で良くしていこうということで、平成20年2月に発足いたしました。仏だん通りの3町内会で構成し、昼も夜もにぎわう仏だん通りを目指して、活性化事業、広報、整備、防犯という四つの柱で行動する会としました。この会の取組を説明する前に、西国街道である仏だん通りの歴史的背景についてちょっとお話したいと思います。
西国街道とは近世の山陽道のことで、西国の諸大名の参勤交代や長崎奉行、幕府代官などが往来する道として五街道に次ぐ重要な位置を占めていた街道です。毛利輝元の時代には広島城の北を通っていましたが、福島正則が街道を城下町の南側に引き入れて、東西に貫通し沿道を町人町としました。江戸時代に入り、街道筋の整備が始められ、たくさんの商店が立ち並び、大阪以西の随一の繁華街として発展してきました。
広島仏壇の歴史ですが、戦国時代には既に安芸門徒と言われ強大な勢力を持っていたこともあり、仏壇も多少つくられていたと思います。紀州の職人・職工、木地師、塗師、蒔絵師、細工師などが居付いたこともありまして、仏だん通り周辺は、水運による原材料の搬入や仏壇の出荷などが容易であったことを背景に、江戸時代後期から生産も盛んになりました。明治20年には広島仏壇卸商組合が結成され、現在もあります。明治、大正、昭和初期まで順調に成長し、戦前には仏だん通り周辺に40数軒の仏壇店やその関連した店がありました。原爆投下により、仏だん通りも壊滅しますが、戦後復興期には13軒の仏壇店を中心に洋服店、金融業、旅館などいろいろな商店ができました。仏壇業界は昭和50年をピークに、それからだんだん縮小していきました。昭和55年頃から仏だん通り、えびす通りに病院、ビルがどんどん建っていきましたが、流川や薬研堀の土地は一筆が狭く、土地の広い私どもの地域がビル用地として適していたからだと考えております。そして現在のように、仏壇店と病院、ビルが混在する通りになったわけです。
それでは、当会が現在取り組んでいる主な事業について御説明したいと思います。「広島仏だん通り祭」と「『まちなか西国街道』リーフレット、ステッカーの作成、配布」について御説明いたします。
今取り組んでいる「まちなか西国街道」活性化協議会の設立準備や提案などは後ほど事務局長の久保田より御説明したいと思います。
まず、仏だん通りのにぎわい創出を目的とした、「広島仏だん通り祭-花まつり-」について申し上げます。
「広島仏だん通り祭-花まつり-」は、私どものメインイベントです。4月8日はお釈迦様の誕生日、その前の1週間にいろいろなイベントを行います。お手元には4月2日から始まる「第4回広島仏だん通り祭」のチラシを配らせていただいておりますので是非御覧ください。私どもは、昼も夜もにぎわうまちを目指しているわけですが、昼間には広島仏壇の伝統工芸体験のツアーを行い、仏だん通りにある仏壇店で漆塗りやお香作りなどの体験、仏壇にまつわるお話を聞いていただいております。お祭りの最中には花御堂(はなみどう)を設け、甘茶を掛けてもらったり、協賛店では甘茶の接待をしたりしております。夜にはクリスマスの時のように通りのお店でおいしいものを食べたり、うまい酒を飲み、街角ライブや雅楽の花まつりパレードを楽しんでもらいます。今回は特に酒販店、グループ主催による流川はしご酒のイベントと共催し、より多くの方に来てもらえるように思います。1枚3,500円のチケットを購入すると5軒の店のいろいろな料理とドリンクをいただくことができます。40数軒の店から選べるようになっております。お手元のチラシを見て、是非お越しください。
次に、西国街道を皆さんに再認識していただくことを目標にして、1月中旬に作成した「まちなか西国街道」のリーフレットについてお話します。本日お手元にお配りしていますので、御覧ください。
昨日、3月28日月曜日に猿猴橋復元工事の竣工式がありました。私どもにとって猿猴橋は「まちなか西国街道」の東の入口であり、広島駅前地区の象徴的モニュメントです。このたび「えんこうさん」という新しいお祭りが始まったそうですけど、広島駅前地区の行事に対して、西国街道という共通点を切り口にして何か一緒にできないかと考え、まずは分かりやすい「まちなか西国街道」の歴史的マップを作成・配布し、街道沿いの地元の者自身が、400年の歴史と伝統のあるまちであることを共通認識しようという目的で、約1年掛けて完成させました。街道沿いの方々にはもちろんのことですが、一般市民や観光客の方々、外国から来られる方々にもできるだけ配布し、このリーフレットを通して「まちなか西国街道」を再認識していただき、広島400年の歴史や伝統文化に触れ、広島に改めて愛情を持っていただきたいと思っております。先日には新聞でも取り上げられました。リーフレットの内側には、先ほど御説明しました広島城下絵屏風もありますので御覧ください。広島城下絵屏風では、広島駅辺りは松原であり、今は松原町と言いますね、その地名の意味も分かると思います。京橋周辺の水運の様子と現在残る雁木の遺構を思い浮かべると、その地図は興味深いものがあると思います。八丁堀はなるほど堀だったんだなということも分かります。
リーフレット裏面の廣島諸商仕入買物案内記での現在の地図と明治時代の買物案内記の店々の対比も面白いものがあり、ちなみに6の印のある所は仏具店で、私どもの会の久保田事務局長の店で、今は飲食ビルになっております。また四国五郎さんの猿猴橋の絵は、再建された橋と正月風景、また京橋の川祭りの様子など、非常に感動的なものだと思います。後ほどゆっくり見てください。
リーフレットの完成は今後の活動の出発点で、私どもは2月11日、「まちなか西国街道」の町内会や関係団体に集まっていただき、「まちなか西国街道」活性化協議会の設立に向けての協議を行いました。このことについては、これから久保田事務局長よりいろいろな課題についても説明していただきたいと思います。ありがとうございます。
広島仏だん通り活性化委員会事務局長
続いて説明させていただきます。
今、西原会長の冒頭の話にございましたように、当活性化委員会の発足当時の状況というのが、夜のまちであって南北の基軸である薬研堀通りの整備が行われたというところから始まりまして、東西の基軸も何とか造らなければいけないねということで、たまたま仏だん通りが西国街道であったということで、とにかく、正直な話、西国街道について私も余り知識がなくて、発足当初、西国街道の知名度を上げなくてはいけない、上げると同時に仏だん通りの知名度も上がってくるのではないかというような考えを持って、郷土史家の佐々木先生にお願いして、何度か西国街道の徒歩めぐりツアーというものを主催して、4回開催しております。我々とすれば、まちの活性化なんですが、将来、広島駅周辺が開発され、整備されてすごい街並みになるみたいということから、ちょっと危機感を感じて、今では市長が次代へのまちづくりという、そういう提唱をされておりますけど、当時我々とすれば、核の分断という危機感がございました。それで、ただ西国街道ばかりやっていたのではつまらないだろうという意見が出てきて、この「広島仏だん通り祭」というものを、何かその、西国街道もそうなんですけど、夜のまちのメインストリートである仏だん通りを何とかしなければいけないのではないかということから、我々は、一つの夢として、夜の潜在能力というのは今持っているから昼の潜在能力をどうやって付けていくかを一つの将来の課題として、だけどその前に仏だん通り、この知名度を上げなくてはいけないということで、「広島仏だん通り祭」というものを、今年で第4回目を開催するに至りました。
その中でも、我々とすれば歴史というものを踏み外すまいと思っています。パンフレットを見ていただいたら宗教色があるんじゃないかとか、そういうふうに思われがちなんですけれども、仏教という、仏壇屋さんがあったから仏だん通りという名前が付いて、仏壇屋さんといったらお寺とか仏教とか、どうしてもイメージとして関連するんですが、我々はそこらの整合性はあるんではないかと思っているんですが、見方によっては宗教色が強いと。だけど仏教については、552年ですか、仏教伝来があってずっと、我々の歴史的なものから見たら、神道であるとか仏教というのは日本古来のある意味で生活に密着したもので、そういうふうな言われ方するのが、我々とすればちょっと悔しいよねというような思いはあるんですけれども。そうは言っても現実は、人口減少、少子化の中で、まちの活性化をやるためには、とにかく地元の我々が、そういう知識を得て、活動、指針を持ってやらないと何もできないのではないかということから、スタートして現在に至っているような次第です。
今、「まちなか西国街道」というお話が出たんですけれど、これは、いわゆる将来に向かって我々が西国街道をツールに取り上げてまち起こしをする場合、特にまた広島駅周辺の開発が進んで、楕円形の都心づくりに取り組んでいく場合に、どうしても地図で見ていると、基軸になるのが西国街道なのかなと我々は思います。要するに広島駅周辺というのは中枢性のあるまちですから、県外とかからの来街者が多いわけですから、その観光に来られる方でも、広島駅から本通りまで大体30分ですから、歩きながら西国街道の歴史的なものを感じられるような街並みを造っていかなれければ、今からはいけないと思うんですけれども、そういうものを感じながらショッピングして、平和記念公園へ行って祈りを捧げるという一つの図式みたいな、仕組みみたいなものが、将来的にできればなというふうに考えて、現在に至っている次第です。
将来的には、市長にも来ていただきました、昨年10月にあった「通り御祭礼」、これを西国街道でいつかは実現できればなというふうに考えている次第です。以上です。ありがとうございました。
司会
ありがとうございました。
続きまして、雁木組の山崎様、お願いいたします。
雁木組副理事長
まず最初に、あれこれ説明する前に、取りあえず皆さんに、雁木タクシーに乗ってもらおうと思いまして、5分ぐらいですけれども映像を御覧ください。
御存じだと思いますが、あそこにある階段を雁木と言います。現在の原爆ドーム(大正4年の竣工当時:広島県物産陳列館)ができたときから、この位置に雁木がございました。もう何日かしたら映像のように川の両側に桜がずっと続くという光景が出てきます。これは基町のポップラ通りですね。ちょうど寺町の所で、ここが昔の北の浜というふうに呼ばれていた所です。京橋川に入ってきました。ちょうど正面が京橋でございまして、西国街道の橋ですね。この右手側が広島で一番古い雁木が残っているというふうに言われている所です。ここは白島、白鳥公園の下流側になります。もうすぐ縮景園が見えてきます。右手に取水口がありまして、左側がちょうど船を着けさせてもらう雁木になります。ここから直接、縮景園に入れるようしていただきました。
これは京橋川から遡って、本川に出るところですね。100万都市には珍しく、川の中洲にこういうふうにサギが営巣地を作っている所がありまして、これが結構お客様に喜ばれます。これからがその子育ての季節になります。これは昔の貯木場で今は吉島ボートパークと呼ばれていまして、我々が持っている船は2艇ありまして、雁子と雁太郎と言うんですが、今ここに係留しております。ちょうど元安川の河口になっていきます。これは中工場ですね。これを真っ直ぐ行きますと正面に宮島が見えます。日曜・祝日は、我々は、もうすぐ映像に出てきますけれども親水テラス、灯ろう流しをする所ですが、そこで待機運行をしております。平日は予約運行ということでやっております。キャプションにはタクシー乗り場と書いておりますが、親水テラスでございます。乗船、下船の時は必ず陸上班を付けてフォローするということにしています。この時は満潮でございまして、360cmぐらいの潮位の時ですね。時々、親水テラスが水を被ることがあります。
これからは、パワーポイントで御説明をさせていただきます。
水辺と歴史と我々の活動について手短に御報告したいと思います。
広島のまちの歴史は、御存じのように1589年に毛利輝元がこの太田川河口デルタに城を築こうということで始まったわけですが、その時、島普請と言いまして、護岸を造ってそれから土を入れて固めて、島からまず造るということで始まったというふうに言われております。なぜ雁木が使われるのかということなんですけれども、御存じのように、広島のこの辺りは干満の差が大きいんですね。日本中で言いましても2番目に大きい。4mぐらいの潮位の差がありまして、今日も2m55cmの変動があります。東京の辺りは今日で大体1m45cmですから、東京とは1m10cm動き方が大きいということです。それで、できるだけ乗り降りとか荷物の積み下ろしを長い時間できるようにということで長い階段が造られたというふうに言われております。
いつからかということなんですけれども、これは下蒲刈町の福島雁木という所でして、江戸時代の初めに、福島正則が造らせたと言われていますので、史料的には江戸時代の初めからあったとされていますが、我々に言わせますと1589年の広島城築城の際の島普請の頃から多分雁木はあったのではないかというふうに思っています。これが江戸時代中期の新開絵図でございまして、ちょうど平和記念公園の所ですね。よく見てみますと、雁木がたくさん、これが全部雁木なんですね。川沿いにはずっと道路が通っていまして、それで雁木が本当にたくさんあると。これが元安橋です。ちょうどここの所の絵図がありますので。これが1808年の江山(こうざん)一覧図なんですけども、ここに浄国寺がありまして、ちょうど今の所ですね。川沿いに道路があって雁木があって、それで上げ下ろしとかをしますということで、川には、海の船とかいろいろな船がたくさんにぎわっているという図です。
では明治以降どうかということなんですけれども、これは京橋川の上流右岸、今西さんという方ですが、護岸の土地を持っていらっしゃった方で、その方は大正6年生まれなんですけれども、おじいさんが雁木と護岸を造りましたということで、実はそこは民有護岸なんですね。だから残ったのかなという気がするんですが。今西さんは子供の頃、護岸の石の間にモルタルを詰めるのが仕事でしたということでした。それから今西さんの所は金春流の能の関係のお家でございまして、何と能舞台が水辺沿いにあったということと、管弦祭の時には舟屋さんを呼んで、芸者さんとかお弟子さんも招待して、船を出して見物に行ったんだと言われていました。戦後になりますと、学校のプールができるまでは、竹屋小学校と幟町小学校が今西さんの所の雁木を使って川に下りて、前の京橋川でプールのように泳いだというような話を聞いております。
大正になりましても、たくさん船が出ておるんですが、御覧の写真は元安橋の下流左岸側ですけれども、大手町二丁目辺りですね。この当時は既に護岸の所には家が張り付いていまして、それぞれ民有の雁木があったということです。この後、鉄道とか車によりまして水運が段々衰退していって、昭和10年代にはほぼ無くなったということでございます。
戦後はどうかということなんですけれども、これは昭和42年、戦後20年経っても実は広島の川沿いは、木造の家が張り付く状況が続いていたんですけれども、ちょうどこの頃から市営住宅等を整備しまして、川沿いの人に立ち退いていただいて河岸緑地を整備するという事業が始まっていきました。この写真は空鞘橋、基町です。まだこういう感じで家がたくさん残っているんですが、だいぶ立ち退いてきている状況が昭和47年です。
そして今、写真のような美しい河岸緑地ができているんですけれども、護岸の改修に併せて河岸緑地を造っていっておりまして、それらに併せて雁木を造っていっておられます。
今、我々がプロットした、いわゆる400か所の雁木がありまして、赤い所が雁木組が使っている52か所です。そこを雁木タクシーを乗り降りするということで使っておりますけども、なぜ雁木を使うのかという一番の理由は、桟橋を造らなくても今すぐ乗り降りすることできます。それから市内の至る所にありますので、いろいろな場所に行けるということで、タクシー営業に向いているのではないかというふうに思っています。それから広島の風土に合っていて安全。430年間使っているんだと、手すりがなくても大丈夫というようなことで、運輸局の許可を取った時にはこういう理屈で認めていただいたということでございます。それから広島の文化を考えるきっかけになるとか、まちの財産を使いながら残していくことができるということで雁木を使ったタクシー営業を行っております。
2004年にNPO法人でスタートしまして、今ちょうど12年目になっています。2艇ほど自分たちでボートを持って営業しています。年間約4,000人から5,000人を運んでいます。平和記念公園をスタートしまして広島駅方面に向かうコースが今人気で、縮景園にも入れるようにしていただきました。あと、「住吉さん」とか、猿猴川の「河童祭り」ほか地元イベントにも参加させていただいております。
我々はこの雁木を広島の風土と暮らしぶりから生まれた、貴重な文化遺産だというふうに捉えておりまして、これを使いながら残していって、広島の魅力づくりにつなげていきたいと。そうしたことによって川のまち広島の文化の継承と発展に貢献したいという思いでやっておるんですけれども、今ちょうど正会員は10名、賛助会員が100名以上、雁木メイトが200名ということでやっておりまして、雁木タクシーの営業だけでは実は赤字でございまして、こういう皆さんの支えをもって今、ずっと継続しているということでございます。
そのほかにちょっとだけ御紹介しますと、これは毎年やっている京橋川の両岸の町内会さんと一緒になって実行委員会を作りまして、11月後半の金曜日に「クリスマス&水辺ジャズ」というイベントを毎年やっております。それから、それに先立ちまして、護岸と雁木の掃除を皆さんと一緒に取り組んでいるところでして、我々の目標は、たくさんある雁木を、例えば町内会さんのオーナー雁木のようにですね、整備ではなくて日常の管理あたりを町内会さんにやってもらうということができないかなというのが、実は遠大なる目標でございまして、そのために始めたのがこのイベントでございます。
「住吉さん」の漕ぎ伝馬が復活して4,5年経ちますけれども、最初の頃からそれを追いかける納涼船というのを出しておりますので、一度皆さんに乗っていただきたいなというふうに思います。
いろんな仲間と一緒にやっておりますけれど、雁木ーズという若い子も写っておりますけれども、やはり高齢化というのがあって、私を始め年寄りが多いんですけれども、こういう感じの活動を今後ともつなげていって、いいまちにしたいなというふうに思っているところでございます。以上でございます。
司会
ありがとうございました。
続きまして、続きまして、安の花田植実行委員会の寺尾様、お願いいたします。
安の花田植実行委員会委員長
まず、映像で「安の花田植」の概要を約5分間見ていただいて、どんなものかということを理解してもらう。その後、歴史とか課題とか今後に期待する、行政にもお願いをすることを口頭で言いたいと思います。
画面が出るまでに言いますけれども、「安の花田植」は約450年前の戦国時代に大町五軒家という所に喜左衛門という豪農がおりました。田を9町8反作っていたんで、裕福でございまして、近所からもちろん応援に行ったり、よその村からも手伝ってもらったりして田植えをしていました。それではしばし映画を御覧ください。5分間短縮バージョンです。
これが安川です。現在、「安の花田植」の飾り牛は大朝飾り牛保存会から応援をいただいております。第4回からは安東公民館の隣の田んぼで行っています。市立大学の芸術学部にお願いして、昨年度FRPの飾り牛を模型で造っていただきました。道行と言って、昔は田んぼのそばの大八車が通るような道を、みんな各集落から会場まで移動したものです。牛が代を掻いていますけれども、再現、第1回の時には飼育牛で、若い衆が鼻首捕まえて一生懸命田んぼの中を引き回すんですが何しよるか分かりません。馬鍬引きんさい言うたら1頭だけ調教しております、1頭だけ引いてくれましたが、やっぱり「壬生の花田植」や、「安の花田植」やらいろいろ花田植が復活して、今全部後ろから手綱で動いてくれるというふうに、農家の方も牛を調教するのも大変なんですけれども、最低1か月は掛かりますからね。大変なんですけれども、出番が多くなって、一生懸命調教しております。この代の掻き方もいろいろありまして、昔、「安の花田植」ではコンクールをやっていて点数付けたりして、表彰したりしていたらしい。
安田女子大学の学生さんたちが6年ぐらい前から、早乙女として出てくれます。それまでは皆、年配ばかりだったんですが、張り合いがあります。采振りというのは、「安の花田植」には子供が出てやるんですけれども、よその花田植は子供が出ない、大体。子供が采を振って元気付ける。花田植をするのに人、金、物、場所とか要りますけれども、人については安地域6学区の社協が3か月に1度、情報交換会をやって、その後、1,000円会費で懇親会というのを積み重ねておりますので、各学区の各種団体が動員されまして、受け持ちを持って400名から500名がスタッフとして携わります。その弁当等は炊き出し班が準備してくれます。いざというときにはそういうのが、防災なんかの時には役に立つというふうに思っています。
本編が54分の「誰もそなたもご苦労様よ」という映画を作りました。青原先生と言ってドキュメンタリー作品の映画監督をやっておられる方に一生懸命作っていただいて、歴史とかそれらを含めて編集していただきましたので、54分間があっという間に見終わるというぐらい、立派なものを作っていただきました。おかげで現在200本ぐらいDVDが売れております。1,000円で売っています。
映画でない部分について御説明しますが、さっき言いかけたのは、喜左衛門と言う豪農がおって、9町8反の湿田、湿田というのは安川より田んぼが低かったということですね、だから船を浮かべて出発せにゃいけんような場所です。今の安佐中学校からアストラムラインの毘沙門台駅、あの辺りから始まりました。そういう450年ぐらい前の戦国時代から、だんだん人を雇ってやる、雇われて来る者も着飾って来たり、牛も着飾ったりして田植えを始めた。これが「安の花田植」の原点だそうです。やがて、そういうのを今度は見に来るお客さんが増えたりしたわけですね。安川の土手が交通整理をせんといけんというような時代があって、江戸時代から花田植形式の、約200年前ぐらい前から、会場を造って。大きな花田植としては、大名観覧の花田植とか、それから日清戦争の凱旋祝賀大花田植とか、それから、高木幹吾さんという広島市安村の初代の村長さんの還暦祝いの大花田植。これが大体、来賓が500名というぐらいで、観衆が何万人というのがあったり。そういう大きな花田植が節目節目で行われている。それから野村某(なにがし)と言うお医者さんも、そういう花田植をたくさんされて、泊りがけで見に来られるとか、遠くは九州とか東北からも、「安の花田植」は名が伝わったというふうに、安の郷土史に書いてあります。
それで、昭和34年に長楽寺の観音田でやったのを最後に、農業の近代化とそれから農耕牛がいなくなってきた、というようなことで自然にできなくなりました。しかし、平成15年、何とか復活できんかなということで、安の花田植保存会を設立して、幸いにも「安の花田植唄」の録音テープと楽譜などが見つかりまして、それを基に所作はお年寄りに思い出していただいて完成した。ということで、平成18年に花田植を田んぼでやろうではないかということで実行委員会を立ち上げました。
そうは言っても何もない。小学校の倉庫を探したら、47年前にやった早乙女の衣装がありました。あとは余り大したものはないんですね、太鼓もないし、笠もないしということなんですが。初めに200万円集めてやろうやと提案したら、それはちょっと無理だと言う人がほとんどでね。そうは言っても田んぼで一度とにかくやろうやということで、200万円の予算は80万円ぐらい、町内会・自治会から1世帯当たり50円頑張ってもらえれば、皆さんに迷惑掛けずにできるんじゃないかということで何とか始めました。おかげで太鼓なんかは建築用のコンパネを胴に利用して、それにシートをかぶせて締め上げて、叩いてもボンボンいうぐらいの音が出るのでやりました。でもその太鼓を叩く正規の寸法にしたら30分も抱えておれんというのでね、刻んで小さくしてやりました。そんなことでとにかく第1回が開催できましたが、「安の花田植」を知らない若い世代、よその地域から安へ住まれた人たち、この人たちが、想像以上の迫力と先祖が作り上げた郷土芸能というのは素晴らしい、圧倒された、というふうに非常に好評を頂きまして、それで結果的には80万円ぐらいでやろうと思っていたんだけども、47年ぶりにやるんだからと言って、昔を懐かしむ人たちが5万円持ってきたりというようなことで、結局200万円以上集まりまして、80万円は次年度に繰り越すということで、質素な予算の中でやり遂げました。幸いにもそういうことで2年目からもやらにゃいかんというようなことで再現をしてきました。ちなみに、第1回の時は3,500人ぐらいのお客さんが集まってくださいました。それで企業等にカンパをお願いしたのは第1回と第10回の記念すべき大会だけです。あとは町内会・自治会が負担できる範囲内、1世帯50円というのを目安に、無理のない範囲で出すという形で、80万円程度の予算で9回までは実施しました。
ひと・まちネットワーク、正式には広島市文化財団、これが公民館の管理団体ですが、「大朝飾り牛保存会」から借りる牛の代金、25万円を出していただきました。これにはずいぶん助かっております。そういうことで文章の中にないことを言いますけれども、初めは、田んぼが5,6年休耕田になっていたので、草が生えていたのをみな刈払機で刈って、耕運機を入れて水を引いて代を掻けば田んぼになりましたけれども、そんなふうに手を加えました。
それから再現までの苦労は、さっきもお金のこととか言いましたけれども、10年目の時に、今度はまたこれから10年、20年先、さらには継続していただきたいということで、地域テーマ募金というのを利用して備品等のテコ入れをしました。それで法被を作ったり、ロゴマークを作ったり、大幟旗を作ったり、小さい幟旗を191本作ったり、というのを昨年実施しました。それと大きなのは、後世に伝えるための記録映画を作ろうということで、54分の「誰もそなたもご苦労様よ」、これは花田植唄の中で最後の方にそういう文句が出てくるんですが、それを題名にして映画を作って後世に伝えようとしました。
人については、安小学校区、1学区であったのが、人口が増えて、上安、安北、安西、安東、毘沙門と合わせた6小学校区に増ふえました。公民館は、安と上安、安北、安西の4小学校区で1公民館、安東と毘沙門の2小学校区で1公民館と、地域に二つ公民館があります。人については、安田女子大学だとかあるいは青年団という組織もありますし、それから地元の企業からも協力させてほしいというようなことがあって、年寄りが多いんですけれども、若い人が自分たちの力で継承していただくというのは、確保できるのではないかなというふうに思っております。
あとは、県内各地で開催されている花田植ですね。壬生の花田植事務局等とも連絡を取ったり情報交換をしています。来年は「安の花田植」に来てもらい、あそこには花田舞太郎(はなだもうたろう)というキャラクターの着ぐるみがいて、人気があるんだそうです、これにテントを一張り用意しますので、「壬生の花田植」もPRしてください、とは言ったんですが、「壬生の花田植」は6月の第1日曜日、うちは第2日曜日で、広島県の花田植で最後なんですね、だけどいろんな形で情報交換したり、事務局同士で会ったりして、いろいろ話をしております。そのようなつながりは太くしていけると思うんですけれども、一番問題はですね、安地域がアストラムライン沿いでどんどん田んぼがつぶされて、アパート等になりつつあるということで、なかなか、昔は田んぼさえあれば花田植できていたんですけれども、今は田んぼが無けにゃいけんし、早乙女やスタッフが着替えをする場所、集会所みたいな所もいるし、お客さんからもどこに車を停められるかと聞かれるから、駐車場もある程度近くに欲しいし、と言ってたら、だんだん場所が無くなってくるという懸念を持っているんですよ。それで、安公民館の隣に3反ほどの農地があって、果樹が植えられているんですが、その土地の所有者も含めて、今農業しておられる方が皆、60代後半、70代が中心で、私が立場を変えて見ても、将来子供たちは田んぼは作らないだろうから、大きな田んぼは何とかお父さんしといてよっていうのが各家庭の実情だと思うんですけど。だから今も安東公民館の隣の田んぼもですね、今の代で、後は私立保育園にしようというような動きがあります。保育園の話が出たついでに、そのすぐ上に、安東幼稚園があったんですが、3年前に閉鎖されたんです。そこは認定こども園になるんだという話は聞いとったが、活用されていない。だから早く保育園か何かにしてもらったら、今の田んぼでもう10年ぐらい花田植ができるんかなと思ったり、さっき話をした安公民館隣りの3反の土地も、私らが管理するから貸してほしいというアプローチをしていたんですが、自分も年だから税理士に相談したら、もう売ってしまう方がいいだろうと言っていたのでその方向でと言われた。まだ売れてはいないのでそのままで残っていますが、行政の方でいろいろ検討していってもらったら助かるなと思います。というのが、安公民館も避難所に昨年から指定されたんですよ。安北の方は土砂災害が起きた緑井の方と一緒でみな山を背負っている。安北小学校区に住む人は、自分たちは土砂が下りてくるのに、上の方にある小学校には避難して行かれない、安へ向いて降りるから安小学校に避難させてほしいと言うので、そういうときはお互いに助け合いましょうというのは、6学区社協で情報交換しよるからコミュニケーションできておりますけれども。そういうふうに避難所は小学校ということに大体決められていますけれども、なかなかその小学校もどうかなというところがあると思います。幸い今言った安公民館も避難所になったけれども、隣に空き地があるので、これは4小学校区で安西の方から3km以上ある所のテリトリーの中の公民館ですので、やっぱり車で来なければ日常の活動もちょっと難しいというような所だから、今は20何台しか車が止められないから、そこで、隣の土地を平常は公民館の駐車場にしたり、観覧席にしてから花田植をしたり、あとは子供に農業体験をさせるとかね。今までもやってたんですけれどね、刈取りしたりして最後はしめ縄作って、むすび作って食べるとか。将来にわたる会場の確保ができれば、そんなこともまちの中で継続していくんじゃないかなと思っています。ありがとうございました。
司会
ありがとうございます。
続きまして、井原郷土史研究会の佐々木様、お願いします。
井原郷土史研究会会長
今日は井原の歴史とまちづくりということについて、お話させていただきます。
今日お話することは七つです。まず1として、井原とはどんなところか。2として、井原のにぎわい資源、あえてにぎわい資源と言いますが、見所とか史跡とか文化財とかというものです。3,井原郷土史研究会の活動、4は近隣郷土史会との連携ということで、5として、てくてく中郡(なかごおり)古道プロジェクトとの連携のことを話します。6として、これから取り組んでいくこと、本日提言したいこと、最後に7として、中郡関連古文書を読むということで、広島におられる方は、この古文書の存在は是非知っておいてほしい。広島という地名が初めて出てくる文書についてお話したいと思います。
井原とはどんなところか。これは広島市の地図ですが、安佐北区は広島市の一番北東です。隣が安芸高田市ですね。広島からJR芸備線で約1時間、人口1,200人、世帯数420軒、高齢化率はなんと47%ということで、芸備線の駅名は井原市駅ということになっております。
高い山が二つありまして、南北に。荒谷山と神の倉山というのがあります。それぞれから下を見下ろした、同じ所を見ていますが、景色がこんなに違います。井原というのは今から1,000年ぐらい前の古文書にも、もう既に出ておりますから、早くからそういう独立した行政区だったということが伺えます。
これは平地の写真ですね。左の奥が神ノ倉山。その尾根伝いにずっときますと、山は少し低いですが、井原氏の拠点であった鍋谷城というのがあります。1300年の前半に、南北朝時代、高師直(こうのもろなお)という大変偉い人がおりまして、その一族がこの地に来まして井原と名乗ったということです。以来250年間井原に在籍したということです。それからさらに200年後ぐらいですね。1500年の前半に、後に中国地方を統一する毛利氏の傘下に入りました。大変緊密な関係になっていきまして、それは毛利元就の一番末の妹がこの井原に輿入れしたということから始まっております。戦国時代末期になりますが、毛利輝元は吉田郡山と広島を結ぶ中郡道を主要路として重視して、特に井原氏にはその整備を命じました。井原は中郡と広島とのちょうど中間点にありまして、交通上極めて重要な地域であったようです。この写真の、今写真を撮っている所が中郡です。
これは太田川の支流の三篠川です。画面の奥が広島方面になります。この三篠川筋の水運が開通するのが、中郡道開通から約100年後、ちなみに1690年ぐらいになります。ですから、江戸時代に入り100年ぐらい経ちますと、陸上も水上交通も発達したということです。
これは毛利輝元が井原氏に対して送った「中郡道を普請せよ」という書状です。これはパソコンで起こしたもので原本ではございませんけれどね。これを最初からちょっと読み解きますと、「念を入れて申します。中郡から佐東への往返本道普請のことですが、しかと申し付けられましたよ。そのためにこの者を向かわせますので、油断なくやってくださいよ。細かいことはこの者に含めてあります。どうぞよろしく。」と、これから中郡道の普請が始まったということです。
井原のにぎわい資源、何と言っても神ノ倉山。先ほど二つの高い山があると言いましたが、その一つの神ノ倉山ですね。春は花、秋は紅葉ということで、大変自然豊かな公園です。全国屈指のハンググライダー、パラグライダーの発着場があるんですね。そのようなことで年間7,8,000人が訪れます。問題もあります。私有の公園であるために、維持管理に大変苦慮しております。
もう一つの荒谷山ですね。雲海・日の出・日の入りを求め、写真愛好家に大変人気です。ハンググライダーとパラグライダーのテイクオフ場もあります。
スカイスポーツ、上の方がハンググライダー、右下の方がパラグライダーですね。体を伸ばして乗る方がハンググライダー、座るようにしてパラシュートに座るようにして乗るのがパラグライダーです。左は、空からサンタがやってくる、年末のクリスマスのシーズンになるとこういう催しが行われております。このように、全国屈指のハンググライダー、パラグライダーの発着場があるということで、都市圏から1時間で発着場に来られる所は全国探してもここしかないということであります。そういう意味では大変貴重なものです。
魅力発見の道。これは中世の山城遺構と神ノ倉山の見晴らし満喫コース。この辺を一つにしたコースがきれいに整備されております。右側の方からずっと鍋谷城の方から上がって、神ノ倉の頂上を通って北田城というのがありますが、そちらの方に下りるコースですね。
この写真のように中世の道がそっくりそのまま残ります。井原市駅から4,500m行くとすぐこのような道になります。こういう、今は大八車は通りませんが、下の図は両方に石垣があってずっと道が向こうに伸びているのが分かります。
これは鍋谷城です。これは井原氏の拠点となる山城ということで、ここに250年間井原氏が居りました。縄張り図は、山の上からずっと切り開いていって、周りに台を造って、横に堀を造って、防御施設を造るということですね。これは山の麓には領主の館とか墓所とか菩提寺とかそういうものがあります。御存知のように山城というのは居住の場所ではありませんから、居住の場所は山の麓にある。いざというときに山に上がって戦う、防御施設としての山があるということでございます。
井原市の市街です。昔から牛の市があったために大変早くから市がありました。明治末期には井原百軒と言われておりましたけれども、大正4年に井原市駅ができまして、さらに市街地は拡大して白木町一の市街地を形成するに至りました。今でも町屋のただずまいが見られます。
塚が原の古墳群。これは井原にある古墳ですが、白木町史には全部で80余り古墳がありますが、そのうちの60が井原に集まっております。なぜかと言いますと、やはり早くから人が住み付いたということが分かると思います。
これは駅前にある看板です。魅力発見の道3コースがきれいに整備されております。一つは先ほど申しました神ノ倉山の方ですね。一つは荒谷山に行く道。もう一つは新宮神社の方に行く道。この3ルートが史跡や文化財の説明版も整備されております。
井原郷土史研究会の活動に移ります。設立は昭和59年3月ということで、会員数は今70名おります。主な行事等は地区探訪とか日帰り探訪とか一泊二日探訪、いろいろな地区の歴史の研究。近隣の史跡などの研究などもやっております。ふるさと井原という会誌、これは年1回作っております。現在、24号発行しておりますから、24年続いて「ふるさと井原」を発刊しております。
この写真は地区探訪の一場面です。次の写真、これまで発行した刊行物は、「ふるさといばらの物語」とか、「ふるさと井原の方言集」とか。それから最近喜ばれましたのが、平成24年にやりました終戦前後の井原市の商店街図というのを作りました。これは地区内外から大変喜ばれました。白木中学校の歴史勉強会。これは去年の9月にやったものですが、全校生徒がよく聞いてくれました。
近隣郷土史会との連携ということで、てくてく中郡古道プロジェクトとの連携についてお話します。平成23年から三篠川流域の郷土史会が連携して、プロジェクトを立ち上げました。地域起こしを目指して取組策を協議しながら実行に移してきました。井原、高南、三田、狩留家、深川、落合、口田、七つの郷土史会が連携して、てくてく中郡古道プロジェクトを立ち上げました。
エコツーリズム。エコというのはエコロジーですね。23年度から毎年3回以上エコツーリズムを実施しております。上の写真は井原ですね。下の写真二つは志屋地区の田んぼ行事を撮っております。
中郡古道歴史講演会。これは24年度から年1回やっております。その時の光景です。
24年度、三篠川沿線の中郡古道散策地図を5万部作成しました。115の企業の広告協賛を受けてかなりお金がうまく集められました。各方面には配っているところです。この地図は井原、高南で1冊、あと落合・口田、三田、狩小川、深川、それぞれに分けて作っており、この5冊が1セットになります。
フォトコンテスト。これは25年度から毎年1回、中郡古道の見所、ポイントを撮影したフォトコンテストを実施しております。入賞作品は市内各公民館で持ち回り展示しております。
次は、「広島とりっ歩」ガイドマップですね。26年度、広島市経済観光局作成の「広島とりっ歩」に主要コースの一つとして掲載されました。これには狩留家地区のコースと、井原の神ノ倉山コースが載っております。
夢街道ルネサンスの冊子ですね。26年度、国土交通省中国地方整備局の主導する、「歴史や文化を今に伝える中国地方の37番目の街道」として夢街道ルネサンスに認定掲載されました。そのレリーフがここにあります。これは狩留家駅前に設置してあります。次、てくてく中郡古道プロジェクトは、発足当初から地域起こし推進課の御指導と御支援をいただきまして、区の魅力向上推進補助事業を中心に活用させていただいたものでございます。
これから取り組んでいくこと。これは井原郷土史会独自の取組と、てくてく中郡古道プロジェクトとコラボして取り組む二つに分けて書きました。
まず一つ目、井原地区内の来訪者に柔軟に対応できるよう、案内説明要員の養成を急ぐということ。2,3年前から年間に200人の来訪者があるようになりました。説明を要する来訪者ですね。これはてくてく中郡古道プロジェクトとコラボしてから来訪者が増えたように思います。先日の研究会の総会で、説明員を5人に増員して対応するということで決定いたしました。先々週ですが広島から80人がお出でになりましたね。80人を1人で案内しますと大変ですよね。最後尾が追い付いてくるまでに10分ぐらい掛かりますね。そこから説明してまた列が長くなります。人をたくさん付けて、班別にして効率のいい案内をするように努めたいと思います。
二つ目は、来訪者の最小限の利便性を考慮して、コース発着点に駐車場及びトイレを確保するということです。これについては、広島市の御配慮により駐車場を今年の6月頃には設置できる予定であります。トイレの方はちょっと離れていますが、もう少しそこを使うということにしたいと思います。
てくてく中郡古道プロジェクトとしての取組は、3から7です。3,駅前看板、史跡説明版のリニューアル及び増設。要は来訪者に優しく分かりやすく説明できる看板を設置する。4,フォトコンテスト・エコツーリズム・歴史講演会の継続実施。5,中郡古道散策地図について安芸高田市への働き掛けを強化して、吉田郡山までの完成を目指すことにより、活動エリアの拡大を目指す。6,中郡古道散策地図を積極的に配布し、地域のにぎわい資源を広くPRする。それはフォトコンテスト会場とかエコツーリズムの参加者に対して、うまく配布する。3から6についてはこれまでやってきたことを引き続いて継続的に実施するということでございます。7については夢街道ルネサンス認定の他地区との交流による地域の活性化ということですが、これはこれからちょっとその辺は探っていきたいと思っております。これについては国土交通省中国地方整備局の後押しをお願いしたいと思います。
1番目、地域のにぎわいづくりは、まず地域を知ること、見方を学ぶことということで、要はまず自分たちが、例えば山城について言えば、中世の城と近世の城の違いとか、そういう見方を教えて差し上げるということで、まず自分たちでよく勉強して、皆さんにその辺を教えて差し上げるというところから始まるのではないかと思います。この間、呉からお出でになったお客さんが、これから山に登りますと言いましたら、「あんな所にまた行くの。来なければよかった。」というようなことも言われていました。ただ、足元を見ればハイヒールを履いておられましてね、これは旅行会社の説明が十分ではなかったのかもしれませんが、そういうこともありました。ただ山に上がって下りてから、大変喜んでいただきまして「ありがとうございました。」とお礼の言葉も言っていただきました。そういうこともありますので、是非その辺はまず自分たちがよく勉強してそういうことをする必要があるのではないかと思います。
2番目は、一地域だけが光ってもだめだと。地域と地域が連携してこそにぎわいの広がりが生まれ、広島市全体のまちづくりにつながるということで、これから安芸高田市に連携を働き掛け、中郡古道散策地図の完成と活動エリアを拡大したいということについて、これは地域起こし推進課の御指導と御支援をいただき、取り組んでまいります。
3番目、井原地区を広島市民が広く楽しめる「自然と歴史の体験・交流エリア」として位置付け、歴史探訪コースを始め、スカイスポーツ、ハイキング・トレッキングコースなどのにぎわい資源を生かした活動を展開していきたい。将来的には、大河原廃川敷を活用して、パークゴルフ公認コースの整備や、地域の歴史・文化・自然を生かした多目的にぎわい拠点、駐車場とかトイレとか休憩所、こういうものも必要と考えております。引き続き、広島市環境局、安佐北区地域起こし推進課、農林建設部の御指導と御支援をいただきますようにお願いいたします。
古文書の説明は時間の関係で割愛します。ここまでで説明を終わらせていただきます。
司会
ありがとうございました。
それでは、茶道上田宗箇流家元上田様より、上田流和風堂の取組とともに、全市的な視点からも、御意見等をいただければと思います。よろしくお願いいたします。
上田宗箇流家元
私は昭和20年生まれですが、被爆後4,50年ぐらいは歴史や文化はなかなか語られることが少ない時代がずっと続いたと思います。みんなが精一杯生きたわけですから。実感としまして私がこういう伝統文化の仕事しているものですから、20年ぐらい前から、歴史や伝統文化の話が徐々に出だして、被爆70年が去年でしたけれども。本当に時代が変わりつつあるというのが実感であります。今から10年ぐらいがとても大事だなというふうに思っております。
特に中心地が原爆で壊滅的な打撃を受けたものですから、戦後広島に行ったら仕事があるということで、旧市内に住んでおられる方の80%以上は、戦後広島に移られた方ということも、やはり一つの大きな要因だったと思うんですけれども、そういった人たちの子供、孫、私たちは子供の代になりますが、孫は大体30代から40代、この人たちは3代目なんですね。そういう人たちは、やっぱり話をしていて、本当に広島大好きで、地元広島っ子で愛着を持っておられます。そういうことも今言ったようなことに関わっているのであろうというふうに思いますので、今から具体的にどうそれを展開していくかという点では、自分自身でもそう思っていますけども、今から10年の方向は大きいな、ようやくそういう時代が来たなというふうな実感であります。
広島城ができて昭和20年までの歴史をどう内外の人たちに見てもらうかということを私も思いますし、皆さんもそういう認識の方々が増えているように思います。そういう点で、先ほども市長さんもおっしゃっていましたけれども、そこに住んでいる人たちが自分たちのまちに対して誇りを持つ、自信を持つということが何よりも大事であります。すぐ東京と言われるとなんかひるむような気持ちになったんでは、本当の意味での愛着のある強いまちにはなれない。それがあって初めて都市の格だとか、そういう入口も出口も郷土愛と、市長がおっしゃっていましたけれども、そのとおりだというふうに思います。やはりどこまで自分たちがこのまちに対して誇りと自信が持てるのかということをどうしていくのかと、それには、広島の歴史・文化の掘り起こしをして、そうした時代の日常の姿を、広島の日々の日常の中に取り戻すことが大事だと思います。日々の日常の中で、もちろん一つの形が祭りなんでしょうが、日々の日常の姿をどういうふうに我々は今からそれぞれの部分で取り戻していくのか。それはきっと平和文化都市と結果的にはつながっていくんだろうと思いますけれども、日々を我々はどう過ごすのかという姿、そうした日常の過ごし方を、それぞれの方がどういうふうな形にもっていくのか、また祭りも作れるのかというような視点がいるんだろうなと思います。そこがやはり広島の場合特に、被爆後70年、もうあと30年で100年ですけれども、我々は大変悲惨な出来事があって、それによって世界中に知られたわけでありますが、それを少しでも早く、そういう状況の中で、日々の暮らしの中で先ほどから申しているようなことが、どうやったらできるんだろうかということをそれぞれの分野でやっていかなければいけないんだというふうに、心底から思っております。
私どもは公益財団法人上田流和風堂という財団でございますけれども、その目的として二つうたっています。一つは、桃山武将の上田宗箇が興した茶道上田宗箇流を継承して発展させていくこと。もう一つは、城下町広島の文化の継承をどうするのか。というこの二つの目的を掲げています。
1619年8月9日に浅野長晟(あさのながあきら)が広島城に入りました。私どもの先祖もそれと共に入城いたしました。3年後が入城400年でございます。それから幕末まで250年間の城下町文化をどのように次代に引き継げるのかというそういう企画を今からいろいろな所でやっていくことが、特に広島では大事なのではないだろうかと思っています。城下町広島と言いますと、すぐ毛利輝元となります。もちろん輝元も大事なんですけれども、広島城を築いた人と、その後250年間この地域を治めいろいろなことを興し、あるいは伝えていった浅野治世の歴史もとても大事だと思います。
そういう点では、例えば、全国的に、ざっと言いますと、加藤清正、熊本城を築いて大変有名です。その後、細川家が熊本藩主となりました。熊本では、その両方を大切にして、大変大きな、いろんな魅力的なことを考えながら、多くの観光客の方々がお越しになっている。中国地方で言えば、松江城を築いたのは堀尾吉晴で、戦国武将として名のある人ですけれども、その後ずっと松平家が治世しました。特に松平治郷(まつだいらはるさと)、不昧(ふまい)公は茶人としても名がありました。松江城はここ最近になって国宝になりましたけれども、ここも両方を実にうまく活用しながら、大切にしながら地域起こしをしていらっしゃる。そういう点では、広島では、やはり戦後、浅野治世250年間の部分のいろいろなことに目を向けられることが余りにも少なかったのではないかという意識があります。それは、どうしても先ほど言ったような理由なんですけれども、そこをどう我々が実際問題に目を向けて、担い手としてどうしていくか。先ほどの西国街道のお話は正にそうだというふうに思っております。3年後の浅野家入城400年がそういう契機の一つになればいいがなというふうに思っています。我々自身もそれぞれ関連した方々にお願いし、お力添えを頂きながらやっていく、もちろん行政にもいろいろなことをお願いしながら、そういうパターンができていければいいがな、というふうに思っております。
一つ具体的なことを申し上げるんですけれども、広島城天守閣と二の丸のことでございます。私も広島城を管理する広島市文化財団の評議員をさせていただいたりしているものですから、広島城に一時は12,3万人しか入っていなかったのが、今20数万人、倍ぐらい入るようになりました。確かにそれは文化財団の御努力、あるいは時代、かと思うんですけれども、これが40万人、50万人というような状況になったときに、今あの広島城の天守閣でいいんであろうか。今の天守閣が再建されて60年近く経っているんです。私から言いますとかなり陳腐化している状況の中で、それが耐えられなくなったときどう対応するんだろうかなというふうに思います。と申しますのも、厳島神社が今、300万人から400万人ぐらい入っていますけれども、去年、宮島口まちづくり国際コンペというのが開催されて、私もその委員でしたけれども、将来600万人というふうな意識があり、そのために宮島口自体をどうしていくか、あるいは、以後、宮島の中もどうするかということになっていくんでしょうけれども、今後の時代背景を見ると、恐らく広島城にも今の倍ぐらいの人が入ってくるぐらいのことは考えて取り組まなければいけないのであろうなと、そう思って改めて天守閣を見ると、今のままでは具合が悪いし無理だろうなと率直に思っています。二の丸は再建されていいものができましたけれども、もう20年ぐらい、確か1994年でしたかね、再建されて大分経ちますけれども、ああいうものを含めてあの全体をどうするかということは大きな、広島城は今後の広島の都市の核みたいな一つですから、それはとても大事だろうなというふうに思っております。やはり城下町ですから、お城はシンボルになりますから、そこの分については今後、大いに皆さんで議論をして、皆さんにそういう関心を持っていただければいいがな、というふうに思っております。縮景園も今、大体20万人ちょっと入っています。あそこに40万人入るといったときには県立美術館とどう関わるかというようなことも、みんなそれぞれの所が関わってくるわけですけれども、恐らくそういう時代に、そう遠くないうちになるんであろうなという認識があるものですから、これだけ国際化と移動が激しくなってきた段階で、この国については避けられないことだろうなというふうに思っております。以上です。
司会
ありがとうございました。
皆さん、それぞれのお立場から、歴史・文化、そしてその継承に対する思いとこれらを現代に、また広島のまちに生かしていく取組を伺いました。
それでは、これより、意見交換に入らせていただきます。
その皮切りとして、御参加の皆さんから御紹介いただいた取組や、御意見、御提案について、市長から、御意見、御感想をいただければと思います。
意見交換
市長
それぞれの発表していただいたお話を、まちづくりという視点で分析というか見させていただきましたが、最後は上田さんから話にありましたように、祭りというものに特化したお話かなというふうにも見えました。西原さんと久保田さんのところもまた祭り方々、日常生活のまちの在り方にも関係する。そして山崎さんと佐々木さんはむしろ、日常の生業と言いますかね、そういった中での御提案というふうにも分析できるかなというふうに思ったわけです。
そしてそれぞれのお立場で言われていることが、言わばまちづくりという観点からいくと、それぞれその時代、時代において非常に栄えたというか自分たちのピークの時代を思い起こしながら今に大切さとか良いものを何とか取り戻せないかと、こういうことなんですけれども、それは循環すればどのお話もおおむね、興盛を極めた頃の社会状況。特に産業の在り方と関連しまして、合理性があったわけですね。そしてそれらの時代の変遷とともに、大切なものであったんだけれども、言わば関係する業の変遷に、事業とか産業とかそういう生業の変遷に伴って廃れてしまったけど、もう一辺大事にしてはと、そのことが今のまちに求められているのではないかというふうにも受け止められました。私はそれは間違いない、皆さんのそれぞれのお言葉から出てくる基本的な共通事項ですね。社会というのは直線型に発展していって、アメリカの西部開拓ではないけれども、どこかにまちをつくるけれども衰えたら西にどんどん移動していって、廃れたまちはほったらかすというふうな風土・文化が仮にあったとすると、我が日本はそういうことやってきたこともないし、やれない地形なんですね。ですから循環させるという、廻る中で、まちを大事にしていくという、そのためには、それぞれ時代時代で興盛を極めたものを後の時代に引き継いでいくというぐらいの意識を持ってまちづくりをやれたらなというふうに、どのお話にも感じたわけであります。
そういった中で、それぞれの視点で取り組んでおられること、行政としてどう関与するかというときには、いずれも今取り組まれていることを持続なり継続させる、ここなんですね。継続は力なりと言いますけれども、それを行政がどういうふうに支援できるかというか、皆さんと関係が付けられるかということなんですね。物事を継続するというのは、一定の活動を人が支えます。人が支えるためにはその人がその社会システムの中で維持するだけの言わばお金の確保も要りましょう、そしていろんな行事をするための道具とか機材の維持、場所的なものの維持、要するにそれを執り行うために必要となる物を維持管理して、そして人がそれをこなせるような状況を作るということなんですね。今はそれぞれ皆さん、ここで発表された方は御自分の相当の生活というか、人生を割いてやっていただいていますけれども、そういうことができる方をもう少し増やさないと、これは活力にならないんですね。それを増やすために、増やせるように仕掛けるためにどうするかということが多分行政の課題で、できれば先ほどの最後の辺りのお話にもありましたように、地域と地域のつながりというような、地域の集合体としてみんなの価値観を共有して、これを大事にしようと、そのために維持する仕掛けをどうする、ありていに言えばお金をどう確保するかということをきちんと広島市という基礎自治体と、しっかり握手して方法を編み出すということをやりたいなと思うんですね。そして、今までややもすれば典型的には、西原さんや久保田さんにおかれましては、宗教色と絡むからなかなか行政が支援できないのではないかと御心配になりましてね。この点については今の日本の憲法下で宗教と政治の分離というようなことを言っていますけれども、元々憲法を作った時の考えから言うと、宗教を使って、宗教によって政治を壟断(ろうだん)するというのは良くないというのは戦前の経験からですから。この皆さんがされていることは発端が宗教であっても、今や地元の文化とか風土とかそういうものになっているということが言えれば。そのポイントはですね、その活動が言わばクローズドのままか、排他性があるかどうかですね。どなたも迎える、特定の価値観を持った人でないとやらないとかいうものではなく、受容できる。受容性があるとか、排他性がないというふうな活動形態にしっかりしていただいて、そしてそれはその地域の文化、風土だということになれば、行政としてもいろんな支援ができるのではないかと。そういう位置付けをしっかりしていただいて、活動を続ける中で行政とのつながりをしっかり持っていただくというのはどうかなというふうに思うんですね。
そして、もう一つ、そういった歴史とか文化・伝統を大事にするところにお金を投入してもいいよという、そういうまちにするための大きな仕掛けとして、私は最終的には議会で議決してもらってお金を出すようにしなければいけないので、その辺のところの価値観を変えていかなければいけないと思うんですけれども、これについてはこういうふうに思っているんですね。広島というまちが原爆投下を受けて、廃墟と化したと、そうすると廃墟と化したときに、このまち自身がひょっとすると明治期以降の言わば軍都として教育をやる都市として一生懸命やってきたけれども、そのために戦争で敗けてこんなになったのだから、少なくとも明治・大正・昭和の一連の歴史はちょっと1回遮断して、それ以後のことを一生懸命考えようというふうなまちだったんではないか。ここ4,50年そうだったんじゃないかというふうに受け止めたんですね。ところが、もう一つ戻ると、明治期に至る以前の江戸期の文化はですね、実は明治維新でできた政府が一生懸命否定した文化なんですね。つまり統治システムを幕藩体制からいわゆる藩閥政治に変えるために江戸期の文化をほとんど否定していったんです。そして産業化するということをした。だから広島は言わば二重否定のまちなんです。直近の明治期の文化を軍都ということで否定し、明治維新の政府が否定した江戸期の文化までも一緒に否定したので、何に頼っていいか分からないから、戦後の原爆が落ちたところばかり言っていたんですね。今出ている議論はどうでしょう。直近の明治期以降のことはちょっと置いても、江戸期の、言わば戦国時代という戦争していた後から平和になったこの日本を260,70年治めたあの平和な成熟した社会の統治システムがあって、その頃の時代にそれ以前の戦国期の、平安末期ぐらいの各地域の文化とか、そこらにみんな根元があるんですよね。そして、その当時の交通手段と言えば、陸路が無いから水路を利用して水の道をしっかりやっていたじゃないかと。そして日本の伝統を汲んだ産業もあったし、そして花田植も、広島というまちに入ってくる言わば街道沿いの農業を中心とした集落の中でのしっかりしたお祭り行事を今に残したいとか、古道などもそうですよね、戦国時代末期の毛利氏がどんどん平定していく上で活用した街道沿いのまちが残している様々な資産を使うと。それらを明確に意識して、大事にして、歴史上つないでこのまちづくりをするということに今以上に行政として市民から頂いたお金を掛けていいんだと。そして、それらを皆さんが努力した上で、維持するときに何がしかお助けするためのお金は出していいんだということをきちんとやれば、もっともっと手厚い支援ができるようなことになるのではないかと、それを私は言い続けます。そしてその中で、皆さんがやられている先ほどの例えば水田の確保とか、今ここで思いつきでいいかどうか分かりませんよ。例えばアストラムを使って、循環型の交通体系になって、その交通を維持する会社がこの沿線の行事を自分たちの会社の行事として位置付けて、そこの資産としてそういう土地を持って、そこで地元の皆さんがそういう行事をするんだったら最低限必要な道具なんかは自分たちで、会社の地域貢献の一環としてそういう事業やるんだというふうに位置付けて、法人としてそれを維持するとしたらどうでしょう、長く維持できるんですよね。
井原も、JRも民営化しましたからね、その会社と組んで地域の観光施設などを会社と一体となって観光客を呼ぶための形態にする。それに最小限必要な施設群なんかを行政と一緒になって地域に用意しておく。そして観光客を列車を使って呼び込むとか。いうふうなことを、どうでしょう、考えていく中で、それぞれ地元として、そこで関連の仕事ができ、むしろ井原にも定住者がこれから増えないとお客ばっかり来ても仕方ないですよね、だからその関連産業を育成するという少し大がかりなセッティングにして、それらをどうしていくかと。そして安芸高田市とも仲良くしながらやるとかというそういう目で少し加工していけば、まちづくりができるんじゃないかとかですね。
雁木組はですね、今、2艇で運行されていますけれども、もう少し、水運ということを、あるいは観光客にしっかり来てもらい、例えば今バス路線を循環型にして市内を回すことをやっていますけれども、今度は水の道ということで市内の水の都の水運を利用しての業として、NPOで立ち上げられていますから、そこから業にする方針なのかどうなのかというのはちょっとありますけれども、うまく持続できる形態を作るための取組ということを少し考えていただくというようなことがあっていいかなというように思うわけですね。
そして、仏だん通りの方は、今やられている取組の中で、地域の企業協賛を得て、お祭り的な要素でもう少し皆さんと。それと、通りなどは公共の道ですからね、それらを整備して人がもっと歩きやすい道に造り直していくというのは行政の仕事であります。そういったところでコラボしながら取り組むとかいうことをやっていただければ随分違うんですね。
お城に関しては、言われたように歴史を大事にすると。市の中心部の歴史的な建物ですから、名古屋みたいに国の宝になるみたいないろいろな木を集めてやるという大げさなこと、多分そこまではできないですけれども、今ある資産を活用して、お城の周辺の整備をしながら、そこで皆さんがもう少し来やすく、そこで滞留したとしても違和感のない、広島の歴史が感じられるような仕掛けを確実にやっていくということを今からやっていく必要があると思います。その際には、一つ例えば、広島のお城の在り方を、合意を得る上で熊本城のような資産価値あるものにしてやっていくというようなことをやるかどうかということをまず最初にやるんですね。そして、そちらに向けて何ができるかということを皆で協力しましょうとかという、そういう議論をまずやれたらなというふうに思ったりしました。以上が、今段階の私のコメントにしたいと思います。
司会
ありがとうございました。ただいまの市長の発言と、御参加の皆さんからの御意見などを含めまして、皆さんから御意見や御質問等がありましたらお願いします。
新たな気づきや御提案、つけ加えたいことなど、どなたからでも結構ですので、自由に御発言いただければと思います。
安の花田植実行委員会委員長
「安の花田植」は、昔は広域的に人が来てくれていたんだけれども、今も近郊から来られたり、あるいは人伝に聞いた方、それから、壬生の花田植事務局に学芸員がおられるんですが、この方は神戸大学に在学中に広島でバスで行ける範囲の所で花田植があるというのをインターネットで見て来ましたと言って、去年、「壬生の花田植」でその人と名刺交換したら、寺尾さん、私、神戸から「安の花田植」を見に来て寺尾さんに会いましたよと言われた。熱心な方は神戸からでも来たりして、今、その方は「壬生の花田植」の学芸員をされています。その方たちとも緊密な連絡が取れているのでね、さっきも言ったような「壬生の花田植」と連携したこともやりたいなということ。もう一つは、4年ぐらい前にある大学の先生が、「安の花田植」は市の文化財になっていないと、神楽は文化財になっているのがたくさんあるんだから、ちょっと力になってあげようと言ってもらったんですがね、学会か何かあって東京に行かないといけなくなったんで、力になることができなくなったと言って、それきりになってしまったんですが。安だけのものではなく、やっぱり市の一つの財産としていろいろ御配慮願いたいかな、というようなのが地元の反省会の中で出てきておりますので、そのこともお願いしておきます。よろしくお願いします。
司会
ありがとうございました。そのほかにございませんでしょうか。
井原郷土史研究会会長
今、市長が言ってくださいましたJRを利用することですね。これは考えないといけないと思います。先ほどお話した中で駐車場の整備は何とか6月にやっていただけるというところまで行きましたけれども、ただ、これまでは井原市駅集合、井原市駅解散、駐車場はありません。でもすべて、駐車場はここでというつもりは今後一切ありません。必ず、JRも利用してもらい、三江線のように廃線の議論が出ないようにしたいと思っております。年寄りにとってJRは絶対必要なんですね。絶対無くしてはいけませんから、そういう思いを持ち続けてやっていきたいと思っております。それと定住者ですね。何とか地域のいい所をよく皆さんに知っていただいて、ちょっと遠いけどあの辺だったらいいかなと、土地も安いしと思っていただければいいかなと思っています。それと地域の空き家の情報とか、そういうのは常に集めて用意はしております。
司会
ありがとうございます。そのほか皆さん方の地域を越えたお話でも結構ですので広く御意見をいただければと思います。
広島仏だん通り活性化委員会事務局長
先ほどの宗教性の問題については我々も見つめていこう、常々考えていかなければいけないことだと思っております。御指摘ありがとうございました。
それと我々が今活動、その祭りということとは別に、「まちなか西国街道」ということでリーフレットを作って西国街道のことを分かりやすくして、どうにかならんかなということ、実は昨年のちょうど今ぐらいの時期に、猿猴橋さんの方から来年3月に猿猴橋の復元工事が竣工するので、関連して何か一緒にできないかというお話がまずあったということ。我々も西国街道をツールとして何とか活性化できないかということをいろいろ考えている中で、仏壇・仏具だけでは閉塞感がやっぱり、確かに出てくる。そうすると、もっと街道は長いんだから、例えば猿猴橋が竣工するなら、猿猴橋から本通り商店街までは西国街道が通っているわけですから、そういう、広域的と言いながら、まずはまちなかということで限定して、何かのろしを上げてみようということが発端となってリーフレットを作ってみたんですけど。ただ、今から将来的なこと考えると、西国街道沿いにはいわゆる町内会、商店街振興組合さんが混在する中で、温度差がどうしても出てくる。それを意見調整するということが正直言って我々だけではできない。ある程度形になってくるところまで、事務局というのを行政の方で見ていただいてですね、ある程度形になれば、実際に動き出すんだろうと思うんですけれども。要するに雛を、卵をふ化させるところまでは、インキュベーションじゃないですけれども、そういうところまでは行政に見ていただけないのかなという、一つの私の思いがございまして、御協力いただければというふうに思っております。
上田宗箇流家元
その関連ですけど、私は「まちなか西国街道」の活性化というのはとてもいいなと思います。東区役所と寺社が一生懸命やっている二葉の里の七福神巡りというのがありますよね。あれはある程度定着して、結構たくさんの人が移動されているんですよ。私が先ほど浅野家入城400年のお話をしましたけれども、例えば今の七福神巡りを何とか、例えば縮景園、広島城、平和記念公園というふうにね、そういうつながるルートと、「まちなか西国街道」のルートと、あるいはそのまま、今市長さんが提案されて皆さんを引っ張っていらっしゃいますけれども、それを岩国まで街道がずっと伸びていくとかですね、二重も三重もそういうルートがある。それでよそから来た人、確かに海外の人は歩くのが平気な人が多いですから、あるいはサイクリングもそうですし。そうすると泊まる人も増えてくるというふうなことで、この西国街道、とてもいいと思うんですけど、それが二重にも三重にもリンクしながら伝わっていくようなことは、本当はおっしゃるように行政がやっていただくといいがな、というふうに聞きながら思う。それは私も、今の七福神巡りから縮景園、広島城、できたら平和記念公園までというのが何かいい形にならないかなというのが頭の中にあるもんですからね、こういうのが二重三重にリンクできるといろいろな可能性が出てきますよね。できれば岩国まで行ければ、西国街道をずっと行けるわけですから。というふうに、私はこの件はものすごくいいなと、本当に思っているんです。パンフレット分かりやすいしね。それをつなげることを是非行政にやってほしいよね、そこは。
広島仏だん通り活性化委員会事務局長
ありがとうございます。
市長
行政に関しましては、今職員が一生懸命やってくれていましてね、西国街道を軸としたにぎわいづくり計画というのをやってくれています。それで広島駅から平和記念公園までの間を、キャッチワードとして歴史をつなぐ、にぎわいをつなぐ、そして人をつなぐぐらいのコンセプトを立てて、そこで観光資源を生かすための道づくりとか。いきなり大金掛けられませんから、まず整備をしながら、これが西国街道ですよということをやる。そうするとその道沿いの各商店街とか町内会の方もそれをやるために自分たちの取組として何ができるかとかね、そういう視点でやるような会合を作ってですね、ちょっとずつ皆さんを寄せていくというかね、そういうことがやれれば、どうでしょうね、先ほど言われていた点が少しでも解決するのではないでしょうか。
それから、今度、猿猴橋を復元しましたから、饒津神社からずっと、神社とお寺めぐりは、猿猴橋を渡って市中心部の西国街道に入りますから。東の方に行くと、実は府中とか海田の方に、船越などを含めて西国街道の歴史が残っているんですね。古い家並みがあったりするから、これを使えば近隣市町と一緒の事業ということで、200万人広島都市圏構想の中の自治体と共通の仕事ができるというふうに思っていましてね、それも仕掛けたい。それから岩国の方も200万人広島都市圏構想の自治体に入っていますからね、廿日市もつないで、部分部分でもこうやりながら、そういう夢をつなぎましょうというのは、一つの都市圏としての共通のツールと言いますかテーマになるような気がしています。うまく打ち出しながら、じっくりと。岩国の方は、むしろ私は宮島と海の道を早く、これをぐるっと回してもらいたい。そんなふうにぐるぐるとにかくこの地域内で多くの人が回れるように、回った所でそれぞれ歴史を愛でてこんなまちだったんだなということを実感していただくということを、言わば、まちの上部構造として作りたいんですよね。それができれば、その下の所でそれぞれの営みで一応生活できるというか、そういう事業が継続できるような仕掛けをきちんとできるんじゃないかなと思っていましてね。そういう方向に向けて、皆さんの協力が得られたら、というふうに思うんですけれどもね。
雁木組副理事長
西国街道の話が盛り上がっていますので、私は水の道という話が出てきてほっとしました。感想になりますけど、皆さんの話を聞いて楽しくなりまして、それぞれの地域でいろいろなことを考えられて私たちと同じように頑張っておられるということで、本当に頼もしく思いました。
西国街道、私たちは、先ほども見ていただきましたが、京橋の周辺でイベントをやるときには広島駅と八丁堀を結ぶ中間地点のにぎわいづくりをしましょうということも一つの目的だったわけで、京橋は西国街道沿いですので、何かありましたら、我々もお手伝いできることがありましたら呼んでいただければというふうに思っております。
それから水の道につきましては、我々の船は、海にはなかなか出ていかないんですけれども、川の道につきまして得意でして、いろいろな所へ出掛けてつないでいけるというのがありますので、是非御協力したいというふうに思っております。
それから、先ほど市長から、業として持続できるような形態を作ることを考えてはどうかというお話がありましたけれども、我々今、実は、続けていこうと思ったら自分たちで自立しなくてはいけないと思っておりまして、そのために100人を超える賛助会員の方、あるいは雁木メイトというのは新しい船を買うときに、自分たちのお金だけで買ったんではもったいないからということで、皆さんの御寄附も集めながら、オーナーになっていただこうというつもりで、あえて雁木メイトというのを募集したんですけれども、200名近くの方に御協力いただきまして、船を買う半分のお金はそれで出したんですけれども。そういったことで皆さんの御協力とか理解を得ながら何とか自立してできる運行をしていこうというふうに思っております。これをもう一歩進めていこうとしたら、もう少しフェーズが変わるんですね。今のやり方よりももうちょっと変わったやり方をしなくてはいけないということがありまして、ただ、いろいろなお話もあるんですけれども、なかなか船の事業というのはペイしないというのが定説になっておりまして、松江とですね、世界遺産航路辺りはなかなかいいですが、例えば大阪は単年度黒字と赤字が半々ぐらいですよと、だから親会社を入れないととてもやっていけませんとかですね、隅田川もそんな感じ、それから新潟もやっておられるんですけれども、これは単年度黒字になったことがない、というようなことで、なかなかその船というのはうまくペイしないところを、我々はNPO法人ということでそこは上手く舞いながらやっているということなんです。今後、もう少し情勢とか、我々のほうの体制が組めるようになれば、フェーズを上げていくということも考えていこうとは思っているんですけれども。今のところなかなか見出せないというのが実情でございます。我々は、陸と陸、海と川、水とまちをつなぐということでやっておりますので、何か御用命がございましたら是非協力したいというふうに思っております。
司会
ありがとうございました。そろそろ終了予定時刻となりましたので、最後に市長から、全体を通してのコメントをお願いしたいと思います。
市長
雁木組については、次のステージを狙うということも考えておられるのならば、例えば、船の運航だけの単体の事業としてでなく、どこか雁木のある所で大量に商売しておられたらそこでの飲食とかの企業体と何がしかのことをやるとか、それから公共交通との接続をしながら川・海をつなぐということをやる中で、地元の公共交通機関とうまく経営を接合させるような仕掛けにしてもらって、多少なりともそちらの負担の元でやれるような仕掛けにする。そこのところに単独であれであれば市の方もそういう事業を推進する何がしかの支援を考えるかなということでやる方法はないかとか思うんですけれどもね。それは私が思っておりますのは、公共交通機関が十分行き届かない所で、タクシーとかバスとかを運用して、交通不便者の方々を支援する公共交通というのはやっているんですよね。その公共交通の場合には、生活者を助けるためには支援は何がしたい、やろうということにしているんですけれども、これからのまちづくりをやっていく上で、地域毎で生活不便な方への支援ということにプラス、そのまちが観光と言いますか業として、そういう方々をしっかり呼び込んでまちとして展開するときに、道路を造る補助を出すんだったら、水の道なんかの航路なんかで、お金を利用者に安くする分、例えば費用負担をちゃんと支援する仕掛けをやる、でそれを認知して、当該地域の観光業としてのルートでやるというときにも、支援するような枠組みをこう組み替えてもらって、地域の公共交通の一環として認知するとかして、経営面での支援をするというふうな仕掛けをしながら、今言われた多面的なつながりをやっていく組織体とかというのを二重にできればですね、できなくはないんじゃないかとちょっと思ったりしましたんでね。そんな少し夢なんですけれども、それは今、市内の公共交通の組替えをしていますからね、そんなところでちょっと考えていただく余地がないかなと思っています。
そんなこともありまして、これからの夢が広がる話でありました。
今日は本当にいいお話を聞かせていただきましてありがとうございました。間違いなく自分自身、市長をやる限りは、歴史・文化というものを基軸に置いたまちづくりをこれからやるべきだし、それがこれからの多分日本における地方分権などをしっかりやっていく上で欠かせないコア・コンセプトだと思っています。そうしないと、人々が当座の利便性を享受するためだけということになれば、大都市で一番何でも揃って、新しい展開がされる所に行きたがる、当然ですね。デメリットがあったとしても、メリットを比較して実利があると。そうでない部分があって、それは、今じゃなくて過去のことをしっかり身に付けて、自分たちの将来展開をするいろいろな夢があるという、そのローカルな地域、ローカル色豊かな地域があってこそですね、そこに人は行き、日本全土はある程度、分権化したとすればバランスの取れた都市になると思うんですね。それは統治システムとして、分権システムなんですね。それをなかなか財政面でやれない日本ですけれども、政策面ではやらなくてはいけないとみんなが自覚し始めているんですね。それを先陣切って広島がちょっとずつでもやっておけば、(分権化に対応)できる。そのときの合言葉というか、その協調をしっかりやるのが、郷土愛です。そこの土地を本当に愛してね、大事にするということを皆さんがやっていっていただければ、それを子供が親の背中を見て、孫が更にそれを見る、そこで必ず地域がしっかりしたものになる。
この広島も何千年の歴史がある中でここまで来ているわけですから、ここで急に廃れるわけはないと思っていますので、それをしっかりしたものにしたい。別の言葉で言えば、自分たちのまちは自分たちでつくるということをしっかりやっていただく。それを行政としてしっかり受け止めて、行政と共にそれが長続きするシステムをどう作るかということをやっていきたいというふうに思っています。
以上、こういった会議を通じて、今申し上げたことを発信し続ける次第でありますので、受け止めていただいて、それぞれのアイデアをふんだんに出していただいて、やれるとこまでやってここが足りない、何とかしてくれということがあれば、どしどし我が市に言ってください。窓口は開いていますし、各区役所の中にそういう組織を作りましたので、そこと一体となって、そして近隣市町とも一緒になっていわゆる行政区域を越えて取り組むということをやっていきたいというふうに思っていますので、どうぞよろしくお願いします。ありがとうございました。
司会
ありがとうございました。
本日は、本日は皆さんに御意見、御提案また御議論をいただき、誠にありがとうございました。
この「車座談義」を機に、本市と御出席いただきました皆さん方との相互の連携がより一層図られ、テーマの実現に向けた取組がますます活発に展開されていくことを期待します。
それでは、これをもちまして、本日の「市政車座談義」を終了いたします。どうもありがとうございました。
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