京橋の復元

Xでポスト
フェイスブックでシェア
ラインでシェア

ページ番号1043480  更新日 2025年9月25日

印刷大きな文字で印刷

復元の取組について

京橋架設当時の姿
架設当時の京橋(田辺俊一郎撮影/広島市公文書館提供)

 本市では、かつて城下町の目抜き通りであった「西国街道」に架かる橋梁のうち、戦時中の金属類回収令により親柱等の装飾や高欄などの金属部を回収され、石造りとなった後に原爆の爆風に耐えた3つの「被爆橋」(元安橋・京橋・猿猴橋)の復元に取り組んでいます。
 「元安橋」は平成4年度に架け替えに併せて復元し、「猿猴橋」は平成27年度に「被爆70周年記念事業」として復元しました。
 今回、残る「京橋」を「被爆80周年記念事業」として竣工時(昭和2年)の姿に蘇らせることとしており、3つの被爆橋全ての復元を完了させることによって、「西国街道」をより一層歴史が感じられる通りとし、市民や来訪者がまちの歴史に思いを巡らせ、平和について考えるきっかけにしていただくとともに、街道沿線のより一層の賑わいの創出につなげていきたいと考えています。

 

京橋について

諸元

架設:昭和2年(1927年)8月
形式:3径間ゲルバー鋼鈑桁橋
橋長:64.8m
幅員: 7.9m

歴史

 毛利輝元が広島城に入場した天正19年(1591年)木橋として架橋し、広島城の京口御門から東へ一本筋の道にあることから京橋と名付けられた。毛利氏時代の広島城絵図とされる『芸州広嶋城町割之図』で(西国街道筋となる)猿猴橋・元安橋と共に描かれている。京橋川および京橋町の名はこの橋名を由来としている。

 江戸時代、厳島神社の管絃祭において「御供船(おともんぶね)」と呼ばれる管絃船の後ろをついていく船が城下それぞれの川で造られていた。この御供船は京都祇園祭の山鉾を真似し、年々豪華に飾り立てた。

 明治以降になると、国道2号(現在は市道)の橋と機能し、国道整備の一環として猿猴橋とともに永久橋化が決定し、昭和2年(1972年)8月に鋼橋として架け替えられた。同時期に建設された猿猴橋のように、豪華な装飾品こそなかったものの、開通式には数千人の見物人が訪れたとされ、いずれ劣らぬ偉観を誇ったとされる橋である。

 1945年(昭和20年)8月6日広島市への原子爆弾投下により被爆したが、落橋はせず被害は両側に建つ親柱の上部がずれた程度であった。そのため、広島市内から当時救護所に指定されていた東練兵場への避難経路、あるいは市内中心部へ向かう救援活動の通り道として使われた。なお、原子爆弾投下の際に落橋を免れた被爆橋梁の1つであり、その中で最も爆心地近くに位置する(爆心地より約1.38キロメートル)。

 同年9月の枕崎台風および同年10月の阿久根台風による水害により市内の橋が次々と落橋する中、京橋はそれにも耐えている。

 2011年(平成23年)に被爆に耐えた装飾的橋梁として、猿猴橋とともに土木学会推奨土木遺産に選定された。

復元の内容

1.親柱・中柱の灯具の復元

2.高欄の復元

3.橋名板の復元

4.親柱・中柱・高欄の洗浄

京橋の現状
現在の京橋
架設当時の京橋
架設当時の京橋(田部俊一撮影/広島市公文書館提供)
復元内容
復元の内容

復元の取組への寄附について

 まちなかの西国街道に架かる3つの被爆橋のうち、いまだ、かつての輝きを失ったままとなっている「京橋」を架設当時の壮麗な姿に復元するにあたり、応援していただける企業様、個人様を募集しています。
 寄附の制度としては「企業版ふるさと納税」や「ふるさと納税」などがあります。詳しくは、下記の道路計画課計画係までご連絡ください。

京橋の所在地

地図

関連情報

このページに関するお問い合わせ

道路交通局道路部 道路計画課計画係
〒730-8586 広島市中区国泰寺町一丁目6-34
電話:082-504-2365(計画係)  ファクス:082-504-2427
[email protected]