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広島の歴史

ページ番号:0000005465 更新日:2022年4月14日更新 印刷ページ表示

(1)原始・古代

 現在、市街地がある太田川下流域は、ほとんどが海中にあり、牛田・矢野・五日市や広島湾に浮かぶ島であった比治山に縄文時代の遺跡が、また、中小河川による沖積地を見下ろす丘陵を中心に、市内各地域に弥生時代の遺跡があります。
 古墳時代前期になると、口田の中小田古墳群、緑井の宇那木山古墳群、神宮山古墳群など太田川流域に大型の古墳が築造されるようになり、後期になると可部や白木などの内陸地域でも古墳が盛んにつくられるようになりました。
 律令制度下の地方政治は国府を中心に行われていました。
 安芸国では西条(東広島市)または府中(安芸郡府中町)に国府が設けられ、平安時代中期には府中にあったとされています。白木の三田郷などは国府と関係がありました。
 律令制度がくずれてくると、貴族・寺社や皇室は荘園を所有するようになり、8世紀末には牛田荘が大和国西大寺領となったほか、可部荘(可部)、三入荘(三入)、田門(たと)荘(口田周辺)などが設けられました。
 当時の太田川河口付近であった祇園地区の山本周辺には、内陸部にあった厳島神社の荘園からの物資を運び出すための倉敷地がありました。

(2)中世

 承久の乱(1221年)後、新たに安芸国守護職となった武田氏は、武田山に築いた銀山(かなやま)城(安佐南区)に本拠をおきました。
 城下付近には市が立つなど、にぎわいをみせるようになり、政治の中心も府中から移ってきました。武田氏は、南北朝時代に入ると、足利尊氏の誘いに応じ、毛利・吉川・熊谷氏などを味方にし、矢野城(安芸区)などで、反幕府勢力と激しい抗争を続けました。
 その後、武田氏は守護職を追われましたが、15世紀の初めには、太田川流域を支配する分郡守護として復活しました。
 このころ、現在の市街地のあたりは太田川によって運ばれた土砂が堆積し、砂洲や自然堤防ができて、次第にデルタを形成するようになり、漁撈を生業とする人々が生活を営むようになった。やがてこの地域は、広島湾頭における武田氏と山口の大内氏の勢力争いにまきこまれるなど次第に政治的・経済的に重要性をおびるようになりました。この地が、文書にはじめて出てくるのは、応永4年(1397年)のことで、厳島神社領安摩(あま)荘(矢野周辺)の付属地五ケ浦として名がでてきます。
 天文10年(1541年)武田氏は滅亡し、代わって毛利氏が次第に勢力を伸ばし、弘治元年(1555年)の厳島合戦で陶(すえ)氏を破ると、急速に勢力を中国地方に拡大しました。豊臣秀吉が天下を取ると、その勢力下に入り、中国地方の大半を領有する112万石の大名となりました。
 この広大な領地経営の中心は、毛利氏の本拠地である吉田の郡山城(安芸高田市)でしたが、軍事・政治・経済等あらゆる面で、海陸交通の要衝の地に本拠を移すことが必要となってきました。

(3)近世

 天正17年(1589年)毛利輝元は、当時五ケ(五ケ村)といわれた太田川デルタの上に築城を始め、この地を「広島」と命名したといわれています。その後、約2か年の歳月を費やして築城工事は完成し、天正19年、輝元は家臣を従えて入城するとともに、領内各地から職人や商人を招くなどして、京都・大坂にならい城下町の建設を行いました。
 豊臣秀吉の没後、慶長5年(1600年)に起こった関ケ原の戦に敗れた毛利輝元は、防長2か国に移され、代わって尾張清洲(愛知県)の福島正則が芸備49万8千石の領主となりました。福島氏は毛利時代に引き続き城下町の拡張や整備を行うとともに、西国街道(山陽道)を城下に通し、出雲・石見国への雲石街道の整備を図りました。
 しかし、福島氏は幕府から広島城の無断修築の罪で改易され、元和5年(1619年)紀州(和歌山県)から浅野長晟(ながあきら)が、安芸一国と備後8郡42万6千石を領して入城しました。

被爆前の広島城
被爆前の広島城の写真   (広島市公文書館所蔵絵葉書)

 江戸時代には、広島城下の南方の干潟は次々と干拓されていき、文政年間(1820年ごろ)には新開の町村数は35を数えました。
 このころ、町・新開の人口は4万8千人を超え、これに武家・寺社の推定人口2万人を加えると、城下の総人口は7万人前後となり、江戸・大坂・京都・名古屋・金沢に次ぐ大都市でした。
 また、内海航路沿いの最大都市として、本川や元安川沿いは他国船でにぎわいをみせ、なかでも中島界隈は街道沿いに大店が並ぶ商業の中心地でした。
 城下近郊では沿岸地域で綿が、太田川流域では麻苧(まちょ)・紙・竹細工・野菜、広島湾では海苔・かきなどが生産され、多くが広島城下に集められたのち、上方へ積み出されました。
 なお、浅野藩の藩主は、浅野長晟(ながあきら)-光晟(みつあきら)-綱晟(つなあきら)-綱長(つななが)-吉長(よしなが)-宗恒(むねつね)-重晟(しげあきら)-斉賢(なりかた)-斉粛(なりたか)-慶熾(よしてる)-長訓(ながみち)-長勲(ながこと)と続きました。

(4)明治・大正時代

 明治4年(1871年)7月、新政府による廃藩置県が行われ、翌5年(1872年)4月、広島城下は広島県第一大区となり、続いて11年(1878年)11月、郡区町村編制法の実施により、広島区と改められました。
 次いで、21年(1888年)4月市制町村制が公布され、翌22年(1889年)4月1日、広島は全国で最初の市の一つとして市制を施行しました。その時の面積は約27平方キロメートル、戸数は2万3,824戸、人口は8万3,387人でした。
 明治22年(1889年)11月には、千田貞暁県令(県知事)の努力により、17年(1884年)9月以来、5か年に及んだ宇品港の築港工事が完成し、皆実新開以南、宇品島へ至る青海原は広大な陸地となりました。さらに、27年(1894年)6月には、山陽鉄道が広島まで開通しました。

 同年8月に日清戦争が始まると、広島-宇品間の軍用鉄道(宇品線)が2週間余りの突貫工事により開通し、宇品港から広島の第5師団をはじめ多くの兵士や兵器、食糧が大陸へ送り出されました。
 同年9月には大本営が広島城内に移され、10月には臨時帝国議会も開かれるなど広島は臨時首都の様相を呈しました。
 以後、37・38年(1904・1905年)の日露戦争など相次ぐ戦争により、軍関係の諸施設が次々と設置され、本市は、軍事拠点としての性格を強めていきました。一方で明治35年(1902年)の広島高等師範学校の設置をはじめとし、広島高等工業学校、広島高等学校、広島女子専門学校、広島文理科大学などの学校が設置され、文教施設が充実していきました。こうして本市は次第に中国地方における政治・経済・文教・交通の中心都市となっていきました。

明治27年広島市で開催された臨時帝国議会仮議事堂
明治27年広島市で開催しれた臨時帝国議会仮議事堂の写真  (広島市公文書館所蔵写真)

 相次ぐ軍事施設の設置などにより上水道の敷設など都市施設の整備も進みました。なかでも城濠の埋立ては、その一部に電車軌道が敷設されるなど街の景観を大きく変貌させました。
 大正元年(1912年)11月、広島電気軌道株式会社経営の市内電車が、広島駅-紙屋町-相生橋線など3路線で開通し、従来の乗合馬車に代り市内の主要交通機関となりました。
 4年(1915年)4月には御幸橋-宇品線、6年(1917年)11月、左官町-横川線が開通するに及び、市内の交通は一段と便利になり、八丁堀・紙屋町付近が、城下町時代からの経済的中枢であった中島本町・堺町付近と肩を並べ、後には、これらをしのぐ繁華街となっていきました。
 なお、明治・大正年間を通じ、明治37年(1904年)9月の仁保島村字宇品島を市域に編入(新町名:元宇品町)した以外に町村合併による市域の拡張はありませんでした。

(5)昭和・平成時代

 広島市は、大正8年(1919年)に制定された都市計画法の適用を受けて、本市とともに都市計画区域となった隣接町村に合併を働きかけ、昭和4年(1929年)4月、隣接7か町村(仁保村・矢賀村・牛田村・三篠町・己斐町・古田村・草津町)との合併が実現しました。これにより、人口は27万人を超え、全国で7番目に人口の多い市となりました。

 7年(1932年)太田川改修工事に着手、また宇品港は広島港と名を改め、翌8年(1933年)には広島港の修築が始まり、15年(1940年)からは工業港建設と埋立地を臨海工業地帯とする事業が始まりました。一方で、6年(1931年)9月の満州事変ぼっ発から20年(1945年)8月の第二次世界大戦終結まで、軍事施設の新設・拡充が行われ、全国から集められた多くの兵士が宇品から海外へ派遣されました。

 昭和20年(1945年)8月6日、市の中心部上空約600mで炸裂した1発の原子爆弾により、最盛時の人口約42万人を数えた本市は一瞬にして焦土と化し、75年間(あるいは70年間)不毛の地となると言われました。

被爆前の相生橋と広島県産業奨励館

相生橋から見た産業奨励館 70666_003 .jpg (広島市公文書館所蔵絵葉書)

 瞬時に壊滅し、廃墟の街となった本市の復興は、鉄道・電車などの輸送機関や通信・電力などの復旧から始まりました。市民も食糧や物資の欠乏に苦しめられながらも生活の再興をすすめていきました。一方、市は、昭和21年(1946年)の秋には、復興都市計画を決定しましたが、資金難などによりなかなかすすみませんでした。こうした状況を打開したのが、昭和24年(1949年)8月6日に公布された我が国最初の特別法「広島平和記念都市建設法」でした。これにより道路・橋梁・住宅などの整備が本格的に進むこととなり、高度経済成長前夜の市域拡張期を迎えました。

 昭和28年(1953年)町村合併促進法、31年(1956年)新市町村建設促進法により、町村合併は全国的機運となりました。この動きに呼応し、広島市は30年(1955年)4月安芸郡戸坂村、31年(1956年)4月安芸郡中山村、同年11月佐伯郡井口村と合併を行い、翌32年(1957年)には人口40万人を超えました。33年(1958年)末には、戦前の最高を突破し、39年(1964年)4月には人口50万人を超えました。

 また、36年(1961年)の広島空港(現広島西飛行場)開港、39年(1964年)の山陽本線全線電化開通、40年(1965年)の太田川放水路通水、広島民衆駅完成、41年(1966年)の国道2号新広島バイパス開通を契機として市勢は一段と伸長し、広島都市圏が形成されるようになりました。

広島平和記念都市建設法の住
民投票のポスター(昭和24年)
広島平和記念都市建設法の住民投票のポスターの画像 (広島市公文書館所蔵ポスター)

 その結果、市域を超えて広がった日常生活圏内の諸問題を一体的に処理するため、周辺町村との合併機運が高まりました。
 33年(1958年)には「大広島」構想を発表し、本市を中核に広域都市圏を建設しようという構想を相次いで打ち出しました。こうした動きのなかで、43年(1968年)1月、周辺19か町村による広島地区広域行政懇談会が設置され、45年(1970年)3月、広島市基本構想策定により、周辺町村との合併は一挙に進みました。
 46年(1971年)4月の安佐郡沼田町との合併を始めとして、同年5月安佐郡安佐町、47年(1972年)4月安佐郡可部町、同年8月安佐郡祇園町、48年(1973年)3月安佐郡安古市町、佐東町、高陽町及び安芸郡瀬野川町、同年10月高田郡白木町、49年(1974年)11月安芸郡熊野跡村、安芸町、50年(1975年)3月安芸郡矢野町、船越町の計13か町村が本市と合併しました。

 そして、55年(1980年)4月1日には、全国で10番目の政令指定都市となりました。その後、60年(1985年)3月に、佐伯郡五日市町と合併して人口は100万人を超え、平成17年(2005年)4月には佐伯郡湯来町と合併して人口は115万人を超えました。
 昭和49年(1974年)バスセンターのオープン、50年(1975年)山陽新幹線の全線開通、53年(1978年)7月基町地区再開発事業を完了、54年(1979年)広島空港(現広島西飛行場)へのジェット機乗り入れ、57年(1982年)西部開発事業の竣工など、相次ぐ社会資本の整備とともに本市経済も順調に伸びました。

 アストラムラインが開通した平成6年(1994年)にはアジア競技大会、8年(1996年)にはひろしま国体・おりづる大会ひろしまを開催し、12月に原爆ドームの世界遺産一覧表への登録が決定しました。
 13年(2001年)には紙屋町地下街「シャレオ」が開業し、広島高速4号線(広島西風新都線)が開通しました。
 18年(2006年)7月には広島平和記念資料館の本館が国の重要文化財に、19年(2007年)2月には平和記念公園が国の名勝に指定されました。
 21年(2009年)3月には、新しい広島市民球場(マツダスタジアム)が完成しました。28年(2016年)5月には、オバマ米国大統領(当時)、令和元年(2019年)にはローマ教皇が広島を訪問されました。

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