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ページ番号:0000001470更新日:2019年10月21日更新印刷ページ表示

西国街道(さいごくかいどう)めぐり:中区版

西国街道は、近世の山陽道のことで、西国の諸大名の参勤交代や長崎奉行、幕府代官などが往来する道として五街道(東海道・中山道・日光道・奥州道・甲州道)に次ぐ重要な位置を占めていました。ここでは、このうち中区内の様子について紹介します。

西国街道ルート図

西国街道ルート図の画像

広島城下絵屏風(広島城所蔵)
 絵屏風には、城下のメインストリートであった西国街道の様子が、東から春夏秋冬にわけて描かれています。

広島城下絵屏風の画像1広島城下絵屏風の画像2

この屏風は、レプリカが作られ広島城天守閣に展示されています。
問い合わせ先 広島城(電話221-7512)
広島城ホームページ<外部リンク>

1.出雲石見街道の分岐点

 西国街道の堺町一丁目から、北へ1本の街道が分岐します。出雲石見街道(雲石路)と呼ばれる街道です。分岐を示す道標は、現在、空鞘稲生(そらさやいのう)神社の境内に移転しています。安芸の国北部への重要な交通路で石見大森銀山・出雲大社・松江城下へつながっています。十日市町はこの街道に沿う商店街で、寺町に続いています。

2.本川橋と雁木(がんぎ)跡

 本川橋は、西の堺町と東の中島本町(現中島町)を結んでいます。16世紀末期に当地の豪商の猫屋九郎右衛門兼鎮(ねこやくろうえもんかねもり)が、私財を投げ打って架けた橋で、当初は、本川・本川橋も猫屋橋川とか猫屋橋と呼ばれていました。豪商の名前にちなんだ西の猫屋町は、やがて本川筋に川渡しや警備の船が発着し、本川橋の橋脚下には、毛利輝元の島普請(しまぶしん)による石組が残り、雁木造りの荷揚場や、船をつなぐ石柱や船舶の燥場が護岸に設置され、今も遺構として存在しています。

屏風絵の本川かいわいの画像
屏風絵の本川かいわい

がんぎ跡
雁木跡

3.広島市道路元標

 元安橋の東詰に植栽に隠れてひっそりとたたずむ石柱があります。これが広島市道路元標で、江戸時代以来のみちのりの基点となっています。これから西国街道にしたがって、東西に一里塚が置かれ、上方や江戸、九州へとつながっていました。

4.本通の賑わい

 福島正則が西国街道に面する屋敷地をすべて町人地としたことが商業の発展を促すこととなり、やがて本通ともよばれ、西国街道のメインルートでした。元安橋から中央通までの間には、西横町(にしよこまち)・東横町(ひがしよこまち)・革屋町(かわやまち)・播磨屋町(はりまやまち)・平田屋町(ひらたやまち)と、老舗(しにせ)が軒を並べていました。

屏風絵の西国街道(現本通)かいわいの画像
屏風絵の西国街道(現本通)かいわい

5.平田屋川(並木通り)

 江戸時代の広島城下には、今の京橋町かいわいと鯉城通り沿いに、東西の魚市場が立っていました。また堀川や平田屋川に沿い、新たに魚市場が立ち、西魚屋町に対し、東魚屋町が誕生しました。その後、魚の棚とも中の棚とも呼ばれ、宝暦8年(1758年)には中心に中の棚稲荷神社が建立され、現在まで代々の商家により守り続けられています。

本通りに埋められている銘板(9ヵ所)の画像
本通りに埋められている銘板(9ヵ所)

6.中の棚橋遺跡

 太田川の水は、広島城の外堀や八丁堀を経て南流し、堀川から平田屋川に流れていました。その名残として、金座街から中の棚に至る旧堀川・平田屋川を渡る当時の石橋の遺構が、地下に残っています。

中の棚橋遺跡の画像
中の棚橋遺跡

7.京橋川の裏木戸

 京橋川は、かつて、明星院川とも、神田川とも呼ばれていました。江戸時代の初期には西国街道に橋が架けられ、京に向かう橋として「京橋」が誕生して京橋川となり、明治以降は京橋川と呼ばれました。
 江戸時代は小路には武家屋敷の表門が、川辺には裏木戸が置かれました。裏木戸では日常の生活として洗濯などの他に、小舟が雁木造りの石段から生活物資を陸揚げしていました。明治以降も舟運が残っており、その当時の生活遺産です。

裏木戸跡の画像
裏木戸跡


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