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武田山の歴史を知る-甲斐・安芸・若狭武田氏について-

ページ番号:0000000690 更新日:2020年1月31日更新 印刷ページ表示

甲斐武田氏の成立

武田氏は源氏の一族で、清和天皇の流れをくむ源義光(よしみつ)《新羅三郎(しんらさぶろう)》を祖としています。義光の次男・義清(よしきよ)が常陸国勝田郡武田郷(茨城県ひたちなか市武田)に入って武田姓を称し、その後甲斐へ配流されて甲斐源氏の初代となり、その孫信義(のぶよし)は、源頼朝(よりとも)の平氏打倒の挙兵に応じ、武功を重ね、東国支配権を得た頼朝から、駿河国守護に任ぜられました。
 信義の子・信光(のぶみつ)は、寿永3年(元歴元年1184年)、頼朝の弟・範頼(のりより)を総大将とする平家討伐軍の武将として、源経(よしつね)と共に摂津国福原に集結した平家を攻め、屋島へ敗走させました。さらに翌文治元年(1185年)、壇ノ浦の戦いにおいて平氏を滅亡させるなど、源氏の勢力拡大に大きく貢献しました。さらに「承久の乱(1221年)」では、東山道の大将軍として5万余騎を率いて朝廷軍を撃破。幕府方に勝利をもたらす活躍によって、甲斐及び安芸二か国の守護に任命され、安芸国には守護代を置いて統治させました。これが武田氏と安芸国との関係の発端となり、元寇にともなう文永の役には、武田信時が幕府の命によりはじめて安芸に下向し在国したことが知られています。
 甲斐武田氏では、「川中島の合戦」で越国の上杉謙信と争った戦国武将武田信玄が有名ですが、政治家としても優れた手腕を発揮しています。信玄の国づくりの理念は、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」で、国全体が城であり、人の和こそまさに山河の険しさに匹敵すると信じていたようです。信玄が現在も郷土を代表する英雄として人気を集めているのは、戦いのみでなく、釜無川に信玄堤を築いて氾濫を抑え新田の開発を可能にしたように、民政にも力を入れていたからだと言われています。
 武田軍の陣頭には中国の孫子の兵法に学んで「風林火山」の軍旗が常に立てられ、戦国のまっただ中の信玄の生涯にわたる合戦の数は、百三十余度と言われています。晩年の信玄は京都をめざして上洛の軍を起こし、遠江(静岡県)の三方ヶ原で徳川勢を粉砕しましたが、病気のため夢むなしく信州の伊那駒場で53歳の生涯を閉じました。(1573年)

武田氏系図

武田氏略系図の画像

武田神社(たけだじんじゃ)

武田神社 甲斐の名将・武田信玄公を祀った神社で、大正8年(1919年)に創建されました。この地は、元来、武田氏三代が60年余りに渡り国政を執った由緒ある「つつじヶ崎」の館跡で、国の史跡に指定されています。つつじヶ崎の館は戦国大名の館としては全国最大規模を誇るものです。菱和殿(りょうわでん)の天井画には、山梨県内で見られる草木・禽獣(きんじゅう)やキノコが描かれ、幽玄な世界を醸し出しています。

アクセス:JR甲府駅北口から徒歩30分

信玄公像(しんげんこうぞう)

武田信玄公像 昭和44年4月12日(信玄公の命日)に甲府駅前に武田信玄公銅像建立奉賛会から寄附により設置されました。昭和60年に甲府駅ビル西側の現在地に移転されました。銅像の高さは3.1m、重さ5t、台座はみかげ石で作られています。
 また、4月上旬には市内中心部で「信玄公祭り」が市内中心部で開催され、甲府市の一大イベントとなっています。

アクセス:JR甲府駅南口から徒歩1分

甲斐武田氏、甲府市の観光案内等については、下記のホームページからどうぞ!

甲府市のホームページへ<外部リンク>

「甲府市の歴史」のページに「武田史跡」や「武田氏三代の歴史」などの説明が掲載されています。

甲府市観光ガイドのホームページへ<外部リンク>

「観光情報」のページの「歴史・文化」や「観光スポット」に「武田信玄」や「武田神社」などの信玄公ゆかりの場所の説明が掲載されています。

信玄公のまちのホームページへ<外部リンク>

「信玄公のまち古府を歩く」のホームページでは、今も残る信玄公にまつわる史跡や情報が掲載されています。

安芸武田氏の分立

南北朝の動乱期を迎えると、信光の後五代目の武田信武は、早くから足利尊氏に従って戦功を挙げ、甲斐及び安芸二カ国の守護に任ぜられて最も勢力を誇示し、信武の嫡男信成は甲斐国守護職を継承しました。
 その後甲斐武田氏は、武田晴信(信玄)の時に最盛期を迎え、織田信長によって滅ぼされる勝頼まで代々の流れが続きました。一方、信武の次男氏信(うじのぶ)は、父に従って安芸に在国し、安芸国守護に任ぜられて安芸武田氏の祖となりました。安芸武田氏は、この氏信を始めとして甲斐武田氏から分流、以後、第十一代信実(のぶさね)まで約200年間も続きました。(1541年)

安芸武田氏系図

伝 武田信宗画像(でん たけだのぶむねがぞう)

武田信宗 銀山城は武田信宗が築城したといわれています。この画像は、呉市有形文化財として昭和47年(1972年)10月に指定されています。(呉武田学園蔵)

色々威腹巻鎧(いろいろおどしはらまきよろい)

色々威腹巻鎧 室町中期の作で、武田元綱が使っていたと伝えられている腹巻鎧です。この鎧は、国の重要文化財として昭和40年(1965年)5月に指定されています。(呉武田学園蔵)

若狭武田氏の分立

若狭武田氏の初代は安芸国国分郡守護信繁の子の信栄(のぶひで)で、永享12年(1440年)将軍義教の命を受け若狭守護職であった一色義貫を討ち、変わって若狭守護職に補されました。信栄は若狭守護となってまもなく死去しましたが、その後を継いだ信賢(のぶかた)は、一色残党の一掃につとめ、また領内の寺社領などの荘園にも勢力を浸透させ、若狭支配の経済的基盤を築きました。信賢は和歌に秀で毎年多数の歌会を自らの京の館で催すなど、文芸活動を盛んに行っていました。
 大永7年(1527年)に起きた丹波勢等との京都桂川での合戦で、五代元光は大軍を率いて挑んだにもかかわらず配下の武将が討たれるという敗退を喫し、若狭武田氏の衰退を決定づける原因となりました。その後、信豊(のぶとよ)が跡職継承をしましたが、若狭武田氏の領国支配は不安定な状況が続き、家臣団の反乱も度々起きる状況でした。その後、信豊の跡の義統(よしむね)、元明の代には守護としての実質的権力はほとんど持たず、永禄11年(1567年)に元明が朝倉義景に越前に連れ去られ、約120年にもにわたる武田氏の若狭支配は事実上幕を閉じました。

若狭武田氏系図

後瀬山城跡(のちせやまじょうあと)

後瀬山城跡 戦国時代の大永2年(1522年)若狭守護武田元光(もとみつ)が、小浜市街地の南にそびえる後瀬山に築城しました。後瀬山城は標高168メートルの山頂に石垣を配する主郭を置き、139か所曲輪と呼ばれる平場の防御施設を設けた山城で、若狭武田氏五代元光から六代信豊(のぶとよ)、八代元明(もとあき)へと継承され、若狭武田氏滅亡後も存続し、関ヶ原合戦後に近世小浜城が築城されると、その役目を引き継ぐことになりました。
 現在は遊歩道が整備され、約40分の歴史と自然が体験できる史跡となっています。

アクセス:JR小浜駅から0.8km(本丸までは、さらに徒歩40分)

空印寺(くういんじ)

空印寺 酒井家墓所のある空印寺および小浜小学校の地は、大永2年(1552年)武田元光が後瀬山築城の際、堅固な城館(旧小浜城)を構築した処で、以後、京極高次の雲浜築城に至るまで一国支配の本拠でした。高次没後、嗣子忠高はこの旧地を父の牌所とし泰雲寺を建立しましたが、寛永11年(1634)松江に転封。同年入部した酒井忠勝は、父忠利の霊骨を移して建康寺と称しました。寛文年中、2代忠直が堂宇大修造のとき、祖父の法号をとって建康山空印寺と改め今日に至っています。

アクセス:JR小浜駅から1.0km

若狭武田氏、小浜市の観光案内等については、下記のホームページからどうぞ!

小浜市へのホームページへ<外部リンク>

 「寺社・史跡」のページに「後瀬山城跡」などの説明が掲載されています。

若狭おばま観光協会のホームページへ<外部リンク>

 「知っとこおばま」の「おばまの名所・みどころ」のページに「後瀬山城跡」や「空印寺」などの説明が掲載されています。

※ このホームページの作成にあたっては、山梨県甲府市及び福井県小浜市のご厚意で資料等をいただき、両市ホームページから画像や説明文等を引用させていただきました。

皆さんも武田氏にまつわる史跡をたずねて、甲府市や小浜市へ訪れてみませんか。

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