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武田山の歴史を知る -武田氏ゆかりの史跡-
不動院(東区牛田新町三丁目)
不動院は、かつて安芸安国寺とも呼ばれる大寺院でした。南北朝時代、足利尊氏・直義兄弟が諸国に安国寺を建立した折、安芸国ではここに安国寺が置かれ、銀山城主武田氏の保護のもと栄えました。武田氏の滅亡とともに寺運も傾きましたが、毛利氏の使僧として戦国の世を生きた「安国寺恵瓊(あんこくじえけい)」により再興されました。彼は武田氏の出身であると言われています。
蓮光寺(安佐南区長束二丁目)
蓮光寺の前身は、鎌倉時代に武田信隆の次男・清順により建立された松陰坊だと伝えられています。
下安から現在地に移ったのは、1630年のこととされ、その記念に植えられた松が「蓮華松」。以来この地で、約380年もの間お寺を見続けています。
いぼ地蔵(安佐南区祇園一丁目)
ここの松葉でイボをつつくと取れるということが地蔵の名前の由来です。下枝はほとんどむしり取られ、手の届くところにはなかったと言います。
また、このお地蔵さんは、「投石地蔵」とも呼ばれ、その昔、武田光和が武田山から投げた石がお地蔵さんになったとも伝わります。
楊柳観音(安佐南区西原六丁目)
1283年、武田信隆が安芸国に下る時、旅の途中で馬の尾に喰いつくものがあるので調べてみると、それは甲斐に残した武田家に伝わる楊柳観音でした。信隆は大変喜び、武田山麓に堂を造り、これを安置したと伝えられています。その後1340年に兵火でお堂が焼け、武田信栄が西原に移して安置しました。
安神社(安佐南区祇園二丁目)
元の名を祇園社といい、武田山のふもとの松尾山(今の祇園中学校)に国家安全鎮護のために建てられました。1299年、平員家が多数の軍勢を率いて参拝の群衆に紛れ込み、銀山城に押し寄せて戦になりました。その際、一切を焼失しましたが、幸いご神体のみが御旅所(現在地)に置かれていたので難を逃れました。その後、武田氏によってここに本殿が再建されたと言われています。
立専寺(安佐南区山本九丁目)
このお寺はもと禅宗で、武将山金龍院と呼ばれ、銀山城主武田氏の香華院菩提寺でした。その後武田氏の勢力が衰え、1535年に、僧正春が真宗に改宗して、武将山立専寺としました。
寺には、三王原古墳から出土した遺物や、武田山付近の古墳から出土した土器などが収蔵されています。
新羅神社(安佐南区祇園五丁目)
武田氏の祖先、新羅三郎義光を祭った神社です。武田氏が安芸に下向してまもなく、武田信宗が甲斐の国から勧請したようですが、記録は残っていません。武田氏が滅びるまで崇敬が厚かったようです。参道のこけさびた素朴な石段が、いかにも古い神社だということを物語っています。
武田一族の墓(安佐南区山本町)
墓は石を小山のように盛ったもので、3基並んでいます。昔は五輪塔があったと言われる丸い石が1個あるだけです。芸藩通志には、「武田光和墓、東山本村三皇原にあり。桜樹を印とす」と記述されていますが、この墓がそれであるかははっきりしません。
熊岡神社(安佐南区祇園五丁目)
同社は、窪田の八幡さんとも言われ、武田元繁が銀山城主の時、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮から勧請したと言われています。銀山城守護神として、武田家一門が厚く信仰した神社です。
歓喜寺(安佐南区祇園四丁目)
武田氏が銀山城主だったころ、歓喜寺境内に出城を造り、ここに米庫を設けて兵糧を貯蔵していました。しかし、銀山落城につながった平員家の「銀山攻め」の際、兵火にあって米庫が焼失したと伝えられています。そのためか、明治末期ころまで、地中よりたくさんの焼き米が掘り出されたようです。
龍石(安佐南区祇園八丁目)
龍原と呼ばれたこの地に昔からあった石で、この上に何度も舞い降りる二羽の鶴を見て、武田義信が霊験のある場所だと考え、ここに12の寺院(龍原十二坊)を建てました。中核となる仏護寺は、現在広島別院として寺町(中区)にあります。
尾首日吉神社(安佐南区祇園八丁目)
1289年、武田信宗が江州(滋賀県)坂本にある日吉神社を勧請し、武田一門の守護神として荘厳な社殿を造営しました。その後、武田氏が滅亡してからは社殿は荒廃し、祭典も寂しくなりました。里人はこれを憂い、社殿を今の尾首地区に移し、産土神として祭りました。
毘沙門天(安佐南区緑井町)
武田氏が銀山城築城の際、その北方の鬼門除けに権現山元成寺跡に建てたものと言われています。
毘沙門天は、別名多聞天とも言い、「佛教守護神四天王」の一つで北方を守護するとされ、また世人に福徳を与えるというところから七福神の中に加えられています。
田中山神社(安佐南区安東六丁目)
武田信宗が銀山城を築いた際、鬼門を除くため勧請したと伝えられています。
萩尾山神社(安佐南区相田三丁目)
商業・漁業の守護神として、1494年、武田元綱から繁綱に下知状が下り建立されたと言われています。
正伝寺(安佐南区相田四丁目)
985年に「恵空」が阿弥陀寺を建てたのが始まりと言われています。のち武田信宗の菩提所となり光賢寺と称し栄えました。その後、現在地に移り、正伝寺と改められました。
敷地内のクロガネモチは、福島正則が朝鮮の役の時に持ち帰った苗木を植えたものと言われ、広島県の天然記念物に指定されています。
光明寺(安佐南区高取北一丁目)
古くから武田氏と関係があり、武田信光が円妙院(後の光明寺)をもって鬼門鎮護の道場として崇敬したという記録が地方の諸伝に残されています。武田信隆寄進のわに口をはじめ、数々の重宝が伝えられています。
長楽寺観音堂(安佐南区長楽寺三丁目)
905年に真言宗の霊場として開かれ、武田氏や毛利氏の祈願所として繁栄しました。かつては壮大な寺院でしたが、1601年、福島氏が広島城主の時、寺領を没収され衰退、廃寺となりました。後に観音堂が建立されました。
参考文献:「祇園町誌」「安古市町誌」「リビングひろしま」