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武田山の歴史を知る -銀山城跡の史跡紹介-

ページ番号:0000000665 更新日:2020年2月1日更新 印刷ページ表示

銀山城史跡絵図
銀山城史跡絵図(「ふるさとやまもと」より)

 現在、銀山城跡(かなやまじょうせき)には、斜面を削り取り、平らにした50近くの郭(くるわ)や堀切(ほりきり)などが残っています。特に中腹の要所に設けられた御門跡と呼ばれる郭跡には、通路を直角にとるかぎの手の石積みを残しており、近世城郭の桝型(ますがた)の原形として大変貴重なものと言われています。このように広島市域で最大の規模をもつ銀山城は構造的にもきわめて優れており、広島県を代表する中世の山城と言えます。

馬返し(うまがえし)

馬返し

 山を削って造ったかなり広い平地です。ふもとから馬で運んだ物資を、ここからは道が険しいので、人の背で運んだと言われています。

御門跡(ごもんあと)

御門跡

 かつては自然石を周囲に積み重ねた四角形の構造となっていて、その中は6メートル四方くらいありました。ふもとの方から城内に入ろうとする人を、この中にいれて、怪しい者かどうかをよく調べて、城内に入れることを許したと伝えられています。

千畳敷(せんじょうじき)

千畳敷(城跡)

 本丸があったところで、その広さにちなんで千畳敷と呼ばれています。まわりには、当時弓矢に使ったと言われる矢竹と呼ぶ小竹が生えているほか、弦や矢をよくすべらすための椿が多く植えてあります。

御守岩台(ごしゅいわだい)

御守岩台

 頂上に見上げるような大きな岩があります。この岩の上には小社がありました。戦前までは小さな鳥居もあり、この山に登る人たちは、草花やさかきの小枝などを供えていたそうです。今では鳥居も社も朽ち果てて、大きな岩が一つ昔の面影を残しているだけです。

館跡(やかたあと)

館跡

 御守岩台の一段低いところにある城内最大の城郭です。中央には巨石が重なり合い、これらの岩には、建物を建てたと考えられる柱穴などの加工痕がいたるところに見られます。

鶯の手水鉢(うぐいすのちょうずばち)

鶯の手水鉢

 館跡のすぐそばの岩の上に、人工的なくぼみがあっていつも雨水がたまっています。この水たまりが当時何のために使用されたかはわかりませんが、弓を射るとき、手を潤すために使用したものだとか、どんな日照りにもこの水は乾いたことがないとか、いろいろ言い伝えられています。

犬通し(いぬどおし)

犬通し

 尾根の一部が掘り下げられたところ(掘切)で、ここは、山の表から裏への連絡路として造られたものです。

見張台(みはりだい)

見張台

 大きな平たい石の上に、長さおよそ1メートルと1.6メートル、どちらもおよそ12センチメートル幅の二本の浅い溝が彫りこまれており、この溝の上に見張りの櫓があったと言われています。

武者溜り跡(むしゃだまりあと)

武者溜り跡

 犬通しから東に少し下がったところにくぼ地があります。ここは、城の裏側から犬通しを通って上がってくる敵を討つために武者が隠れていたところと言われています。

出丸(でまる)

出丸

 本城(中心となる城郭)から張り出した形で築かれた郭で、5つの郭が階段状に並んでいるほか、空掘が一条、土塁・石垣も一部みられます。出丸は主に城郭出入口の守備や監視の目的で築かれます。

観音堂跡(かんのんどうあと)

観音堂跡

 城の主要部から少し離れた場所にあり、観音様を祭った御堂があったと言われる広場です。ここは休息の場所として使われたり、戦略の密議が行われたりした場所で、戦に破れた時は自刃する最後の場所にもなっていました。

上高間(うわたかま)

上高間

 観音堂に付属した庭園か、休憩所兼見張所のあったところと言われています。上高間から観音堂跡に行く途中に、二つの割り石が道をはさんで相対するように並んでいますが、これは、門の役目をしていたものと思われます。

下高間(しもたかま)

下高間

 上高間同様、観音堂に付属した庭園か、休憩所兼見張所のあったところと言われています。岩石が累々とそびえたち、ここから上高間の方を眺めるとすばらしい景色です。

馬場跡(ばばあと)

馬場跡

 昔から馬場と言い伝えられている所です。今は小竹が生い茂っていますが、やや広くて平らな場所です。これは馬を乗りならした馬場ではなく、馬置き場であったと想像されます。

見張櫓跡(みはりやぐらあと)

見張櫓跡

 大きな岩が重なりあっています。ここに見張りのための櫓が置かれていたと言われています。櫓は「矢倉」とも書き、文字通り弓矢を保管するための倉で、非常に備えて弓と矢を並べて数人が詰めていました。

参考文献:祇園町誌、史跡銀山城