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武田山の歴史を知る -銀山城落城秘話(伝承)-
1.千足のわらじ
安芸武田氏は、天文年間、十代光和の頃、出雲の尼子氏と結んで大内氏に反抗していました。毛利元就は大内義隆の命を受けてこの銀山城を攻撃しました。
光和の死後、内紛などもあって武田氏の勢力は衰えていましたが、銀山城は標高410.9メートルの天険を誇る山城で、数年続く毛利方の攻撃にも難攻不落でした。
そこで元就は策略をめぐらしました。農民を動員して千足のわらじを作り、夜になると、そのわらじに油をしみ込ませて火をつけ、城の大手側を流れる太田川に投げ込み、おとり作戦を演じました。
はるか銀山城中からこれを見下ろすと、あたかも寄手の大軍が河を渡って大夜襲をかけるさまに見え、武田方は急いで全兵力を大手側に集中して防備を固めました。
ところが、毛利方は敵の裏をかき、搦手(からめて)の旧安古市町側から一気に攻め登り、ついに銀山城の攻略に成功しました。時に天文10年(1541年)5月、安芸の武田氏はここに滅亡しました。
この伝承を物語るように、広島市東区戸坂町の太田川の川岸には、千足の地名が現在も残っています。(「日本城郭体系 第13巻」より)
2.金の茶釜
武田滅亡の際、後日一族郎党が再起するための資金にあてるため、山中の洞窟に先祖相伝の純金の茶釜を埋め、目印として白南天を植えたという話があります。ところが、目印の南天もいつの間にかなくなり、埋没箇所も不明になりましたが、その位置は、現在中相田側より上がった中腹の洞穴から少し上方とも言われています。またこの穴は銀を産出したと言われ、銀山・金山の名もこれに由来するものだと伝えています。(「安古市町誌」より) ※武田山は当時、銀山、金山と呼ばれていました。