ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 都市整備局 > 都市整備局 緑化推進部 緑政課 > 広島市の都市緑化の歴史

本文

広島市の都市緑化の歴史

ページ番号:0000007330 更新日:2019年10月21日更新 印刷ページ表示

 都市の緑化は植え育てることから始り、長い歳月と手厚い保護が必要ですが、これは市民の理解と協力があって、はじめて実現するものです。
 ここに、戦後間もない頃、焦土と化した広島市の市街地の緑をどのようにして甦らせたかを紹介し、都市緑化に対する一層の理解と協力を訴えたいと思います。

1 戦前の街のみどり

 城下町として発展した本市には古くからの屋敷が多く、また明治以降は軍都として栄えたこともあって軍の施設用地が多くありました。これらに付属した豊かな緑が市内の随所にみられ、周辺の山々や太田川の清流と相まって、美しい市街地を形づくっていました。

2 原爆による災禍

 昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾が投下されました。緑豊かな市街地も、爆心から半径2km以内では建物や樹木はことごとく焼失し、半径4km以内では家屋の大半が倒壊し、樹木は熱線や爆風により幹を焼かれ枝葉を吹き飛ばされて、緑が完全に失われた灰色の都市となってしまいました。

3 緑の再生

 原爆による荒廃から立ちあがった広島市は、かつての景観を取り戻すため、焼野原になった市街地に一本でも多くの樹木を持ち込もうと、さまざまな事業に取り組みました。
 まず初めに、昭和23年(1948年)、壊滅した比治山公園を広島県の援助による砂防事業により復旧整備しました。当時植樹したサクラなどが、現在も立派に生長しています。
 昭和25年(1950年)ごろから街路樹整備が加速し、街路ごとに特色を持たせた並木づくりが行われました。例をあげますと、相生橋から紙屋町にかけてはサルスベリ並木、京橋町のサクラ並木、新川場(現在の並木通り)のサワクルミ並木、牛田町のアメリカフウ並木、基町のトウカエデ並木等、数多くの並木づくりが行われました。しかし、樹木が土地に合わなかったり急激な都市化現象に適応できなかったりして、現在ではその一部をとどめるのみとなってしまいました。

 昭和32年(1957年)から昭和33年(1958年)にかけて、「夢みる20年後の広島」をキャッチフレーズに「供木運動」が展開され、市民および市周辺の4郡23町民の協力で平和大通りや平和記念公園そして中央公園で植樹活動が行われました。平和大通りの緑地帯には、昭和32年(1957年)に高木約1,200本、昭和33年(1958年)には高木約1,300本、それに多数の低木が寄付されました。

供木運動

 これらの木々は立派に生長し、現在、平和大通りの豊かな緑を形成しています。
 夏には緑陰を提供し、冬には緑が街の寒々しさを柔らげて、街行く人々に四季を通じて恵みを与えてくれています。

平和大通り

このページに関するお問い合わせ先

都市整備局 緑化推進部 緑政課 花と緑の施策係
電話:082-504-2396/Fax:082-504-2391
メールアドレス:park@city.hiroshima.lg.jp