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アメリカは、当時、日本をできるだけ早く降伏させアメリカ軍の犠牲を少なくしたいと考えていました。また、1945(昭和20)年2月のヤルタ会談で旧ソ連が対日参戦することが極秘に取り決められ、アメリカは、それ以前に日本に原爆を投下し、戦後、世界で優位に立ちたいと考えていました。さらに、20億ドルの経費と最大時には12万人以上を動員して開発した原爆が戦争終結につながったとアメリカ国内向けに正当化する必要もありました。
こうした中、1945(昭和20年)の春から投下目標都市の検討が始まりました。都市の規模や爆風で効果的に損害を与えることができるなどの条件で進められ、目標都市への空襲が禁止されました。広島を第1目標としたのは、目標都市の中で唯一、連合国軍の捕虜収容所がないと思われていたためです。
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