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Web展示会 G7広島サミット関連企画展「平和記念都市広島誕生」その3 復興と平和都市への歩み

ページ番号:0000329401 更新日:2023年4月19日更新 印刷ページ表示

G7広島サミット関連企画展について

G7広島サミットの開催を契機に、城下町から発展した被爆前の広島、原爆による廃墟の中から立ち上がり復興した広島、平和記念都市として被爆の実相を伝え平和を訴える広島の姿と歩みを、街の変化と人々の暮らしに焦点を当て、写真や絵図などから振り返ります。

広島市公文書館Web展示会では、​合人社ウェンディひと・まちプラザ(広島市まちづくり市民交流プラザ)での展示会展示内容をご覧いただけます。
 なお、資料名の後ろに「※」のついている資料は、合人社ウェンディひと・まちプラザ会場のみでの展示です。

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復興と平和都市への歩み

城下町であった戦前の広島は、格子の町割りと狭い道路が特徴の街であった。原爆により瓦礫と化した街の復興計画では、大幅な街路の拡幅が要点となった。
私有地の土地を縮小し、道路や公園の用地を捻出する大規模な区画整理事業が行われた。地域ごとに順次進められた区画整理事業は、完了まで約20年を要した。
予算不足も深刻だった。国の特別支援を得るために、広島の復興を単なる戦災復興ではなく、「平和記念都市」の建設という新たな理念を掲げた復興計画とする特別法が、昭和24年(1949年)8月、一地方公共団体のみに適用される特別法としては日本で初めて制定され、ようやく復興計画が動きはじめた。
復興が進むなか、河川敷には不法占拠で建てられた建物がひしめき合っていた。基町地区の本川沿いには、こうした住宅が昭和50年(1975年)頃まで残り「原爆スラム」と呼ばれた。

037 広島復興都市計画図

昭和21年(1946年)10月と11月に決定された都市計画街路や都市計画公園・緑地、土地区画整理区域が書き込まれている。中央の赤い線で囲われた部分が全壊・全焼した地域。

037

昭和21年(1946年)12月 広島市共済組合発行/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 037 [その他のファイル/341KB]

038 ​相生橋の復旧工事

市街地の中心に位置し、原爆投下の目標にされたと言われる相生橋は、欄干が爆風で吹き飛ばされ、路面が激しく損傷した。被爆翌年の昭和21年(1946年)、とりあえず通行できるように応急工事が施された。

038

昭和21年(1946年)/岸本吉太(よした)撮影

039 中国配電(現中国電力)ビル屋上から北を望む 1945年(昭和20年)秋

中央左上には旧産業奨励館と相生橋が写っている。右下は宇品線の電車通り(現鯉城通り)。鉄筋コンクリート造の建物などが一部残るだけで、一面に瓦礫が広がり焼け野原となっている。

039

昭和20年(1945年)秋/岸本吉太(よした)撮影

040 中国配電(現中国電力)ビル屋上から北を望む 1947年(昭和22年)11月 ※

039の写真と同アングル。焼け跡にバラックが立ち、空地が耕されて畑になっている。鯉城通りが拡幅されようとしているところ。

040

昭和22年(1947年)11月/岸本吉太(よした)撮影

041 中国配電(現中国電力)ビル屋上から北を望む 1950年(昭和25年)4月 ※

039、040の写真と同アングル。写真中央部分、画面を横切るように建物が除かれ、幅の広い道路が姿を現わしてきた(後の百メートル道路)。

041

昭和25年(1950年)4月/岸本吉太(よした)撮影

042 中国電力ビル屋上から北を望む 1953年(昭和28年)2月

039、040,041の写真と同アングル。百メートル道路の工事が進み、本線と両側のグリーンベルト、その両側の歩道の境界が分かるようになる。また、鯉城通りの拡幅工事も進み歩道ができた。

042

昭和28年(1953年)2月/岸本吉太(よした)撮影

043・044 天皇巡行(「天皇陛下御来広の際の写真帖」より)

昭和22年(1947年)12月7日、昭和天皇が来広し市内を視察した。市民奉迎場となった基町の市民広場(旧護国神社前)には、市民約5万人が集まった。天皇からは「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれは、この犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して、世界平和に貢献しなければいけない」というお言葉があった。

043 護国神社入口で市民奉迎場に向かう昭和天皇の車を迎える市民 ※

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昭和22年(1947年)12月7日撮影/広島市公文書館所蔵 

ダウンロード 043 [その他のファイル/311KB]

044 奉迎台の昭和天皇と集まった市民 ※

044

昭和22年(1947年) 12月7日撮影/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 044 [その他のファイル/338KB]

045 広島平和記念都市建設法の住民投票を呼びかけるポスター ※

壊滅的な被害を受けた広島の復興には、国からの特別な財政的援助が不可欠であった。そこで、特定の地域だけに適用される特別法「広島平和記念都市建設法」の制定が構想された。
昭和24年(1949年)5月、この法律は衆参両院において満場一致で可決された。同年7月7日、法律制定の賛否を問う住民投票が行われ、投票率65パーセント、賛成9割で成立した。
広島平和記念都市建設法第1条には、平和を実現する理想の象徴として広島市を位置づけることが謳われている。

045

昭和24年(1949年)/広島市選挙管理委員会作成/ポスター/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 045 [その他のファイル/312KB]

046 京橋川沿いに立ち並ぶ平和アパート ※

昭和町(現中区)の平和アパートは市営住宅として初の鉄筋コンクリート造で建設され、昭和25年(1950年)から昭和26年(1951年)にかけて完成した。

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昭和26年(1951年)/広島市広報課撮影/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 046 [その他のファイル/344KB]

047 平田屋川の埋め立て工事

平田屋川は、江戸時代から城濠や水運用水路として活用された人工の川。明治以降は本来の役割が必要とされなくなり、戦後この川を含んだ土地が道路として計画された。川は下水道を敷設して埋め立てられ、道沿いは商店街となった(現並木通り)。

047

昭和27年(1952年)5月8日撮影/広島市都市整備局都市機能調整部市街地再開発担当課所蔵

この資料の画像は、広島市都市整備局都市機能調整部市街地再開発担当課の許諾を得て掲載しています。画像の利用については、広島市都市整備局都市機能調整部市街地再開発担当課にお問い合わせください。

048 完成したマッカーサー道路(紙屋町交差点)

元軍用地を貫通して新設された幅員40メートルの道路(現在の鯉城通りの北端部分)。昭和24年(1949年)5月には、イチョウやクスノキが植栽されたグリーンベルトが姿を現した。西練兵場跡に「マッカーサー・スタジアム」建設の構想があったことなどから、「マッカーサー道路」と呼ばれるようになった。

048

昭和27年(1952年)9月30日/広島市広報課撮影/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 048 [その他のファイル/317KB]

049 紙屋町交差点 1958年(昭和33年)6月 ※

写真48と同じアングルの6年後の写真。交差点北西側に昭和32年(1957年)7月に完成した広島バスセンター、その後ろには中国電気通信局の総合庁舎、さらにこの年復元された広島城天守閣が見える。画面上部右端には、昭和31年(1956年)に完成した広島県庁の建物が写っている。

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昭和33年(1958年)6月24日/広島市広報課撮影/写真/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 049 [その他のファイル/340KB]

050 八丁堀一帯、電車通りの道路拡張工事

区画整理の進展に伴い、市内中心部では道路の拡張工事が行われた。福屋百貨店前の電車通り(現相生通り)では、幅員を広げるため住居や店舗が取り除かれた。画面中央の福屋旧館等が除去された後、電車軌道が道路の中央線に移された。

050

昭和28年(1953年)7月21日/広島市広報課撮影/広島市公文書館所蔵​

ダウンロード 050 [その他のファイル/349KB]

051 比治山から平和大通り(百メートル道路)を望む

百メートル道路は鶴見町(現中区)から福島町(現西区)に至る3,570メートル(橋梁を含む)の道路を指す。防災道路として、特にグリーンベルトの役割を有する空間として計画された。幅員が100メートルであったため、「百メートル道路」と呼ばれた。昭和26年(1951年)11月には市民から名称を懸賞で募集し「平和大通り」に決まった。

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昭和30年(1955年)4月/大段徳市(おおだんとくいち)撮影/広島市市民局文化振興課所蔵

この資料の画像については市民局文化振興課の許諾を得て掲載しています。画僧の利用については、市民局文化振興課にお問い合わせください。

052 百メートル道路の緑化 ※

百メートル道路は早くから用地が確保されたが、予算不足から長らく空き地の状態で放置されていた。市長の発案により、県内外から緑化のための樹木の提供を呼びかける「供木運動」が展開された。提供された樹木は百メートル道路のグリーンベルトや平和記念公園に植えられた。

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昭和32年(1957年)11月27日/広島市広報課撮影/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 052 [その他のファイル/363KB]

053 完成した広島市民球場 ※

昭和32年(1957年)、経済界の寄付で夜間照明付きの球場が建設された。戦後プロ野球が復活し、昭和25年(1950年)、地元球団カープが誕生したが、球団の経営は最初から苦しかった。球場の入り口には、募金を集める酒樽が置かれ、少年はグラブを買うための貯金を寄付した。豊かではなかった市民にとって、カープの歴史は忘れがたい広島復興史の一頁でもあった、球場は7月20日に完成し、22日に竣工式が行われた。

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昭和32年(1957年)7月22日撮影/広島市公文書館所蔵​​

ダウンロード 053 [その他のファイル/363KB]

054 落成した市民球場と原爆ドーム

昭和32年(1957年)7月22日、広島市民球場の竣工式が行われた。当時の市民球場は一塁側と三塁側の内野スタンドが低く、スタンドから原爆ドームを望むことができた。

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昭和32年(1957年)7月頃/みづま工房撮影・所蔵 (寄託資料)

055 広島復興大博覧会の開催

広島復興大博覧会は、広島市の復興の現状と産業や観光を紹介し、科学・産業・貿易・文化の精華を集めて展示することを目的に、昭和33年(1958年)4月1日から5月20日までの50日間、平和記念公園、広島城跡、平和大通り一帯を主会場に開催された。写真は第一会場になった平和記念公園。

055

昭和33年(1958年)/大前静治撮影/広島市公文書館所蔵

056 完成した基町の高層アパート群と本川沿いの不法住宅

河岸が緑地として徐々に整備されるなか、そこに建てられていた不法建築も撤去された。基町(現中区)の「原爆スラム」と呼ばれた地区は、1970年代までその姿が残されていた。背後の高層アパート群は、この地区の住民等の住居として整備された。こうして、ようやく広島の戦災復興事業は完了した。

056

昭和40年代後半(1970年代前半)/明田弘司(あけだこうし)撮影 (寄託資料)

かつて繁華街であった中島地区には、平和記念公園が整備された。この公園の設計は昭和24年(1949年)4月に募集されコンペにより東京大学の丹下健三グループの作品が1位に選ばれた。
丹下氏のデザインは百メートル道路(平和大通り)を正面に見るように立つと、広島平和記念資料館の列柱廊と慰霊施設であるアーチの塔を透かして原爆ドームが見通せるように施設が配置されていた。現在、アーチの代わりに埴輪型の屋根を持つ慰霊碑が設置されているが、平和記念資料館、慰霊碑、原爆ドームを一直線上に配置したデザインは「丹下の軸線」とも呼ばれている。
また、平和記念公園の入口となる元安川に架かる平和大橋、本川に架かる西平和大橋の高欄は、いずれも日系アメリカ人の彫刻家イサム・ノグチがデザインし、平和大通りを象徴する橋となっている。これら、丹下氏らの構想に基づく南北軸と平和大通りの東西軸は「平和の軸」として広島の街づくりをする上で、その理念が継承されている。

057 丹下健三グループの平和記念公園設計競技当選案の模型

昭和24年(1949年)5月、広島平和記念都市建設法が国会で可決された。これと並行して広島市は、中島地区の公園を広く設計競技にかけることとした。7月20日の締め切りまでに145点にのぼる案が提出され、東京大学建築学教室の丹下健三グループの案が1位に選ばれた。この模型は後に作成されたもの。

057

昭和25年(1950年)頃撮影/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 057 [その他のファイル/377KB]

058 Peace Park Project

丹下健三らが構想した平和記念公園等の全体図。
百メートル道路(平和大通り)、平和記念公園に続く現在の中央公園や市営基町高層アパートの敷地を含む広い範囲を対象とした構想。児童センター、体育館、プール、サッカー場等のスポーツ施設、博物館、屋外劇場等の文化芸術施設が城を取り囲むように配置されている。

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昭和25年(1950年)5月25日作成(推定)/図面/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 058 [その他のファイル/282KB]

059 完成した原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)と原爆ドーム ※

平和記念公園競技設計案の原爆慰霊碑はアーチに鐘を吊るすデザインだったが、経費等の問題から埴輪型の現在のデザインとなった。昭和27年(1952年)8月6日除幕。
慰霊碑内の石棺には、亡くなられた被爆者の名簿がおさめられている。

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昭和27年(1952年)9月16日/広島市広報課撮影/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 059 [その他のファイル/394KB]

060 原爆死没者慰霊碑碑文

慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の文字が刻まれている。

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昭和27年(1952年)8月21日/広島市広報課撮影/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 060 [その他のファイル/342KB]

061 原爆死没者慰霊碑碑文の英訳を伝える手紙

慰霊碑の碑文を作成した雑賀忠義(さいかただよし)広島大学教授から広島市職員に宛てた書簡には、英訳決定の経過と碑文の英訳が記されている。

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昭和27年(1952年)頃/雑賀忠義(さいかただよし)発藤本千万太(ふじもとちまた)宛書簡/広島市公文書館所蔵​

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062 慰霊碑に献花するドジャース選手団 ※

慰霊碑には国内外の著名人が訪れ献花をしている。昭和31年(1956年)には、日米親善野球で広島を訪れたアメリカの球団ブルックリン・ドジャースの選手たちが慰霊碑内で石棺に献花した。

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昭和31年(1956年)11月撮影/広島市公文書館(水馬愛子寄贈)

ダウンロード 062[その他のファイル/124KB]

063 完成した平和大橋と原爆ドーム

平和記念公園の両側に架かる橋の名称は、平和大通りと同じく懸賞で募集され、それぞれ「平和大橋」「西平和大橋」に決定した。
橋の高欄は、日系アメリカ人の彫刻家イサム・ノグチのスケッチをもとに設計された。写真の中央には原爆ドームが見える。

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昭和27年(1952年)10月8日/広島市広報課撮影/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 063 [その他のファイル/287KB]

064 西平和大橋の建設現場を視察するイサム・ノグチと丹下健三 ※

写真右端が平和記念公園を設計した丹下健三。平和大橋と西平和大橋の高欄をデザインした日系アメリカ人の彫刻家イサム・ノグチは右から3人目。

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昭和26年(1951年)11月27日/広島市広報課撮影/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 064 [その他のファイル/400KB]

065 整備されつつある平和記念公園

商工会議所屋上から南方を撮影したもの。原爆ドームの後ろに平和会館、右隣に建設中の平和記念資料館が見える。ドームの右上空にかすかに似島が写っている。

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昭和28年(1953年)8月5日/広島市広報課撮影/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 065 [その他のファイル/364KB]

066 完成を待つ原爆資料館

競技設計では平和記念陳列館と称され、丹下健三が記念陳列館と呼んだ原爆資料館(広島平和記念資料館)は、昭和26年(1951年)に着工し、昭和30年(1955年)8月に竣工、8月24日に開館した。

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昭和29年(1954年)12月2日/広島市広報課撮影/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 066 [その他のファイル/394KB]

067 平和記念公園全景 1958年(昭和33年)7月31日撮影

中央には昭和30年(1955年)6月に開館した平和会館、同年8月に開館した平和記念資料館、同じく3月に開館した広島市公会堂が写っている。平和記念公園から民家が立ち退き、植樹により緑が増えている。

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昭和33年(1958年)7月31日/広島市広報課撮影/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 067 [その他のファイル/379KB]

広島の平和の実現を目指す取り組みは、昭和24年(1949年)の「広島平和記念都市建設法」成立以前から始まっていた。
昭和22年(1947年)8月に開催された第1回平和祭(中止となった昭和25年(1950年)を除き、名称を変えながらも以後毎年開催)では、原爆による犠牲者の慰霊だけでなく、世界平和の実現を訴えた。
昭和29年(1954年)、ビキニ水爆実験で第5福竜丸が被ばくした事件は、全国的な原水爆禁止運動へと発展した。翌年、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開催され、「ヒロシマ」は世界的な核兵器廃絶運動のシンボルとなっていった。この大会により、被爆の実相と被爆者の窮状が広く知られることになり、被爆者救済の新たな動きにつながった。
また、原爆の被害を伝えるため、昭和24年(1949年)には原爆の熱線をあびた瓦や石などの遺物を展示する施設が基町の中央公民館内に開室した。のちに平和記念資料館に引き継がれ、被爆資料や証言の収集、被爆体験伝承等の取り組みが続けられている。

068 第1回平和祭で平和宣言を読む濱井信三市長

被爆から2周年目にあたる昭和22年(1947年)8月6日、広島平和祭協会の主催により第1回平和祭が中島本町(なかじまほんまち)(現中区)の平和広場で挙行された。
平和祭では、平和の歌(現広島平和の歌。この年平和祭で歌うために公募された。)の演奏・合唱に続き濱井信三広島市長が平和宣言を読み上げ、8時15分にはこの年除幕された平和の鐘が打ち鳴らされた。

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昭和22年(1947年)8月6日/Stephen Kelen撮影 

069 第3回平和祭のポスター ※

原子力の「平和利用」への期待を表すかのように、昭和24年(1949年)の第3回平和祭ポスターには地球上を回る原子核の図柄に「Peace Forever(恒久平和)」の文字があしらわれていた。このポスターは広島市長のサインを添えて世界の161都市に送られた。

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昭和24年(1949年)作成/ポスター/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 069 [その他のファイル/286KB]

070 原爆記念館の被爆資料等の展示風景

昭和24年(1949年)9月、広島市は原子爆弾の被害を伝える原爆資料を展示するため、基町(現中区)の中央公民館の一室に「原爆参考資料陳列室」を開設した。翌昭和25年(1950年)8月には中央公民館の隣に「原爆記念館」が完成し、現在の場所に広島平和記念資料館が開館するまでの間、ここで被爆した瓦や石などの資料が展示された。

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昭和27年(1952年)8月27日/広島市広報課撮影/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 070 [その他のファイル/353KB]

071 被爆10年目(1955年)の平和記念式典

この年8月6日から第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催されたため、式典へも多くの大会参加者が出席した。5万人を超えた人々が慰霊碑を訪れたとも言われている。
平和記念資料館はこの月の後半にようやく開館したが、まだ公園内にはバラックが残っていた。

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昭和30年(1955年)8月6日/明田弘司(あけだこうし)撮影 (寄託資料)

072 第1回原水爆禁止世界大会 ※

昭和29年(1954年)のビキニ水爆実験を契機に、反核の草の根運動から原水爆禁止署名運動が全国で広がり、2,500万人の署名を集めた。この署名運動の成功と被爆10周年を記念して、第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催された。大会は広島市公会堂で昭和30年(1955年)8月6日から8日までの3日間開催され、14か国の代表と日本国内の全46都道府県・97の全国組織が参加した。
大会アピールでは、「原水爆が禁止されてこそ真に被害者を救うことができます」と訴えられ、被爆者の救済が大きく取り上げられた。

072

昭和30年(1955年)8月6日/明田弘司(あけだこうし)撮影 (寄託資料)

073 第一次保存工事中の原爆ドーム

原爆ドームの存続については、賛否両論があったが、昭和41年(1966年)、広島市議会が全会一致で原爆ドームの永久保存を決議した。第1回の保存工事は、全国から集まった募金により1967年に行われた。

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昭和42年(1967年)7月撮影/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 073 [その他のファイル/396KB]

074 現在の原爆ドーム

原爆ドームは平成8年(1996年)12月、核兵器廃絶と人類の平和を求める誓いのシンボルとして、ユネスコの世界平和遺産一覧表に登録された。

074

令和4年(2022年)5月23日/広島市広報課撮影・所蔵

075 平和記念公園付近 ※

075

令和4年(2022年)10月1日/広島市広報課撮影・所蔵

076 平和記念公園・市街中心部 西側から撮影 2023年(令和5年)2月27日

076

令和5年(2023年)2月27日/広島市広報課撮影・所蔵

077 広島城・市街中心部 北東側から撮影

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令和5年(2023年)2月27日/広島市広報課撮影・所蔵​

078 原爆被爆者の冥福を祈る灯ろう流し ※

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平成27年(2015年)8月6日/広島市広報課撮影/広島市公文書館所蔵

ダウンロード 078 [その他のファイル/303KB]

👇続きはこちらからご覧いただけます

目次(その4)

戦前の街の賑わい

10.城下町の名残
11.街の賑わい

 

目次(その1、その2)

はじめに

戦前の広島(その1)

1.城下町広島
2.近代の広島
3.戦時下の広島

被爆(その2)

4.原子爆弾投下
5.廃墟の中での市民生活

■ 広島市立中央図書館会場
  開催期間 令和5年(2023年)4月19日(水曜日)から5月28日(日曜日)まで
 合人社ウェンディひと・まちプラザ(広島市まちづくり市民交流プラザ)会場 
  開催期間 令和5年(2023年)5月16日(火曜日)から5月21日(日曜日)まで
■ 広島市公文書館Web展示会
  
掲載開始 令和5年(2023年)4月19日(水曜日)から👉 展示会の詳細についてはこちら

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