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Web展示会「平和記念公園ができるまで」

ページ番号:0000356527 更新日:2023年12月7日更新 印刷ページ表示

広島市公文書館開催の展示会のWeb版です。

会場での展示は、
開催期間 令和5年(2023年)10月23日(月曜日)から令和6年(2024年)2月2日(金曜日)まで
開催場所 広島市公文書館7階ロビー及び閲覧室

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はじめに

 本川(ほんかわ)(旧太田川)と元安川に挟まれた中島地区(現中区)は、舟運に恵まれ、西国街道(さいごくかいどう)が通り、近世以来広島屈指の繁華街でした。しかし原爆投下により、爆心地に近接する同地区は一瞬にして壊滅し、一帯は焦土と化しました。
 終戦後間もなく、中島地区を記念公園にする構想が広島県などから出されました。その後、広島市復興審議会での検討等を経て、昭和21年(1946年)11月、中島地区を含む、爆心地付近を平和記念公園とする計画が決定されました。
 昭和24年(1949年)5月、広島市のみに適用される特別法「広島平和記念都市建設法」の法案が国会で可決されると、同20日から平和記念公園と平和記念館の設計案の公募(設計競技)が始まりました。平和記念公園は、この設計競技で1等に選ばれた丹下健三グループの案に沿って整備が開始されました。
 設計案が決まった後も、物価の高騰や予算不足などの経済的な問題や、中島地区にバラックを建てて生活している住民の立ち退き等の問題があり、これらに対応しながら公園整備が進められました。
 この展示会では、「平和記念公園」の設置が構想され、公園として整備された経緯を資料からたどります。

平和記念公園の構想

 昭和20年(1945年)8月6日の原子爆弾投下により、広島屈指の繁華街であった中島地区は、一瞬のうちに壊滅した。
 被爆後間もない昭和20年(1945年)9月、広島県は爆心地近くを「記念区域」として残す方針を発表した。広島市長の諮問を受け復興計画を審議した広島市復興審議会では、同21年(1946年)2月、中島地区を公園とする計画案が発表された。これらの計画は国の復興都市計画に反映され、同年11月、中島地区への公園整備を盛り込んだ「広島復興都市公園計画」が戦災復興院から告示された。
 しかし、市財政のひっ迫により、予算が確保できず、市街の一等地を公園化することに反対する市民も多かった。広島市は、海外に移住した広島県出身者へ経済的援助を依頼するなど、国内外に支援を呼び掛けながら国の補助を求めたが、補助は得られず、事業は停滞した。
 昭和24年(1949年)5月、広島市にのみ適用される特別法である「広島平和記念都市建設法案」が国会で可決された。同法により広島市が実施する都市計画事業に国からの援助が得られる見通しが立ったことから、平和記念公園の整備計画が動き出した。

 

1 被爆後の中島地区

​基町(広島市中区)の広島商工会議所(当時は広島県商工経済会)の建物から南西方面を撮影した写真。
写真の左手前に、爆風をほぼ真上から受けて倒壊を免れた旧産業奨励館の建物(現原爆ドーム)が見える。その右奥の中島地区(現平和記念公園)は、コンクリート造の一部の建物を除きほとんどの建物が倒壊または焼失し、焼け野原となった。

1 被爆後の中島地区

昭和20年(1945年)10月1日または2日 林重男撮影/広島平和記念資料館提供

この資料の画像は、「広島平和記念資料館」の許諾を得て掲載しています。画像の利用については、広島平和記念資料館にお問い合わせください。​

2 爆心地周辺の公園構想に関する新聞記事

  • 2ー1 原子爆弾の記念施設

昭和20年(1945年)9月2日付の中国新聞は、広島県が、原子爆弾の投下により最も被害が大きかった爆発地点中心付近を相当広範囲に渡って記念区域として存置する方針であると報じている。一方で、「原子爆弾の害毒が相当期間残留することを考慮」して、一帯を空地とするとも報じている。​

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(昭和20年(1945年)9月2日付「中国新聞」)

この資料は、公文書館でご覧いただけます。

 

  • 2ー2 新生広島市都市計画

昭和21年(1946年)2月27日付の中国新聞では、同月25日に開催された第1回の広島市復興審議会において、爆心地に公園、記念施設を設ける等の都市計画案が発表されたと報じている。​

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(昭和21年(1946年)2月27日付「中国新聞」)

この資料は、公文書館でご覧いただけます。

「復興審議会一件」 昭和21年~23年(1946年~1948年)

 昭和21年(1946年)1月、広島市は復興事業を統一的に処理するため復興局を設置し、同年2月15日には、復興計画に関する市長の諮問に対し助言・答申を行う機関として、広島市復興審議会を設置した。
 元広島市長の藤田若水(ふじたわかみ)※を委員長に、学識経験者、各界や各種団体の代表者ら約30人によって構成されたこの審議会は、元県知事で、元戦災復興院次長を務めた松村光麿(まつむらみつま)らの顧問を招き、市の復興計画を多方面にわたり検討、協議した。
 この綴には、昭和23年(1948年)3月に解散するまでの復興審議会の議事資料等が綴られている。
※任期は昭和14年(1939年)12月26日~昭和18年(1943年)5月9日

 

3 第1回復興審議会の会議録

昭和21年(1946年)2月25日に開催された第1回復興審議会の議事録。この記録には具体的な議論の内容は記されていないが、同月27日付の中国新聞の記事(資料2ー2)では、審議会において爆心地に公園、記念施設を設ける都市計画が発表されたと報じている。​

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昭和21年(1946年)2月25日(「復興審議会一件」より)

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4 緑地公園・墓苑の位置等の決定報告

昭和21年(1946年)6月24日付で復興審議会委員長から広島市長に提出された、文理科大学及び各種専門学校の位置、緑地公園・墓苑の位置等に関する中間報告。
全4項のうち、第2項では、緑地公園の配置と墓苑の場所については、復興局が調査研究して立案した案を承諾し、「別紙図面」のとおり意見が一致したと報告している。
この「別紙図面」と思われる資料5の「広島都市計画街路網図」(ひろしまとしけいかくがいろもうず)では、中島地区は「復興計画公園」に指定されている。復興計画公園の計画案は、昭和21年(1946年)10月19日の第40回広島地方委員会で決定し、同年11月1日、戦災復興院から広島復興都市計画公園の決定が告示された。​

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昭和21年(1946年)6月24日(「復興審議会一件」より)

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5 広島都市計画街路網図(ひろしまとしけいかくがいろもうず)​【複製】

「復興審議会一件」綴(つづり)の巻末の袋に収められていた緑地公園・墓苑の配置計画図面。昭和21年(1946年)6月24日付の報告に添付された計画図と推察される。
この図では、「復興計画公園」、「既定決定都市計画公園」等が色分けで示されている。黒い線で囲まれた緑色の範囲が復興計画公園として決定された場所で、百メートル道路の北側の中島地区のほか、北側の現中央公園の一帯などが指定されており、後に都市計画決定されたものとは異なるところもある。
原図には昭和18年(1943年)3月に広島市土木部都市計画課が作成した地図が使用されている。​

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昭和21年(1946年)(「復興審議会一件」より)

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6 昭和22年(1947年)​当時の公園計画

復興第2年号として発行された『昭和22年(1947年)版 市勢要覧』は、「復興計画並びに人口、建物等の復旧状況」という項目を設けている。
そのうち、「復興計画の内容」の中で、「緑地及び公園」として復興区域内の1割以上を緑地及び公園に充てる計画で進めていること、中島慈仙寺鼻一帯を「平和記念公園」として計画したことなどが記されている。​

6 昭和22年(1947年)​当時の公園計画(上段)


6 昭和22年(1947年)​当時の公園計画(下段)

昭和22年(1947年)12月(広島市発行『昭和22年(1947年)版 市勢要覧』より)

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『昭和22年(1947年)版 市勢要覧』の全文はこちら👉「デジタルギャラリー(広島市勢要覧)」

7 ハワイ広島戦災難民救済会への援助を依頼する書簡案

原爆により未曽有の被害を受けた“郷土広島”を救援するためにハワイで「広島戦災難民救済会」が結成されたという報道を受け、広島市は、同会への謝意と、広島の復興の現状、将来の計画を伝え、援助を依頼するため、広島市長・市議会議長の連名で書簡を送った。これはその書簡案の一部。
書簡案では広島市の現状に続いて、将来計画として、平和記念館の建設、児童文化会館の建設、総合大学の設置、第6回国民体育大会誘致を挙げている。特に、平和記念館本館建設については、書簡案11枚目に「全日本から懸賞募集をすることになっております。斯界の最高峰を行く立派な設計が遠からず続々と応募されることでありましょう。(略)」と小さく補記されており、平和記念公園及び平和記念館建設にかける当時の市の熱意がうかがえる。
この書簡は、「広島平和記念館建設趣意書」、「広島復興都市計画図」等を添えて、昭和23年(1948年)5月18日、航空便で発送された。​

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1枚目

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5枚目​

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6枚目

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11枚目

昭和23年(1948年)5月(「昭和23年度(1948年度) 企画書類綴」(平和協会資料1)より)


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  ダウンロード 7(5枚目) [その他のファイル/664KB]
  ダウンロード 7(6枚目) [その他のファイル/673KB]
  ダウンロード 7(11枚目) [その他のファイル/674KB]

設計懸賞募集の実施

 平和記念公園と平和記念館の設計案を公募する方針は、早くから決まっていた。広島市を平和記念都市として建設するための市長の責務や国の援助等を規定した「広島平和記念都市建設法案」が昭和24年(1949年)5月10日に衆議院、翌日参議院を通過し、広島市は同月20日から平和記念公園及び平和記念館の設計懸賞募集(設計競技)を開始した。この設計競技は新聞や建築雑誌等でも紹介された。
 応募期限の7月20日までに提出された作品は145点にのぼり、その中には後に原爆ドームの保存に大きな役割を果たした佐藤重夫の作品も含まれていた。
 この設計競技では、丹下健三グループの設計案が1等に選ばれた。丹下グループの案は、百メートル道路と平行に記念施設を配置し、公園の中央のアーチを通して百メートル道路から垂直の方向に原爆ドームが見えるよう、東西と南北の軸線を意識したものだった。
 広島平和記念都市建設法は、7月7日の住民投票で賛成多数を得て成立、8月6日に公布・施行された。これにより、平和記念公園の整備が本格的に開始された。

 

8 広島市平和記念公園及ビ記念館設計懸賞募集要項

広島市が昭和24年(1949年)5月20日から7月20日まで公募した、広島市平和記念公園及ビ記念館の設計懸賞(設計競技)の募集要項。三つ折り。建設省、広島県のほか、新聞各社、公園緑地協会が後援している。2部ある要項のうち一方の表紙には「元産業奨励会館、之を爆撃の記念に残す」という鉛筆書きのメモがある。
要項には、公園予定地は「原爆の中心地である広島市中島町細工町(なかじまちょう・さいくちょう)を含む地域約123,750平方米(平方メートル)(37,500坪)」と記されている。この設計競技では、公園の造園と平和記念館の設計が求められた。
募集開始の約1か月前には、新聞でもこの募集の概要が報じられたが、この要項は平和記念都市建設法が国会を通過した後の日付(5月20日)を募集期間(開始日)としている。
この要項、資料9の書簡、資料10の写真はいずれも佐藤重夫が所蔵していたもので、令和5年(2023年)5月、御遺族から寄贈された。この度この設計競技に応募した佐藤重夫作の作品の原本(資料番号11~13)が御遺族宅で発見されたため、合わせて展示している。
(佐藤重夫資料)​

8 広島市平和記念公園及ビ記念館設計懸賞募集要項 

8 広島市平和記念公園及ビ記念館設計懸賞募集要項(スタンプあり)


8-3左 202306_01_03_募集要項1_裏側 

8-3中央 202306_01_03_募集要項1_裏側(広島市公文書館所蔵) 

8-3右 202306_01_03_募集要項1_裏側(広島市公文書館所蔵)

8-2左 202306_01_02_募集要項1_表側(広島市公文書館所蔵) 

8-2右 【出力不要】202306_01_02_募集要項1_表側(広島市公文書館所蔵)

昭和24年(1949年)5月 広島市
 
​​👉ダウンロード 8表紙スタンプなし [その他のファイル/585KB]
  ダウンロード 8表紙スタンプあり[その他のファイル/942KB]
  ダウンロード 8(1募集の趣旨~8応募上の注意) [その他のファイル/501KB]
  ダウンロード 8(8応募上の注意~11応募作品について・図) [その他のファイル/615KB]

9 佐藤重夫宛書簡

当時岡山で建設事務所を開設していた佐藤重夫に代わり、広島市役所に資料を取りに行った池田建設株式会社広島出張所長から佐藤に送られた書簡。
広島市の担当職員が補足して伝えた注意事項、(A)元産業奨励館は爆撃の記念として現状のまま残すこと、(B)写真3点(資料10)は継いで見ること。写真は商工会議所の屋上から撮影したもの、(C)鳥瞰図は着色を施しても良い。ペン画も可、(D)元安橋と本川橋(ほんかわばし)は現在のまま残すので、この両橋を結ぶ道路が園内にも必要だろう、の4点を伝える内容となっている。
元広島県産業奨励館を残すことは要項にも記されているが、口頭でも念押しされていることから、平和記念公園の設計において、原爆ドームの扱いを重要視していたことがうかがえる。
(佐藤重夫資料)​

202306_03_02_書簡_2枚目 202306_03_01_書簡_1枚目

​昭和24年(1949年)6月6日付

👉ダウンロード 9右 [その他のファイル/530KB]
  ダウンロード 9左 [その他のファイル/520KB]

 

10 昭和24年(1949年)頃の中島地区

広島商工会議所の屋上から、原爆ドームと中島地区一帯を撮影した3枚組の写真。資料8の「8.応募上の注意」(3)にある、応募希望者を対象に100円で配付された「現況写真及公園区域現況平面図」のうちの「現況写真」。佐藤重夫がパノラマ状に組んだものと思われる。
原爆ドームの周囲に木造の建物が並んでおり、中には商店もある様子等から、復興が進み、賑わいが戻ってきたことが分かる。また中央の写真では、中島地区の平和広場に建設された平和祭のステージに「No More Hiroshimas」の文字や、周辺に住宅が建ち始めている様子が見える。
(佐藤重夫資料)​

202306_04_00_現況写真

現況写真001 現況写真002 現況写真003

​昭和24年(1949年)頃撮影

👉ダウンロード 10左 [その他のファイル/266KB]
  ダウンロード 10中央 [その他のファイル/253KB]
  ダウンロード 10右 [その他のファイル/202KB]

広島市平和記念公園及び平和記念館設計競技応募作品 (資料番号11~13)

 昭和24年(1949年)5月20日から7月20日まで募集された平和記念公園及び平和記念館の設計競技のために、佐藤重夫が作成し、応募した作品。
 図面は要項のとおり、配置図(全体平面図)【資料12】、敷地全体を見渡す鳥瞰図【資料11】平和記念館の平面図・立面図(建築略設計図)【資料13】の3種類。図面名称の横の「暗号 地」は、審査の際に作成者名によって結果が左右されないよう、氏名の代わりに付された作成者ごとの暗号。
 設計競技の応募図面は、求めがあれば応募者に返却されることになっていたこともあり、広島市には残っていなかった。そのため、氏名が分かる入賞者等に図面の有無を確認していたが、これまで見つかった例はなく、今回古川修文(ふるかわのぶひさ)元法政大学教授により佐藤重夫広島大学名誉教授の御遺族宅で発見されたこの図面が、現時点では唯一の応募図面の原本である。
(佐藤禎子(さとうよしこ)氏 原本所蔵)

佐藤重夫広島大学名誉教授について

 図面を作成した佐藤重夫は、東京大学工学部建築学科で建築を学び、設計競技で審査員を務めた岸田日出刀(きしだひでと)教授の指導を受けていた。卒業制作は1等賞となり「辰野賞」※を受賞した。設計競技では、3年後輩で同じ「辰野賞」を受賞した丹下健三が1等に入賞した。2人はいずれも戦後、復興院の嘱託として都市の復興に関わっており、佐藤は岡山・福山を、丹下は広島を担当し、親交があった。
 佐藤は設計競技の翌年、広島大学工学部助教授として広島に招かれた。原爆ドーム保存機運が高まりつつあった昭和40年(1965年)、濱井広島市長は、佐藤を中心とする広島大学工学部建築学教室にドームの強度調査を依頼した。調査の結果、特殊な接着剤(エポキシ樹脂)で補強すれば保存可能という報告書が提出され、これが翌41年(1966年)の市議会の原爆ドーム保存決議に繋がった。国内外からの寄付金を充てて実施された昭和42年(1967年)の保存工事でも、佐藤は中心的な役割を果たした。
※辰野賞は、東京大学工学部建築学科の卒業設計の優秀作品に授与される。

 

11 広島平和記念公園及ビ記念館鳥瞰図(彩色鳥瞰図)【複製】

11 広島平和記念公園及ビ記念館鳥瞰図

昭和24年(1949年)
佐藤重夫作 佐藤禎子(さとうよしこ)氏 原本所蔵
  原本サイズ:1,092ミリメートル×789ミリメートル

この資料の画像の利用については、当館までお問い合わせください。​

 

12 配置図(公園内施設配置図)【複製】

配置図(公園内施設配置図)

昭和24年(1949年)
佐藤重夫作 佐藤禎子(さとうよしこ)氏 原本所蔵
  原本サイズ:1,089ミリメートル×791ミリメートル

この資料の画像の利用については、当館までお問い合わせください。​

 

13 平和記念館設計図(​施設平面図・立面図)【複製】

建築略設計図(平面図・立面図)

昭和24年(1949年)
佐藤重夫作 佐藤禎子(さとうよしこ)氏 原本所蔵
  原本サイズ:1,099ミリメートル×794ミリメートル

この資料の画像の利用については、当館までお問い合わせください。​

 

14 1等となった丹下グループの設計競技応募作品写真 

平和記念公園と平和記念館の設計競技で1等に選ばれた丹下健三グループの作品を撮影した写真。図面原本は見つかっていない。
応募作品は当時東京大学助教授であった丹下健三を中心に、丹下研究室の浅田孝、大谷幸夫、木村徳国(きむらのりくに)の4人によって制作された。いずれも図面の端に作成時期と思われる「19497」の文字が記されており、裏面には丹下健三の署名がある。
丹下らのプランでは、中島地区を東西に横切る百メートル道路に面して中央に記念陳列館、その東西に平和記念本館、集会所が配置され、その東西の軸線と百メートル道路から垂直に原爆ドームに伸びる南北の軸線が直角に交わるように、公園中央にアーチ状のモニュメントが置かれていた。
陳列館1階はピロティ※になっており、百メートル道路から陳列館1階の柱間(はしらま)、公園中央のアーチを通して原爆ドームが見通せる構造になっていた。このアーチの建設は実現しなかったが、ピロティを通して慰霊碑の後方に原爆ドームが見えるデザインは生かされている。
※ピロティとは、2階以上を部屋とし、1階を柱だけにした建物の1階部分

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昭和24年(1949年)7月

👉ダウンロード 14上段 [その他のファイル/1.15MB]
  ダウンロード 14中段 [その他のファイル/1.11MB]
  ダウンロード 14下段 [その他のファイル/1.34MB]

15 広島平和記念都市建設事業計画案

広島平和記念都市建設法が施行された昭和24年度(1949年度)に発行された市勢要覧は、「広島平和記念都市建設法制定記念号」の副題が付けられ、中には昭和24年(1949年)10月3日に開催された第1回平和文化都市建設協議会に広島市が提出した、昭和25年度(1950年度)からの平和記念都市建設都市計画事業の5か年計画案が掲載されている。
この計画案では、平和記念施設について、「平和都市広島を象徴する事業として中島、中央両公園を一括して平和記念公園とし此処に平和記念館、記念碑、運動競技場等を設置して世界平和に寄与すると共に、国際人交歓の一大中心地とする」と記されている。また、「中島公園」については、「此処に、平和記念館を中心として、平和に関するあらゆる施設を集め、併せて音楽堂や野外劇場も設けられる予定」と記されている。
平和記念公園と平和記念施設に、「世界平和に寄与する」大きな役割を期待していたことが分かる。​

昭和24市勢要覧0001(表紙)

15 昭和24市勢要覧p121(1枚目)

15 昭和24市勢要覧p124(2枚目)

15 昭和24市勢要覧p124(3枚目)

昭和24市勢要覧0073-1(2)(4枚目)

昭和25年(1950年)3月(広島市発行『昭和24年(1949年)版 市勢要覧』より)

👉ダウンロード 15表紙 [その他のファイル/683KB]
  ダウンロード 15(1枚目) [その他のファイル/347KB]
  ダウンロード 15(2枚目) [その他のファイル/335KB]
  ダウンロード 15(3枚目) [その他のファイル/334KB]
  ダウンロード 15(4枚目) [その他のファイル/300KB]

『昭和24年(1949年)版 市勢要覧』の全文はこちら👉「デジタルギャラリー(広島市勢要覧)」

公園整備と景観の変遷

 昭和24年(1949年)8月、平和記念公園の設計案が決定し、その実施に国の援助が得られる見通しが立ったが、同年2月のドッジ・ラインによる財政金融引締め政策や、翌年勃発した朝鮮戦争の影響による物価高騰等があり、公園の整備は予定どおりには進まなかった。
 慰霊の鐘を吊るすアーチは慰霊碑に変更され、イサム・ノグチの玉のようなデザインを経て丹下による埴輪型の慰霊碑(昭和27年(1952年)8月6日除幕)となった。集会所は、広島特有の施設ではないとの見解から国の補助が得られず、地元財界により、デザインも異なるホテル併設の公会堂として建設された(昭和30年(1955年)3月完成)。
​ 昭和30年(1955年)5月には平和記念館、8月には平和記念資料館が完成し、ようやく平和記念都市建設都市計画事業としての平和記念公園の整備は終了した。一方、公園予定地内のバラック等は、昭和34年(1959年)頃まで残った。​

 

16 丹下健三書簡

丹下健三から広島市秘書課職員に宛てた書簡。
平和会館の建設経費に関する建設省の八嶋都市局長の意見として、国は陳列室には補助金を支給できるが、これ以外の集会場、記念館本館については他都市との兼ね合いもあることから建設費を出すのは難しいという考えであることを伝えている。
丹下はこれを踏まえて広島市に対し、丹下案のような陳列室・本館・集会場の3要素を持ったものを国の補助がなくても建てるか、あるいは「小じんまりとした」陳列館だけを独立して建てるか、方針を示してほしいと依頼している。
この書簡では他に、広島市全体の都市計画との調整や中央公園の計画、児童センターの計画等について、懸案事項等を確認している。
当館ではこの書簡を含め23通(昭和24年(1949年)11月~昭和26年(1951年)6月)の丹下健三らからの書簡を所蔵している。​

丹下書簡6-6 丹下書簡6-7

昭和25年(1950年)4月7日(「丹下健三書簡綴」(藤本千万太(ふじもとちまた)資料)より)

👉ダウンロード 16左 [その他のファイル/483KB]
  ダウンロード 16右 [その他のファイル/493KB]

 

17 Peace Park Project

平和記念公園の設計競技で1等に選ばれた丹下健三らが構想した、現平和記念公園と現中央公園を含む区域の全体図。
現平和記念公園内には、平和会館(Peace Hall)、平和広場(Peace Square)、平和塔並びに慰霊堂(Peace Arch & Memorial Chapel)が書き込まれている。
また、本川(ほんかわ)上流東岸の現在の中央公園・市営基町高層アパートのエリアには、「Children’s Center」として、児童文化会館(Children’s Hall)や児童図書館(Library)などの子どものための施設、屋外劇場(Open-Air Theater)や球技広場(Football Field)等の文化・スポーツ施設が配置されている。​

17 Peace Park Project
昭和25年(1950年)5月25日作成か

👉ダウンロード 17 [その他のファイル/1.66MB]

 

18 広島平和都市建設構想案 昭和25年(1950年)10月

市長室が作成した広島を平和記念都市として建設するための構想案。被爆後5年間にわたり検討された都市建設の方針を踏まえて、平和都市としての広島のあり方、計画の中心的(特殊的)課題、一般的課題、具体的方策をまとめている。
中心的な課題の中の平和施設のうち、平和公園については、「平和の源泉たるにふさわしい緑園としたい」こと、城跡や原爆遺跡などがある立地を生かし、「この上に平和運動の中心的役割を果たす施設及びこれと密接な関連を有する文化施設を築造する」ことが記されている。
平和都市建設構想は、広島平和記念都市建設法の制定後の昭和24年(1949年)11月頃から作成に着手され、翌25年(1950年)2月に1949年版が作成された。この昭和25年(1950年)10月付の構想案は、さらに検討を加えて作成されたもの。​

18 広島平和都市建設構想案 昭和25年(1950年)​10月

昭和25年(1950年)10月 広島市市長室

👉ダウンロード 18 [その他のファイル/1.09MB]

 

19 広島平和記念都市建設事業5箇年計画の修正案

広島平和記念都市建設法制定後、広島市が実施する都市計画事業は、すべて平和記念都市建設都市計画事業として行うことになった。これにより、広島市は平和記念施設の整備、重要幹線道路の建設、戦災復興等について、昭和25年度(1950年度)からの5か年計画を策定し、毎年国に対して計画書の提出と実施状況の報告を行うことになった。
しかし、物価高騰の影響等から、予算額の修正を余儀なくされることがあった。これは、昭和27年(1952年)8月、物価高騰により前年度に提出した計画書の予算額を修正するために作成された修正案。「広島平和記念都市5箇年計画表」の右欄外には、昭和26年(1951年)7月時点に比べて増額となった額が朱書きされている。平和記念施設では、4,996万円増額となったことが分かる。この修正案は、建設省計画局長宛に提出することを伺う起案文書に添付されていたもので、昭和28年度(1953年度)の予算資料を兼ねて国に提出された。​

19 広島平和記念都市建設事業5箇年計画の修正案 
19 広島平和記念都市建設事業5箇年計画の修正案

昭和27年(1952年)8月(「昭和27年度(1952年度) 広島平和記念都市建設計画書」より)

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20 平和記念施設事業の進捗状況

昭和31年(1956年)版の『市勢要覧』に掲載された、平和記念都市建設都市計画事業のうち記念施設事業の進捗状況。この頃の市勢要覧には、前年に平和記念都市建設都市計画事業として実施された各事業の決算額等が記載されていた。
これによると、昭和30年度(1955年度)の平和記念施設整備事業では、平和記念公園整備にのみ予算が執行されていることが分かる。翌年度版の市勢要覧には、昭和31年度(1956年度)の平和記念施設整備予算に関する記述がないことから、平和記念都市建設都市計画事業としての公園整備は昭和30年度(1955年度)に完了したことが読みとれる。​

20 平和記念施設事業の進捗状況 20 平和記念施設事業の進捗状況

昭和32年(1957年)3月 広島市発行(『昭和31年(1956年)版 市勢要覧』より)

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21 昭和26年(1951年)​ 建設中の平和記念資料館

写真は、百メートル道路側から昭和26年(1951年)2月に建設が始まった平和記念資料館(現平和記念資料館本館)を撮影したもの。建物の工事が進む一方で、周辺は雑草が茂り、手つかずになっている。​

21 昭和26年(1951年)​ 建設中の平和記念資料館【写真】

昭和26年(1951年)12月10日 広島市広報課撮影

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22 昭和27年(1952年) 慰霊碑に参拝する婦人たち

原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)は、丹下グループ案ではアーチに鐘を吊るし慰霊を表す設計となっていたが、最終的に丹下が設計した埴輪型のデザインが採用された。
昭和27年(1952年)3月に着工し、同年8月6日の慰霊式ならびに平和記念式で除幕式が行われた。慰霊碑の中には原爆死没者名簿が納められた。​

22 昭和27年(1952年)​ 慰霊碑に参拝する婦人たち

昭和27年(1952年)10月8日 広島市広報課撮影

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23 和28年(1953年) 整備が進む平和記念公園

基町(広島市中区)の商工会議所屋上から中島方面を撮影した写真。平和記念資料館(現平和記念資料館本館)の建設が進み、慰霊碑周辺もバラック等が取り除かれ整備されつつあるが、手前(北側)にはまだ多くの民家が残っている様子が分かる。​

23 昭和28年(1953年) 整備が進む平和記念公園
昭和28年(1953年)8月5日 広島市広報課撮影

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24 昭和29年(1954年)​ 建設中の平和記念資料館

基町(広島市中区)の商工会議所屋上から、建設中の平和記念資料館(現平和記念資料館本館)を撮影した写真。写真左端には建設が進む平和記念館(現平和記念資料館東館)が写っている。一方で、慰霊碑の手前(北側)にはまだ多くの民家が残っており、人々の姿や生活の様子がうかがえる。
平和記念資料館は翌30年(1955年)8月6日に竣工し、同24日に開館した。​

24 昭和29年(1954年)​ 建設中の平和記念資料館

昭和29年(1954年)12月2日 広島市広報課撮影

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25 中国電力株式会社屋上から撮影された公会堂・平和記念資料館・平和記念館

25 中国電力株式会社屋上から撮影された公会堂・平和記念資料館・平和記念館
昭和30年(1955年)2月3日 広島市広報課撮影

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26 昭和30年(1955年)​ 8月6日の資料館周辺の様子

被爆から10年後の平和記念日の様子。平和記念資料館(現平和記念資料館本館)から平和大通り(百メートル道路)側に向かって撮影している。
左側の建物はこの年5月に完成し8月に開館した平和記念館(現平和記念資料館東館)。後ろには小さく平和大橋が写っている。記念館前には、8月6日から3日間開催された平和美術展の看板が見える。​

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昭和30年(1955年)8月6日 明田弘司(あけだこうし)撮影
この画像の利用については、当館までお問い合わせください。

 

27 昭和31年(1956年)​ 式典で祈りを捧げる参加者

広島市原爆死没者慰霊式ならびに平和記念式の会場で黙とうする式典参加者を撮影した写真。中央に慰霊碑、その右側に商工会議所、原爆ドームが見える。
周辺には植えて間もない樹木が写っている。慰霊碑の北側には広島市の市章を染めた幔幕(まんまく)が張られている。​

27 昭和31年(1956年)​ 式典で祈りを捧げる参加者

昭和31年(1956年)8月6日 広島市広報課撮影

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28 昭和32年(1957年)​ 8月6日の平和記念公園周辺の様子

昭和32年(1957年)8月6日に商工会議所の屋上から原爆ドーム、平和記念公園等を撮影した写真(2枚の写真を結合)。左から原爆ドーム、平和記念資料館(現平和記念資料館本館)、慰霊碑、公会堂が並び、相生橋上には、僧衣をまとった宗教者等が公園に向かって進む様子が写っている。
元安川西岸に残っていた民家も撤去され、公園の整備が完了したことが分かる。

昭和32年8月6日明田弘司撮影写真

昭和32年(1957年)8月6日 明田弘司(あけだこうし)撮影
この画像は資料番号33006349及び資料番号33006348を結合しています。​
この画像の利用については、当館までお問い合わせください。​

 

29 昭和33年(1958年)​の平和記念公園

昭和33年(1958年)に上空から撮影された平和記念公園付近。平和大通りと平行するように平和記念館(現平和記念資料館東館)、平和記念資料館(現平和記念資料館本館)、公会堂が配置されているのが分かる。
建物、園路、植栽、河岸が整備された平和記念公園とは対照的に、元安川下流の東岸の一部には住宅が残っており、当時の広島の状況をありのままに伝えている。
公園が完成して約70年を経過した今、平和記念公園は、国際平和文化都市広島を象徴する場所となっている。​

29 昭和33年(1958年)​の平和記念公園

昭和33年(1958年)7月31日 広島市広報課撮影

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その後の平和記念施設

平和記念資料館
 「陳列館」として丹下健三が設計した平和記念資料館本館は、被爆関係資料の展示を通じて国内外の来館者に、原爆がもたらす被害について伝えている。また建物は、平成18年(2006年)7月、戦後建築として初めて国の重要文化財に指定された。

平和記念館
  集会室、展示場、図書室、研究室等を備える「本館」として設計された記念館は、昭和33年(1958年)に開催された広島復興大博覧会の会場にも利用された。老朽化により建て替えられ、平成6年(1994年)6月、展示・保存施設を備えた平和記念資料館東館として開館した。

広島市公会堂(集会所)
 地元財界により建設され広島市に寄付された公会堂は、コンサート、演劇、会議会場等に使用された。昭和61年(1986年)3月老朽化に伴い閉館。平成元年(1989年)7月、公会堂の跡地に丹下健三の設計による広島国際会議場が開館した。

原爆死没者慰霊碑
 丹下が埴輪をモチーフにデザインした慰霊碑は、コンクリートの風化が進み、名簿の保存スペースが狭くなったことなどから、昭和60年(1985年)3月、保存スペースを拡大した上で、同じデザインの御影石製の慰霊碑に建て替えられた。

 

※所蔵・提供等特に記載のないものは、公文書館所蔵資料です。
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