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広島市公文書館開催の展示会のWeb版です。
会場での展示は、
開催期間 令和4年6月1日(水曜日)から9月30日(金曜日)まで
開催場所 広島市公文書館8階 臨時閲覧室(研修・会議室)
※特に記載がないものは広島市公文書館所蔵資料です。
※掲載している画像のうち、ダウンロード用のリンクが表示されているものは、任意に御利用いただけます。
御利用に際しては、「デジタル画像等の利用について」を併せて御確認ください。
※絵葉書・写真の資料情報に記載している年月日・時代の表示は、写真の撮影時期や絵葉書の発行時期を示しています。 絵葉書には古い写真が使用されることもあるため、発行時期と撮影時期が異なる場合もあります。
はじめに
広島市公文書館では、令和2年度から「絵はがきからたどる広島あの頃」というタイトルで、絵葉書を中心に、広島の街の風景や人々の暮らしを想起することのできる資料を紹介する展示会を開催しています。
戦前の街の景観や建造物の変化、人々の暮らしを写した絵葉書は、広島の昔の姿を伝える貴重な資料です。シリーズ3回目となる今回の展示会では、宇品(うじな)・似島(にのしま)地区を取り上げます。
明治時代の埋め立て等により新開地となった宇品地区には、当時の県令(現在の県知事にあたる)千田貞暁(せんださだあき)の指揮のもと、県下の産業や交通の振興等を目的として明治22年(1889年)、宇品港が築港されました。また、似島地区には、日清戦争時に設置された、帰還兵やその荷物等を消毒するための施設、似島陸軍検疫所がありました。
絵葉書や写真には大型船舶が停泊し賑わう宇品港や似島の検疫所内の様子、区画整理完了前の田園風景が広がる翠町(みどりまち)地区の様子などが記録されています。
この展示会を契機に、地域の歴史や文化について思いをはせていただければ幸いです。また、今回紹介した当館所蔵資料は、広島の歴史をたどるイベント等で御利用いただけます。ぜひ積極的に御活用ください。
目次
京橋川に架かる橋。初代の御幸橋は明治18年(1885年)に木橋として誕生した。長さは約200メートルで、広島でもっとも長い橋だったことから「長橋(ながばし)」と呼ばれていたが、同年8月、明治天皇の広島巡幸の際に、天皇がこの橋を渡ったことを記念して「御幸橋」と命名された。
01 (広島名所) 御幸通(みゆきばし) 昭和(戦前)頃発行
01 (広島名所) 御幸橋(みゆきばし) 【絵はがき】70733_006 [ダウンロード/669KB]
※絵はがきの名称は「(広島名所) 御幸通(みゆきばし)」
昭和6年(1931年)に広島市内初の軌道併用橋として架け替えられた2代目の御幸橋。橋の中央に路面電車が見える。初代に比べると直線的なデザインが施されている。
昭和20年(1945年)の被爆により欄干等に被害を受けたが、修復して使用された。老朽化により、昭和47年(1972年)から架替え工事に着手、平成2年(1990年)9月に3代目となる現在の橋が完成した。橋詰には、2代目の橋の親柱(おやばしら)と欄干の一部が残されている。
02 広島御幸橋 大正頃発行
初代の御幸橋を西詰の千田町(せんだまち)から東に向かって撮影したもの。橋の欄干は植物の蔓を思わせる曲線で飾られている。
皆実町から宇品島に至る御幸通りは、もともと宇品築港や干拓工事のための人や資材を運搬するために、明治18年(1885年)に設けられた道路で、かつては長さ1,145間(けん)(約2.6キロメートル)、幅10間(けん)(約18メートル)あった。御幸橋と同じく明治天皇広島巡幸の際に、天皇がこの道を通ったことから、「御幸通り」と命名された。
兵士の出兵や帰還の際は、この通りを行軍した。宇品港近くの道の両側には店舗が並び、映画館、寄席等の娯楽施設もあった。現在は、市内中心部と宇品港や元宇品を結ぶバスの経路となっている。
03 広島市宇品御幸通(みゆきどおり) 大正後期~昭和初期頃発行
行軍する兵士と見守る市民の姿を写したもの。道の両側の家屋の軒先には日の丸が掲げられている。
04 (宇品)御幸通(みゆきどおり)一丁目 昭和8年(1933年)発行
御幸通り最南端の御幸一丁目を南から北に向かって撮影したもの。乗合バスや自転車が写り、歩道が整備されていることなどから、03の写真より後の時代であることが分かる。
左側の店舗前の幟に書かれている「永田節男(ながたたかお)」は、双葉山の連勝を阻み、後に37代横綱となった安藝ノ海の本名。実家の永田食料品店は御幸通り最南端にあった。
もとは皆実町(みなみまち)の一部で江戸期に開かれた新開地。新開開発後、蓮や綿花の栽培が行なわれたが、海水の浸水に悩まされた。
大正9年(1920年)には、浸水対策として地区の南端に堤防が作られた。堤防の土手の両側には桜が植林され「桜土手」と呼ばれた。
大正13年(1924年)には旧制広島高等学校が現在の広島大学附属小学校・中学校・高等学校の位置に開校。同校は戦後、広島大学に編入された。
昭和10年(1935年)3月、土地区画整理組合が結成されて区画整理が行われた。また、同年12月には、宇品線の路面電車の軌道が東寄りに移設されるなど交通の便が向上し、徐々に宅地化が進んだ。
05 広島市翠町(みどりまち)土地区画整理組合地区整理確定図 昭和10年(1935年)発行
大正12年(1923年)、広島市に都市計画法が適用されることが決定し、住宅地の確保等を目的に郊外で区画整理が実施された。翠町(みどりまち)では、昭和10年(1935年)3月、区画整理組合が結成され、昭和12年(1937年)にかけて区画整理が行われた。この図面は途中段階のもの。
新たに建設する南北軸の都市計画道路(段原・宇品線)を旧来の区画割になじませるため、被服支廠周辺は区画を直線に、堤防跡付近はカーブに沿って区画整理が行われた。
06 中国缶詰製造所 【写真】 昭和11年(1935年)8月31日 渡辺襄(のぼる)撮影
06 中国缶詰製造所 【写真】 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
この写真が撮影された昭和11年(1936年)当時、缶詰は広島市の特産品のひとつであった。同年12月に発行された『市勢一斑 第20回』(広島市 編・発行)には、缶詰は清酒や人造絹糸等とともに「全国各地に取引を伸張して居る」と記されている。
中国缶詰製造所は、昭和8年(1933年)、翠町(みどりまち)に創業した缶詰工場。同製造所では獣肉・魚貝・蔬菜(そさい)・果実等の缶詰を製造していた。
07 翠町(みどりまち)にて おたまじゃくし採り 【写真】 昭和11年(1935年)5月31日 渡辺襄(のぼる)撮影
07 翠町(みどりまち)にて おたまじゃくし採り 【写真】 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
昭和11年(1936年)頃、翠町(みどりまち)にはまだ蓮田が広がっていた。この写真は、蓮田の畔にしゃがみ、おたまじゃくしを捕まえようとする子供たちを撮影したもの。後方の山肌が見える山は比治山(ひじやま)。
08 広島女子専門学校を望む 【写真】 昭和10年(1935年)5月20日 渡辺襄(のぼる)撮影
08 広島女子専門学校を望む 【写真】 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
翠町(みどりまち)から南方を撮影したもの。写真中央には江戸期に開かれた皆実新開の堤防が写っている。堤防上の並木越しに見える建物が広島女子専門学校(現 県立広島大学)。昭和10年(1935年)に下中町(しもなかまち)(現中区中町)からここに移転した。その奥には似島(にのしま)も見える。
09 千田貞暁(せんださだあき)銅像
宇品港築港は、広島県令千田貞暁(せんださだあき)が主導し、明治17年(1884年)に工事に着手、同22年に完成した。完成当初は利用する船も少なく批判的な意見も多かったが、港があったため山陽鉄道糸崎-広島間の開通が早まり、日清戦争勃発後、軍事輸送の拠点基地となったことなどから、評価は大きく変わった。
大正4年(1915年)9月、千田貞暁(せんださだあき)の功績を伝えるため、銅像兼記念碑が建てられ、同年11月3日除幕式が行われた。銅像が立っている場所は、現在は児童公園となっている。
(『似の島陸軍検疫所 広島・宇品・名勝 記念写真帖』昭和14年(1939年)発行より)
明治30年(1897年)3月、宇品町海岸に陸軍中央糧秣廠宇品支廠が創設された。その後改称・組織改正等を経て、明治44年(1911年)には宇品御幸通りに宇品陸軍糧秣支廠缶詰工場が開設され、支廠事務所も同所に移転した。
ここでは、兵士の食料や軍馬の秣(まぐさ)等を調達・製造・貯蔵して、軍への補給を行っていた。また、他の糧秣廠にはない食肉処理場と缶詰工場があったことから、牛肉の缶詰を製造して全国の部隊への交付や貯蔵を行っていた。
爆心から遠かったため、原子爆弾による被害はほとんどなく、戦後は民間企業が借り受け、昭和52年(1977年)まで缶詰の生産が続けられた。昭和60年(1975年)に建物の一部が広島市の重要有形文化財に指定され、同年5月には広島市郷土資料館として開館した。
10 宇品陸軍糧秣支廠 廠舎 大正15年(1926年)発行
左側の木造の建物が庁舎、右側の煉瓦造りの建物が缶詰工場(現広島市郷土資料館)。
11 宇品陸軍糧秣支廠 搗精(とうせい)工場 大正15年(1926年)発行
主食とするコメや麦の品質を保つため、購入した玄米や玄麦は搗精工場で必要のつど搗精し、精米や精麦にして戦地等へ送っていた。
12-1 陸軍作業庁工員等募集ニ関スル(かんする)件(通知) 昭和12年(1937年)
昭和12年(1937年)9月22日付けの広島県学務(がくむ)部長から関係町村長に宛てた通知。宇品陸軍糧秣支廠で従事する陸軍作業庁の工員募集への協力を依頼するもの。求人の趣旨を十分に周知し、多数の応募があるよう配慮願いたいという内容。
同様の通知は同年9月27日、9月29日、10月25日にも出されており、日中戦争の勃発により兵士の食糧需要が高まり、緊迫した様子がうかがえる。
大林村(現安佐北区大林地区)の役場文書(もんじょ)のうち、昭和12年(1937年)の「庶務一件綴」(大林村役場文書0637)に綴られている。
12-2 陸軍作業庁工員等募集ニ関スル(かんする)件(添付文書) 昭和12年(1937年)9月22日
添付の工員募集要領には、採用資格、試験期日や採用後の待遇等についての詳細が書かれている。
(「庶務一件綴」(大林村役場文書(もんじょ)0637)より)
錦華人絹(きんかじんけん)株式会社は、昭和8年(1933年)2月に設立され、宇品町に工場を置いた。設立当時は敷地約12万坪を擁したという。翌年操業を開始し、その生産能力は人絹(人造絹糸の略。レーヨンとも呼ばれる)を日産10トンであった。
昭和16年(1941年)4月には合併により大和紡績株式会社広島工場となったが、同年12月に太平洋戦争が勃発。翌年の企業整備令によって生産を中止し、産業設備営団に設備を供出した。
被爆時は、陸軍船舶練習部等が置かれていたが、建物の被害は少なかったため、8月9日には「臨時陸軍野戦病院(第一陸軍病院宇品分院)が設置され、被爆者の治療等が行われた。昭和61年(1986年)、建物の大半を東洋工業(現マツダ)に売却。一部は宇品西工場の倉庫として現在も使用されている。
13 錦華人絹(きんかじんけん)株式会社広島工場全景 昭和(戦前)期
宇品工場全景のイラスト。
14 錦華人絹(きんかじんけん)広島工場全景・工場歌 昭和(戦前)期
工場歌入りの絵葉書。写真は工場を南西から撮影したもの。
15 錦華人絹(きんかじんけん)工場
昭和16年(1941年)に広島市が発行した『市政五十周年記念写真帖』に掲載された写真。名所や特産品に並んで、錦華人絹(きんかじんけん)の工場が紹介されている。
広島市は工場の誘致の際、市による水道の敷設や新たな運河の掘削等を条件にしており、この工場が市にとって特別なものであったことが窺える。
16 錦華人絹(きんかじんけん)広島工場 求人ポスター 昭和10年代
求人対象は、男子は16歳以上、女子は満12歳以上の初等教育を修了した者。
公認の青年学校(勤労青年対象の教育機関)や寄宿舎等の設備を用意していること、可部職業紹介所が採用検査会場となっていることなどから、条件を整え、広く人材を求めようとしていたことが分かる。
昭和10年(1935年)に制度化された青年学校の記載があることから、同10年代に作成されたものと推察される。
兵士や物資を輸送するため、山陽鉄道広島停車場(現広島駅)から宇品港まで敷設された軍用鉄道。日清戦争の宣戦布告直後の明治27年(1894年)8月4日、急遽工事に着手、同月20日に開通した。以後、広島駅と宇品港を結ぶ主に軍関係の物資等の運送手段となり、周辺には被服支廠や兵器支廠などの軍関係施設が次々と設置された。
原子爆弾による被害はほとんどなかったが、広島駅方面との連絡がとれず、広島駅に操車係りを派遣した。8月6日は南段原-宇品間で臨時列車が運行され、翌7日には全区間の運行が再開された。
戦後は、沿線の軍用跡地に県庁をはじめ、国の機関等が一時的に移転したこともあり、通勤や周辺の学校への通学に利用された。しかし、利用が減少したため、昭和61年(1986年)に廃線となった。
17 宇品線 明治期
宇品新開を南東角から南西へ撮影したもの。船溜まりとなっている部分は養魚場。線路左側の赤十字の旗が掲げられた建物は、広島陸軍予備病院の関連施設として宇品港付近に設けられた宇品患者集会所。
18 最新実測広島市街地図(部分)
大正15年(1926年)に広島市が発行した市政全般の概要をまとめた冊子『広島市勢一斑(いっぱん)』の附属地図。
広島駅から宇品駅までの宇品線の経路をたどると、兵器支廠や被服支廠などの軍事施設や工場が線路に沿って設けられており、主要な施設に隣接して駅が設けられていることが分かる。宇品線は、宇品港への物資や兵士の輸送だけでなく、沿線施設への人や物資の輸送にも活用されていた。
宇品凱旋館は、出征または帰還した将兵及び戦傷病者の歓送迎と慰安等を目的として、昭和14年(1939年)に宇品町の陸軍運輸部構内に建設された。本館と別館からなり、本館は鉄筋コンクリート3階建てで、貴賓室やステージ、ホールが作られた。
被爆時、凱旋館には船舶司令部が入っており、船舶軍医部が市中から逃れてきた負傷者の治療に当たった。
建物は戦後、第六管区海上保安本部などが使用していたが、昭和49年(1974年)12月から取り壊し工事がはじまった。。跡地の宇品中央公園には、宇品凱旋館建設記念碑が建っている。
19-1 宇品凱旋館寄附金募集ノ件 昭和12年(1937年)
市からの諸達・通牒の町内への周知等の役割を担っていた草津南町(現西区草津南)総代から評議員に宛てた通知。宇品凱旋館建設のため各戸を訪問して寄附金募集を行うこと等が記されている。
(「事務所類綴 草津南町」 昭和12年(1937年)より)
19-2 宇品凱旋館建設ニ関スル(かんする)趣意書 昭和12年(1937年)
「宇品凱旋館建設ニ関スル(かんする)趣意書」は19-1の文書「宇品凱旋館寄附金募集ノ件」に添付されていた。宇品凱旋館建設に際しては、広島県知事を会長とした「宇品凱旋館建設会」が設立され、全国から寄附金を募った。
(「事務所類綴 草津南町」 昭和12年(1937年)より)
20 宇品凱旋館 全景 昭和14年(1939年)発行
南西から見た凱旋館の外観図。正面中央には庇(ひさし)のついた車寄せがあり、建物中央上部には展望室のある塔が設けられている。凱旋館完成の年に作成された絵葉書の1枚。
21 宇品凱旋館 休憩室 昭和14年(1939年)発行
絨毯(じゅうたん)が敷かれ、革張りのソファーや布張り椅子が置かれた休憩室の様子。宇品凱旋館には、階級に応じた休憩室が設けられていた。
22 宇品凱旋館 大休憩室 昭和14年(1939年)発行
大休憩室の内部を撮影したもの。前方にステージと緞帳(どんちょう)が見える。
23 宇品凱旋館 稿軍状況 昭和14年(1939年)発行
宇品凱旋館玄関前では湯茶接待が行われた。白い割烹着を着け兵士をもてなす愛国婦人会の女性、ふるまわれた湯茶を口元に運ぶ兵士の様子が撮影されている。
愛国婦人会広島県支部は明治34年(1901年)に設立され、軍隊の送迎、物品の寄贈、遺族への援助などの活動を行っていた。
24 宇品凱旋館
凱旋館の正面玄関と車寄せ。昭和16年(1941年)に広島市が発行した『市政五十周年記念写真帖』の「軍都」のページに、行軍風景や愛国婦人会の活動と一緒に掲載されていたもの。車寄せの分厚い庇(ひさし)、カーブした縁石と石造りの特徴的な装飾が写っている。
明治13年(1880年)3月、広島県令に着任した千田貞暁(せんださだあき)は、県内を巡視し、道が悪く交通も不便、そのため貨物が渋滞して生産不振となっている状況を見て、明治政府が掲げた殖産産業実現の上でもその基盤の整備が必要と考え、道路改修と港湾整備に取り組むことにした。
計画は、(1)京橋川左岸の皆実新開(みなみしんがい)と宇品島の間に堤防を築く、(2)皆実新開の南側に新開地を作る、(3)宇品島と金輪島(かなわじま)の間を港とするというものであった。
資金不足や、築港により漁場を失う漁民の反対もあったが、千田(せんだ)の尽力もあり明治17年(1884年)7月に着工、明治22年(1889年)に完成した。完成当初は利用も少なくその価値が認められなかったが、明治27年(1894年)に日清戦争が勃発すると、大陸へ兵士や物資を輸送する拠点になり、軍用港としての任務を担うこととなった。
25-1 宇品港基礎録 明治17年(1884年)
築港工事着手直前に作成されたもの。最初に当時の広島区長栗原幹の「宇品築港意見書」(明治17年(1884年)1月)があり、続いて築港工事の目論見書、経費の明細書等、最後に宇品築港発起人の名が綴られている。いずれも活版印刷。中ほどに手書きの築港の概略図が挟まれている。表紙には、表題と発起人の一人である渡部四郎三郎の名が筆で書かれている。
25-2 宇品築港意見書 明治17年(1884年)1月
25-2 宇品築港意見書
上から
宇品築港意見書では栗原区長が、「全区民ガ最大利益ヲ享ケテ物資輻輳運輸至便ノ名二負カザラント欲セバ、河岸ヨリ宇品島ニ達スルノ一条長堤ヲ築キ流過スル土砂ヲ排斥シ宇品湾ノ閉塞ヲ防ギ天然ノ良港ニ保守スルニアラザレバ、決テ広島繁華ノ旧面目ヲ存スル能ハザルナリ」と、宇品築港の必要性を訴えている。
(「宇品港基礎録」 明治17年(1884年)より)
26 宇品港 大正期 広島□○堂発行
明治27年(1894年)頃に宇品島(南区元宇品町)から東に向かって宇品港に停泊する輸送船等を撮影したパノラマ写真を元にした絵葉書。当時軍の輸送船は十分な水深がある金輪島周辺に停泊し、艀(はしけ)を利用して兵士や物資を運んでいた。この写真では大型船と桟橋を行き来する艀などの小舟が複数確認できる。
27 宇品港桟橋 大正期 広島□○堂発行
宇品港の商用桟橋を岸壁から南方に向かって撮影したもの。商用桟橋は、従来の桟橋が軍用に転用され一般の利用ができなくなったため、明治28年(1895年)天狗雁木(てんぐがんぎ)(写真左部分にある階段状の桟橋)の先に建設された。現在この場所は、「広島市営さん橋」として利用されている。
28 広島宇品港桟橋 大正5年(1916年) 広島□○堂発行
元の写真は上段と同じだが、左下に「大正五年五月広島湾要塞司令部認可済」とある。広島市一円及びその他周辺地帯は、明治32年(1899年)に発布された要塞地帯法により、国防のため、要塞司令官の許可なく測量や撮影、模写等行うことが禁止及び制限されていた。そのためこの絵葉書には、軍関係施設のある島を白く塗りつぶす加工が施されている。
29 広島宇品港市営桟橋 昭和(戦前)期発行
宇品港市営桟橋を海上から陸に向かって撮影したもの。写真中央の2階建ての建物は広島水上警察署。明治42年(1909年)に竣工したこの建物は、原爆の爆風で屋根が浮き上がり、一部の梁が折れる被害があった。現存しており、市内では数少ない明治期の木造洋風建築を見ることができる。
30 広島市大観 宇品港 広島名勝 昭和(戦前)期発行
宇品港に浮かぶ大小さまざまな帆船を撮影したもの。右の2隻は係留されている。左側には岸壁に立つ建物が見える。
宇品港は景色のよい場所(名勝)としても知られ、多くの絵葉書が残されている。
もとは広島湾に浮かぶ小島(宇品島)であったが、明治22年(1889年)の宇品築港後、橋で結ばれ陸繋島(りくけいとう)となった。山のほとんどが国有保護林であったため、原生林が多く残っている。
築港と同時に開かれた新開(宇品新開)と区別するため「元宇品」や「向宇品(むこううじな)」と呼ばれるようになった。明治37年に広島市に編入された。
昭和4年(1929年)に広島市主催で開催された昭和産業博覧会では、元宇品が広島市の南端に位置するものの、海陸交通の便がよいことや、亜熱帯植物が繁茂する保護林は天然の森林公園となることなどの理由から、第三会場に選定された。
31 広島宇品港 昭和(戦前)期発行
宇品港の海上から宇品島に向かって撮影したもの。正面のこんもりとした山は宇品山。右側に見えるのは市営桟橋。
32 向宇品(むこううじな)海水浴場 昭和(戦前)期発行
向宇品(むこううじな)には明治20年代半ばごろから海水浴場が設けられたが、時代とともにその位置や名称は変わった。写真の向宇品(むこううじな)海水浴場は、明治23年(1890年)に宇品島西岸に設置されたもので、大正10年(1921年)まで続いた。
33 向宇品(むこううじな)観音堂全景 昭和14年(1939年)頃
観音寺は臨済宗の寺院。安土桃山時代に開かれたと言われている。創建以来、代々の藩主の庇護を受けて栄えた。同寺は宇品山の中腹にあり正面に金輪(かなわ)島、眼下には港に出入りする船が見えることから、「眺望絶佳」と言われた。本堂には、市の重要文化財に指定されている木造阿弥陀如来立像がある。
(『似の島陸軍検疫所 広島・宇品・名勝 記念写真帖』水谷忠次郎 編 昭和14年(1939年)発行 より)
34 観音禅院全景 昭和9年(1934年)発行
観音寺の本堂を正面から撮影したもの。
35 昭和産業博覧会第三会場(宇品) 海軍館と水族館 昭和4年(1929年)発行
昭和4年(1929年)に開催された広島市主催の昭和産業博覧会では、元宇品に第三会場が設けられた。写真は会場となった軍艦を模した外観の海軍館と向宇品(むこううじな)別世界の水族館を撮影したもの。
36 (宇品)向宇品(むこううじな)別世界 昭和8年(1933年)発行
元宇品の水族館は、大正11年(1922年)に株式会社宇品別世界が設置したリゾート施設の一つ。別世界には他にプールや海水浴場もあった。
37 広島市主催昭和産業博覧会 会場配置図 昭和5年(1930年)
広島市主催昭和産業博覧会の第一会場(西練兵場)、第二会場(比治山)、第三会場(向宇品)(むこううじな)それぞれの施設配置図。
第三会場の配置図には、宇品山の西側に海軍館、プール、水族館、空海食堂、休憩所、売店等の施設が細かく書き込まれている。
(『広島市主催昭和産業博覧会記念誌』昭和5年(1930年)広島市役所発行 より)
広島港の約3キロメートル南に浮かぶ島。島の形が富士山に似ていることから「安芸小富士(あきこふじ)」とも呼ばれている。
日清戦争(明治27年~28年(1894年~1895年))当時、戦地からの帰還兵の間でコレラ等の感染症が流行し、市内に広まったことから、同28年5月、検疫強化のため、似島に似島陸軍検疫所が設置された。また、第一次世界大戦の際には、俘虜収容施設が併設された。
戦時中は空襲対策として、検疫所内に医療器具や医薬品が備蓄されていたため、被爆直後から被災者の救護所となった。8月25日までに約一万人が収容されたと言われている。戦後は原爆孤児等の収容施設が設置された。
38 瀬戸内海 安芸似の島 大正期発行
手前の松の左側に見えるのが似島。
39 安芸似島陸軍検疫所 棧橋 大正9年(1920年) 水谷発行
似島の未消毒桟橋を撮影したもの。上陸した兵士が荷物や銃を置き、腰を下ろしている様子が写っている。桟橋の下には、島の沖に停泊する大型船と桟橋の間を人や物資を乗せて運ぶ小型船が見える。
40 似ノ島陸軍検疫所 銃ノ日光消毒 大正9年(1920年) 水谷発行
帰還兵が使用していた銃剣や装備を日光消毒している様子。見張りらしき兵士が写っている。
41 安芸似島陸軍検疫所 蒸汽消毒 大正9年(1920年) 水谷発行
衣服や荷物が入った専用の籠と蒸気消毒装置。籠の下には消毒設備の中まで続く荷物等を運搬するレールが写っている。
42 安芸似ノ島陸軍検疫所 浴後休憩 大正9年(1920年) 水谷発行
入浴後、浴衣に着替えて休憩室でくつろぐ兵士。検疫所では、帰還先へ疫病等を持ち込まないようにする対策の一つとして、入浴して体を清潔に保つことが徹底された。
43 『似の島陸軍検疫所 広島・宇品・名勝 記念写真帖』 昭和14年(1939年) 水谷忠次郎編・発行
検疫所内の様子と広島の名所の写真を集めた写真帖。前半には似島上陸から消毒、帰還に至るまでの過程を撮影した写真を取り上げ、後半は宇品港から始まり、宇品地区と市内中心部の史跡、繁華街に至る名所の写真をそれぞれ順に紹介している。
44 宮島広島名所交通図絵(部分) 昭和3年(1928年) 広島瓦斯電軌株式会社発行
表面(おもてめん)は、吉田初三郎が描いた広島市街から宮島までの鳥瞰図(ちょうかんず)。裏面の「広島瓦斯電軌沿線名所案内」では、広島電軌軌道(現在の広島電鉄)の市内線、宮島線沿線の名所が写真入りで紹介されている。
南端は、向宇品(むこううじな)から似島に至るまで丁寧に描かれているが、軍用線であった宇品線は書き込まれていない。
45 大日本職業別明細図 大広島市(部分) 昭和14年 東京交通社発行
昭和14年(1939年)の広島市内の市街地図。官公庁、学校、商店、社寺等の名称が詳細に記載されている。
46 広島市街明細地図 明治20年(部分) 明治20年(1887年) 浅井馨編・松村善助発行
明治20年(1887年)、広島市が広島区であった頃の市街地図。広島区は近代の城下のエリアに当たる。この時は隣接する国泰寺村、皆実村、宇品町などには幹線道路しか記入されていない。宇品港から横浜や神戸など日本各地までの距離も書かれている。
似島部分
47 最新実測広島市街全図 明治27年(部分) 明治27年(1894年)鈴木常松発行
日清戦争勃発後に発行された市街地図。山陽鉄道や広島駅から宇品港に延びる宇品線の線路が記載されている。
48 最近実測広島市街地図 大正15年(部分) 大正15年(1926年) 広島市 編・発行
大正15年(1926年)頃の広島市街地図。学校、官公庁、社寺、工場(ガス・缶詰・ソーダ、ゴム等)、商店等の施設や軌道等が書き込まれている。広島湾内には牡蠣養殖、海苔養殖、魚介類の名称など水産業に関する情報も書き込まれている。『第10回 広島市勢一斑(いっぱん)』の附属地図。
元宇品部分
49 広島市街地図 昭和10年 (部分) 昭和10年(1935年) 広島市役所 編・発行
昭和10年(1935年)の広島市街地図。皆実町(みなみまち)南部の区画整理が進んでいるのが分かる。京橋川河口の防波堤や河川修築の予定が赤で書き込まれている。