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Web展示会「復興の礎として -平和記念都市建設法と広島-」
復興の礎として ‐平和記念都市建設法と広島‐
開催期間 令和元年8月5日(月曜日)から10月4日(金曜日)まで
開催場所 広島市公文書館ロビー・閲覧室
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はじめに
広島平和記念都市建設法は、平成31(令和元、2019)年で制定から70周年を迎えました。
原爆により甚大な被害を受けた広島市にとって、市の財政だけで復興を果たすことは、到底不可能でした。そのため市は、国の支援を求める請願運動を展開し、そこで、当時の寺光忠参議院議事部長から、一地方公共団体にのみ適用される特別法の制定を提案されました。
寺光参議院議事部長の手で起草された法案は、昭和24(1949)年5月11日に国会を通過、賛否を問う7月7日の住民投票の結果賛成多数を獲得し、8月6日「広島平和記念都市建設法」として公布・施行されました。現在の広島につながる復興の道のりは、この法の制定によって拓かれたのです。
この展示会では、復興の礎として戦後の広島を支えた広島平和記念都市建設法について、その成立過程と成果を関係資料からたどります。
戦前の広島の都市計画
近代以降人口流入が続く都市部では、無秩序な都市の膨張を避け、郊外を含めた計画的な都市づくりが課題となり、大正9(1920)年1月、国は都市計画法を施行した。広島市への適用は大正12年7月からであったが、早くも大正9年4月の市会において臨時都市計画調査委員を選出し、10月には市役所土木課内に都市計画調査係(大正12年10月都市計画課に改組)を設け、適用の準備体制を整えていた。
大正末から昭和初期にかけて、広島市では「大広島」の構想、計画が提唱された。当時の市の見解を報じた新聞記事によると、この都市計画構想は、単に合併による市域拡大と人口増加を企図したものでなく、公園の新設や河川の整備など、近代都市として広島の都市機能を整備、充実させることを目指したものであった。
特に、太田川を始めとする河川の整備は、度重なる水害に見舞われてきた広島の都市計画から切り離すことができない問題であり、広島港の整備に当たっても不可欠な要素であった。太田川改修工事は、昭和9(1934)年に河口側から着工されたが、工事の途中で土地買収が難航し、昭和12年に日中戦争が始まると、大幅な予算削減により、実質中断の状態に陥った。
大正期「大広島計画」の事業別構想概要
接続町村との 合併 |
・海田市町から草津村に至る14か町村との合併 ・広島市の人口(当時)が、15万余→20万余に増加。面積が1方里77(27.3平方キロメートル)から6方里弱(92.59平方キロメートル)に拡大 |
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公園の新設 |
・泉邸(5,000坪(16,500平方メートル))、国泰寺(2,000坪(6,600平方メートル))など15か所を新設公園とする ・公園面積を既設のものと合わせて40万坪(1.32平方キロメートル)とする |
河川整理 |
・次の2案を提起(いずれも分岐点に水門を新設) (1)戸坂から分岐して淵崎に至る新川を造り、猿猴川下流に合流させる (2)長束から西へ分岐して山手川に沿い海に達する新川を造成 ・東部台屋町奥の先端~相生橋の一線以南の各川を整理 ・各川幅30間(54m)とし、10尺(3m)ずつ掘り下げる |
運河の新設 |
・御幸橋を起点に、京橋川と元安川を連結する運河を建造 ・水主町下手を起点に、元安川以西の各川を連結する運河を建造 ・運河の幅は30間(54m)とし、10尺(3m)ずつ掘り下げる |
市街電車網の拡充 |
・既存の東西線(広島駅己斐間)に併行して東西支線(4線)を拡充 ・南北線(9線)と巡環線を新設 ・新設電線の延長は、東西16マイル(25.6km)、南北20マイル(32km)余、巡環線の一部は3マイル(4.8km) |
道路の新設 |
・1級道路80マイル(128km)・幅5~12間(9m~21.6m) ・2級道路40マイル(64km)・幅3~5間拡充(5.4m~9m) |
新開地埋立て及び住宅・工業地域の制定と充当 |
・埋立坪数は200万坪(6.6平方キロメートル) ・埋立地は工業地(東新開、宇品新開など)及び住宅地(白島新開、皆実新開など)に指定し、残部はいずれも商業地に充当 |
宇品港 |
・開港場とし、広島の発展に資する |
広島市が内務省に回答した大広島建設計画の内容に基づき作成(大正11(1922)年9月26日「中国新聞」掲載)
大広島案内 昭和4(1929)年3月 昭和産業博覧会協賛会発行
昭和4年、広島市主催の昭和産業博覧会が開催された際に出版された、来広者向けのガイドブック。広島での博覧会の開催については、これ以前から広島商業会議所の機関紙で、「大広島を建設する門出の表象として、一大記念産業博覧会を開催」し、市民の意識を発奮し、広島の産業を広く紹介しようと提言されていた。
広島市鳥瞰昭和産業博覧会会場分布図 昭和4(1929)年 広島第一印刷発行
昭和産業博覧会は、昭和4年3月20日~5月13日西練兵場、比治山公園、向宇品をそれぞれ第1~第3会場として開催された。会期中の来場者は、各会場合わせて174万人を超える盛況ぶりであった。
大広島之創造 昭和5(1930)年12月 広島政界廓清会発行
第7章「広島の保護が第一」(『大広島之創造』より)
広島出身の衆議院議員荒川五郎の著書。大広島の実現に向けた構想案を提起したもの。「広島の保護が第一」として、治水治山事業の重要性などが訴えられている。
広島県太田川水害実況写真(アルバム) 昭和6(1931)年 (広島市公文書館所蔵個人寄贈資料)
広瀬町、上流川町の水害写真(「広島県太田川水害実況写真(アルバム)」より)
太田川の治水は、度重なる水害への対策、宇品への商業港開港のために避けられない課題であった。このアルバムは、太田川改修の必要性を政府・国会に訴える目的で、水害の新聞記事や惨状を伝える写真をまとめたものである。
太田川改修工事平面図 昭和11(1936)年 内務省大阪土木出張所発行
内務省大阪土木出張所発行の『太田川改修計画概要』の付属図面。
太田川改修工事は、昭和7年に帝国議会で15か年継続の改修費用の支出が決定され、調査・測量を経て、昭和9年4月から新放水路建設工事が始まった。
広島都市計画街路網並地域図 昭和12(1937)年1月 広島市土木部都市計画課発行
昭和12年当時の広島市都市計画における路線の拡張計画のライン、住居・商業・工業の指定地域が色分けして示されている。
被爆からの復興構想
昭和20(1945)年8月6日の原爆投下により、広島の市街地は一瞬にして壊滅した。
被爆から3か月後の11月、生存していた市会議員らにより戦災復興対策委員会が、翌月には市内の町内会長を中心として広島市戦災復興会が設置された。また、翌年1月、具体的な復興事務を統一的に処理するため、市役所に復興局が組織され、翌月には「復興ニ関スル恒久計画ノ樹立ヲナス」ことを課題として復興審議会が置かれた。復興審議会は、各界の代表者、学識者、地域の代表者など、幅広い分野の委員と顧問で組織され、多様な観点から復興構想を議論した。一方、国の復興都市計画としては、同年10月に街路と土地区画整理の計画が、11月には公園の計画が戦災復興院から告示され、広島平和記念都市建設法制定まで広島の復興の指針となった。
広島の復興構想は、この他にも、様々な立場の人から提案された。その中には、広島の都市機能を他所に移し爆心地の保存を訴えるもの、水害対策として地盤のかさ上げを推奨するものなど大胆な提案もあったが、大規模な幹線道路の建設や平和記念施設・公園の設置など、その後の平和記念都市構想で実現した構想案も出された。
町中の供養塔 昭和21(1946)年 (広島市公文書館所蔵個人寄贈写真)
被爆直後、原爆の犠牲者を弔う供養塔は市内に点在していた。その後、広島市戦災死没者供養会(現広島戦災供養会)によって、昭和21年5月慈仙寺鼻に「広島市戦災死没者供養塔」(仮供養塔)が建てられ、昭和30年7月には現在の供養塔が建設された。
市長事務引継書(「被爆直後の市政一件」より) 昭和20(1945)年 (矢吹憲道資料)
広島市財務課が作成した、被爆後の昭和20年度予算等に関する文書。戦災によって歳入の中枢となる税収入、使用料の大半が喪失したことで、現行予算の執行が不可能となったことなど、被爆直後の混乱と市財政の窮迫した様子がうかがえる。
広島市勢要覧 昭和21年版 昭和22(1947)年3月 広島市発行
昭和21年の復興計画(『広島市勢要覧 昭和21年版』より)
被爆の翌年度、復興第1年号として発行された市勢要覧。原爆による被害状況と、その後1年間の復興状況を調査した概況の紹介を中心とした内容となっている。「復興計画」の項では、復興に向けた取り組みを述べる中で、既に「広島は世界平和の記念都市」という認識が全市に満ちていることが言及されている点に注目される。
広島市事務報告書並財産表(昭和21年度) 昭和22(1947)年
広島市役所の各課が昭和21年度に行った業務の概況をまとめた報告書。昭和21年1月に設置された復興局(1室2部7課)もこの年度から項目に加わった。復興局建築課の工事状況を見ると、学校や病院、図書館など公共施設の再建だけでなく、市営住宅や店舗住宅など戦災で家を失った市民への対策も図られていたことがわかる。
復興審議会一件 昭和21(1946)年
第4回復興審議会議事録(「復興審議会一件」より)
復興審議会は、復興に関する市長の諮問に対し、助言・答申をするための機関として、昭和21年に設置され、昭和23年3月まで22回開催された。その議論の中では、今後の広島の都市計画の方向性について多様な意見が交わされた。この第4回の審議会では、防災道路(現平和大通り)の辺りに道路の代わりとなる運河の建設が提案されている。
広島復興都市計画街路網公園配置図 昭和21(1946)年12月 広島市共済組合発行
昭和21年10月から11月にかけて、戦災復興院から告示された街路、土地区画整理、公園の復興都市計画に基づき作成されたもの。
国営請願から特別法案へ
広島市にとって、財源の不足は復興の大きな障壁となった。市街の中心部及び主要施設・事業所に壊滅的被害を受けた広島は、とても独力で建て直しを果たせる状態になく、復興財源として国からの特別補助や、国有財産払い下げを要求する方法を模索したが、実現には至らなかった。
このため、昭和23(1948)年11月、市議会全員協議会で「復興国営請願」が採択され、市は翌年2月、これを「広島原爆災害総合復興対策に関する請願書」としてまとめた。国会議員への陳情に持参されたこの「請願書」では、基本理念として、広島市を「国際的平和の記念都市を建設」する意義が主張され、そのため広島の復興を国家的事業として実施すべきであると訴えられていた。
国営での復興事業の実施については、国の財政や、全国に戦災都市がある中で広島だけを特別視できない等の理由から、難色を示す国会議員が少なくなかった。しかし、請願運動の過程で、参議院議事部長であった広島出身の寺光忠から助言を受けたことで、特別立法による復興の道が示され、平和記念都市の誕生につながることとなった。
昭和23年の広島市内の風景 昭和23(1948)年 (広島市公文書館所蔵個人寄贈写真)
本通
東洋座前(八丁堀)
相生橋
よしず屋根の下での授業(幟町小学校)
昭和23年に撮影された本通、八丁堀の東洋座(同年に再建)前、相生橋から見える旧産業奨励館(原爆ドーム)、幟町小学校の写真。盛り場が活気を取り戻してきている一方で、橋梁や道路、学校などの復興は道半ばであった。
建設中の百米(メートル)道路 昭和23(1948)年頃
広島市の中心部を東西に走る100m道路は、昭和21年11月に小町付近から整備が進められた。この広幅員の道路は、火災の延焼を防ぐ防災道路の役割に加え、道路の両側に緑地帯を造成して緑道としての性格も期待されたものであった。
特別戦災地広島市復興促進に関する請願請願書 昭和23(1948)年12月10日 (藤本千万太資料)
請願書(「特別戦災地広島市復興促進に関する請願請願書」より)
広島市は、終戦直後から復興財源を獲得するため、特別の補助や国有財産の払い下げ等を求めて国への働きかけを進めたが、効果を得られなかった。そこで次の一手として、被爆地としての意義を踏まえ、国家の事業として広島の復興を行うことを訴えることとした。これは、昭和23年11月30日の市議会全員協議会での採択を受け、12月10日付けで作成されたものである。
冒頭の「請願書・理由」では、「国際的平和の記念都市を建設する」との表現がされており、この後の広島平和記念都市建設法の制定につながる理念の素地が既にあったことがうかがえる。
広島原爆災害総合復興対策に関する請願書 昭和24(1949)年2月 (寺光忠資料)
請願書(「広島原爆災害総合復興対策に関する請願書」より)
前掲の「特別戦災地広島市復興促進に関する請願請願書」を修正し、昭和24年2月付けで印刷された請願書。この資料は、当時の参議院議事部長であった寺光忠が所有していたもので、この請願書が実際に政府関係者への交渉に用いられたことが裏付けられる。
「請願書・理由」も大幅に書き換えられているが、「国際的平和の記念都市を建設」するという主張はここでも明確に打ち出されている。
特別法案の国会通過
広島市に特別立法の道を示した寺光は、早速「広島平和記念都市建設法」の法案起草に入り、第5次案まで修正を重ねた。市の関係者もこの間にGHQ/SCAPのジャスティン・ウィリアムスを介してマッカーサーから法案の支持を得るなど、制定に向けた下準備を進めた。占領下では、法制定にGHQの承認が必要とされたからである。また、この間に長崎市から法案への参画が打診されたが、平和記念都市が世界で唯一のものでなければ特別法として成り立たたないため、長崎市は「長崎国際文化都市建設法」を制定することとなった。
寺光 忠
昭和24(1949)年5月4日、正式にGHQの承認を得て、10日に衆議院で可決、翌日参議院でも可決された。これにより、広島平和記念都市建設法の成立は、広島市民による住民投票の結果に委ねられることとなった。
平和記念都市法の国会通過に対する礼状(昭和24年5月20日)(寺光忠資料)
法案の国会通過に対し、任都栗(にとぐり)広島市議会議長から寺光参議院議事部長に宛てた礼状。
広島平和記念都市建設法案(第1次案) 昭和24(1949)年2月 (寺光忠資料)
国営請願のため上京した広島市関係者から相談を受けた参議院議事部長の寺光忠は、特別立法の制定を提案し、すぐに法案の起草に着手した。寺光が最初に起草した広島平和記念都市建設法案がこの資料であり、後に削られた「(前文)」が付されている。
広島平和記念都市建設法英文確定案 昭和24(1949)年5月 (寺光忠資料)
占領期の日本では、法律の制定に際し、GHQの事前承認を得る必要があった。このため、広島平和記念都市建設法の場合も、GHQの承認を得るべく英文の法案も作成された。これはその確定案に当たる。
余白に「48. 5. 3 PM2:00 山田(節男)ギ員と寺光とGHQへ持参したもの」とメモ書きがあることも注目される。
広島平和記念都市建設法案(第5次案) 昭和24(1949)年4月 (寺光忠資料)
広島平和記念都市建設法案は、第1次案から第5次案まで作成された。この資料は、最後に作成された第5次案である。この法案が国会に提出され、昭和24年5月10日に衆議院、翌11日参議院で可決された。
広島平和記念都市建設法案議決に伴う特別法の通知文案 昭和24(1949)年 (寺光忠資料)
広島平和記念都市建設法案議決に伴う特別法の通知 昭和24(1949)年5月14日
原本国立公文書館所蔵(国立公文書館デジタルアーカイブ「日本国憲法第九十五条の規定に基く広島平和記念都市建設法」 (類03351100-008)より)
国会を通過した特別法は、地方自治法の規定に則り、議長から内閣総理大臣に通知され、その後関係地方自治体の長に通知が届き、これを受けて住民投票が実施されることとなっていた。これは、衆議院からの内閣総理大臣吉田茂に宛てた通知文案と、実際に出された通知。
全国初の住民投票と特別法制定
広島平和記念都市建設法案は昭和24(1949)年5月11日に国会を通過したが、特別法として成立するためには、憲法第95条の規定に基づき、住民投票で過半数の賛成を得る必要があった。
広島市では、市役所に平和都市法普及対策本部が置かれ、看板やポスターでの呼びかけのほか、宣伝隊がトラックや消防車、自転車で市内を巡って、住民投票への参加を促すなど啓発運動を展開した。
こうして、投票日の7月7日にちなんで「七夕選挙」とも呼ばれた、日本で最初の住民投票が施行された。市内33か所に投票所が設置され、有権者総数121,437人の内、78,962人が投票した(投票率65%)。有効投票の内訳は、賛成71,852票、反対6,340票と、9割に及ぶ賛成票を集めた。この結果により、広島平和記念都市建設法は成立の条件を満たし、8月6日に公布・施行された。
開票風景
住民投票啓発ポスター 昭和24(1949)年
7月7日の住民投票への参加を呼びかけるポスター。「世界の人々はヒロシマをみつめている」と、平和記念都市建設が世界に誇るものであることを訴えている。「広島平和記念都市建設法制定賛否投票実施概況」に綴じ込まれていたもの。
住民投票啓発ポスター 昭和24(1949)年
7月7日の住民投票への参加を呼びかけるポスター。投票用紙の記載例を示している。「広島平和記念都市建設法制定賛否投票実施概況」に綴じ込まれていたもの。
大芝投票所の投票風景 昭和24(1949)年7月7日
ヒロシマ平和都市法 昭和24(1949)年6月 中国新聞社発行 (寺光忠資料)
第一条の解説(寺光忠『ヒロシマ平和都市法』より)
広島平和記念都市建設法の賛否を問う住民投票を前に、寺光忠が著した法文の解釈書。国会通過の経緯、法の根本にある平和記念都市の理念、法の制定による援助の概要などが解説されている。
「二 目的」では、前文として想定していた内容を第一条に組み込んだ経緯が記されている。資料中のマーカーのラインと付箋は、寺光が付したものである。
広島平和記念都市建設法制定賛否投票実施概況 昭和24(1949)年
広島平和記念都市建設法の賛否を問う住民投票に関する事務手続き、各投票所の運営、投票結果等の文書や、宣伝に用いたポスター・チラシ類が綴じ込まれている。
住民投票の宣伝活動 昭和24(1949)年
立看板
消防車
自転車宣伝隊
広島平和記念都市法建設の賛否を問う住民投票に、一人でも多くの投票を求めて宣伝活動が展開された。ポスターや立看板の掲出だけでなく、幟や広告をつけた自転車、トラック、消防車などの宣伝隊が市内を巡った。
広島市勢要覧 昭和24年版 昭和25(1950)年3月 広島市発行
「平和都市の理念、目標」、「平和記念都市建設法成立までの経過」(『広島市勢要覧 昭和24年版』より)
「広島平和記念都市建設法制定記念号」として発行された昭和24年版の市勢要覧。第1編で「広島平和記念都市発足記念特集」が組まれている。巻頭付属の「広島市地域指定計画図」では、平和記念公園、100m道路、中央公園が平和記念施設に位置付けられている。
第1編の「平和記念都市の理念、目標」、「平和記念都市建設法成立までの経過」では、この法律に込められた平和への願いや、戦後から法制定に至るまでの経緯、住民投票の詳細な結果を紹介している。
「広島平和記念都市建設法・御署名原本」 昭和24(1949)年8月6日
原本国立公文書館所蔵(国立公文書館デジタルアーカイブ「広島平和記念都市建設法・御署名原本・昭和二十四年・法律第二一九号」(御31902100)より)
住民投票で過半数の賛成を得た結果、広島平和記念都市建設法の成立が決定し、8月6日をもって公布、施行された。これは、法律の公布にあたり、昭和天皇が署名、御璽を押したものの複製である。
広島平和記念都市建設法誕生のあゆみ
元号 |
西暦 |
月 |
日 |
で き ご と |
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昭和 20
21
23
24
|
1945
1946
1948
1949
|
11
7
11
2
3
5
6
7
8 10 |
13
31
30
13
2 4 9
10
11 19
5
7
6 3 |
広島市会全員協議会、GHQ最高司令官マッカーサーに「広島復興意見書」を提出することを決定。 木原市長、貴族院に「広島市及長崎市ノ復興ニ関スル件」を提出。 (29日には長崎市長が、衆議院に「広島市並長崎市ノ復興促進ニ関スル請願」を提出) 広島市議会全員協議会で請願(「復興国営請願」)を採択。 翌2月に「広島原爆災害総合復興対策に関する請願書」を印刷。 任都栗市議会議長、山田節男参議院議員、山下義信参議院議員、寺光忠参議院議事部長ら、請願運動について検討し、寺光部長から特別立法によるべきと提案される。 この後、寺光部長、「広島平和記念都市建設法案」(第1次案)を作成。(以後、5月2日までの間に第5次案まで作成される) 浜井市長、任都栗市議会議長、松本滝蔵衆議院議員の3氏、GHQ/SCAPの国会議事課長ウィリアムスに法案(英文)を提示。マッカーサーへの打診を求める。 広島平和記念都市建設法案確定。 GHQ、広島平和記念都市建設法案を承認。 参議院議員102人、広島平和記念都市建設法案を参議院に提出。委員会で審議を開始。 衆議院議員15人、広島平和記念都市建設法案を衆議院に提出。委員会審議を省き即日可決。 衆議院から送致された法案を参議院で可決。 広島市議会、広島平和記念都市建設法案の衆参両院通過に対する感謝決議。 寺光忠著『ヒロシマ平和都市法 -広島平和記念都市建設法註解-』発刊。 住民投票を執行。投票率65%、賛成71,852票、反対6,340票で賛成が90%超を占める。 広島平和記念都市建設法公布・施行。 第1回平和文化都市建設協議会※において、平和都市建設計画(5か年計画)案を承認。※ 広島長崎の建設事業の促進完成を図る連絡調整機関。委員長は建設大臣。 |
平和記念都市への歩み
昭和25(1950)年2月、市長室は「広島平和都市建設構想案」(1949年版)をまとめ、4月には「広島平和都市建設構想試案」を作成した。この構想試案は、平和記念都市建設に向けた高い志を掲げ、平和公園、平和緑道等の平和施設、国際的文化施設等の建設を中心的課題に据え、具体的方策として国による援助と国有財産の譲与などを挙げたものだった。実際、国は法制定直後3,100万円の追加補正予算を決定、翌年度には1億8,000万円の当初予算を追加計上し、さらに、市内34.5haを超える国有地を譲与した。
建設省内に置かれた広島平和記念都市建設専門委員会が昭和26年8月にまとめた「広島平和記念都市建設計画についての意見書」でも、旧産業奨励館を含む中島公園及び中央公園の平和記念公園、平和記念百米(メートル)道路、原爆犠牲者の慰霊施設を平和記念施設と位置付け、その他太田川改修工事の促進、交通整備などが計画に盛り込まれた。
広島復興都市計画に代わるものとして昭和27年3月に策定された広島平和記念都市建設計画では、100m道路や中央公園が平和記念施設から外されたが、それまでの検討内容がいかされたものであり、現在に至るまで広島の都市計画の根幹となっている。
丹下健三グループの平和記念公園プラン 昭和24年(1949年) (銀山匡助資料)
平和記念都市法の国会通過を前に、広島市は平和記念公園の競技設計を実施し、丹下健三グループのプランが1位に選定された。旧産業奨励館(原爆ドーム)を平和記念公園の要素の一つとみなし、資料館と原爆ドームを結ぶ直線状にアーチを配し、資料館のピロティとアーチを通して原爆ドームを望めるよう設計された。
工事中の100m道路 昭和27(1952)年 明田弘司撮影
すでに整備が始められていた市内を東西に走る広幅員の道路は、平和記念都市計画の検討段階で、平和記念施設に位置付けられた。昭和26年11月には、平和大橋、西平和大橋とともに、市民からの公募によって「平和大通り」の愛称が決定した。
広島平和記念都市建設構想試案 1950年版 昭和25(1950)年 (藤本千万太資料)
第二章 平和都市建設計画の中心的課題(「広島平和記念都市建設構想試案 1950年版」より)
昭和25年4月に市長室がまとめた、平和記念都市法に基づく都市計画構想の試案。
第2章の「平和都市建設計画の中心的課題」では、平和都市として平和運動の根源地に必要な施設、平和の雰囲気を醸成する源泉となる施設の計画を挙げ、平和施設、国際的文化施設、観光施設の整備計画に言及している。
広島平和記念都市建設計画書 昭和27(1952)年
広島平和記念都市5か年計画表(「広島平和記念都市建設計画書」(昭和27年)より)
平和記念施設5か年計画内訳表(「広島平和記念都市建設計画書」(昭和27年)より)
昭和27年3月、それまでの広島復興都市計画に置き換わり、広島平和記念都市建設計画が策定された。この資料は、その計画に基づき、建設局総務課が作成した平和記念都市建設事業関係文書の綴である。
広島平和記念都市建設法によって国から援助を得られた一方で、物価の高騰もあり、広島市が事業費のやり繰りに苦心していた様子が、「5か年計画表」の修正からうかがえる。
広島平和記念都市建設計画についての意見書 昭和26(1951)年8月6日 (藤本千万太資料)
広島市は、平和記念都市計画について専門的な立場から事業計画を立案審議する機関として、建設省内に広島平和記念都市建設専門委員会を設置した。これは、その審議結果をまとめ、広島市長の諮問に対する回答として提出されたものである。
「諸言」では、「市民の心構えの問題」が平和記念都市建設において最も重要であるとし、施設や道路など街並みの復興だけでなく、市民の意識が伴う必要があると述べている。
平和記念式典 昭和57(1982)年8月6日
平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)の原型にあたる平和祭は、昭和22年に中島地区の慈仙寺鼻の「平和広場」で第1回が開催された。以来、昭和25年の中止を除き、名称を変えながら現在に続いている。
オリンピック聖火リレー(平和記念公園) 昭和39(1964)年9月20日 明田弘司撮影
昭和39年の東京オリンピック開催に際して、聖火リレーが全都道府県をめぐった。広島市内には9月20日に到着し、45万人もの人が沿道に詰め寄せた。平和記念公園もランナーの中継地点となり、多くの人が集った。
木下大サーカステント小屋設営中の平和大通り 昭和32(1957)年 明田弘司撮影
平和大通りの別称である100m道路の由来は、鶴見町から福島町までの区間の幅員がちょうど100mであることによる。この写真は比治山から西を望み、鶴見橋とその手前まで伸びつつある平和大通りを撮影したもの。この年の2月から平和大通りの供木運動が展開されるが、この写真はその前の見通しの良い状態を記録している。
広島復興大博覧会第一会場 昭和33(1958)年5月
広島復興大博覧会は、広島の復興の現状、産業及び観光分野の実情を広く紹介することを目的に、広島市を主催として昭和33年4月1日から5月20日まで開催された。平和記念公園と平和大通り一帯、広島城跡が主会場となり、会期中に87万人が来場した。
工事中の太田川 昭和37(1962)年5月20日
戦前に始まった太田川改修工事は、戦時中の予算削減のため実質中断していたが、昭和23年8月に県知事が計画再開を発表した。反対運動のため放水路工事の本格的な再開は昭和26年度となったが、昭和35年度に福島川の埋立てが完成、昭和40年の祇園水門・大芝水門完成後、一部残っていた堤防の完成をもって昭和42年に概成した。
この航空写真では、工事中の放水路と埋立てが進む福島川が捉えられている。
元安川東岸の河岸緑地 昭和49(1974)年11月
市街に多くの川が流れる広島市は、戦前から「水の都」と称されてきた。広島平和記念都市建設計画の1つに河岸緑地の整備があったが、戦後の河岸は、原爆で住居を失った人々によって建てられた多くのバラックに占拠されており、不法建築物の除去には時間を要した。現在は植栽や遊歩道が整備され、市民の憩いの場となっている。
この写真は、元安川沿いの大手町三丁目の河岸緑地を撮影したもので、藤棚の奥にかつてここに係留していたかき船「ひろしま」が見える。
広島国際会議場 平成元(1989)年6月15日
市制100周年を迎えた平成元年7月、丹下健三の設計により、平和記念公園の西側の旧公会堂の位置に「広島国際会議場」が建てられた。直後から核戦争防止国際医師会議(IPPNW)世界大会など多くの国際会議の会場として利用されている。
平和記念公園前百米(メートル)道路一部植樹工事 昭和32(1957)年
工事延期の理由(「平和記念公園前百米(メートル)道路一部植樹工事」より)
昭和32年2月、市建設局内に緑化推進部が設置され、供木運動が展開されるなど、平和大通りの緑化が図られた。これは、同年4月の平和公園前の平和大通りの植樹工事に関する文書綴。
「ヒマラヤシーダ」(ヒマラヤスギ)と「ヒラドツツヂ」が植樹されたが、「ヒマラヤシーダ」が海上運送中に海水飛沫により損傷し、工事期間が延長したことなどが記されている。
平和記念都市建設事業進捗状況報告書 昭和26(1951)年4月 (藤本千万太資料)
広島平和記念都市建設法第五条では、平和記念都市建設事業の執行者に対し、「少なくとも六箇月(6か月)ごとに建設大臣」(現国土交通大臣)に進捗状況を報告することが義務付けられている。広島市では、この条文に基づき、都市計画課が定期的に進捗状況を国に報告している。昭和26年時点は冊子の報告書だったが、現在は電子データで報告されており、その報告は内閣から国会に提出されている。国会が報告書を受領したら、官報にその旨が掲載される。