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Web展示会「新収資料展」(概略版)
広島市公文書館新収資料展
会場開催期間:令和2(2020)年3月2日(月)~7月10日(金)
開催場所:広島市公文書館 ロビー・閲覧室(広島市中区大手町四丁目一番一号 大手町平和ビル7階)
展示資料数:45点
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◆概要 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
広島市公文書館では、広島の歴史に関係のある文書、写真、地図、絵葉書、ポスター、チラシ等の一次資料を収集しています。平成27(2015)年度・平成28(2016)年度には、100人を超える方々から、資料を寄贈していただきました。
今回の展示ではその中から、45点の資料を紹介します。広島の歴史をたどるための資料としてご覧いただければ幸いです。
◆コレクションから ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【豆田家文書】
豆田家文書は、地主としての豆田家の経営や子弟の教育・学習に関わる文書を主とする、114点の文書群である。
沼田高等小学校4年生の豆田熊一の明治25(1892)年度「学費簿」は、家庭と学校との間でやり取りされた資料である。教材や草履など通学に必要な物品の購入に関する情報や、試験の成績などが記録されている。
同年9月から11月ごろまでの熊一の「日誌」も、農村部の少年の生活を知る上で興味深い。「日誌」からは、下校後の熊一がほぼ毎日農業に従事していたこと、しばしば藍の加工や網漁を行い、また休日には広島などへ出かけていたことなどがわかる。
豆田家文書には、他にも熊一の学習歴や経歴を知ることができる履歴書・免許状・辞令書などの文書、近世後期から近代までの豆田家の土地集積に関わる文書、熊一らによる資産運用に関する文書等が含まれている。広島市近郊における地主経営や、子弟の教育・学習について知る上で有用である。
「学費簿」 表紙(展示No.9) | 「学費簿」部分 (展示No.9) | 「豆田熊一「日誌」部分 |
【岡田義夫資料】
岡田義夫は、広島高等師範学校在学中、同校校友会の附属団体である「丁未 (ていみ)音楽会」に入会して音楽活動を行っていた。同氏の長女から寄贈された写真アルバムには、主に昭和14(1939)年から昭和16(1941)年頃の会の活動を撮影した写真が多く残されている。このほか卒業後に入隊した海軍で作成したと思われる幻灯資料などを含む8点のコレクションである。
丁未音楽会は、明治39(1906)年12月に組織され、戦後にかけて広島の音楽に大きな役割を果たした。同会は著名な音楽家を招いて演奏会を開催するほか、県内外への演奏旅行などを行っていた。
写真アルバムには東京音楽学校(現東京芸術大学)で教鞭をとっていたピアニストのレオニード・クロイツァー、同じくバイオリニストのアレキサンダー・モギレフスキーなど一流の音楽家を招聘して開催した演奏会の写真や、音楽家の名刺も残されている。
また、会員による市内の学校での演奏会、県内外への演奏旅行、運動会での演奏などの写真が残されており、同会の幅広い活動がうかがえる。
アレキサンダー・モギレフスキ―と今井力(展示No.17) | 県女講堂傷病兵士慰問演奏(展示No.20) | 松山演奏旅行 |
高等師範学校附属中学校、高等師範学校の学校生活を記録した写真アルバムには、「游泳術講習会」など水泳に関する写真も多い。
「未能者指導法(写真)」と 「溺者救助法(写真)」の2点は、「游泳指導参考書」をもとに幻灯(スライド)資料として作成されたもので、「海軍」の用紙やざら紙に、解説を付して写真が貼り付けられている。表紙に岡田中尉とあることから、岡田義夫が作成したものと思われる。
「未能者指導法」では、水際での速歩きや深さの違う場所での駆け足、海中での洗面など写真とあわせて手順や注意、効果が記載されている。また、中央の写真のように「平泳」の腕や脚の動かし方を5名でポーズをとって撮影するなど、水泳ができない者に分かりやすく伝える工夫が施されている。
「溺者救助法(写真)」では、遊搬法や吐水法・人工呼吸法・解溺法などが解説されている。
「未能者指導法(写真)」表紙(展示No.26) | 「未能者指導法(写真)」より 平泳原型(展示No.26) | 「溺者救助法(写真)」表紙(展示No.27) |
【飯田邦夫資料】
飯田邦夫は、高校卒業後昭和26(1951)年に広陽写真倶楽部に入会。その後、県外に転居するまで、県内や近接する地域の人々、風景、行事等をフィルムに収めた。
寄贈資料は昭和27(1952)年から昭和40年代頃までの写真フィルム(156本)と関係資料。中には、広島湾沿岸の人々の生活、田楽や祭りなどの行事、市街の風景等もあり、失われた人々の営みを伝えてくれる。
掲載した写真は広島市公文書館デジタルアーカイブ・システムで公開中。
楽々園はもと「海老塩浜」と呼ばれ、江戸時代に塩浜として干拓された新開地だった。 (ik_001_104_013) |
昭和29(1954)年5月に完工式を迎えたアーケード(当時の呼称はオーニング)は、翌年2月の大雪により倒壊し、一部を残して撤去された。 (ik_001_061_001) |
海苔生産の様子。海苔を付着させて育てるための「のりひび」と言われる木の枝から海苔を収穫している様子(写真上)と水気を切って天日で乾燥させている様子(写真下)。この写真が撮影された昭和30(1955)年には広島市で100万枚を超える海苔が生産されていたが、現在広島市では海苔生産を生業としている者はいない。 (ik_001_061_001) (左) (ik_001_061_001) (右) (展示No.8) |
◆資料紹介・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和20(1945)年5月3日の冒頭部分(左)(展示No.31) |
昭和20(1945)年8月3日(右) (展示No.31) |
比婆郡山内北村へ疎開した娘への手紙 広島市では昭和20(1945)年4月から学童集団疎開が実施され、大手町国民学校の3年生以上の児童は、市から指定された比婆郡山内北村、高村(現庄原市)に疎開することになった。 左の書簡には、4月30日に広島市内がB29の襲撃を受け、親戚宅に被害があったことや、娘を案じる内容が記されている。 右の書簡は母から娘への最後の手紙。母親は8月6日被爆し、同27日死亡した。 |
(左)表紙 (展示No.32) |
(右)「戦災者ニ対スル処置ニ関スル件」 昭和20(1945)年8月6日 |
昭和二十年八月六日 広島原子力戦災記念一部 緑井村中井組 昭和20(1945)年 右の文書は原爆投下直後に緑井村役場から隣組長に宛られた通知。「戦災者ハ今晩終夜収容シ得ル準備ヲ整ヘオカレタシ」から始まる8項目にわたる依頼。戦災者に寝具や食糧(むすび)を供給し丁寧に保護するように、またそれらを詳細に記録し役場に提出するよう依頼している。 このほか同年7月3日に役場から送付された「戦災罹災者救護災禍ノ応急措置ニ関スル件」では、「戦局頓ニ急迫シ敵襲激化ノ非アリ、敵機ハ先般大挙呉市ニ来襲、他ノ中国主要都市モ何時暴虐ナル敵機ノ無差別爆撃ヲ受クルヤモ図リ難キ状況ニアリ」として、広島方面に緊急事態が発生した場合の炊出し、罹災者の収容、寝具・食器等の調達貸与等を依頼している。 |
(左)第一回広島学生音楽祭プログラム(展示No.23) |
(右)演目 |
広島学生音楽連盟関係資料 広島学生音楽連盟は、広島近郊の大学、旧制高校、高等専門学校、専門学校の学生100人余りが参加して結成された音楽団体。学生生活における音楽文化水準の昂揚を図ることを目的として昭和21年に結成された。学生音楽祭、音楽関係の文化講座・座談会、音楽鑑賞会の開催等、その活動は多岐に渡った。復興資金を集めるための演奏会や一流音楽家を招聘してのコンサートも開催した。 この資料は、昭和22(1947)年6月1日、同連盟が主催し、広高講堂(現広島大学附属中・高等学校講堂)を会場に開催された演奏会のプログラム。 |
『ユーカリ』(展示No.10) |
「鯉城新聞」(部分)(展示品No.11) |
広島県立広島第一中学校学制改革関係資料 広島県立広島第一中学校は昭和23(1948)年5月3日の学制改革により広島県鯉城高等学校となり、その後広島県内の高校再編で昭和24(1949)年4月1日広島県立広島国泰寺高等学校に改称した。 右の「ユーカリ」は、学制改革施行直前の昭和23(1948)年3月、広島県立広島第一中学校校友会発行したもので、最終号。 「鯉城新聞」は、広島県立広島国泰寺高等学校発足直前に、広島県鯉城高等学校新聞班が昭和24(1949)年4月15日付で発行した学校新聞。
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◆展示資料一覧・・・・・・・・・・・・
No | 資料名 | 作成者等 | 作成年 | 点数 |
1 | 蚕種販売広告 | 蚕種製造業平井 | 明治30年代 | 1点 |
2 | 領収書(蚕種の領収書) | 広本三右衛門 | 明治39(1906)年9月7日 | 1点 |
3 | 短期座繰製糸講習所教師派遣之件認可書 | 広島県 | 明治40(1907)年5月 | 1点 |
4 | 戦後発展全国工業博覧会銅賞(山繭織) 【複製】 | 戦後発展全国工業博覧会 | 大正10(1921)年8月20日 | 1点 |
5 | 白鶴(酒ラベル) 【複製】 | 明治32(1899)年6月13日 | 1点 | |
6 | 第1回酒類品評会褒状 【複製】 | 広島県知事 | 1点 | |
7 | <写真>麻づくり(祇園~古市付近) 【複製】 | 飯田邦夫撮影 | 昭和29(1954)年 | 1枚 |
8 | <写真>海苔の養殖(江波~吉島付近)【複製】 | 飯田邦夫撮影 | 昭和30(1955)年 | 1枚 |
9 | 明治25年度学費簿 附勤惰及品評表 | 沼田高等小学校 | 明治25(1892)年 | 1点 |
10 | 『ユーカリ』 | 広島県立広島第一中学校校友会発行 | 昭和23(1948)年 3月 | 1冊 |
11 | 『鯉城新聞』 | 広島県鯉城高等学校新聞班発行 | 昭和24(1949)年 4月15日 | 1部 |
12 | 設立許可指令書及謄本綴 | 財団法人広島有隣奨学会 | 昭和32(1957)年 | 1点 |
13 | <写真>三篠のお祭 【複製】 | 昭和30(1955)年前後か | 2枚 | |
14 | <写真>段原国民学校 記念写真 【複製】 | 昭和20(1945)年 | 1枚 | |
15 | <写真>給食風景 【複製】 | 昭和30(1955)年前後か | 1枚 | |
16 | <写真>丁未音楽会(レオニード・クロイツァー)【複製】 | 昭和15(1940)年9月28日 | 1枚 | |
17 | <写真>丁未音楽会(アレキサンダー・モギレフスキーと今井力) 【複製】 | 昭和14(1939)年秋 | 1枚 | |
18 | <写真>丁未音楽会(放送室にて) 【複製】 | 昭和15(1940)年9月 | 1枚 | |
19 | <写真>丁未音楽会(講堂にて) 【複製】 | 昭和15(1940)年~昭和16(1941)年頃 | 1枚 | |
20 | <写真>丁未音楽会(県女講堂傷病兵士慰問演奏) 【複製】 |
昭和16(1941)年11月 | 1枚 | |
21 | 広島学生音楽連盟規約 【複製】 | 広島学生音楽連盟 | 昭和22(1947)年7月3日 | 1点 |
22 | 第二回音楽鑑賞会 レオニード・クロイツアー演奏会プログラム ※人名の表記は資料の表記によるもの | 広島学生音楽連盟・朝日新聞主催 | 昭和22(1947)年7月31日 | 1点 |
23 | 第一回 広島学生音楽祭プログラム | 広島学生音楽連盟主催 | 昭和22(1947)年6月1日 | 1点 |
24 | 戦災孤児義捐金募集 音楽会プログラム | 学生同志会(新生学園)、学生音楽連盟 | 昭和22(1947)年11月29日 | 1点 |
25 | 音楽会プログラム-広島総合大学決定へ! 我等一路邁進- | 昭和23(1948)年頃 | 1点 | |
26 | 幻灯資料 未能者指導法(写真) | 岡田義夫 | 昭和17(1942)年~昭和19(1944)年頃 | 1綴 |
27 | 幻灯資料 溺者救助法(写真) | 岡田義夫 | 昭和17(1942)年~昭和19(1944)年頃 | 1綴 |
28 | <写真> 〔武徳殿〕 【複製】 | 昭和11(1936)年8月23日 | 1枚 | |
29 | <写真> 〔剣舞〕 【複製】 | 戦前 | 1枚 | |
30 | 第108回卒業記念写真帖 【複製写真】 | 広島逓信講習所 | 昭和10(1935)年10月 | 1冊 |
31 | 〔疎開先への手紙(書簡)〕 | 昭和20(1945)年5月3日 | 1点 | |
32 | 〔疎開先への手紙(書簡)〕 | 昭和20(1945)年8月3日 | 1点 | |
33 | 広島逓信講習所卒業証書 【複製】 | 広島逓信局 | 昭和10(1935)年10月4日 | 1点 |
34 | 防空演習感謝状 【複製】 | 広島市防護団第二分団長 | 昭和9(1934)年7月22日 | 1点 |
35 | 国防資材献納に対する感謝状 【複製】 | 陸軍大臣 | 昭和9(1934)年7月22日 | 1点 |
36 |
「緑井村中井組 広島原子力戦災記念一部 」より ・ 戦災罹災者救護災禍ノ応急措置ニ関スル件 【複製】 ・ 戦災者ニ対スル処置ニ関スル件 【複製】 |
緑井村役場 緑井村役場 |
昭和20(1945)年 昭和20(1945)年7月3日 昭和20(1945)年8月6日 |
1点 |
37 | 原爆に立つ男 | 久保辰雄 | 昭和30(1955)年頃 | 1点 |
38 | 広島都市計画街路網図 【複製】 | 広島市都市計画課 | 昭和2(1927)年 | 1点 |
39 | 建築許可申請書 ・許可証【複製】 | 広島県 | 昭和21(1946)年10月23日 | 1点 |
40 | 除却命令書 【複製】 | 広島市 | 昭和24(1949)年12月19日 | 1点 |
41 | 航空写真地図ひろしま ※ 39枚組 3000分の1 |
中国新聞社発行 | 昭和28(1953)年頃 | 4枚 |
※ No.16、No.22の人名表記は資料記載による