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広島平和記念資料館 学習ハンドブック 被爆体験証言

ページ番号:0000318966 更新日:2023年2月17日更新 印刷ページ表示

細川 浩史(ほそかわ こうじ) さん

私は当時17歳で、爆心地から1.3kmのビルの4階で被爆しましたが奇跡的に生き残りました。私と同じ場所で被爆した数十人の中で、今も生存しているのは私ひとりだと思います。

翌日、疎開先の宮島の自宅に戻ると、当時13歳で女学校1年生だった妹が、学徒動員作業中、700mの至近距離で直撃を受け、8月6日当日死亡していたと知りました。生き残っても、生涯ケロイドに悩まされたり、後遺症や偏見に苦しむ人も多く、私もたえず原爆症の再発に怯えながら過ごしてきました。

原爆は広島と長崎でなく、「全人類」に落とされたことに気付くべきだと思います。戦争は人間を異常な精神状態に陥れ、その究極が原爆であり、人間の存在を否定しました。 私に残された時間はあとわずかですが、「次世代にヒロシマを伝承する」ことが、私たち被爆者に課せられた最後のミッションだと考えています。

梶本 淑子(かじもと よしこ) さん

私は当時14才で中学3年生でした。爆心地から 2.3km離れた飛行機のプロペラ部品を造る作業中に被爆しました。

窓に真っ青な光が見え「爆弾だ」と思った瞬間、建物は倒壊し、私は建物の下敷きになり気絶しました。友達の悲鳴で気がつき、無我夢中で脱出したとき、腕と脚が裂け大怪我を負いました。間もなく火災が発生し、歩けない友達を担架に乗せて避難しました。その途中、火傷や怪我をした人がぞろぞろ歩いていました。全身真っ赤に焼かれ顔は腫れ、唇は垂れ下がり、両手を前に出しその先には焼けた皮がぶら下がり、とても人間の姿とは思えませんでした。道端には中学生の男女の死体が転がっていました。あの日の広島は地獄のようでした。

3日目、私を探し歩いていた父と偶然出会い泣いて喜びました。その父は1年半後吐血し亡くなりました。母も多くの友人も癌で亡くなりました。

たった1発の原爆で、あの日死ぬ事など考えもしなかった多くの市民の命が奪われました。75年経った今もなお放射線の影響で白血病、癌で苦しんで います。このような悪魔の原爆はこの地球上にあってはならない。二度とこのような悲しい思いを子どもたちや世界の誰にもさせてはなりません。その願いを広島の心として伝承して下さる事を心より願っております​。