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広島市ホームページ令和4年7月15日号トップページ特集私たちのまちヒロシマから「伝える」ことの意味

特集/私たちのまちヒロシマから「伝える」ことの意味
今だからこそ、被爆者の体験談を聞いてほしい

 被爆から今年で77年。市内に在住の被爆者は年々減少し続け、体験者の生の声を「伝える」ことが難しくなっています。そのため、市は、被爆者自らが出演、証言するビデオの作成に取り組んでいます。核兵器の使用が危ぶまれ世界の平和が脅かされている今、あらためて被爆者の体験を紹介します。

平和記念資料館平和データベース「被爆者証言ビデオ」より

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梶本淑子(かじもと よしこ)さん
被爆当時14歳
2019年8月23日収録

ナレーター:安田高等女学校3年生だった梶本さんは、爆心地からおよそ2.3キロ離れた三篠本町にある動員先の工場で被爆しました。当時、厳しい作業環境の中でもお国のためと一生懸命に作業に勤めていました。8月6日の朝も、工場でいつもの作業をしていましたが、突然の閃光(せんこう)とともに工場が倒壊し、自身も吹き飛ばされ気を失ってしまい、傷の痛みで生きていると実感したそうです。
 その後、同じ場所で被爆した友人と共に必死で工場からはい出ましたが、そこで見た光景は、広島の街がなくなり、太陽もなく、怖いほど静かであったといいます。平和のための戦争などありえない、普通の暮らしができることこそ平和であると、当時を振り返りながら語ります。

――被爆の惨状
 私が一番忘れられないなと思う男の子、中学生の男の子がやってきたんですけど、もう全身焼かれて、目の前に来た時にふっと気が付いたら、片方の腕がちぎれてないんです。腕がないと思ったら、それを片方で抱いていたんですね。で、目の前で死んでいくんですけど、その時の、あの男の子の顔は本当に怖い、悲しそうな顔をして死んでいったんです。

――戦後の生活
 戦後はもう本当に耐えられないような10年を迎えるのですが、終戦の時はまだ父がおりましたから、4年生は普通に行ったんです。5年生になる時、昭和22年1月に父が血を吐いて1週間で亡くなったんです。食べ物ないんですから、父が死んだ時は栄養失調で結核だと思ったんです。今考えれば、原爆症といいますけれども、当時はそんな言葉なんてないし。
 もうこれで学校は行けないなと思ったんですけど、学校の先生に、母が「3人の弟がおりますので、これを大きゅうしてもらわにゃいけんのんじゃけ、この子が働いてくれにゃいけんのですけぇ」って断った時に、なんで、これだけ学校に行きたいというのは知っとるくせに、なんでと。でも先生が帰られたら、母が泣いていたんです。その姿を見た時にやっぱり、学校へ行かせたい気持ちがあるのに、行かせてあげられない、母自身が病気になっているという辛さが分かった。私は本当は先生になりたかった。
 それから10年働きました。母の入院費を稼がないといけない、3人の弟を育てないといけない、もう夢中でした。何がしんどいかって食べ物がない。食べ盛りの弟に食べさせるものがないんです。明日じゃない、今晩の食べ物がない、という。本当に大変でした。

――平和への願い
 戦争なんて絶対してほしくない、というのが一番の願いです。きれいな美しい言葉で惑わされないように。本当にね、あの頃に平和になるための戦争といわれて信じたけど、あるわけないんですよね。
 みんなで知恵を出して、戦争を避けるようにしたいですよね。平和っていうのはね、難しい言葉じゃなくて、普通の生活が送れることが平和なんです。この広島がどうなっていたと思いますか。街がない、家がない、お父さんもお母さんもいない、食べ物がない、学校がない、なんにもないんです。なんにもなくなるのが戦争なんです。

 ここに紹介した梶本さんの体験談は、証言ビデオの一部です。学徒動員先での作業や8月6日に体験したこと、避難し、父親と再会したことなどを、証言ビデオで語っています。

視聴はこちらから
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 平和記念資料館の平和データベースでは、梶本さんのほかにも多くの証言ビデオを視聴できます(詳しくは市が実施している「伝える」取り組みへ)。
 被爆者一人一人のことを知ってください。自分と同じ生身の人間がどんなふうに生きてきたのか、亡くなった人はどんなふうに亡くなってしまったのか、具体的な話を聞くことで、きっと感じることがあるはずです。

視聴はこちらから
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平和記念資料館・土肥幸美(どひ ゆきみ)学芸員

 戦争・原爆は多くの命を奪い、生き残った人も苦しみや悲しみが一生続きます。体験した人たちはそのことを懸命に伝えてきました。そのメッセージを同じまちに住む私たちが受け取り、伝え続けることが大切なのではないでしょうか。




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