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ページ番号:0000015507更新日:2019年10月21日更新印刷ページ表示

原爆供養塔ができるまで

 被爆直後、爆心地に近い慈仙寺(現在の原爆供養塔付近)の境内は、臨時火葬場となり、そこには、氏名、年齢、性別などほとんどわからない痛ましい無数の死体が運ばれ火葬されました。

 昭和21年1月には、広島市宇品神田三丁目養徳院住職 国居道憲氏、呉市西辰川町白蓮寺住職 吉川元晴氏らが原動力となって、広島市戦災死没者供養会が設立され、名誉会長に浅野公爵、会長に広島市長が就任しました。

 同供養会の目的は、被災直後、死体が焼かれた家屋疎開作業の現場、川岸、学校、寺院、練兵場などに散在する遺骨を収集し、供養することでした。

 昭和21年4月29日には、慈仙寺鼻に供養塔を建設することを決定し、同年5月に「広島市戦災死没者供養塔」が建立されました。この供養塔は、卒塔婆を形どった高さ6mのもので、当時は木材不足のため張りぼてでした。

 供養塔完成後の約1週間、広島県仏教連合会、供養会、町会連盟、広島市、広島県は在広各新聞社の後援で戦災死没者遺骨収容大供養週間とし、各町内会は、遺骨収集作業日とし、自主的に区域内の遺骨を収容し、追善供養を執行しました。

 同年7月には、バラック建ての納骨堂と礼拝堂が市民の喜捨により建立され、昭和21年8月6日には、供養塔前で各宗派合同の慰霊祭が行われ、以後、毎年、慰霊祭が行われることになりました。

 この供養塔建設後の昭和22年頃から、次第に市内の復興が始まり、道路を設けたり家を建てたりするところから遺骨が発見され、それらの遺骨は供養塔に届けられました。

 さらに、昭和24年8月に公布された「広島平和記念都市建設法」により平和記念公園などの建設が進められていく中で、瓦礫の奥底に眠る遺骨が次々と見つかりました。これらの遺骨のほとんどは、身元が確認されず引き取り手もないため、供養塔に納められました。

 昭和25年には、広島市戦災死没者供養会は、「広島戦災供養会」に改組され、この新供養会は、地元各界から選ばれた民間組織となりました。以後、毎年の慰霊祭は、供養会主催により8月6日、朝6時15分から執行されています。

 現在の供養塔は、旧供養塔の50m北寄りの現在地に昭和30年7月に建設されました。大きさは、直径16m、高さ3.5mの塔で、表面は芝生を植えています。

 

原爆供養塔について(概要)

 世界最初の原子爆弾の投下(昭和20年8月6日午前8時15分)による犠牲者数万柱の遺骨をここに納める。

 爆心地に近いこの地では、多数の遺体が収容され、火葬が行われた。

 昭和21年1月広島戦災供養会が創立され、同5月仮供養塔、同7月仮納骨堂・礼拝堂が市民の喜捨により建立された。昭和30年7月被爆10周年を期して、広島市が中心となって、地下に納骨室を有する現供養塔が建立され、各所に散在していた遺骨をここに納めた。

 毎年8月6日を中心に、広島戦災供養会を始め、広島県宗教連盟及び各宗派による慰霊行事が執り行われている。

 

このページに関するお問い合わせ先

健康福祉局原爆被害対策部 調査課
電話:082-504-2191/Fax:082-504-2257
メールアドレス:gentai@city.hiroshima.lg.jp

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