江戸時代の広島城下。まちを東西に貫く大きな街道がありました。多くの店が立ち並び、たくさんの人々が行き交った広島城下町のメインストリート・・・それが「西国街道」です。
あの「大化の改新」の時代から
飛鳥時代から平安時代、7世紀から8世紀の日本では、大化の改新による律令制を契機に、道路の整備が行われていました。当時の中央と地方諸国を結ぶよう整備されたのは東海道を始めとする7つの街道。耳にすることも多い「五街道」は、幕府が江戸時代この道路整備をベースとして、日本橋を起点に定め直したものです。
「七街道」のひとつだった西国街道の前身「古代/中世 山陽道」は、東日本と中国などへの重要な窓口だった太宰府と都を結ぶ最大の幹線道路として発展しました。太田川河口や広島湾沿岸付近が発展すると、街道も次第により海に近いルートになっていったのだそうです。
広島の発展を支えた西国街道
江戸が政治の中心となった後でも、山陽道は「西国」九州への経路をつなぐ重要な道路として発展しました。江戸時代の広島では西国往還や西国路などと呼ばれていましたが、現在では西国街道と呼ぶのが一般的です。
地盤が不安定だった太田川河口一帯を避けて当初は北に大きく迂回していましたが、16世紀後半の広島城築城で城下町が誕生すると、城下を東西に貫いて通るルートが西国街道として位置づけられるようになりました。
太田川河口のデルタ(三角州)に建設された広島城は船などの水上交通に優れ、さらに西国街道が城下を通るようになったことから、水陸両方の交通に恵まれた広島城下は大いに栄えたのでした。
「広島城下絵屏風」のにぎわいから現代へ
当時の西国街道のにぎやかな様子は、広島市の指定重要有形文化財「広島城下絵屏風」で見ることができます。今から約200年前の西国街道の様子が、東から春夏秋冬にわけて描かれているこの絵屏風を見れば、刀を差した武士や、おしゃれな着物を着た町娘たち、背中に何かを背負った商人などいろいろな人がたくさん。傘張や提灯屋などいろいろなお店も描かれ、江戸時代広島城下の息遣いを感じさせてくれます。
西国街道筋を中心に、明治、大正と広島の街はさらににぎやかに発展していきました。そして、昭和20年の原爆投下により当時の面影は全く失われましたが、見渡す限りの焼け野原の中、人々は再び同じ道筋に街を再建したのでした。
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広島市のまちなかでは、サインボードやデザインマンホールで、昔の西国街道の道筋をたどることができます。また、広島駅前の駅前大橋たもとには、西国街道についての案内板も設置されています。まち歩き支援サイト「城下町広島ぶらり」を手に、ぜひまちを歩いてみてくださいね。