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広島平和記念都市建設計画
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■はじめに
広島城下絵図(1785年)
■広島城下絵図(1785年)
 広島の都市づくりの歴史は、約400年前、毛利輝元が広島湾頭の三角州に城を築き、広島と命名し、城下町を開いたときに始まりました。
 1923(大正12)年、旧都市計画法の適用を受け、近代的な都市計画が始まりました。1925(大正14)年の都市計画区域をはじめとして、1927(昭和2)年には用途地域、1928(昭和3)年には道路、1941(昭和16)年には公園の重要施設が都市計画として定められました。しかしながら、1945(昭和20)年の原爆被災により、これら都市計画の基礎は、ことごとく灰じんに帰しました。
 廃虚と化した広島市の復興へ特別な財政援助を与えるべく、1949(昭和24)年に制定された我が国初の特別法が広島平和記念都市建設法です。1952(昭和27)年には、この法律の趣旨に沿って、広島平和記念都市建設計画において、道路、公園、下水道などの都市計画決定がなされ、今日の広島市が築き上げられました。これらの精神及び計画は現在も広島市の根幹をなしています。
 
■戦前の都市計画
戦前の都市計画図(1940年)
■戦前の都市計画図
 1940(昭和15)年
 明治維新後、広島は近代化の道を歩み始めましたが、都市形態はしばらく城下町時代のままでした。
 明治20年代に入ると、都市形態が大きく変化し始めました。1890(明治23)年には宇品港が完成し、1894(明治27)年には山陽鉄道が広島まで開通しました。また、1898(明治31)年には軍用水道に接続する形で上水道が整備され、1916(大正5)年には第1期の下水道が完成しました。
 1919(大正8)年、旧都市計画法が制定され、1923(大正12)年に全国24の主要都市とともに広島市に適用されました。このことにより、明治以降行われてきた都市基盤整備は、近代的な都市計画の考え方に基づいて進められることになりました。
 1925(大正14)年に当時の広島市と隣接7か町村を含む面積6,988万424平方メートル、人口34万2,084人の地域が都市計画区域として決定されました。さらに1929(昭和4)年に広島市と周辺7か町村との合併が実現し、総合的な都市計画の実施が一層促進されました。

御幸通り   相生橋
■御幸通り
干拓造成した皆美町から宇品島への通りです。当時では珍しい6間(約11メートル)道路で右側には家屋が建ち並んでいます。
■相生橋  1935(昭和10)年頃
1912(大正元)年に誕生した相生橋は、1939(昭和14)年に手前の木造橋が撤去されるまでの間、H字型の珍しい景観を形成していました。
 
■広島復興都市計画
広島復興都市計画図
■広島復興都市計画図
 第二次世界大戦により罹災した全国の各都市の復興を早急に実施するため、政府は1945(昭和20)年11月に戦災復興院を設置し、事業の円滑な実施を図るため、1946(昭和21)年9月に特別都市計画法を制定しました。
 広島市は、1946(昭和21)年10月、特別都市計画法の規定に基づき特別都市計画を実施する市町村として東京都の区の区域のほか114市町村の中の1市として戦災復興都市に指定されました。
 広島市の復興都市計画は、内務省が示した戦災地復興計画基本方針をよりどころにしながら、広島市の復興構想や広島市復興都市計画(広島県都市計画課立案)に対する意見を広島市復興審議会へ諮問を行い取りまとめられました。
 これらが復興都市計画(道路、公園、土地区画整理事業)として決定され、戦災復興事業が実施されることになりました。
 この復興都市計画の決定と並行して、復興計画の前提となる、都市の性格や将来人口、土地利用その他の構想が、いろいろな団体や個人などから、さまざまな場で提案されたり発表され、広島市の復興への世論が高まりました。


峠三吉提案の「1965年のヒロシマ」■峠三吉提案の「1965年のヒロシマ」
中国新聞社が1946(昭和21)年7月に募集した「ユートピア広島建設」への応募論文の入選作。その内容は人口20万人の理想都市を描いています。(この描画は当時の提案者の意図を視覚化したもので、その内容をすべて表現しているとは言いきれません。)

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