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Web展示会「広島城パネル展」

ページ番号:0000233845 更新日:2022年2月7日更新 印刷ページ表示

-絵葉書や絵図からみる広島城の移り変わり-

 令和3年(2021年)年6月21日(月曜日)から10月1日(金曜日)まで、広島市公文書館で開催した展示会のWeb版です。

広島市公文書館の展示会についてはこちらから


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 写真下の資料情報に記載している年月日・時代の表示は、写真の撮影時期や絵葉書の発行時期を示しています。
 絵葉書には古い写真が使用されることもあるため、発行時期と撮影時期が異なる場合もあります。


 

はじめに

 広島城は、天正17年(1589年)、毛利輝元(もうりてるもと)によって築かれ、江戸時代は藩主の居所・藩政の中心としての役割を果たしました。明治以降は鎮台が設置され、また日清戦争時には大本営が設けられるなど、軍の施設が次々と設置され、軍都広島の象徴でもありました。
 一方、昭和6年(1931年)には、築城時の様式を残す天守閣が国宝に指定されるなど、城下町広島の歴史を伝える遺跡・名所として、市民から親しまれてきました。
 昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾投下により天守閣が倒壊、門や櫓、軍の施設は焼失し、城内は壊滅的な被害を受けました。戦後、城内やその周辺には戦災者や引揚者向けの公営住宅、バラック等が立ち並ぶ風景も見られましたが、同28年(1953年)、「広島城址」が史跡に指定され、同33年(1958年)には復興大博覧会第三会場として、本丸に鉄筋コンクリート造りの天守閣が復元されました。その後、基町地区再開発事業や二の丸復元事業等を経て現在の姿になりました。
 この展示では、令和3年(2021年)4月にデジタルギャラリーで公開した広島城の写真・絵葉書を中心に、所蔵する絵図や地図、戦後の写真等から広島城の移り変わりをたどります。

戦前の広島城

 広島城は、天正17年(1589年)、毛利輝元(もうりてるもと)によって当時五ケ(五ケ村)(ごかむら)と呼ばれていた太田川のデルタに築城された。輝元は同19年に入城したが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに敗れ周防・長門二国に減封となり、代わって福島正則が移封された。正則も元和5年(1619年)、城の無断修築を理由に改易され、同年浅野長晟(あさのながあきら)が入城し、以後約250年間、浅野氏の居城となった。
 明治に入り新政府が政治を担うようになると、明治4年(1871年)の廃藩置県により広島藩領は広島県となった。県の政治を司る県庁は広島城本丸内に置かれたが、本丸内に鎮西鎮台(ちんぜいちんだい)第一分営が置かれたため三の丸に移転、さらに明治6年、三の丸に兵営が建設されたため、城外の小町(国泰寺境内)に移転した。こうして広島城は政治拠点としての役割を終え、軍事拠点へと変わり始める。
 城内には明治8年(1875年)、歩兵第十一連隊が設置され、同年練兵場も設けられた。同27年(1894年)日清戦争が始まると、広島は中国大陸へ兵士や物資を送り出す兵站(へいたん)拠点となった。天皇とともに大本営が広島城内に移り、臨時帝国議会も開かれるなど、広島は一時期臨時首都の様相を呈した。その後、戦争が相次ぐ中で、広島城内とその周辺には、軍関係の諸施設が次々と設営され、「軍都広島」の中枢的な場所になっていった。
 昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾の投下により、築城時の姿をとどめていた天守閣は倒壊、櫓(やぐら)・門、城内の軍事施設も焼失するなど、壊滅的な被害を受けた。

01 軍事施設が密集する広島城付近 昭和2年(1927年)

01 軍事施設が密集する広島城付近

 広島城付近を上空から撮影した航空写真。中央の堀の中にあるのが本丸。本丸左角には天守閣、中央付近には旧大本営などの建物が見える。
 本丸を取り囲む三の丸には、歩兵第十一連隊の兵舎、野砲兵第五連隊、中堀と本川に挟まれた西の丸には衛戍(えいじゅ)病院の建物などがあり、軍関係施設が広島城内に密集している様子がよく分かる。

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城郭の変遷

 広島城は、内堀に囲まれた本丸と二の丸、その周辺に中堀をめぐらした三の丸、さらにその外側の外堀と本川(旧太田川)によって囲まれた平城(ひらじろ)で、その広さは各約1キロ四方、広さ90万平方メートルという大城郭であった。南端となる外堀は現在の相生通りに重なる。現在、内堀を含めた本丸・二の丸が国の史跡に指定されている。
 本丸の上段には天守閣、藩主の居所である奥御殿、対面等の儀式が行われた表御殿、役所に当たる中御殿が置かれ、本丸は藩主の居所と藩の政治を行う政庁としての機能を有していた。これらの建物は、明治に入り廃藩置県等により「広島城」の役割が変わる中で解体されたり、また火災を受けたりして、次第に少なくなった。  
 明治4年(1871年)、本丸に鎮西鎮台(ちんぜいちんだい)第一分営(同6年広島鎮台となる。)が設置されたのを皮切りに、同6年、二の丸に鎮台兵営が築造された。7年には火災により本丸及び二の丸は一部を除いて焼失した。以後、大手郭(おおてくるわ)の西練兵場、西の丸の衛戍(えいじゅ)病院など軍の施設が次々と設置され、広島城内はその姿を大きく変えた。
 都市化が進む中、外堀や運河では汚水の滞留や悪臭等への対策が必要となり、市は明治42年(1909年)、外堀を埋め立てて道路と宅地を設ける計画を立て同年着工した。埋立は同44年に竣工、完成した道路には翌大正元年(1912年)、広島電気軌道の軌道が敷設(ふせつ)され、路面電車が開業した。西塔川も埋め立てられ、同年、紙屋町-鷹野橋間の電車軌道が敷設された。

02 広島城下町絵図(『図説広島市史』付図) 江戸中期

02 広島城下町絵図(図説広島市史付図)

 正徳年間から享保初頭(1711年から1720年)頃までの城下の様子を記したもの。城を中心に白地の侍屋敷が広がり、侍屋敷の周囲に町人町(黒地の部分)や寺(赤地の部分)が置かれているのが分かる。侍屋敷には、住人の名が記されている。
原本広島城所蔵

※この画像は、「公益財団法人広島市文化財団 広島城」の許諾を得て掲載しています。

「芸藩広島城下之要図」 明治初期

 城下を8つの区画に分けて描いた詳細な絵図。原本は折本(おりほん)仕立て。保存用の箱に「浅野藩臣居住所明細 芸藩広島城下之要図」と書かれているが、本体の題箋(だいせん)は失われている。
 藩士の屋敷には貼紙で氏名が記されており、明治元年(1868年)頃、広島藩校教授に招かれた坂谷希八郎の名があることなどから、その頃完成したものと推察される。


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 「芸藩広島城下之要図」が納められている箱と原本外観

03 「芸藩広島城下之要図」より西の丸付近

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 本川と外堀に挟まれた西の丸を中心に描いたもの。
 本川沿いにある今門の下には、普作御役所(普請と作事を行った役所)の木蔵、そしてその下方の矢倉ノ下御門(やぐらのしたごもん、櫓下御門)の横には、御召雁木(おめしがんぎ)が描かれている。
※ 雁木(がんぎ)は、川や港に設けられた階段状の船の発着場のこと。御召雁木は藩主が利用するために設けられたもの。

 

04 「芸藩広島城下之要図」より城内

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 内堀に囲まれた本丸・二の丸、中堀に囲まれた三の丸、外堀に囲まれた北の丸・大手郭(おおてくるわ)・北の郭などの城内を中心とした絵図。本丸近くには重臣の屋敷が配置されている。

05 広島城外堀(京口門付近) 明治

05 広島城外堀(京口門付近)

 埋め立てられる前の八丁堀を撮影したもの。中央右端の京口御門櫓台から道に向かって土橋がのびている。「京口」の由来は、毛利氏の時代に京都への往来に用いたためと言われている。
 埋め立てられた堀は道路と宅地になり、大正元年(1912年)に白島線の電車通りとなった。白島線の軌道は、昭和27年(1952年)に現在の位置に移設。

06 広島市街明細地図 明治27年 明治27年(1894年)12月発行

06-1 広島市街明細地図 明治27年

 日清戦争が始まった明治27年(1894年)の12月に発行されたもの。広島城本丸には「本営」、また三の丸には「帝国議会仮議院」など、日清戦争当時の施設名が記されている。
 道路や川・堀が赤や緑で彩色されているが、これは旧蔵者が彩色したもの。城内の内堀など塗り残された部分がある。

06 広島市街明細地図 明治27年(部分)

06-2 広島市街明細地図 明治27年(部分)

06-2 広島市街明細地図 明治27年(部分) [ダウンロード/451KB]

 「広島市街明細地図 明治27年」の広島城附近を拡大したもの。

07 広島市街明細地図  明治20年(部分) 明治20年(1887年)11月発行

07 広島市街明細地図 明治20年(部分)

 明治20年(1887年)に発行された地図の広島城附近を拡大したもの。広島城本丸には翌21年に第五師団に改称した(広島)鎮台本営の記載が見える。三の丸には「十一連隊営所」、「砲兵営所」、北の郭(くるわ)には「二十一連隊営所」、「射的場」、大手郭一帯には明治8年に設置された「練兵場」や「憲兵本部」、「偕行社」、「騎馬兵営」、西の丸には、「輜重兵営所(しちょうへいえいしょ)」、「工兵営所」、「病院」、「火薬庫」等の施設名があり、城内はほぼ軍の施設で占められている。

08 広島市街業務案内地図 明治38年(部分) 明治38年(1905年)6月発行

08 広島市街業務案内地図 明治38年(部分)

 明治37年(1904年)の日露戦争開戦直後に発行された地図の広島城附近を拡大したもの。
 城内本丸には「第五師団司令部」、三の丸には「第十一連隊兵営」、「砲兵営」、大手郭(おおてくるわ)には「歩兵営」、「第九旅団司令部」、「西練兵場」、「憲兵本部」、「地方幼年学校」、北の郭には「第四十一連隊兵営」、西の丸には「輜重兵営(しちょうへいえい)」、「兵器支廠(へいきししょう)」、「衛戍病院(えいじゅびょういん)」、「火薬庫」等の軍の施設名が記されている。

09 大広島市街都市計画地域別街路網図 昭和5年(部分) 昭和5年(1930年)12月 大日本東京交通社出張所編・発行

09 大広島市街都市計画地域別街路網図 昭和5年(部分)

 満州事変が始まる前年、昭和5年(1930年)に発行された地図の広島城附近を拡大したもの。
 本丸には「旧大本営」、「五師団司令部」、三の丸には「歩兵第十一連隊」、「野砲兵第五連隊」、大手郭(おおてくるわ)には「旅団連隊区司令部」、「西練兵場」、「憲兵隊」、「被服倉庫」、西の丸には「輜重兵(しちょうへい)第五大隊」、「衛戍病院(えいじゅびょういん)」、「弾薬庫」等の軍の施設名が記されている。

10 最新広島市街地図 昭和15年(部分) 昭和15年(1940年)8月 金正堂書店編・発行

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 戦局が進んだ昭和15年(1940年)に発行された地図の広島城附近を拡大したもの。この地図では、広島城をはじめ東練兵場、被服支廠(ひふくししょう)、糧秣支廠(りょうまつししょう)、兵器支廠(へいきししょう)などの軍事施設部分はすべて白抜きにされている。

広島城の天守閣

 広島城の天守閣は、本丸上段の北西の一角に築かれた天守台の上に建てられた。もともとは五層五階の大天守(だいてんしゅ)、その東側と南側に三層三階の小天守(こてんしゅ)があり、それぞれ渡櫓(わたりやぐら、渡り廊下のこと)で結ばれていた。
 大天守は入母屋(いりもや)の大屋根をかけた二層建物の上に三層の櫓を乗せた形になっていた。第一層・第二層は外柱が通し柱となっており、内陣(ないじん)は板壁で区切られ、その周囲は武者走り(むしゃばしり)になっていた。三層より上の層には内陣はなく一室になっていた。最上階の第五層には望楼(ぼうろう)様式が取り入れられており、外部周囲に廻縁(まわりえん)と簡略な高欄(こうらん)が配されていた。四方とも中央に出入口があり、その両側には桃山様式の大きな華頭窓(かとうまど)がはめられていた。
 天守閣は、住宅建築である主殿造り(とのもづくり)の屋上に比較的小さい望楼を乗せた形式から発達したものと考えられており、広島城の天守閣には住居用の殿舎(でんしゃ)との分離が十分行われていない主殿(とのも)系統の初期様式が近代まで残されていた。
 明治5年(1872年)から城の門や櫓の解体が始まり、南・東二つの小天守も明治期に取り壊された。昭和6年(1931年)、近世初期の城郭の姿を残す広島城の天守閣などの遺跡は、名古屋城などともに「国宝(旧国宝)」に指定された。広島城天守閣は大正15年(1926年)に史跡に指定された広島大本営跡とともに、戦前の人気の観光名所であり、多くの絵葉書が作られた。

11 天守閣正面 昭和戦前(昭和11年以降)

11 天守閣正面

 南小天守(こてんしゅ)跡から撮影された天守閣南面の写真。
 第二層から第四層までの突き上げ戸が開けられている様子がよく分かる。第五層の華頭窓(かとうまど)には板戸が付けられている。
 第二層の屋根の下には、大天守の入口に改装された南小天守との間の渡櫓(わたりやぐら、渡り廊下のこと)の一部が見える。

12 天守閣第一層南西外観(部分) 昭和11年(1936年)10月4日 渡辺襄撮影

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12 天守閣第一層南西外観(部分) ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。

 天守台から第一層の南西角を撮影したもの。中央には突き上げ戸と、鉄砲狭間(てっぽうざま)が確認できる。
 第一層、第二層の屋根の隣には、天守閣一階に上る入口(南小天守と大天守のと間の渡り廊下の一部)が写っている。
 ※ 鉄砲狭間(てっぽうざま)は、 鉄砲を撃つために天守や櫓の壁面に設けられた小窓のこと。

13 天守閣第二層内部 昭和初期

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 天守閣第二層の南側の武者走り(むしゃばしり)を西側から東側に向かって撮影した写真。
 右側(南側)や奥(東側)の白壁には鉄砲狭間(てっぽうざま)や格子窓が設けられている。左側の板壁の向こうには、板敷の内陣(ないじん)が設けられていた。天井はむき出しになっており、梁には鉋(かんな)削りもしていない手斧(ちょうな)で削っただけの木材(松)が用いられていた。
 ※ 武者走り(むしゃばしり)は、天守外壁の内側に設けられた通路のこと。

  天守閣第三層

14 天守閣第三層内部 昭和初期

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 天守閣第三層の内部を東側の武者走り(むしゃばしり)から撮影したもの。左手前には第二層から上がる階段、その少し奥には第四層に上がる階段が写っている。天守閣には第一層から第五層まで、上り下りの両階段が別々に付けられていた。

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15 天守閣第五層内部 昭和初期

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 天守閣最上階(第五層)の内部を撮影した写真。
 最上階には外壁の外に廻縁(まわりえん)が設けられており、各面には廻縁に出る出入口とその両側に華頭窓(かとうまど)が設けられていた。正面に見える釣鐘型の窓が華頭窓。出入口の外には廻縁の高欄(こうらん)や樹木などが見える。
 もともとは畳敷であったが、この写真が撮影された時期には板敷に改装されている。

天守閣第五層

16 天守閣西 昭和初期

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 天守閣の西面を撮影したもの。右側には天守閣第一層の入口として残された南小天守(こてんしゅ)との間の渡櫓(わたりやぐら、渡り廊下のこと)の一部が見える。
 第一層の左端には石垣からはみ出すように設けられた石落としが確認できる。
 ※ 石落としは、石垣の下にいる敵を鉄砲で撃ったり、ものを落としたりして防御するために設けられた開口部。初期の天守閣に設けられた。広島城の石落としは、下にいくにつれ広がる袴腰型(はかまごしがた)。

17 天守閣南東 大正 広島□○堂発行

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 本丸から撮影された天守閣南東面の写真。中央には大天守と東小天守の間の渡櫓(わたりやぐら、渡り廊下のこと)の一部が写っている。その右の石垣は東小天守台。

18 天守閣北東 昭和戦前 広島□○堂発行

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 天守閣の北東面を撮影したもの。
 左側には東小天守との間の渡櫓(わたりやぐら、渡り廊下のこと)の一部が見える。第五層の華頭窓(かとうまど)のうち東側の1つは板戸が外され、釣鐘型の特徴的な形が確認できる。
 右端の堀の向こうには、西の丸にあった軍事施設の屋根が見える。

広島城の門

 江戸時代の記録「広島藩御覚書帖」(正徳5年(1715年)頃)には、広島城には12の御門櫓(ごもんやぐら、櫓門のこと)と、9の冠木門(かぶきもん)があったことが記録されている。
 明治2年(1869年)頃に書かれた絵図では、本丸に中御門、裏御門、二の丸に橋御門(表御門)、三の丸に西御門、南御門、北御門、大手郭(おおてくるわ)、小姓(こしょう)町御門、一丁目御門、研屋(とぎや)町御門、立町御門、京口御門、の名が見える。
 本丸、二の丸、三の丸の外周は塀や櫓などで囲われており、ここに設けられた門は、上に櫓を乗せた「櫓門」であった。このうち、表御門、中御門、裏御門の一部は、被爆時まで残っていたが、被爆により倒壊・炎上した。

広島城の門

「芸藩広島城下之要図」より 明治初期

※ 赤の丸印が門

19 中御門 昭和11年(1936年)10月4日 渡辺襄撮影

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19 中御門 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。

 中御門を二の丸側から撮影した写真。
 中御門は本丸の南側に位置した城門で、二の丸から本丸に入る入口に当たる。
 扉や柱に鉄板が打ち付けられていたことから「鉄御門(くろがねごもん)」とも呼ばれていた。門の上に櫓(やぐら)が築かれる櫓門の形式になっている。原爆投下まで残っていたが、被爆により倒壊・炎上した。現在は門の両側の石垣が残っている。

20 表御門(師団司令部入口) 昭和戦前

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 二の丸に設けられた表御門を撮影したもの。二の丸と三の丸は橋で結ばれており、この門は橋に面していたため「橋御門」とも呼ばれていた。
 写真の門の正面には「第五師団司令部」の表札がかけられている。写真右奥には多聞櫓(たもんやぐら)や太鼓櫓(たいこやぐら)などの江戸時代から残る建造物が見える。

広島大本営跡

 明治4年(1871年)、広島城内に鎮西鎮台(ちんぜいちんだい)第一分営(同6年広島鎮台)が置かれたのを最初に、広島城内には軍事施設が次々と設置された。明治21年(1888年)には、第五師団司令部が城内に設置された。
 明治27年(1894年)に日清戦争が始まると、大型船が利用できる港(宇品港)が開港していたこと、山陽鉄道が広島まで開通していたことなどから、軍事輸送が容易になった広島は、大陸への出兵基地となった。同年9月15日には、明治天皇とともに大本営(戦時の最高統帥機関)が広島城内に移り、本丸にあった第五師団司令部の庁舎が大本営として使用された(翌28年4月まで)。
 天皇が滞在した旧大本営の建物は、日清戦争後「後世永遠の記念として保存」されることになり、大正15年(1926年)、史跡に指定された。皇后が滞在した施設も「昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)御座所」として保存された。いずれも原爆により建物は倒壊し、現在は土台が残っている。

広島大本営跡

21 広島大本営跡と天守閣 明治~大正

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 本丸下段から上段の広島大本営跡を撮影したもの。上段左側には天守閣が写っている。本丸下段から上段へ緩やかなスロープになっており、その両端は植栽で飾られていた。

22 広島大本営跡と天守閣 大正 広島□○堂発行

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 写真は大正時代の広島□○堂の絵葉書。左側の天守閣の下には昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)御座所の一部が写っている。

23 広島大本営跡 昭和戦前

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 この建物は、もともと広島鎮台司令部(ひろしまちんだいしれいぶ)として明治10年(1877年)に建設され、同27年(1894年)の日清戦争開戦時は第五師団司令部庁舎だった。広島大本営には、この木造2階建て洋館が使用された。
 明治29年、永久保存が決まり、大正15年(1926年)、史蹟名勝天然記念物に指定された。戦前は天守閣とともに名勝として市民に親しまれた。建物の外観は、玉座、衣桁(いこう)等の備品とともに様々な構図で撮影され、絵葉書として流布した。

24 広島大本営跡 昭和42年(1967年) 広島市広報課撮影

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 広島大本営の建物は被爆により倒壊したが、建物の土台は残った。昭和42年(1967年)4月に広島市広報課が撮影したこの写真には、天守閣を背景に建物の土台と「史蹟 明治二十七八年戦役広島大本営 史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ 大正十五年十月内務大臣指定」と刻まれた石碑が写っている。

25 旧大本営前の噴水池「桜の池」 昭和戦前

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 広島大本営跡の絵葉書によく写っているこの池は、広島軍用水道の旧城内鉄管布設に伴い明治31年(1898年)に築造された。最初は予算不足から池のみが築造されたが、宮内省からの費用寄贈により噴水口が装置され、写真のような噴水のある池となった。
 池の中心の仮島には沼田郡八木村(現広島市安佐南区)河岸の天然石が用いられた。この噴水池は大正14年(1925年)に「桜の池」と命名された。

26 旧大本営前の噴水池「桜の池」 昭和40年頃 広島市広報課撮影

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 この写真は、昭和40年(1965年)頃、広島市広報課が撮影したもの。被爆により旧大本営の建物は倒壊したが桜の池は残り、広島城跡の公園の一部として整備された。
 現在の池には噴水はなく、縁石や仮島の石組みが残されている。

戦後の広島城

 原爆投下により、広島城では明治以降も残っていた天守閣が倒壊し、東走櫓(やぐら)と裏御門の一部、中御門、表御門と二の丸の多門櫓(たもんやぐら)等が焼失し、石垣や建物の土台のみが残された。
 昭和26年(1951年)、国民体育大会のプレイベントとして開催された体育文化博覧会の会場に仮設の天守閣が建設された。昭和28年(1953年)に城跡が国の史跡に指定されたことや都市の復興とともに天守閣再建の気運が高まったことなどから、市は天守閣の復元を計画し、同32年(1957年)10月、復元に着手した。翌33年に完成したコンクリート造りの天守閣は、4月に開催された広島復興大博覧会の第三会場「郷土館」となり、博覧会終了後、広島の文化や歴史を伝える資料を展示する「広島城郷土館」として開館した。
 原爆で焼失した二の丸の表御門・平櫓・多門櫓・太鼓櫓は、平成元年(1989年)から修復・復元に着手し、同6年までに木造で復元された。
 広島城内にあった軍用地は、戦後国有地として管理されることとなったが、市は東半分を官公庁施設に、西半分を公園用地とする計画を立てた。昭和20年代後半から県庁や国の合同庁舎等が建設され、この地区は再び政治の拠点となった。公園予定地には、中央テニスコート、市民球場、体育館、青少年センター、図書館、美術館等の文化スポーツ施設が次々と建設された。そして昭和53年(1978年)、老朽化した住宅の解消と高層改良住宅の建設、公園整備等を行う基町地区再開発事業の完了によって現在の姿となった。

27 戦災後の広島城趾 (『昭和25年市勢要覧』より)

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 昭和26年(1951年)6月発行の『市勢要覧』に掲載された写真。本丸や天守台には建物はなく、焼け残った樹木と石垣だけが写っている。

28 昭和27年頃の広島城跡(『昭和27年市勢要覧』より)

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 昭和28年(1953年)年10月発行の『市勢要覧』に掲載された写真。手前に水が枯れた桜の池の一部、その奥に旧広島大本営の土台と天守台が見える。少しずつ育っている樹木も写っている。

29 復元工事中の広島城天守閣 昭和33年(1958年)2月

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 広島城天守閣は昭和33年(1958年)、鉄筋コンクリート造で復元された。最上層まで組まれた足場の上部に天守閣五層の屋根の一部が見える。
 工事は昭和32年(1957年)10月から始められ、翌33年(1958年)3月に工期約5ヶ月という短期間で竣工した。4月には広島復興大博覧会の第三会場となり、その後、広島城郷土館として使用された。

30 復元された広島城天守閣 昭和33年(1958年)8月20日 広島市広報課撮影

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 昭和33年(1958年)3月に復元された天守閣を三の丸から撮影したもの。手前の石垣は本丸の南西角。その上にs飽和31年(1956年)に再建された護国神社の屋根と千木(ちぎ)が見える。蓮が一面に広がる堀の中には、子どもの姿があり、遊び場であったことがうかがえる。

展示会チラシ・資料リスト

展示会チラシ「広島城パネル展」 [PDFファイル/1.51MB]

展示会資料リスト(Web版)   [PDFファイル/306KB]

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