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Web展示会「新収資料展」

ページ番号:0000195070 更新日:2022年2月2日更新 印刷ページ表示

広島市公文書館「新収資料展」

会場開催期間
会期:令和2(2020)年3月2日(月)~7月10日(金)

開催場所
開催場所:広島市公文書館 ロビー・閲覧室(広島市中区大手町四丁目一番一号 大手町平和ビル7階)

展示資料数
45点

展示内容
 広島市公文書館では、広島の歴史に関係のある文書、写真、地図、絵葉書、ポスター、チラシ等の一次資料を収集しています。平成27(2015)年度・平成28(2016)年度には、100人を超える方々から、資料を寄贈していただきました。
 この展示ではその中から、45点の資料を紹介しています。

掲載しているデジタル画像等のうち、ダウンロード用のリンク(資料詳細確認のためのリンクではありません)が表示されているものは、任意にご利用いただけます。

ご利用については、 「デジタル画像等の利用について」のページをご確認ください。

01 蚕種販売広告 明治30年代 01 詳細確認はこちらから [318KB]

01

 蘆品郡川引村(現福山市)の蚕種製造業平井の広告。製造する蚕種の種類、取扱い時期、料金等が記されている。資料02の蚕種購入時の領収書と一緒に、安佐郡東原村(現広島市安佐南区)の個人宅に残されていた。
 江戸時代、広島地域ではあまり発展しなかった養蚕業も、明治に入り絹糸の輸出が増えると次第に盛んになり、大正から昭和にかけて最盛期を迎えた。この地域では明治末期から大正にかけて盛んに行なわれた。

02 領収書(蚕種の領収書) 明治39(1906)年9月

02

 安佐郡東原村(現広島市安佐南区)の個人が蘆品郡服部村(現福山市)の蚕種売渡製造人広本三右衛門 から蚕種を購入した際の領収書。この時購入した風穴状蚕種は618匹分で、9円88銭8厘を支払っている。
 風穴状蚕種は、天然の冷蔵庫である風穴などで蚕種を保存することにより、蚕の孵化時期を調整(抑制)したもので、この蚕種を使用することで、春・夏に加えて秋にも養蚕を行うことが可能となった。

03 安佐郡東原村短期座繰製糸講習所教師派遣之件認可書 広島県 明治40(1907)年5月

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 広島県は明治前期に養蚕伝習所を開き、関東・東北地方の先進技術を導入した。養蚕伝習所はその後、長期及び短期の蚕業講話所に変わり、明治39(1906)年度には、蚕業講習所に改められ、人材養成や技術開発、農家への普及指導の進展に努めた。
 これは、広島県知事から安佐郡東原村短期座繰製糸講習所管理者に宛てたもので、同講習所への講師派遣を認可する指令文書。

04 戦後発展全国工業博覧会銅賞表彰状(山繭織) 大正10(1921)年8月

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 山繭織(やままゆおり)は山で採った山繭蛾の繭を紡いだ糸で織ったもので、広島藩の特産品であった。安佐町、可部町(現広島市安佐北区)では、明治以降も盛んに生産されていた。
 これは、第一次大戦後の大正10(1921)年、京都市で開催された戦後発展全国工業博覧会(7月5日~9月5日開催)に広島県の産品として出品された山繭織に対する銅賞の賞状。

05 白鶴(酒ラベル) 明治期

05

 高宮郡可部町(現広島市安佐北区)の田中恒右衛門が醸造した清酒「白鶴」の商標。

06 広島県酒造組合第一回酒類品評会褒状 明治32(1899)年6月

06

 明治32(1899)年に開催された広島県酒造組合の第1回酒類品評会の褒状。
 品評会には県内17郡市から酒・みりん合わせて300を超える出品があり、その中から1等金牌、2等銀牌、3等銅牌、褒状(ほうじょう)が授けられ、市会議事堂で授与式が行なわれた。

07 麻づくり(祇園~古市付近)【写真】 飯田邦夫撮影 昭和29(1954)年

07

 祇園・古市付近(現広島市安佐南区)の川で、煮た麻(アラソ)を扱ぎ晒す「オコギ作業」をしているところ。
 麻は中世以降、広島地域で盛んに生産されるようになった。近世に入ると、現在の古市を中心とする地域が一大生産地に発展したが、昭和になると激減し、さらに戦後の大麻取締法・麻薬取締法の施行によって昭和30年代には麻は栽培されなくなった。

08 海苔の養殖(江波~吉島付近)【写真】 飯田邦夫撮影 昭和30(1955)年

08

 昭和30(1955)年頃の江波~吉島付近(現広島市中区)の海苔干し場の様子。
 広島の海苔養殖は、慶長年間(1556~1615年)に始まったとされる。広島湾各所で盛んに行われたが、明治以降の相次ぐ広島湾沿岸の開発等によって徐々に衰退していった。

09‐1 「明治25年度 学費簿 附勤惰及品評表」(表紙) 明治25(1892)年度

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 沼田郡東原村(現広島市安佐南区)に住む豆田熊一の家庭と沼田高等小学校(明治20(1887)年4月に沼田郡唯一の高等小学校として創立)の間で交わされた学費や成績等に関する連絡簿。出席記録である「毎月勤惰表」、成績・順位をまとめた「第四学年間試験品評表」が末尾に附属している。教材や草履など通学に必要な物品の購入に関する情報や試験の成績なども記録されている。

09‐2 「明治25年度 学費簿 附勤惰及品評表」(端書部分)
09-2 詳細確認はこちらから [210KB]

09-02

 「明治25年度 学費簿 附勤惰及品評表」の端書部分。
 端書にはこの「学費簿」は、一年間の学費を明記し、かつ倹約の美徳を養成することを目的としたもので、教員が認めていないものについては、子どもが要求しても買い与える必要はない、などと書かれている。

09-3 「明治25年度 学費簿 附勤惰及品評表」(12月部分)

09-3

 「明治25年度 学費簿 附勤惰及品評表」の12月部分。
 「学校ヨリ」の欄には学校が購入する必要があるとするもの、「家庭ヨリ」の欄には、家庭で買い与えたものとその金額、日付が記入されていた。

10-1 『ユーカリ 1948』(表紙) 広島県立広島第一中学校校友会発行 昭和23(1948)年3月

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 広島県立広島第一中学校は明治30(1897)年に県内初の県立中学校として創立した。同校は、昭和23(1948)年4月の学制改革による新制高校設立に伴い、同年5月3日閉校した。
 『ユーカリ』は「一中生として必須の冊子」として昭和22年1月に創刊されたが、閉校により、2号で廃刊することとなった。

10-2  『ユーカリ 1948』(目次部分) 10-2 詳細確認はこちらから [379KB]

10-2

 広島県立広島第一中学校は、昭和22(1947)年12月の行幸の際、昭和天皇の訪問を受けた。この号には、この行幸に関する記事や写真、生徒のエッセイ・詩・俳句・短歌などの文芸作品、クラブ活動の報告などが掲載されている。

11 『鯉城新聞 第6号(全第11号)』(1面) 広島県鯉城高等学校新聞班編・発行 昭和24(1949)年4月15日
11 1面の詳細確認はこちらから [1面/2.97MB]  11 2面の詳細確認はこちらから[2面/3.42MB]

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 広島県鯉城高等学校は、昭和23(1948)年5月3日、学制改革による広島県立広島第一中学校(旧制中学)の閉校により、新制高等学校として開校した。翌年4月には、県内の高校再編により、広島県広島国泰寺高等学校に改称した。
 この「グッドバイ号(最終号)」には、「光芒放つ70年 広島一中祝賀記念式」、「最初で最後の卒業式」、「築かう新しき学園を」など、学校再編のただ中にある学校の様子が記録されている。

12-1 「財団法人広島有隣奨学会設立許可指令書及謄本綴」(表紙) 昭和32(1957)年

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 広島有隣奨学会は「原爆、その他の原因により英才を抱きながら、経済的理由により高等学校に進学できない多数の孤児等に奨学資金を貸与する永続的組織を作る」ことを目的として、昭和32(1957)年4月に設立された。
 この綴には、広島県から送付された設立許可指令書、設立に際して県に提出した許可申請書と添付書類(設立趣意書、寄附申込書、事業計画書及び歳入歳出予算書〔昭和32年度〕)などが綴られている。同会は、平成12(2000)年3月、目的を達したため解散した。

12-2 財団法人広島有隣奨学会設立趣意書(「財団法人広島有隣奨学会設立許可指令書及謄本綴」より)
12-2 詳細確認はこちらから [371KB]

12-2         

 この設立趣意書には、財団法人広島有隣奨学会が、広島逓信病院院長蜂谷道彦博士の著書『広島日記』の英訳『ヒロシマ・ダイアリー』の出版により得られた印税1万ドルを元に社会福祉事業に生かすために設立されたこと、奨学金貸与事業を行うことなどが記されている。

13 段原国民学校記念写真 昭和20(1945)年

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 割れた窓ガラスが残るコンクリート製の校舎の前で撮影された集合写真。
 段原国民学校(現広島市立段原小学校、広島市南区)の校舎は原爆により全壊全焼した。背景の校舎は一時編入していた比治山国民学校(現広島市立比治山小学校)のものと思われる。

14 給食風景写真 昭和30(1955)年前後か

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 大芝小学校(現広島市西区)での給食風景。
 大芝小学校は昭和20(1945)年8月6日の原子爆弾投下により、校舎が倒壊・大破し、一部は焼失した。昭和24年3月には、木造二階建ての校舎が落成し、同26年には、給食調理室も完成した。
 写真には真新しい天井の教室で、琺瑯の器でパン給食を食べる子供たちが写っている。

15 三篠のお祭【写真】 昭和30(1955)年前後

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 広島市西区三篠地区のお祭り。子どもたちが自転車のサイドカーの上や周りに集まっているところを撮影したスナップ写真。

16 仮装した子どもたち【写真】 昭和30(1955)年前後

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 鉢巻、法被に「八」の腹掛けをした子、鯛の張りぼてを抱えた子、スズメや時計の仮装をした子どもたちのスナップ写真。広島市西区三篠地区の行事風景か。
 資料15と同じアルバムに収められていたもの。

17 丁未(ていみ)音楽会で演奏するアレキサンダー・モギレフスキーと今井力【写真】 昭和14(1939)年秋

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 丁未(ていみ)音楽会は、明治39(1906)年12月に広島高等師範学校の教師であった吉田信太を中心に同校校友会の附属団体として組織され、同40年1月に発会式兼第1回演奏会が行われた。その後昭和22(1947)年までの間、広島の音楽の発展に寄与した。
 この写真と以下の丁未音楽会関係の写真は、広島高等師範学校に在学していた岡田義夫の写真アルバムに残されていた。
 アレキサンダー・モギレフスキー(1885‐1953)は、ロシアのバイオリニストで、東京高等音楽学院や帝国音楽学校を経て1932年から東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)で教鞭をとっていた。
 この演奏会では、バッハのシャコンヌやベートーヴェンのコンチェルト等が演奏されたことがアルバムに記されている。

18 丁未(ていみ)音楽会で演奏するレオニード・クロイツアー【写真】  昭和15(1940)年9月28日撮影 18 詳細確認はこちらから [321KB]

18

 レオニード・クロイツァー(1884‐1953)はロシア生まれのピアニスト・指揮者で主にドイツと日本で活躍し、昭和13(1938)年頃からは東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)で教鞭をとっていた。
 アルバムには、クロイッア-の名刺も挿まれていて「ベートーヴェン、ショパン etc」とある。

19 放送室にて「アルルの女 組曲」【写真】 昭和15(1940)年9月撮影

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 楽器を持った詰襟の学生や背広姿の男性、着物の女性などの集合写真。アルバムには「放送室にて『アルルの女 組曲』」と書かれていることから、この曲を演奏した際に放送室で撮影したものだろう。

20 「講堂にて 第五交響曲」(丁未音楽会写真) 昭和15~16(1940~1941)年頃開催

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 広島高等師範学校講堂での演奏風景。この演奏会ではベートーヴェンの交響曲第5番「運命」が演奏された。

21 県女講堂傷病兵士慰問演奏(丁未音楽会写真) 昭和16(1941)年11月開催

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 広島県立広島第一高等女学校の講堂で開催された傷病兵士慰問演奏会の写真。この時は、斉田愛子独唱・管弦楽伴奏で「カルメン」(ビゼー作曲)、管弦楽で「レオノーレ(序曲第3番)」(ベートーヴェン作曲)等が演奏された。

22 広島学生音楽連盟規約 広島学生音楽連盟 昭和22(1947)年7月3日
22 詳細確認はこちらから [1.33MB]

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 広島学生音楽連盟は、昭和21年頃から、広島近郊の大学、旧制高校、高等専門学校、専門学校の学生100人余りが参加した音楽団体。学生生活における音楽文化水準の昂揚を図ることを目的として結成され、学生音楽祭、音楽関係の文化講座・座談会、音楽鑑賞会の開催等、その活動は多岐に渡った。復興資金を集めるための演奏会や一流音楽家を招聘してのコンサートも開催した。
 この連盟規約には、連盟の目的や事業内容、組織の構成、会員の会費や特典などが記載されている。

23 第二回音楽鑑賞会 レオニード・クロイツアー演奏会(プログラム) 広島学生音楽連盟(学生協議会)・朝日新聞社主催 昭和21(1946)年11月2日開催

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 広島学生音楽連盟の第2回音楽鑑賞会は広島学生音楽連盟と朝日新聞社の主催で、佐伯郡井口村(現広島市西区)の広島実践高等女学校で開催された。
 演奏者は資料18と同じ東京音楽学校教授のレオニード・クロイツアーで、ベートーヴェンやモーツァルト、ショパンなどのピアノ曲が演奏された。

24 第一回広島学生音楽祭(プログラム) 広島学生音楽連盟主催 昭和22(1947)年6月1日開催

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 第1回広島学生音楽祭は、それまで著名な音楽家の演奏会を開催してきた広島学生音楽連盟が、学生自身の手で音楽を楽しむ会を開催する試みとして開催した。
 音楽祭は広島高等学校の講堂(現広島大学附属中学校・高等学校の講堂)で開催され、学生のピアノやバイオリンの独奏、合唱、管弦楽とマンドリン合奏などが披露された。

25 戦災孤児義捐金募集音楽会プログラム 学生同志会(新生学園)・学生音楽連盟  昭和22(1947)年11月29日開催

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 この音楽会は、戦災孤児義捐金募集のため広島女学院講堂を会場に開催されたもので、「荒城の月」(滝廉太郎作曲)や「埴生の宿」(ビショップ作曲)など、なじみある曲目が演奏された。

26 音楽会プログラム -広島総合大学決定へ! 我等一路邁進- 昭和23(1948)年頃か

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 昭和24(1949)年に新制大学が発足する見通しとなり、広島県は同22年、広島文理科大学を中心に広島高等学校、広島工業専門学校等を統合して5学部からなる国立広島総合大学を創設する構想をまとめた。当初各地方ごとに1大学を設置するという見方もあったため、各県では誘致運動が行われたが、最終的に各県に1大学が置かれることとなり、昭和24年5月、7学部と教養部を有する総合大学として広島大学が設置された。
 この過程において、広島県に国立大学を設置するための誘致運動や高等専門学校の広島大学への移管等の働きかけが盛んに行われた。この演奏会はこれらの運動期間に開催されたもの。
 広島工業専門学校・広島市立工業専門学校・広島女子専門学校のメンバーが主催し、広島学生音楽連盟と夕刊ひろしまが後援した。

27-1 「幻灯資料 未能者指導法(写真)」(表紙) 昭和17~19(1942~1944)年頃

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 これは、未能者(水泳ができない者)に対する指導法の参考資料。「游泳指導参考書」をもとに幻灯(スライド)資料として作成された。「海軍」の罫紙やざら紙にペン等で書かれている。
 腰の深さまで水がある所での走り方、洗面、前転・後転、バタ足等の基本から、最後は平泳・扇足・跳び込みまで、写真入りで説明されている。
 表紙に「岡田中尉」とあることから、広島高等師範学校卒業後海軍に入隊した旧蔵者の岡田義夫が作成したものと思われる。

27-2 「幻灯資料 未能者指導法(写真)」(部分)

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 「平游 原型」の写真。
 「平游 原型」は平泳ぎの腕や脚の動きを5つに分け、5名がそれぞれのポーズをとったところを撮影したもので、平泳ぎの動作をビジュアルに分かりやすく伝える工夫が施されている。


28-1 「幻灯資料 溺者救助法(写真)」(表紙) 昭和17~19(1942~1944)年頃

28-1

 これは、「溺者」(溺れた人)に対する救助方法の参考資料。「游泳指導参考書」をもとに幻灯(スライド)資料として作成された。「海軍」の罫紙やざら紙等にペン等で書かれている。
 溺者を救助する方法として、遊搬法(泳ぎながら運ぶ方法)や吐水法・人工呼吸法・解溺法などが写真入りで解説されている。
 表紙には資料27と同様に「岡田中尉」とあることから、旧蔵者の岡田義夫が作成したものと思われる。

28-2 「幻灯資料 溺者救助法(写真)」(部分)
28-2 詳細確認はこちらから [318KB]

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 「幻灯資料 溺者救助法」の一部。溺者を引きあげた際に行う「吐水法」に関する説明と、吐水させる時の溺者、救助者の体勢を撮影した写真。

29 広島県剣道有段者会5周年記念写真 昭和11(1936)年8月23日

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 広島県剣道有段者会5周年記念の記念写真。後ろの特徴的な建物は水主町にあった武徳殿。武徳殿は大日本武徳会の支部道場の一つで、演武場・道場として剣道、柔道等の様々な武道の修練の場として使用されていた。


30 剣舞【写真】 戦前

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 剣舞は、明治以降、身体の鍛錬や精神の修練として青少年教育の一つとして行われていた。
 指導者の後ろには剣舞をする学齢前らしいの子どもや高等小学校くらいまでの子どもとそれを見守る父母らが写っている。

31-1 『第118回卒業記念写真帖』(表紙) 広島逓信講習所 昭和10(1935)年10月

31‐1

 広島逓信講習所は電信技術者の養成を目的として、大正10(1921)年5月1日に千田町(現広島市中区)に設置された。なお、大正10年10月に三篠町(現広島市西区)に移転した。
 この卒業記念写真帖には、校舎正門や全景等の写真に加え、職員、講習生、講習風景や講習所での生活などを撮影した写真が収められている。

31-2 『第118回卒業記念写真帖』(部分) 31-2 詳細確認はこちらから [346KB] 

31-2

 これは写真帖の中の1ページ。事業経営、タイプライター練習、電信事務実習、事業大意などの授業風景の写真。電信事業に関する知識と実務の両方を身に着ける授業が行われていたことが分かる。

32 広島逓信講習所卒業証書 昭和10(1935)年10月

32

 広島逓信講習所の卒業証書。養成課程は、普通科と高等科の2科があり、この卒業証書は普通科のもの。普通科の養成期間は9か月であった。

33 国防資材献納に対する感謝状 昭和15(1940)年4月

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 国防資材を献納したことに対する感謝状。授与者の陸軍大臣畑俊六は、原爆投下時、第二総軍指令部司令官として広島に赴任していた。

34 防空演習感謝状 昭和9(1934)年7月

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 広島市防護団第二分団長から防空演習の協力者に贈られた感謝状。広島市防護団は昭和8(1933)年に設置され、この頃活動が盛んになっていた。

35 母親から疎開先の娘へ宛てた手紙(部分) 昭和20(1945)年5月3日

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 広島市では昭和20(1945)年4月から学童集団疎開が実施され、大手町国民学校の3年生以上の児童は、市から指定された比婆郡山内北村、高村(現庄原市)に疎開することになった。
 これは母親から疎開先の娘に宛てたもので、全12通のうち最初の1通。4月30日に広島市内がB29の襲撃を受け、親戚宅に被害があったことや、娘を案じる内容が記されている。

36 母親から疎開先の娘へ宛てた手紙(部分) 昭和20(1945)年8月3日
36 詳細確認はこちらから[347KB]

36

 母から娘への最後の手紙。
 疎開先方面に帰る知人に急遽ことづけたため、ノートをちぎった紙に書かれている。大豆、きな粉、歯磨き粉とはがきをことづけたこと、ことづけた食べ物はおなかを悪くしないように気をつけて食べること、モンペや冬の綿入れを持っていきたいと思っていることなどが書かれている。
 母親は8月6日被爆し、同月27日に亡くなった。

37-1 「広島原子力戦災記念一部」(表紙) 昭和20(1945)年

 

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 緑井村(現広島市安佐南区)役場から隣組(中井組)組長に送られた戦災時の対応に関する通知文等の綴。

37-2 戦災罹災者救護災禍ノ応急措置ニ関スル件 緑井村役場 昭和20(1945)年7月3日 (「広島原子力戦災記念一部 」より) 
37-2 詳細確認はこちらから [342KB]

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 緑井村役場から隣組(中井組)の組長に宛てた依頼文書。「戦局頓ニ急迫シ敵襲激化ノ非アリ、敵機ハ先日大挙呉市ニ来襲、他ノ中国主要都市モ何時暴虐ナル敵機ノ無差別爆撃ヲ受クルヤモ図リ難キ状況ニアリ」として、広島方面に緊急事態が発生した場合の炊出し、罹災者の収容、寝具・食器等の調達貸与等を依頼している。

37-3 戦災者ニ対スル処置ニ関スル件 緑井村役場 昭和20(1945)年8月6日 (「広島原子力戦災記念一部 」より)
37-3 詳細確認はこちらから [342KB]

37-3

 原爆投下直後に緑井村役場が各隣組長に出した通知。
 「戦災者ハ今晩終夜収容シ得ル準備ヲ整ヘオカレタシ」から始まる8項目にわたる依頼。戦災者に寝具や食糧(むすび)を供給し丁寧に保護するように、またそれらを詳細に記録し役場に提出するよう依頼している。

38 「原爆に立つ男」原稿 久保辰雄 標題・本文(一部) 昭和30(1955)年頃

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 「原爆に立つ男」は、『広島商人』(昭和31(1956)年 平凡社発行)のもとになった記録。
 荷造材料商(藁工品)を営む家に生まれ、広島県藁工品配給統制組合の事務所で被爆した著者による体験記。自らも被爆しながら広島の復興のために尽力する様子が記録されている。

39 広島都市計画街路網図 広島市都市計画課 昭和2(1927)年
39 詳細確認はこちらから [2.29MB]

39

 都市計画法は大正8(1919)年に制定され、広島市へは大正13年に適用された。
 都市計画関係の諸事業のうち最初に実施に移されたのは街路の整備事業だった。これは法適用から5年後に作成された都市計画街路網の青焼き図面。本図では路線が幅員に応じて色分けされている。

40 建築許可申請書・許可証 広島県 昭和21(1946)年10月23日 
40 詳細確認はこちらから [1.5MB]

40

 住民が広島県に提出した住宅兼営業用の建築許可申請書。請書・建築工事着手届・配置図・平面図・見取図が添付されている。上部に県の許可の押印がある。
 請書には「将来当局の都市計画其の他の都合により該当建築物の除去または移転等の場合は無償にてご指示の期限内に異議なくご命令に従い遅滞なく服従申すべく候」とあり、土地区画整理事業での移転等を前提とした建築許可であったことが分かる。

41 除却命令書 広島市 昭和24(1949)年12月19日 
41 詳細確認はこちらから [1.02MB]

41

 昭和21(1946)年10月に許可を得て建築した家は、約3年後の同24年12月、東部復興土地区画整理事業の「道路支障」になるとして、翌年の1月31日までに除却することを命じられた。

42-1 『航空写真地図ひろしま』(専用ケース) 中国新聞社発行 昭和28(1953)年頃

42-1

 金色で 『航空写真地図ひろしま』と刻印された専用の箱には、1/3,000の写真39枚と「写真配置図」が収められている。
 紹介したのは写真配置図で「住吉橋」、「市役所」、「中広町」、「城跡」とされていた写真4枚(1枚の大きさは46センチメートル×56センチメートル)。平和大通りや平和記念公園周辺の整備が進み、中心部に建物が密集している様子が分かる。

42-2 『航空写真地図ひろしま』より「中広町」部分 42‐2 詳細確認はこちらから [2.25MB]

42-2

 中広地区・横川地区・寺町付近。横川駅、広瀬小学校、中広中学校、天満小学校などが写っている。

42-3 『航空写真地図ひろしま』より「住吉橋」部分 42‐3 詳細確認はこちらから [2.14MB]

42-3

 平和大通り(百メートル道路)・中央卸売市場・中島小学校、神崎小学校、舟入病院などが写っている。

42-4 『航空写真地図ひろしま』より「城跡」部分 42-4 詳細確認はこちらから [2.22MB] 

42-4

 基町地区・白島地区など。中央に広島城跡と公営住宅等が立ち並んでいる。

42-5 『航空写真地図ひろしま』より「市役所」部分 42-5 詳細確認はこちらから [2.17MB]

42-5

 中島地区・大手町・国泰寺町など。中央を平和大通り(百メートル道路)が横断し、上に平和記念公園、袋町小学校、下に広島市役所、国泰寺中学、国泰寺高校が見える。平和記念公園の北側にはまだ民家が残っている。

Web展示会では、資料の並びを変えて紹介しています。令和元年度に開催した展示会の展示資料一覧はこちらからご覧ください。
展示資料一覧 [190KB]

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