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Web展示会「絵はがきからたどる広島あの頃-市街中心部-」

絵はがきからたどる広島あの頃-市街中心部-

 開催期間 令和2年12月7日(月曜日)から令和3年4月30日(金曜日)まで  会期を延長しました。

 開催場所 広島市公文書館ロビー・閲覧室

はじめに

 広島市公文書館では、今年8月、所蔵する絵はがき等の画像をホームページ上で公開する「デジタルギャラリー」を開設しました。このギャラリー内の「絵はがきと写真に見る広島」では、戦前の広島の街と市民の暮らしを伝える絵はがき100枚を紹介しています。
 絵はがきは、日露戦争記念絵葉書の大流行を契機として大量に発行されるようになり、明治末期から昭和の初めにかけて、観光土産としてだけでなく行事や施設などの記念品としても配布されていました。
 写真機が一般に普及していなかった戦前、街や建造物の様子、人々の暮らしぶりを伝える絵はがきは、被爆により失われた広島の近代の姿を知ることができる貴重な資料となっています。
 今回の展示では、ホームページで紹介した八丁堀、本通り、紙屋町、広島城等の市内の絵はがきを中心に、当時の様子を伝える文書、刊行物、地図、写真などの資料から、街の変化をたどります。デジタルギャラリーとあわせて御鑑賞いただければ幸いです。

★☆このWeb展示会で掲載している画像のうち、【絵はがき※】の記載がある画像データは、こちらからもフリーダウンロードが可能です。☆★

浅野泉邸・浅野観古館・八丁堀・中国新聞社

浅野泉邸・浅野観古館・八丁堀・中国新聞社

01 浅野泉邸

 浅野泉邸は、広島藩主浅野長晟(ながあきら)入国の翌年の元和6(1620)年に藩主浅野家の別邸として作られた。
庭園は縮景園(しゅくけいえん)と称され、その由来は当時の家老で茶人としても知られる上田宗箇(そうこ)が、中国の西湖を模して「縮景」し築庭したこと、あるいは、儒学者の林羅山(はやしらざん)が2代藩主光晟(みつあきら)の求めに応じて作った詩の序文「海山をその地に縮め風景をこの楼に聚(あつ)む」によったとも言われている。
 廃藩置県により浅野家が東京に移った後も別邸として利用されていたが、昭和14(1939)年末に浅野家から広島県への寄付の申し出があり、翌年県が受納し、同年国の名勝に指定された。その後は市民の憩いの場となっていたが、昭和20年の原子爆弾投下により壊滅的な被害を受けた。
 昭和24年から復旧を開始し、同26年には再び開館した。約30年をかけて本格的な修復を終え、令和2(2020)年に築庭400年を迎えた。

※「縮景園」の 文化財指定名称のヨミは「しゅくけいえん」とされているが、一般には「しゅっけいえん」とも称される。

浅野泉邸 大正期発行

【絵はがき※】(大正期発行) [ダウンロード/512KB]

 正面に写っている太鼓橋は「跨虹(ここう)橋」

02 『縮景園記』

 『縮景園記(しゅくけいえんき)』 広島県立縮景園編・発行、昭和16(1941)年
 浅野泉邸(せんてい)が広島県に寄付された翌年に発行されたもの。
 園の歴史などが簡潔に紹介されている。歴代藩主が愛好した数寄屋(すきや)造の名亭「清風館(せいふうかん)」などの史蹟の写真のほか、園の略図も収められ、当時の姿を知ることができる。

02 『縮景園記』 表紙
02 『縮景園記』 目次
02 『縮景園記』 上 清風館、下 明月亭
02 『縮景園記』 縮景園略図

03 浅野観古館

 大正2(1913)年に浅野泉邸(せんてい)内に建てられた洋風建築の美術館で、浅野家所蔵の書画、武具や茶器などを展示していた。原則偶数日を開館日として、市民に無料で公開された。大正期の来館者は月平均3,500人ほどであったという。
 昭和15(1940)年、浅野泉邸とともに浅野家から県へ寄付されたが、原爆により壊滅した。跡地には、昭和35年に広島県立図書館が新築移転、同43年に図書館に隣接して広島県立美術館が新築開館した。
 昭和63年に県立図書館が移転し、平成8(1996)年に現在の県立美術館に建替えられた。

浅野観古館 大正期発行

04 「観古館記念絵はがき」から展示風景

浅野長勲(ながこと)具足
観古館陳列 蒔絵類の一部
定家卿の文
達磨図 雪舟筆

05 広島八丁堀(京口門付近)

  江戸時代、中級武士たちの住む武家屋敷地であった八丁堀は、かつては「八丁馬場」と呼ばれ、場内を東西に八丁(1丁は約109メートル)の長さにわたり侍屋敷が建ち並んでいたという。
 また、「八丁堀」というのは、本来そこにあった濠の名であり、その長さにちなんだ地名であるという説もある。濠に面した通りの南北のほぼ中央は広島城の京口御門があった。
 この濠は、明治末期に埋め立てられ宅地や道路となり、道路上には広島電気軌道(現広島電鉄)常盤橋線(八丁堀~白島間(現在は白島線))の軌道が敷設された。白島線は昭和27(1952)年に東側(現在の場所)に移設された。写真の右側には、埋め立てられる前の堀が写っている。
 京口門の名は、現在もバス停や公園の名称に残されている。

広島八丁堀(京口門付近)

【絵はがき※】(明治期発行) [ダウンロード/485KB]

 右側に広島城の外堀が写っている。

06 八丁堀(福屋付近)

 明治末期に広島城の城濠が埋め立てられると、その一部には広島電気軌道(現広島電鉄)の軌道が敷設され、大正元(1912)年1月には市内電車の広島駅前-紙屋町-御幸橋線と八丁堀-白島線が、12月には、紙屋町-己斐線が開通した。
 これにより、城下町以来の商業の中心であった中島本町、堺町付近の賑わいは、次第に八丁堀、紙屋町方面へと移っていった。
 大正2年、道の分岐点にあたる八丁堀電停前(現在の福屋八丁堀本店の位置)に広島市内で2番目の活動常設写真館である「帝国館」が、その後「日本館」、「太陽館」が次々に開館。帝国館西側の広場には見世物小屋などの娯楽施設が作られ賑わいを見せた。八丁堀電停から東の一帯はその賑わいから、大阪の繁華街にならい、「千日前」と呼ばれていた。

八丁堀福屋前より中国新聞社を望む 本通夜の美観

【絵はがき※】(昭和戦前発行) [ダウンロード/973KB]

 八丁堀福屋前より中国新聞社を望む 左上は本通夜の美観

07 福屋デパート2階 【写真】

 昭和4(1929)年に広島初の百貨店として開店した福屋(旧館)の2階。水着を着たマネキンの後ろに帽子が写っている。昭和10年 (渡辺襄撮影)。

福屋デパート2階

08 中元御贈答用品の栞(しおり)(福屋百貨店)

 モダンな表紙の中元御贈答用品を案内した福屋百貨店のしおりは、昭和12(1937)年春のもの。
 店内御案内の頁からは当時の各階の売り場や取扱商品の様子が分かる。最上階の4階には催し物会場や食堂があり、屋上では盆栽が売られていた。
 中元御贈答用品には、「モロゾフチョコレート」や「福屋最中」などのお菓子、広島名産の「頼山陽煎餅」・「富久加喜」・「柿羊羹」などのほか、呉服や玩具といった品物が紹介されており、当時の中元贈答品の傾向や販売価格も分かる。

中元御贈答用品の栞 表紙
中元御贈答用品の栞 目次
中元御贈答用品の栞 店内御案内
中元御贈答用品の栞 食料品
中元御贈答用品の栞 お家庭用品

09 昭和14年分 町事務書類綴

 草津南町(現西区草津南)の町総代が保管していた昭和14(1939)年分の事務書類の綴。
 町総代は、町内の自治を担った町ごとの代表者で、町内の諸事の取りまとめを行うほか、広島市から出された通知や連絡の各戸への周知にも携わっていた。昭和16年3月に広島市町内会と隣組が設けられたことにより廃止された。
 この簿冊には、「草津連絡会通信1月号」、「草津青年学校々報1月号」、「南町総会通知書」などの町内で作成された印刷物や町総代が作成した文書、市から送付された文書等様々な文書が綴られている。

昭和14年分 町事務書類綴 表紙

 昭和14(1939)年10月30日付の広島市長代理からの通知。翌15年が神武天皇即位紀元(皇紀(こうき)※)2600年に当たることからこれを祝う「奉讃展覧会」が、15年11月1日から13日まで八丁堀福屋(新館)7階で開催されることを知らせたもの。
 この展覧会は東京・大阪・京都・福岡などの各地を巡回し、広島では、広島県主催、内閣紀元二千六百年祝典事務局と紀元二千六百年奉祝会の後援で開催された。

※ 当時の日本では明治5(1872)年、神武天皇即位の年を西暦紀元前660年と定め、その年を皇紀元年と呼んでいた。

紀元二千六百年奉賛展覧会開催ノ件

10 中国新聞社(社屋)

 左側は大正5(1916)年、上流川町(現中区胡(えびす)町)に建設された中国新聞の二代目社屋。その右は、昭和11(1936)年に西隣に建てられた鉄筋コンクリート7階・塔屋3階建ての新館。
 中国新聞は明治25(1892)年5月に『中国』として創刊し、同41年に『中国新聞』と改称した。
 昭和20年に被爆した際は、翌日から2日間休刊したものの、他紙の印刷所の協力を得て代行印刷で対応し8月9日には新聞を発行した。
 昭和44年に平和大通り沿いの現在地(中区土橋町)に社屋を新築移転し、跡地は現在三越百貨店となっている。

中国新聞社(社屋)

新天地・本通り・山陽記念館

新天地、本通り、山陽記念館

11 新天地

 新天地は、大正10(1921) 年に八丁堀の南に位置する堀川町の広島勧商場(はじめ広島中央勧商場)跡に誕生した娯楽場。昭和2(1927)年には東に進展し、東新天地となり東西2か所となった。
 新天地には劇場・活動写真館(昭和10 年代以降は映画館)、飲食店・カフェ・バー・写真館など120~130の店が集まり新たな盛り場へと変貌、八丁堀付近(千日前)と共に賑わった。

※  明治に入って新商品を展示販売する「集産場」「勧工場」「勧業場」「勧商場」と呼ばれる施設が市内各地に生まれた。

新天地

昭和14年ごろの新天地 [ダウンロード/56KB]

(『大日本職業別明細地図 大広島市 昭和14年』より)

新天地

【絵はがき※】(昭和戦前発行) [ダウンロード/710KB]

 正面突き当りに映画館「泰平館」、左側に劇場「新天座」が見える。

○ 泰平館
 もともとは、「青い鳥歌劇団」の上演場として開設した「オペラハウス」で、大正13 (1924)年の同劇団解散ののち活動写真館となった。(昭和のはじめ「泰平館」と改称、昭和5、6(1930、1931)年頃「帝国座」、原爆投下時には「帝国劇場」。)

○ 日進館(東亜倶楽部を経て花月座)
 大正10(1921)年新天地の開場とともに洋画専門館として開館した「日進館」は音楽部も有名で、外国人楽士を交えた演奏が行われた。無声映画時代は盛況であったが、発声映画(トーキー)が現れると衰退し、「東亜倶楽部」(昭和4年頃)を経て漫才小屋「花月」に転向した。

12 上棟式当日の新天座

 新天地誕生を記念して発行された『新天地記念写真帖』(大正10年 広島土地建物編・発行)より、「新天座」上棟式当日の写真。


〇 新天座
 新天座は大正10(1921)年新天地の開場とともに劇場として開業した。
(「新天劇場」を経て原爆投下時には「宝塚劇場」。)

上棟式当日の新天座

13 平田屋川(原画)

 平田屋川は、築城の時に物資運搬などに利用された竹屋川と西堂(塔)川という運河のうちの一つで、築城に際して出雲から呼び寄せた平田屋惣右衛門の功績にちなんで「平田屋町」という名の町がつくられ、竹屋川も平田屋川と呼ばれるようになった。
 現在の並木通りから南に流れていた平田屋川は埋め立てられ、道路になっている。

 『がんす横丁』(薄田(すすきだ)太郎著 たくみ出版 昭和48年発行)の挿絵の原画として描かれたもの。
福井は、この本の挿絵と装丁に携わっている。

※ 著作権保護期間中の資料のためWeb での画像公開を行っていません。

平田屋川(原画)

14 本通り

 本通りは、江戸時代には広島城下を横断する西国街道(山陽道)の一部で、沿道には多くの店が軒を並べていた。明治期以降も数多くの店舗が開業した。
 大正元(1912)年に市内電車が開通すると、紙屋町が新たな交通の要所となり、また、同4年に広島県物産陳列館(後の産業奨励館、現原爆ドーム)が完成し、広島県物産共進会の第一会場として使用されると、本通りの賑わいはさらに増していった。
 大正14年には、初代のすずらん灯が設置され、町は夜まで賑わうようになった。このすずらん灯は、昭和3(1918)年には鋳物製の電飾灯に取り換えられ、町の区切りにはアーチ型の電飾灯が建てられた。 また、平田屋町、播磨屋町、革屋町、横町、細工町にまたがるこの商店街には、昭和4年の昭和産業博覧会を契機に任意組合「本通会」が結成された。
 被爆により壊滅状態となったが復興し、昭和29年には初代アーケードが設置された。現在のアーケードは3代目である。

本通り

【絵はがき※】(昭和戦前発行) [ダウンロード/579KB]

 現在のアストラムライン本通駅付近から本通りを東に向かって撮影したもの。正面にはすずらん灯、左側には安田生命広島支店が見える。

15 金正堂書店店頭 【写真】

 本通りの金正堂書店の店頭の写真。昭和10年 (渡辺襄撮影)。

金正堂書店店頭 【写真】

16 革屋町下駄屋 【写真】

 本通りの下駄屋の店頭の写真。昭和10年 (渡辺襄撮影)。

革屋町下駄屋 【写真】

17 歓迎愛国婦人会広島県支部総会(本通り商店街パンフレット)

 本通り商店街の優待証兼パンフレット。昭和12(1937)年に開催された愛国婦人会広島支部※の第3回支部総会に合わせて配布されたものと思われる。
 案内図の本通1丁目(「ヒラタヤ町」)には、明治6(1873)年創業で大正3(1914)年に本通へ移転した下村時計店(当時は時計塔のある建物)、2丁目(「ハリマヤ町」)には渡部銅器店(現渡部陶苑)、3丁目(「カワヤ町」)には渡部別嬪店(現べっぴん店)、など、現在も本通り商店街で営業している店舗名も見える。(町名のカタカナ表記は案内図の表記による)

※ 愛国婦人会は、明治34年、奥村五百子(おくむらいおこ)らによって創設された婦人団体。華族夫人が中心になり戦死者遺族や傷痍(しょうい)軍人の救護活動などを行った。同年に組織された広島支部は県知事を顧問、その夫人を幹事長とした上流婦人の団体で、当初の会員は89人だった。日露戦争を機に対象を一般夫人に広げ会員を拡大し、昭和12年当時の会員数は12万人を超えていた。政府の指導により解散し、昭和17年、大日本婦人会に統合された。

歓迎 愛国婦人会広島支部総会 (本通り商店街の案内)
歓迎愛国婦人会広島県支部総会 内側
歓迎愛国婦人会広島県支部総会 内側
歓迎愛国婦人会広島県支部総会 裏側

18 『史蹟頼山陽旧居と山陽記念館』

 財団法人頼山陽先生遺蹟顕彰会発行。(昭和11年)
頼山陽は、江戸時代後期に活躍した漢学者・文人。幕末の志士たちに多大な影響を与えた歴史書『日本外史』の著者として知られている。
 昭和9(1934)年、顕彰会が頼家旧宅(現中区袋町)を買い取り、山陽が幽閉され『日本外史』を執筆した部屋を「頼山陽居室」として復原した。同10年「山陽記念館」が建設され、翌年国の史跡に指定されたが、被爆により全焼。同33年に復元された。
 この冊子には、「頼山陽居室」について頼山陽や『日本外史』と併せて紹介されている。また、「山陽記念館」の事業概要、建設の目的、構造などが説明されており、これにより、記念館内部には、遺物陳列室と図書室及び図書閲覧室などのほか、2階に講堂があったことが分かる。

『史蹟頼山陽旧居と山陽記念館』
『史蹟頼山陽旧居と山陽記念館』 内側
18-3 『史蹟頼山陽旧居と山陽記念館』 内容

19 山陽記念館竣成記念絵葉書

 昭和10(1935)年に建設された山陽記念館の竣成記念絵はがき。山陽記念館の正門、全景、遺物陳列室、講堂、平面図の5枚。昭和11年発行。

山陽記念館 正門
山陽記念館 全景
山陽記念館 遺物陳列室
山陽記念館 講堂
山陽記念館 平面図

元安橋・中島・本川・本川橋・相生橋

元安橋、中島、本川、本川橋、相生橋

20 昭和10(1935)年頃の昭和シネマ 【写真】

昭和10年頃の昭和シネマ

 入り口には学生の姿、看板には、昭和9(1934)年製作のドイツ映画「たそがれの維納(ウィーン)」の文字が見える。

「世界館」と「昭和シネマ」(中島本町、現中島町)

 「世界館」の前身は、明治15(1882)年に広島最初の盛り場として開かれた中島集産場に同18年に設けられた寄席の「胡子座」と「大黒座」である。この寄席が第一世界館(一時「キネマ倶楽部」)と、第二世界館となり、その二館が改築されてできた活動写真常設館が「世界館」である。
 昭和7(1932)年頃、「昭和シネマ」と改称、洋画専門館となり、インテリや学生層の人気を集めたが、その後再び「世界館」に改称し、太平洋戦争中は実演を主とする「五色劇場」となった。

21 SHOWA NEWS No. 29

 昭和7(1932)年頃に世界館から改称した昭和シネマ(中島本町、現中島町)の映画案内。
 毎週発行されていたようで、この号では、第5回アカデミー賞(1931年-1932年度)で最優秀作品賞を受賞したグレタ・ガルボ主演のアメリカ映画「グランドホテル」の次週(2月11日)公開を知らせている。
 1931年公開の「会議は踊る」(日本公開は1934年)の近日公開情報なども掲載されている。

SHOWA NEWS

22 SEKAIKAN NEWS

 「昭和シネマ」から再度改称した「世界館」(中島本町、現中島町)の映画案内。
 表紙は、フランツイスカ(フランチェスカ)・ガール主演、カール・ベーゼ監督の1933年製作のドイツ映画「ベロニカの花束」。
 また、3つ折りの内側には、次週公開予定作品として、ローレンス・オリヴィア(オリヴィエ)とラルフ・リチャードスン(リチャードソン)が出演する1939年公開のイギリス映画「スパイは暗躍する」(日本公開時期は不明)が紹介されている。

SEKAIKAN NEWS 表
SEKAIKAN NEWS 裏

23 慈仙寺(原画)

 中島本町(現中島町)にあった慈仙寺は福島正則時代に高田郡吉田町から移転して開かれた浄土宗西山禅林寺派の寺。被爆前は、墓地も含む境内の広さが3,600平方メートルほどもある大きな寺だった。中島本町は広島城築城当時からの町で、町名は中島の本通りであることに由来する。元安川と本川に挟まれたこの町の北端はこの地にあった古刹「慈仙寺」にちなみ「慈仙寺鼻」と称された。

 『続がんす横丁』(薄田太郎著 たくみ出版 昭和48年発行)の挿絵の原画として描かれたもの。 

※ 著作権保護期間中の資料のためWeb での画像公開を行っていません。

慈仙寺

24 『広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』

 市内中心部の様々な店の案内記。店の屋号や営業内容、通りから見た外観と店の内部が銅版画で詳細に描かれている。
 渡辺莱之助(らいのすけ)編 明治16(1883)年発行。

『広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』 表紙

24-2 汽船乗客荷物取扱処 (『広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』より)


 元安橋東詰と広島県里程元標・高札場が描かれている。明治時代に県制施行と共に立てられた木製の広島里程元標は、広島からの距離の起点と定められた。また、明治22(1889)年の市制施行後には「道路元標」と改められ石柱となった。この里程元標の右側(南面)には「広島里程元標 細工町」、左側(西面)には「廿日市駅三里拾七町三十五間二寸五尺」とある。
 江戸時代に設けられ法度や掟書などが書かれた板札が高く掲げられた「高札場」も、この時点ではまだ利用されていたようである。

『広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』 汽船乗客荷物取扱処 広島元安橋東北詰メ

24-3 万問屋商 (『広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』より)

 万問屋は、諸地方から多種類の商品の販売を委託されて、それらを専門の問屋や仲買へ売りさばいた問屋のこと。近世中期以降衰退していったが、明治期まで存続していた。この万問屋の店内や河岸には米俵が積まれ、店内には酒樽も並んでいる。
 買物案内記が発行された当時の物資輸送の主力は水運で、多くの川船が行き交っていた。左手(下流)には、雁木※を使って川に停泊した船から米俵が運びあげられている様子が描かれている(この雁木は、現在も同じ場所に残されている)。右手(上流)には、常夜灯が描かれている。

『広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』 万問屋商(広島西本川)

24-4 下駄類卸并ニ桐下駄荒木取扱処 松中屋吉兵衛向支店 (『広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』より)

  中島慈仙寺鼻(現在の中区中島町の北端)にあった店舗の様子。
 右手(南側)の本店では下駄類の卸売、左手(北側)の支店では荒木(雑木)などを扱っている。
 画面中央奥に見えるのは本川に架かっていた相生橋の西橋。明治期の相生橋は、この西橋と元安川に架かっていた東橋とがあった。

『広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』 下駄類御並ニ桐下駄荒木取扱処(中島慈仙寺鼻)

25 広島元安橋

 元安橋は西国街道の経路にあり、毛利氏の時代から木橋が架けられていた。
明治期以降も中島地区と本通をつなぐ橋として重要な役割を果たしてきたが、大正8(1919)年の水害で当時の木橋が倒壊した。
 その後大正15年に、東西の親柱に球体が、その間には照明灯が据えられたモダンなデザインの鋼鈑桁の永久橋に架け替えられたが、これらの装飾品は戦時中の金属回収令により供出され、親柱の上は石の点灯箱に替えられた。
 現在の元安橋は,平成4(1992)年に旧橋のイメージを残すよう配慮し、被爆した旧橋の親柱8本のうち6本を使用して架け替えられたもの。

広島元安橋

【絵はがき※】(大正期発行) [ダウンロード/511KB]

大正15(1926)年に架け替えにより鋼鈑桁の永久橋となった。

26 本川の河畔

 中島地区(現平和記念公園)の西側を流れる旧太田川(通称本川)の戦前の風景。河岸には、和船の内部に座敷を設けてカキ料理を提供する「カキ船※1」が繋留(けいりゅう)している。
 もともと太田川はこの川のことを指していたが、太田川放水路※2完成後は放水路が太田川本流とされた。

※1 カキ船の起源は1660年代だが、船内でのカキ料理の提供が始まったのは1810年代とされる。
※2 昭和7(1932)年に放水路を基幹とした改修工事が始まり、戦争による中断をはさんで同40年にほぼ完了した。

本川の河畔

【絵はがき※】(昭和戦前発行) [ダウンロード/474KB]

 中島地区(現平和記念公園)の西側を流れる旧太田川(通称本川)の戦前の風景。河岸に和船の内部に座敷を設けてカキ料理を提供する「カキ船」が写っている。

27 広島本川橋

 本川橋は、毛利氏が広島城を築城した天正年間に、豪商の加藤(屋号は猫屋)九郎右衛門によって架橋された。その名を取り、明治20 年代頃までは「猫屋橋」、本川は「猫屋川」と呼ばれていた。
 江戸時代には本川唯一の橋で、西国街道が通っていたこの一帯は荷揚場として栄え、橋の西側街道筋に開けた堺町は問屋街を形成して賑わっていた。
 明治30(1897)年に木造橋から広島初の鋼橋としてアーチ型のトラス橋に架け替えられて名所となり、橋のたもとでは本川饅頭が売られた。
 原爆により落橋、翌月の枕崎台風で完全に橋脚のみとなり、昭和24 (1959)年に古い材料を再利用して再びトラス橋として架け直され現在に至っている。

広島本川橋

【絵はがき※】(大正期発行) [ダウンロード/510KB]

 明治30(1897)年に木造橋から広島発の鋼橋としてアーチ型のトラス橋に架け替えられた。

28 相生橋

 初代の相生橋は明治10(1877)年に市内有志によって架橋された。当時は元安川と本川に架けられた東西2つの木造橋で,中島の慈仙寺鼻を結節点としたV 字型をしていた。「銭取橋」と呼ばれ、同27年に広島市に管理が移るまでは有料であった。
 大正元(1912)年に路面電車の専用橋が架橋された後、昭和7(1932)年に現在の場所に道路軌道併用の鉄鋼橋が完成した。ついで慈仙寺鼻と新しい相生橋の間をつなぐ橋が架けられH 字型となり、その後古い木造橋が取り払われたことで現在のようなT字橋となった。
 被爆したこのT字橋は老朽化のため架け替えることとなり、昭和57年に連絡橋が、同58年に本橋が完成し、現在に至る。

相生橋及丁字橋

29 相生橋の変遷

広島中島新地相生橋之図

29-1 広島中島新地相生橋之図  (『広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』より) [ダウンロード/436KB]

 相生橋が元安川と本川に架けられた東西2つの木造橋で、中島の慈仙寺鼻を結節点としたV 字型をしていた時期のもの。

広島相生橋

29-2 【絵はがき※】 広島相生橋 [ダウンロード/489KB]

 元安川と本川に架けられた東西2つの木造橋に加え電車専用橋が架けられている。広島県物産共進会開催中の絵はがき。大正4年発行。

相生橋及丁字橋

29-3 相生橋及丁字橋 【絵はがき】 [ダウンロード/355KB]

 昭和7(1932)年に現在の場所に道路軌道併用の鉄鋼橋が完成し、慈仙寺鼻と新しい相生橋の間をつなぐ橋が架けられH 字型となった時期の絵はがき。昭和(戦前)期発行。

広島市大観 丁字橋(相生橋)

29-4 広島市大観 丁字橋(相生橋)【絵はがき】 [ダウンロード/310KB]

 古い木造橋が取り払われて現在のようなT字型となった時期の絵はがき。昭和(戦前)期発行

物産陳列館、商品陳列所、産業奨励館

物産陳列館、商品陳列所、産業奨励館

30 建設中の広島県物産陳列館【写真】

大正3(1914)年撮影。

建設中の広島県物産陳列館【写真】

31 商品陳列所

 広島県物産陳列館は、県内の物産の陳列、商工業に関する調査相談、取引の紹介などを目的に大正3(1914)年1月建設に着手され、大正4年4月5日に竣工。落成式当日から広島県物産共進会が開催され(~5月14日まで)、終了後の同年8月15日から、館としての業務を開始した。
 大正10年1月1日には「広島県立商品陳列所」(「広島県」と表記されることもある)に改称。さらに、昭和8(1933)年11月1日には、生産品販路の開拓、海外商取引のあっ旋指導に重点を置く「広島県産業奨励館」へ名称を変えた。
 物産陳列館では、開館の翌年には第一回広島県美術展を開催し以来例年会場とされるなど、常時展示を行っており、昭和4年の昭和産業博覧会協賛の「昭和美術展覧会」の開催など、産業奨励だけでなく、産業や文化の交流の場として活用された。また、チェコの建築家ヤン・レツルによって設計された、セセッション様式の壮麗な外観で、その瀟洒な姿と相まって、広島の代表的な名所の一つとして親しまれていた。

商品陳列所

32 『事務報告 広島県物産共進会』

 大正4(1915)年4月5日から5月14日までの間、落成したばかりの広島県物産陳列館の2・3階を第一会場、西練兵場を第二会場として、広島県物産共進会が開催された。この催しは、物産陳列館の完成と大正天皇の即位を記念して計画されたもので、県内はもとより、国内各地、朝鮮・台湾から、農業、林業、水産、食品、工業、特許の各部門に多数の産物が出品された。また、開催期間中は夜間に建物をライトアップする趣向が凝らされ、会期の40日間での来場者は78万人近くに及んだ。
 これはその報告書で、同様の装丁で大正4年に物産共進会の写真帳が発行されており、報告書の表紙は写真帖の表紙の一部を貼り換えて活用している。

『事務報告 広島県物産共進会』

33 物産共進会第一会場風景写真

元安川対岸から撮影した外観
夜のイルミネーション点灯時の外観
陳列室内部の様子
陳列室内部の様子
洋式庭園
和式庭園

34 売薬講習会記念撮影 【写真】

売薬講習会記念撮影【写真】

 広島県物産陳列館は、講習会や講演会の会場としても頻繁に利用された。これは、大正5(1916)年3月に開催された広島県売薬同業組合主催の売薬講習会の際に広島県物産陳列館の庭園で撮影された記念写真。この講習会には、約200名の講習員が参加した。

35 第4回全国菓子飴大品評会写真帖

 大正10年4月1日から15日までの間、広島県商品陳列所(同年に広島県物産陳列館から改称)で開催された第4回全国菓子飴大品評会の写真を集めたアルバム。この品評会には、当時日本領域であった朝鮮半島・台湾を含む国内全土から3,000点以上の銘菓が出品された。会場では菓子の即売、試食会も行われ、連日数万人規模の来場者が集まった。
 展示風景の写真は、広島県の出品コーナーのもので、広島市や呉市を始めとする県域の銘菓の数々が並べられている。また、展示室外のらせん階段には、並んで順番を待つ人々の姿が写されており、多数の来場があったことが伺える。

第4回全国菓子飴大品評会写真帖 表紙

35-1 第4回全国菓子飴大品評会写真帖 表紙

第4回全国菓子飴大品評会写真帖 商品陳列所前に設けられた入口ゲート

35-2 商品陳列所前に設けられた入口ゲート(「第4回全国菓子飴大品評会写真帖」より)

第4回全国菓子飴大品評会写真帖 商品陳列所内の展示風景

35-3 商品陳列所内の展示風景(広島県出品コーナー) (「第4回全国菓子飴大品評会写真帖」より)

第4回全国菓子飴大品評会写真帖 商品陳列所内のらせん階段で

35-4 商品陳列所内のらせん階段で (「第4回全国菓子飴大品評会写真帖」より)

36 『産業の広島県』

 昭和9年当時の広島県産業奨励館の業務内容、県内各地の産業の状況などを紹介したパンフレット。
巻頭の「業務要項」によると、当時の産業奨励館は、(1)県物産の販路開拓、(2)海外貿易のあっ旋、(3)商品改善の指導、(4)商工に関する調査、(5)県物産の陳列即売、(6)商品見本の陳列貸与、(7)図案の調整指導、(8)産業貿易の図書閲覧、(9)産業貿易の刊行物発行、(10)その他産業の助成、を業務としていたことが分かる。
 昭和7年の満州国設立以後、広島県の貿易は大幅に飛躍しており、この資料が出された9年には、産業奨励館は海外輸出の窓口として、大連・新京・ハルビンへ出張所を、さらに13年には大連・新京・ハルビン・奉天・天津・上海・神戸へ事務所を設置した。

『産業の広島県』

36-1 『産業の広島県』 表紙

『産業の広島県』 広島県物産分布図 

37 広島県産業奨励館の正門前【写真】

 広島市出身の洋画家、小早川篤四郎の従軍画展覧会(会期:昭和14(1939)年11月2日~5日)の開催を告知する看板が見える。

広島県産業奨励館の正門前【写真】

大手町、郵便局、細工町、横町、紙屋町

大手町、郵便局、細工町、横町、紙屋町

38 大手町

 「大手町」の町名は、この通りが広島城大手門前から南に延びる大手筋(現エディオン広島本店東館と西館の間)に沿う町であることに由来する。江戸時代には城下随一の目抜き通りだった。
 左側の3階建の建物は広島県農工銀行。中央右に見える洋風の塔は日本火災広島支店、この通りの突き当たりには、広島戦捷記念碑(西練兵場内)が、通りから見通せるように設置されていた。

広島大手町

【絵はがき※】(大正期発行) [ダウンロード/731KB]

 左側に広島県農工銀行、右側には洋風の塔がある日本火災広島支店が写っている。 

39 広島郵便局

 

 細工町の広島電信郵便局。旧西国街道と細工町筋のY字の交差点に明治26(1893)年に建てられた木造2階(一部3階)建ての洋風建築。交差点の角の玄関に部分に3階建ての時計台があり、ランドマーク的存在であった。

広島郵便局

【絵はがき※】(明治期発行) [ダウンロード/505KB]

 明治26(1893)年に旧西国街道と細工町筋のY字の交差点に建てられた。 

40 細工町

 明治23(1890)年に著された『広島名所』(園田逸太郎画)には、当時の山陽道沿いの繁華街5か所の第一として、西横町、細工町から元安川にかかる元安橋付近をあげている。
 また、『広島諸商仕入買物案内記』(46-2)からは、細工町には、高さ11間半(21m)の五階楼を含めて3つの擬洋風様式の木造高層建築が並んでいたことがわかる。

細工町

【絵はがき※】(大正3年発行) [ダウンロード/483KB]

 細工町の通りから現在の本通りの方を撮影したもの。右側に広島郵便局の2階建て(一部3階建て)の建物が見える。 

41 横町

 現在の本通りの西端にあたる。横町の名は、東西方向の道を基準とした横型の街の総称のようなものが、そのまま町名になったものとされている。
 明治22(1889)年には広島商工倶楽部、同41年には横町勧商場が作られ、大正4(1915)年頃まで営業を続けていた。

広島横町通り

【絵はがき※】(大正4年撮影) [ダウンロード/459KB]

 横町を東端から西向きに撮影したもの。中央には広島郵便局の時計塔が見え、道の両側の店舗には広島県物産共進会のマークが入った提灯が飾られており、物産共進会開催中に撮影されたものと思われる。

42 紙屋町交差点

 大正元(1912)年に開通した鯉城通りと相生通りを通る路面電車の軌道は、紙屋町交差点でT字に交差し、交差点の中心には、モダンな外観のポイント操作員の詰所兼待合所が設置された。
 城下の運河であった西塔川を埋め立てて造られた電車通りである現在の鯉城通りの東側には、大正2年に煉瓦造2階建ての洋風建築の大同生命中国支社が、その後、昭和2(1927)年には芸備銀行(現 広島銀行)本店、翌3年には住友銀行広島支店と大規模なコンクリート造りの建物が建設された。

紙屋町交差点

【絵はがき※】(昭和13年発行) [ダウンロード/552KB]

 正面左側には大同生命中国支社、隣に芸備銀行(現広島銀行)本店等のコンクリート造りの建物が並ぶ。 

43 広島紙屋町交差点

広島紙屋町交差点 ポイント切り替え所のある風景

広島紙屋町交差点 【絵はがき】 [ダウンロード/255KB](大正期発行)

 ポイント操作員の詰所兼待合所が写っている。

44 広島電車紙屋町停留場

〔開通記念花電車〕広島電車紙屋町停留所

広島電車紙屋町停留場 【絵はがき】  [ダウンロード/274KB]

 絵はがき「開通記念花電車」と一緒に保管されていた2枚のうち1枚。大正元(1912)年の路面電車開通当時の写真を元に作成されたものと思われ、紙屋町交差点を南に進む御幸橋行の電車と八丁堀方面に進む電車、そしてそれを見守る大勢の人々の姿が写されている。電車の背景の石垣は、広島城外堀のもの。

45 昭和9年起 事務書類 草津南町

 草津南町(現西区草津南)の町総代文書のうち、昭和9(1934)年分の事務書類の綴。

昭和9年起 事務書類(草津南町)表紙

45-1 昭和9年起 事務書類 草津南町 表紙 

昭和9年起 事務書類(草津南町)郵便局よりお願ひ

45-2 郵便局より御願ひ(部分) (「昭和9年起 事務書類 草津南町」より) [ダウンロード/477KB]


 これは、昭和9年6月に広島郵便局が作成したチラシ。
 広島市の戸数増加により郵便局の業務が増大したことから、その効率化を図るため、(1)各戸に家族・同居人を含めた氏名を書いた標札を掲出すること、(2)他人の家に同居中の者は、郵便の宛名の肩書(〇〇方など)を明記すること、(3)不在が多い場合は、盗難・湿潤等のない見やすいところへしっかりした箱に郵便箱と表示して設置すること、の3点について協力を求めている。
 広島郵便局長から町総代へ、町内各戸へのチラシ配布と集会などでの周知を依頼する文書も同じ簿冊に綴られている。

昭和9年起 事務書類(草津南町)チラシ配布依頼

46 『広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』より大手町、郵便局、細工町付近

46-1 郵便局 (『諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』(明治16年発行)より)

 画面奥の橋は元安橋。左手にはその東詰南側にあった駅逓局(後の逓信省の母体)出張所と郵便局が、右手には「汽船乗客荷物取扱処」で描かれていたものと同じ「広島県里程元標(りていげんぴょう)」が描かれている。
 この場所に明治初期に置かれていた広島郵便局は、買物案内記が発行された明治16(1983)年には平田屋町に移転しており、元郵便局であった建物に当時郵便制度を管轄していた駅逓局の出張所が入り、郵便局の役割も残されていたと思われる。

『広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』 郵便局

46-2 御菓子卸処 広島横町筋 大手町二丁目角 有田善兵衛 (『広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』より)

 店の看板は「御菓子処」、暖簾(のれん)には「松花堂」の文字が見える。
 店頭には菓子が並び、店内は砂糖樽が並んでいる。砂糖を計量しているらしい人や、菓子作りをしている人も描かれており、製造と販売の両方を行っていたことが伺える。
 店の正面の通りが西国街道で、店の角には電柱が描かれ、街道の北側を電線が通っている。

『広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』 御菓子御処

46-3 広島細工町 五階楼 料理商 (細工町、現大手町1丁目)( 『広島諸商仕入買物案内記並びニ名所しらべ』より)

 明治初期に細工町に建てられた5層の料理店。買物案内記には高さ11間半(約21メートル)と書かれている。
 店の看板には「沖魚、牛肉、かしハ、うなぎ、まむし、しる、なべ焼、さけ、つくり、かハ魚、めし」とあり、口上でも、魚・鶏料理のほか牛肉も宣伝されている。広島の文明開化を代表する建物で、初期の歓楽街の中心となった。

『広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ』 料理商 五階楼

広島城、広島大本営趾、招魂社、昭和産業博覧会

広島城、広島大本営趾、招魂社、昭和産業博覧会

47 広島城

 毛利元就の孫・輝元により天正17 (1589)年に太田川河口のデルタに広島城の築城が開始された。慶長6(1601)年に福島正則が入城、正則改易後は、元和5(1619)年以降浅野家の居城であった。
 築城を機に、家臣を城下に集住させ、商人を招き入れたことで城下町が形成されていった。また、西国街道が城下に引き入られことで城下はさらに発展した。
 明治4(1871)年の廃藩置県により、一旦広島県庁が本丸に置かれたが、同年12月に軍の施設「鎮西鎮台第一分営」(同6年からは第五師団管区広島鎮台)が設置されたため、県庁は三の丸へ移転、さらに同年9月には三の丸内に兵営が建設されたことから、城外へと移転した。
 明治8年に歩兵第十一連隊が設置されると、練兵場が設けられるなど城内に軍の施設が増設され、同21年には第五師団が置かれた。
 広島城は、明治以降は軍用地として利用されたため、城郭の輪郭などは比較的よく残っていた。昭和3(1928)年、には広島城天守閣の一般開放も始まり、同6年には天守閣が国宝に指定されたが、原爆により城内の施設は焼失または倒壊し、壊滅した。
 昭和28年には広島城跡が国の史跡に指定された。現在の天守閣(鉄筋コンクリート)は同33年に復元されたもので、この年開催された広島復興大博覧会の第三会場となった。

広島城

【絵はがき※】(大正期発行) [ダウンロード/765KB]

 広島城天守閣の東面を撮影したもの。 

48 広島城天守閣内部の写真

天守閣二階内部写真
天守閣三階内部写真
天守閣五階内部写真

49 「明治19年 県甲達纏(まとめ)」(観音村役場文書)

 明治19(1886)年の県からの通達等をまとめた旧観音村役場の文書綴。
 通達「甲」は、主に永続的・一般的な内容のものであるが、この簿冊には一時的なことについて出された「乙」も綴られている。

「明治19年 県申達纒(まとめ)」観音村役場文書

 明治19(1886)年7月9日付、広島県令千田貞暁名で出された告示(告甲第216号)
 虎列刺(これら)病流行により、広島城内に通じる道路のうち、大手口(元一丁目御門)と京橋口(元京口御門)以外の道路の通行を、7月10日から当分の間遮断するよう広島鎮台から通知があったことを伝える文書。

虎列刺(コレラ)病流行にともなう広島城内に通じる道路遮断の件

49-2 虎列刺(これら)病流行にともなう広島城内に通じる道路遮断の件 [ダウンロード/424KB]
    (「明治19年 県甲通纏」(観音村役場文書)より)

50 広島大本営

 明治27 年(1894)の日清戦争勃発に伴い、戦争を指揮する最高統帥機関である大本営が広島城内の第五師団司令部内に置かれることとなった。
 木造2階建の大本営の建物は、もとは明治10年に広島城内に広島鎮台司令部として建てられ、同21年から第五師団司令部として使用されていた。大本営が置かれていた時には、1階に皇族大臣室や侍従職室などの部屋があり、2階には明治天皇の御座所のほか、御召替所、侍従長室、軍議室などがあった。
 その後、大正15(1926)年10月には史跡に指定され、昭和3(1928)年には広島城天守閣の一般開放も始まり、観光名所にもなったが、原爆により焼失した。
 大本営跡前の噴水池は、軍用水道の布設に合わせて、明治31 年に築造されたもので、中央の築山が噴水になっていた。大正14 年に「桜の池」と命名された。現在も広島城本丸内に遺構が残るが、池の機能は失われている。

(史蹟)広島大本営趾

51 広島県御安着之図(錦絵)

 広島城内に置かれた広島大本営に入る明治天皇を描いた錦絵。
明治天皇は、明治27(1894)年9月15日に広島に到着し、第五師団司令部内に置かれた広島大本営の2階が御座所となった。
馬車ではなく騎乗の姿で描かれているなど、想像で描かれたものと思われる。

明治27年頃 楊斉延一作 横山良八発行。

広島県御安着之図(錦絵)

52 日清役当時広島「帝国仮議院」

 明治27(1894)年、大本営が広島に設置され、広島で第7回帝国議会を開催することとなったことに伴い、西練兵場の南東端の憲兵本部前(現在の中区基町中国電力基町ビル敷地)に新しく臨時の帝国議会仮議事堂が設けられることとなった。
 木造平屋のこの仮議事堂は、正面中央に車寄せを持つ玄関が張り出し、その左右に大きな切妻の板葺き屋根を持つ議場(右手が貴族院、左手が衆議院)が配されていた。同年9月30日着工、10月14日竣工と、工期は設計を含めてもわずか20日ほどであった。
帝国議会は10月15日に議員招集され、18日に開会した(会期は4日間)。明治天皇をはじめ、閣僚や議員などが広島に勢ぞろいし、広島は臨時首都の様相を呈した。
 大本営解散後は、陸軍予備病院、第五師団司令部、広島陸軍地方幼年学校開校に際しその仮校舎などの陸軍の仮施設として用いられた後、明治31年に取り壊された。

日清役当時広島「帝国仮議院」 外観
日清役当時広島「帝国仮議院」 貴族院、衆議院の各議場の様子

53 官祭広島招魂社

 前身は、明治元(1868)年に饒津(にぎつ)神社の隣に建てられた水草霊社(みずくされいしゃ)で、戊辰戦争で戦死した広島藩士を祭神としていた。同8年に官祭招魂社に、34年に官祭広島招魂社と改称した。
 その後、昭和7(1932)年に開催された時局博覧会の余剰金が移転改築費に充てられることになり、第五師団から用地の提供を受け、同9年、西練兵場の西端に社殿を移転した。
 昭和14年内務省令により広島護国神社と改称。原爆で焼失したが、同31年現在地(中区基町の広島城跡内)に再建された。

官祭広島招魂社

54 招魂祭風景【写真】

 招魂祭は、1880年頃から広島鎮台が実施した鎮台祭がその起源で、後に広島招魂祭と名称を変えた。昭和初期には、県知事と第五師団長が隔年で総裁を務め、有志の寄付金も集められ、2日間にわたり盛大に行われた。
 戦没者の慰霊は、初日が神式、二日目は仏式で行われ、余興(奉納催事)として柔道や相撲が行われたほか、屋台や見世物小屋が建ち並び、競馬やオートバイレース、自転車競走なども開催された。

招魂祭風景 特設競馬場で競馬

54-1 特設競馬場で競馬 【写真】 (渡辺襄撮影) 

招魂祭風景 特設競馬場でオートバイレース

54-2 特設競馬場でオートバイレース 【写真】 (渡辺襄撮影) 

招魂祭風景 護国神社鳥居

54-3 護国神社鳥居 【写真】 (渡辺襄撮影) 

55 広島招魂祭祭場其他配置略図

 この図は、昭和11(1936)年に西練兵場で開催された広島招魂祭の祭場の配置図。競馬場を中心に周囲には売店が置かれ、電車通り側には興行場が配置されていたことが分かる。
 招魂祭は、戦争が激化するとさらに賑やかさを増し、数十万人が訪れたと言われている。

広島招魂祭祭場其他配置略図

56 広島市主催昭和産業博覧会

 昭和4(1929)年3月20日から5月13日まで、55日間にわたり西練兵場(第一会場)、比治山公園(第二会場)、元宇品別世界(第三会場)を会場に開催された広島市主催の博覧会。名誉総裁は浅野長勲(ながこと)(第15代広島藩主)、総裁は広島県知事、会長は広島市長であった。
 開催趣意書には、「日本全土にわたる物産を蒐集・網羅して、日本産業の現状を一眸(いちぼう)のもとに展示することとした」とあり、産業の現状を紹介することで産業界や市民の意識の高揚を図り、産業や貿易の振興に繋げることが目的とされていた。
 大正12(1923)年の関東大震災により続いていた国内産業の不振が、昭和となり回復の兆しが見えてきたこと、特に広島市にとっては、隣接7か町村と合併し大広島市建設の機運となったことなどから、この好機を記念・祝福する意味も込められていた。
 西練兵場の第一会場に設けられた本館には海外植民地を含む全国各地からの産品14万6,604点が展示され、広島産品はうち約2割であったと記されている。
 会期中の第一会場の入場者数は83万1,475人、3会場の合計は174万5,501人だった。

広島市主催昭和産業博覧会(第一会場)特設館街

57 『大広島案内』

 昭和4年、広島市主催昭和産業博覧会が開催された際に出版された来広者向けのガイドブック。
 博覧会会場付近の名所旧跡を紹介する市内一日案内では、第一会場の西練兵場から始まる観光の順路を紹介し、「泉邸」は靴と草履類は良いが下駄では入場できず草履の貸出があること、「広島駅」からは比治山行きの乗合自動車(5銭)に乗ることなど、細かな案内がされている。
 このほか広島市の概要、橋梁、公園名勝案内、官公庁其他案内、軍事方面案内、神社案内、仏閣案内、学校案内、劇場と(映画)常設館、主要物産名物案内、広島年中行事など、様々な視点で施設や場所が紹介されている。

『大広島案内』

57-1 『大広島案内』 表紙

 昭和4(1929)年 石川彌吉編 広島市主催昭和産業博覧会協賛会発行。

『大広島案内』 内容
『大広島案内』 内容

58 昭和産業博覧会場配置図 (第1~3会場)

 昭和4年に開催された昭和産業博覧会の会場(第一、第二、第三会場)の配置図。
 第一会場の約42,000坪の敷地には、本館をはじめ、機械館・化学工業館・貿易館・参考館・音楽堂・林鉱産館・農水産館・保健館・郷土館・日興館などが建設された。また、ミニ機関車や回転式の飛行塔などのある子供の国と名付けられた遊園地もあった。

昭和産業博覧会配置図(第1~3会場) 表
昭和産業博覧会配置図(第1~3会場) 内容

59 『大日本職業別明細図 大広島市 昭和14年』より市内中心部

 昭和14(1939)年の広島市内の市街地図。官公庁、学校、商店、社寺等の名前が詳細に記載されている。昭和14年 東京交通社発行。

59 『大日本職業別明細図 大広島市 昭和14年』より市内中心部 【複製】

60 『大広島市街都市計画地域別街路網図』 昭和5年版より市内中心部

 昭和5(1930)年の広島市内の市街地図。基町地区の軍関係施設が詳細に記されている。昭和5年 大日本東京交通公社出版局編・発行。

60 『大広島市街都市計画地域別街路網図』 昭和5年版より市内中心部 【複製】

61 「都市計画線入地図 昭和10年」より市内中心部

 昭和10(1935)年の広島市内の市街地図。同年 金正堂書店編・発行の『番地入大広島市街地図 昭和10年』の裏面。

61 「都市計画線入地図 昭和10年」より市内中心部 【複製】

展示会チラシ・資料リスト

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