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Web展示会「近代広島における豊かさと働き方」

広島市公文書館 国勢調査100年記念展 近代広島における豊かさと働き方

開催期間 : 令和2年9月23日(金曜日)から11月27日(金曜日)まで

場  所 : 広島市公文書館 7階ロビー及び閲覧室


 

はじめに


 日本で最初の全世帯を対象とした一斉調査「国勢調査」が施行されたのは、大正9(1920)年10月1日のことでした。それから100年、今年は21回目の国勢調査が実施されます。
 5年に一度、世帯や世帯員について調査する国勢調査は、国の最も基本的で重要な調査であり、その結果から提供される様々な統計データは、将来人口の推計、国や地方公共団体の行政施策の策定、GDP(国民総生産)の算出などに幅広く利用されています。
 今回の展示会では、所蔵する第1回国勢調査に関する資料をはじめ、近世・近代の各種統計資料を紹介します。また、役場文書に残る人口、就労・就学、衛生などに関する資料を通して、明治以降の広島の人々の変化を、豊かさと働き方の視点から振り返ります。

※ 展示資料中に、現代では不適切な表現やあまり使わない表現と思われる箇所がありますが、当時の状況を伝えるため、原資料をそのまま展示しています。


01 国勢調査ニ関スル法律(御署名原本)【複製資料】 明治35(1902)年 国立公文書館蔵(国立公文書館デジタルアーカイブ、御05134100)

国勢調査ニ関スル法律(御署名原本)画像1

01国勢調査ニ関スル法律(御署名原本)画像2(左寄せ)

 国勢調査ニ関スル法律は、昭和22(1947)年の統計法制定まで、国勢調査の根拠法令だった。また、昭和19年2月22日、昭和20年11月1日には資源調査法に基づく人口調査も実施された。


02 国勢調査ニ関スル法律(明三五法四九)ノ昭和二十年ニ於ケル特例ニ関スル法律(御署名原本)【複製資料】 昭和20(1945)年 国立公文書館蔵(国立公文書館デジタルアーカイブ、御28629100)

国勢調査ニ関スル法律(明三五法四九)ノ昭和二十年ニ於ケル特例ニ関スル法律(御署名原本)画像1
国勢調査ニ関スル法律(明三五法四九)ノ昭和二十年ニ於ケル特例ニ関スル法律(御署名原本)画像2

 戦局の悪化や人員・物資の欠乏を受けて、帝国議会では昭和20(1945)年1月から2月初旬にかけて、国勢調査の中止が審議され、「昭和20年は、国勢調査を施行すべき年であるが、現下の緊迫する情勢に鑑み、帝国版図内一斉に国勢調査を施行することは困難である」として、中止が決定された。
 このため、昭和22年には臨時国勢調査が実施された。


03 「安芸郡温品村人馬御改目録」 文化7(1810)年 (温品村5483)

安芸郡温品村人馬御改目録の本文(冒頭部分)
安芸郡温品村人馬御改目録の本文(末尾部分)

「安芸郡温品村人馬御改目録」(冒頭、末尾)

 

 温品村(現東区)の人口や馬の頭数を報告する文書。
 享保11(1726)年以後は、6年ごとに全国的な人口調査が行われた。また、藩による臨時の調査が行われることもあった。
 藩(主)にとっては、農民を陣夫役や普請役等として徴用・動員するため、その夫役負担能力などを確認しておくことが重要だった。


04 安芸郡温品村戸口・人口出入・郡内他町村出入寄留 明治22(1889)年12月31日現在 (「統計表進達跡」明治23年、温品村2827)

統計表進達跡(表紙)(左寄せ)

温品村戸口の本文
人口出入の本文

上 安芸郡温品村戸口
下 人口出入・郡内他町村出入寄留

 


 「統計表進達跡」は、郡役所へ報告した人口・農地・産業別人口・農産物等に関する統計調査の控えを綴った簿冊である。広島県はこうした報告に基づき『広島県統計書』を作成した。
 これは、そのうち市町村制が施行された年の戸数・本籍人員・現住人員等の報告控。
 人口については、市役所や町村役場が本籍人口(※1)と現住人口(※2)とを集計して報告し、県が『広島県統計書』等を通して公表した。

 ※1 本籍人口はその市町村に戸籍がある人の数である。

 ※2 現住人口は以下の方法で算出された。

   (現住人口)=(本籍人口)-(出寄留数)+(入寄留数) (※3)

 ※3 寄留とは道府県・市町村などの境界を越えて長期間(大正3年3月31日公布の寄留法では90日以上)本籍地以外に居住することをいう。寄留先からの転出(出寄留)や転入(入寄留)を行う際には、寄留する地域の役場等へ届け出ることとされていた。各役場は寄留届に基づく寄留簿を作成して寄留者数を把握した。また戸数(世帯数)も同様の方法で把握した。


05 『広島市統計年表』第22回、大正15・昭和元年版【複製資料】 広島市役所 昭和3(1928)年

 『広島市統計年表』は、現在の『広島市統計書』につながる、広島市に関する総合的な統計書である。
 現住戸数・現住人口は、戸籍や寄留簿を基に集計されたが、寄留簿の出寄留・入寄留の記載は必ずしも正確ではなかった。
 このことは本書第4編人口の欄外に、「大正7年、大正4年戸数著シク減ジタルハ寄留簿整理ノ結果ニヨル」とあることからも裏付けられる。


06 「日誌」  豆田熊一 明治25(1892)年9月~11月 (豆田家文書64)

日誌の表紙
日誌の本文1
日誌の本文2

9月13日~9月28日の「日誌」本文  「日誌」9月抜粋(活字起し)はこちらから [PDFファイル/53KB]   

 高等小学校の生徒の日誌。学校外での仕事、趣味、外出などの活動が記録されている。
 豆田熊一は東原村(現安佐南区)に住み、沼田高等小学校へ通学していた。
 豆田家は地主で、自作も行っており、9月の日誌には連日のように「農事」・「農業」に関わったとの記述がある。
 また、熊一が鮎漁を行ったことや、藍の生産・加工に関わり「藍カブレ」を患ったこと、大工等の「小使」として雇われたこと、休日にはしばしば広島市へ出かけたことなども記されている。


07 戸坂村きよ 『芸備孝義伝 三編 沼田・安芸 巻五』 天保14(1843)年ごろ

芸備孝義伝、三編、巻五の表紙(左寄せ)

戸坂村きよ、芸備孝義伝の本文

戸坂村きよ」の挿絵(右)と本文の一部(左) 芸備孝義伝(抜粋)ダウンロード [1.29MB]

 

 きよとその母が「糸ひき」をして木綿を生産する様子。
 きよは、一人暮らしの母の介護のために夫と離婚して実家へ戻り、「わづかなる田畑を作り、或(あるい)ハ人に雇(やと)ハれなどして」いた。しかし介護と仕事の両立は難しく、「後(のち)ハ家にのミありて、昼夜暑寒の分(わけ)なく糸ひき機織ること」をもっぱらとし、1里(約4キロメートル)離れた城下で木綿を販売して生活費を工面した。
 広島地域の村々では明治以降も綿花、藺草(いぐさ)、藍などの商品作物の栽培や加工が行われ、零細な自作農や小作農の多くは、副業を行うことで生計を立てていた。農閑期には炭焼きをしたり、杜氏(とうじ)として出稼ぎに行ったり、行商をする者もいた。
 『芸備孝義伝』は、広島藩の命で作られた領内の孝子(こうし、※1)、義人(ぎじん、※2)で賞賜((しょうし、※3)を受けた者の略伝で、初編、二編、三編、拾遺(しゅうい)の35冊からなる。

 ※1 孝行な子。よく父母に仕える子。

 ※2 堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人。

 ※3 功労・善行などの賞として物を賜わること。

 なお、ここで取り上げた『芸備孝義伝 三編』は、鈴木幸夫編『安田女子大学言語文化研究叢書21 芸備孝義伝 三編・拾遺』(安田女子大学実践教育研究所、平成27年)に翻刻が掲載されている。


08 竹を運ぶ少年【写真】 飯田邦夫撮影 昭和31(1956)年

竹を運ぶ少年、写真

 竹は、かご、行李(こうり)、簾(すだれ)、竿竹(さおだけ)等の原材料となるほか、農作業の道具としても活用された。
 これは、伐採した竹を運ぶ少年を撮影したもの。高度成長期以前の農家においては、子どもは重要な働き手だった。


09 広島太田川上流(日通寺付近) 【絵はがき】

広島太田川上流(日通寺付近)、写真

ダウンロード [1.08MB]

 現東区牛田新町付近。帆を掲げて物資を輸送しているとみられる川船や、河川の両岸の移動に利用された渡し船らしい小型の船が写っている。
 06の「日誌」によれば、熊一は日曜日にはしばしば、広島市や太田川対岸の戸坂村などへ出かけている。当時は道路・橋・鉄道の整備は進んでいないことから、安佐郡(旧沼田・高宮郡)など北の地域から広島市への人や物資の輸送には、主として川船が利用されており、熊一も東原村から対岸や広島市へ川船で移動したと思われる。


10 〔腸チフス予防ニ関スル件回答〕 温品村役場発・東警察署宛 昭和11(1936)年12月11日付 (「庶務一件 衛生ニ関スル書類」昭和11年度、温品村役場文書3946)

庶務一件、衛生ニ関スル書類の表紙
腸チフス予防ニ関スル件回答の本文

〔腸チフス予防ニ関スル件回答〕の本文(冒頭部分)
 

 消化器系伝染病(主として腸チフス)の調査のため、東警察署の依頼を受けて行った調査の回答。広島市内で汲み取りを行った温品村民の氏名と、汲取先の町名、氏名、職業等が記されている。
 当時、し尿は肥料として使用するため、農家の構成員らが汲み取りを行ない、農村へ輸送した。
 この調査からは、温品村(現東区)から胡町・二葉の里・段原町等(現在の中区・東区・南区)の127軒に汲み取りに行っていたことが確認できる。汲取先の主な職業としては、八百屋・荒物商などの商業従事者が44軒、鉄工所・大工等の工業従事者が19軒、官公吏・鉄道員・会社員等の給与所得者が21軒であった。


11 助役認可稟請 中野村長発・広島県知事宛 大正14(1925)年11月30日付 (「伺上申指令連年綴」瀬野村(中野村)3556)

伺上申指令連年綴の表紙

助役認可稟請の本文

「助役認可稟請」の本文

 

 中野村(現安芸区)の村長から広島県知事に宛てた中野村助役任命の認可を諮る文書。
 戦前の役場の吏員の経歴は多様だった。村長や助役については地主や商業者などが村の吏員を兼ねる例が多く、名誉職(無給)であることも少なくなかった。元軍人や他の職業の経験者が帰郷して吏員に転じることもあった。
 ここで助役候補となった人物は、朝鮮(日韓併合前後)や台湾で警察官などを務めた後帰郷し、大正12年には中野村役場の書記となっていた。
  「伺上申指令連年綴」は、大正9(1920)年から14年までの県知事及び安芸郡長らの指令とこれに対する役場の起案文書を綴った簿冊。このほかに、村長・助役・収入役など村の吏員の人事に関する稟議や、学校費・教員住宅費の補助や学校の用地や建設の認可に関する文書などが綴られている。


12 歎願書 大正15(1926)年9月24日付 (「請願並ニ歎願書綴」瀬野村(中野村)3562)

 請願並ニ歎願書綴の表紙

歎願書の本文1
歎願書の本文2

「歎願書」の本文(冒頭部分。署名略)

 

 「請願並ニ歎願書綴」は、広島県知事・広島県会議長・門司鉄道局長らに対して提出された、橋・道路・河川の整備や教育、財政などに関する歎願書・請願書・陳情書の綴。市町村義務教育費の国庫負担を求める文書や、海田市町・奥海田村(現安芸郡海田町)・船越村・中野村(現安芸区)が瀬野川の「一等川」(一等河川)編入による町村の財政負担軽減を求める文書などが綴じられている。
 ここで紹介しているのは、安芸中野駅の列車の発車時間に関する歎願書である。歎願しているのは鉄道を利用する通勤者の有志であり、中野村長による副申が添付されている。発車時間が午前5時56分から6時56分へ変更される予定があることに対し、荷物列車に客車を接続して牽引させることで早朝の通勤・通学者輸送を継続してほしいと嘆願している。歎願書を提出した人々の多くは広島市へ通勤しており、その勤め先は、繊維・金属・ゴム等を製造する会社・工場のほか、市場、煙草専売局、広島市役所などさまざまであった。


13 『昭和五年 国勢調査報告 第4巻 府県編 広島県』 内閣統計局 昭和10(1935)年

昭和五年、国勢調査報告、第4巻、府県編、広島県の表紙

 昭和5年に施行された第3回国勢調査の調査結果を、府県別にまとめたもの。戦前の府県別報告書としては、当館には第1回(大正9年)のものがある。


14 (グラフ)産業別人口の構成の変化(中野村、男性)

グラフ、産業別人口の構成の変化

 安芸郡中野村(現安芸区)で安芸中野駅が開業したのは大正10(1921)年8月のことである。駅の設置により、広島市等への通勤の利便性が格段に向上した。
 『国勢調査報告書』によると、就業している中野村の男性は、大正9年に921人、昭和5(1930)年に934人、昭和25年には1,267人で増加傾向にあったが、このうち農業を本業とする男性は、大正9年の626人から昭和5年には574人、昭和25年には415人へと減少を続けた。大正9年から昭和25年の40年間に、男性の就業者に占める農業従事者の比率は68%から33%まで減少している。
 農業に代わって増加したのは運輸・通信等(戦前の交通業にほぼ相当)と、製造業・建設業(戦前の工業にほぼ相当)、公務・サービス業などで、いずれも昭和5年から25年の間に1.5倍以上に増加している。特に製造業・サービス業等は、広島市や市の隣接地域への通勤者がその多くを占めていたと考えられる。


15 草津にて 蒸気機関車【写真】 渡辺襄撮影 昭和11(1936)年

草津にて、蒸気機関車、写真

 山陽本線の草津付近(現西区)を走行する蒸気機関車。鉄道脇には狭い道がある。


16 安芸大橋開通式【写真】 飯田邦夫撮影 昭和27(1952)年

安芸大橋開通式、写真

 初代の安芸大橋は木製の吊り橋で、昭和27年に現在の橋より上流の安芸郡戸坂村(現東区)と安佐郡祇園町(現安佐南区)の間に架けられた。開通式の写真には、花笠を被った稚児の行列が写っている。
 道路・橋梁の整備や陸上交通の手段の多様化により、河川交通は次第に衰えた。


17 「現勢調査簿」 明治40(1907)年~大正7(1918)年 (船越村214)

「現勢調査簿」の表紙

 現勢調査簿は、明治42年に制定された「現勢調査簿ニ関スル規程」に基づき、地域の状態を正確に把握しその運営に役立てるため、各郡市町村において調製された。土地・戸口・社寺・産業・交通・貯蓄・教育・兵事・衛生・議事・財政・雑部(名所旧跡・会社・工場ほか)に関する統計情報を毎年記入する様式になっており、継続して記入されている簿冊からは12年間の変化を読み取ることができる。
 この簿冊には船越村(現安芸区)の明治40(1907)年から大正7(1918)年までの状態が記録されている。


18 『新町建設計画書』 安芸町 昭和33(1958)年

新町建設計画書表紙画像

 昭和31年に温品・福木の2村が合併し、安芸町(現東区)が成立した。
 本資料は、新市町村建設促進法に基づき、合併後の町の産業振興や福祉の増進などの方向性を示すために作成された計画書。事業計画や数値目標を挙げるだけではなく、同時代の地誌・人口・資源・産業・交通等に関する詳細な情報を報告している。
 計画を立てるため、市町村民経済計算における生産額(付加価値額=生産額-生産に必要な中間財の額)が用いられた。これにより、商業やサービス業などの生産額も推計されるようになった。
 市町村民経済計算の導入により、国の「豊かさ」の最も主要な指標である国民経済計算と同様の数値が、都道府県・市町村についても得られるようになり、精度が高い地域間比較も可能となった。


19 死亡者年齢及病類別表 大正四年度 大正5(1916)年4月19日付 (「統計諸表類 大正五年度」温品村2850)

統計諸表類の表紙
死亡者年齢及病類別表、大正四年度の本文

「死亡者年齢及病類別表」の本文(冒頭部分)

 

 「統計諸表類 大正五年度」は、温品村(現東区)から安芸郡長に提出された統計報告の控。市町村から提出された統計報告は、広島県によって集計され、『広島県統計書』の作成に活用された。
 乳児の死亡に関するデータは、生活水準を推し量る上で重要である。乳児の生死は、母子の栄養状態や、居住地域の環境、感染症対策、医療へのかかりやすさなどと関わっているからである。
 大正4年末の温品村の数え年1歳の人口は男23人、女26人の49人(「戸籍人口有配偶者無配偶者生年別」)であった。これに対し、同年の1歳人口(数え年)の死亡数は男2人、女2人であった。この年の出生数を年末の数え年1歳人口と死亡数とを合算した53人とみなして死亡者数の4人を割ると、1,000人当たりの乳幼児の死亡数は75.5人となる。
 死亡した4人のうち、2人の死因は発育・栄養上の疾患、1人は呼吸器系の疾患であった。また、2歳人口の死亡者4人のうち3人の死因は呼吸器系の疾患であった。


20 『広島県年報』明治43年版【複製資料】 広島県 明治45(1912)年

 戸口・教育・衛生・兵事等のデータをまとめた広島県の総合的な統計書(※)。
 明治43(1910)年の広島県のデータを参照すると、同年に数え年1歳で亡くなったのは6,611人で、死因の第1位は「発育及栄養的病」の2,078人、第2位は「呼吸器病」の1,590人だった。この年の出生者数は54,661人であり、1,000人当たりの死亡数は120.9人だった(本書「現住人死亡者年齢別」・「本籍人ノ出生」)。
 当時の乳児にとっては、貧困や感染症による死亡リスクが高かったと考えられる。
 なお、平成30(2018)年の広島県の1,000人当たりの乳児死亡数は2.1人となっている。(『広島県統計年鑑』による)。

 ※ 『広島県統計書』(明治14年~)は、『広島県統計年鑑』(昭和29年以降)の前身にあたり、明治37~43年については『広島県年報』となっている。


21 流行性感冒予防心得 (「雑件記録綴」大林村(中原村)3830)

流行性感冒予防心得の本文

 流行性感冒の危険性と細かな対応方法を伝える、中原村役場作成の広告(中原村は現安佐北区)。大正9(1920)年頃のもの。
 近代日本では、しばしばコレラや腸チフスなどの感染症が流行した。第一次世界大戦中の大正7年から翌年にかけては流行性感冒(インフルエンザ、通称スペイン風邪)が世界的に流行し、広島市でも多くの命が失われた。
 この広告は、予防対策としては、人の集まっている場所を避けること、電車などでは呼吸保護器(マスク)を使用すること、かぜの症状が出た場合の対応としては、すぐに床について医者を呼び、患者は隔離して医師の許可があるまで外出を控えることなどを奨励している。そのほかの注意事項として、予防注射を受けることや、咳・くしゃみをする際は「ハンケチ」・手拭いで鼻・口を覆うことなども挙げられおり、現在の新型コロナウイルス感染症対策に似た対応が行われていたことが分かる。
 こうした感染症に関連する行政(国・県・市)の施策としては、日清・日露戦争時の検疫・検査の強化や都市部を中心とする上下水道などの整備(ただし広島市の場合は軍用水道の貸下げ)、塵芥・し尿処理の制度化、衛生や感染症予防に関する知識の普及などがみられた。


22 「壮丁名簿 明治二十四年ヨリ」 明治24年~明治27年 (温品村4450)

「壮丁名簿 明治二十四年ヨリ」の表紙

「壮丁名簿」の個票の例

「壮丁名簿」の個票の例

 

 徴兵検査結果やその後の軍歴等を記載した個票を綴じた簿冊。
 明治6(1873)年に公布された徴兵令により、男子は満20歳で徴兵検査を受けることが義務付けられた。
 壮丁名簿には検査時点の学力、身長、体重、胸囲、視力、戸主の課税状況などが記録されることになっていた。この時期の温品村(現東区)では身長はおおむね記入されているものの、体重・胸囲などは記されていない。


23 (グラフ)徴兵検査時の身長の分布(温品村、明治25年~29年)

(グラフ)徴兵検査時の身長の分布(温品村、明治25年~29年)

 身長は出生から成人ごろまでの生活水準を示す指標の一つである。
 ここでは「壮丁名簿」の記録を基に、明治5(1872)年2月生まれから同10年1月生まれの温品村民の男性で、明治25年から明治30年の徴兵検査対象者のうち、実際に徴兵検査を受けた80名を対象として、5cm刻みの身長階級ごとに集計した結果を示している。
 平均値は約154.9cmであり、身長145cm以下の人も全体の1割程度を占めている。一方、170cm以上は1名のみだった。


24 『昭和十年徴兵検査成績』 広島県 (温品村4578)

『昭和十年徴兵検査成績』の表紙
『昭和十年徴兵検査成績』の本文

「昭和十年徴兵検査成績」の本文のうち「壮丁ノ教育及体格別調査表」の温品村部分

上 「壮丁ノ教育及体格別調査表」(冒頭部分)

下 「壮丁ノ教育及体格別調査表」(安芸郡温品村部分)

 

 昭和10(1935)年度に実施された各市町村の徴兵検査の結果から、県が体格、学力修養状況、職業別状況、分布状況等を調査してまとめたもの。
 この年の温品村(現東区)の受検人員は13名で、平均身長は163.8cm、平均体重56.86kgだった。昭和6年から10年の『徴兵検査成績』(※)により算出した5年間の加重平均は身長161.7cm、54.95kgとなっており、明治20年代の徴兵検査結果と比較すると、温品村では20歳男性の平均身長が7cm近い伸びを示している。

 ※ 昭和6年は「庶務一件 兵事ニ関スル書類 昭和六年度」温品村役場文書4554に編綴。昭和7年~10年は温品村役場文書4575~4578。


25 学齢人員 明治23(1890)年1月25日付 (「統計表進達跡」明治23年、温品村2827)

学齢人員等の添書
学齢人員の本文

上 添書
下 「学齢人員」
 

 温品村内の学齢児童を就学・卒業退学・未就学・未卒業退学に分けて、男女別にその人数を報告する文書。
 明治23年の温品村(現東区)の学齢人員(満6才~満14才)は347名だったが、そのうち就学中または卒業退学済みの者は174名であり、未就学または未卒業退学の者は173名だった。

 


26 申告書記入例示 大正9(1920)年 (谷口盛行資料6)

申告書記入例示の本文

 第1回国勢調査の際に使用された申告書の記入例。
 調査項目は氏名、世帯ニ於ケル地位、男女ノ別、出生ノ年月日、配偶之関係、職業及ビ職業上ノ地位(本業・副業)、出生地、民籍別国籍別の8項目であり、現在の調査内容と比較すると、住居の種別、現在の場所に住んでいる期間、教育、就業地または通学地、就業地または通学地までの交通機関等がなく、人口調査に比重を置いたものであったことが分かる。
 また、「十月一日午前〇時(九月三十日の夜半ノ現在により記入スルコト」と、調査時点を限定した調査であった。


27 2020年国勢調査 調査票の記入例


28 第2回国勢調査(大正14年)の調査票 (「大正十四年度 国勢調査施行令」大林村2496)

大正14年の第2回国勢調査の調査票の様式

 第2回にあたる大正14(1925)年は簡易な国勢調査が実施された。申告書様式は個人別となっており、氏名、男女の別、出生の年月、配偶の関係、世帯主または世帯管理者氏名の6項目について調査が行われた。


29 国勢調査申告書様式の比較

大正9年と令和2年の比較

 大正9年国勢調査の調査では、前述(26 申告書記入例示)の通り、男女ノ別、配偶ノ関係、職業及職業上ノ地位など8項目が調査された。このうち出生地を除く7項目は、令和2年国勢調査でも類似する項目の調査が行われている。
 令和2年の調査ではこれらに加え、現在の場所に住んでいる期間や5年前の居住地、学歴、従業地・通学地、通勤・通学のための交通手段なども調査されている。

 


30 「大正十四年度 国勢調査施行令」 (大林村2496)

「大正十四年度 国勢調査施行令」の表紙

 表紙は「国勢調査施行令」となっているが、大林村(現安佐北区)で作成された第2回国勢調査に関する一件綴である。官報や県報等の広報資料、国勢調査主任打合せ会開催に係る訓示・指示事項、調査区設定認可申請書起案文書、安佐郡役所からの付帯調査に関する通知、国勢調査方法ニ関スル質疑解答等、一連の文書が収受・作成順に綴られている。
 調査票は「官報」第3823号(大正4年5月23日発行)に掲載されていたもの。
 第2回に当たる大正14(1925)年は簡易な国勢調査が実施された。申告書様式は個人別となっており、氏名、男女の別、出生の年月、配偶の関係、世帯主または世帯管理者氏名の6項目について調査が行われた。


31 「昭和十五年 国勢調査書類一件」 (温品村2879)

「昭和十五年 国勢調査書類一件」の表紙

 昭和15(1940)年実施の国勢調査の一件綴。昭和15年国勢調査事務一覧表から始まり、関係法令を告示する官報、県臨時国勢調査部長からの通知、村での起案文書等、国勢調査に関係する文書がまとめられている。
 極秘扱いの「昭和十五年国勢調査中現役軍人及応召軍人等ノ調査ニ関スル要項」等の戦時中の居所記載等に関する通知文書も綴られている。


32 国勢調査員選定内申書 温品村長発・広島県知事宛 昭和15(1940)年6月28日付 (「昭和15年 国勢調査書類一件」、温品村2879)

「国勢調査員選定内申書」の本文

「国勢調査員選定内申書」(冒頭部分)

 

 これは、国勢調査員として選定された人物の略歴・職業・生年月日・氏名を、村長が広島県知事へ報告した文書。
 第1回国勢調査の2年前(大正7(1918)年)に公布された国勢調査施行令では、「国勢調査員ハ府県知事ノ推薦ニ依リ内閣ニ於テ之ヲ命ス」「国勢調査員ハ名誉職トス」と規定されていた。調査員として選定されたのは地主層や元軍人、村役場の吏員や村会議員の経験者等で、地元の名士が多かった。


33 『大正9年 国勢調査報告 府県の部 第33巻 広島県』 内閣統計局 大正15(1926)年

大正9年、国勢調査報告、府県の部、第33巻、広島県の表紙

 大正9年10月1日に施行された第1回国勢調査の結果は、まず市町村別世帯別人口の概数の速報と市町村別確定人口が公表された。
 その後、部府県別の調査結果をまとめた冊子が作成された。
 この冊子には、広島県の調査結果が、1 人口、2 世帯、3 年齢及配偶関係、4 出生地、5 職業、6 国籍民籍に分けて採録さている。


34 国勢調査の正確は国民の協力に依る【ポスター(複製)】 広島県 大正9(1920)年 (谷口盛行資料19)

ポスター画像、国勢調査の正確は国民の協力に依る

 第一回の国勢調査の実施に当たっては、市民への周知に力が注がれた。
 ここに紹介するポスターや宣伝票は、周知のため県や市が作成したものである。国勢調査への協力を呼び掛けるもの、日時の周知徹底を図るもの、目的・調査項目・調査方法を具体的に示して市民の疑いや不安を除こうとするものなど、多様なものが作成された。
 35から38のポスターや宣伝票のほとんどの漢字には読み下した言葉でルビが振られており、分かりやすさに配慮されていたことがうかがえる。

 


35 国勢調査 【ポスター(複製)】 広島市 大正9(1920)年 (谷口盛行資料16)

ポスター画像、国勢調査

36 国勢調査日(申告の方法に不審なきか?)【ポスター(複製)】 広島県 大正9(1920)年 (谷口盛行資料17)

ポスター画像、国勢調査日

37 国勢調査趣旨普及宣伝票 第1号 広島市 大正9(1920)年 (谷口盛行資料12)

国勢調査趣旨普及宣伝票、第1号の本文

38 宣伝 第二回 広島市 大正9(1920)年 (谷口盛行資料13)

宣伝、第二回の本文

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