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Web展示会「あの日」の記録
「あの日」の記録-原爆戦災誌編さん資料から振り返る-
広島市公文書館被爆75年企画展示
開催期間 : 令和2年7月27日(月曜日)から9月14日(月曜日)まで
場 所 : 広島市公文書館 7階ロビー及び閲覧室
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はじめに
広島市は原子爆弾の炸裂による惨禍を伝え、犠牲者の冥福を祈ると共に平和を祈念するため、昭和46(1971)年、『広島原爆戦災誌』(全5巻)を刊行しました。「広島原爆戦災誌編さん資料」は、編さんに当たり行った被爆状況の調査等の資料や補足のため収集した体験記等からなる資料群です。
今回は、この資料群の中から12点を展示します。調査等の資料としては、爆心地付近の学校、周辺の市町村から回答された被爆直後の状況等を記録した調査表と補足のため行った座談会の録音テープ。体験記としては、財務局職員、司祭、被爆直後の救護活動に当たった船舶司令部の将兵の体験記、そして昭和25年に広島市が募集した被爆体験記の原稿。被爆直後に作成された資料としては、警防団の日誌、広島県及びその職員による対応記録、中国軍管区軍医部の衛生速報。広島市が被爆の翌年に行った人的被害の調査綴。膨大な資料群のほんの一部ではありますが、被爆直後に記録された貴重な資料を紹介します。
広島市原爆戦災誌資料表
『広島原爆戦災誌』の編さんに当たっては、原爆被害の実態を調査するため、昭和37(1962)年7月から9月にかけて、市内各地区、主要官公庁、事業所、各学校、関連市町村にそれぞれ別様式の「広島市原爆戦災誌資料表」が送付された。寄せられた回答は、原爆戦災誌の基礎資料として活用された。
調査はその後、宗教団体、病院等にも追加して行われ、現在278点が残されている。
01 広島市原爆戦災誌資料表(袋町国民学校) 昭和38(1963)年 (原爆戦災誌資料0125) ウェブブック
原爆炸裂時の袋町国民学校の状況(袋町国民学校の広島原爆戦災誌資料表より)
これは、爆心地から約600メートルに位置した袋町国民学校(現袋町小学校)が回答した資料表である。
袋町国民学校では、原爆投下時、建物疎開した校舎の跡片付けが行われており、作業中の児童と教職員は全員死亡した。市内にいて被爆後も生き残ったのは、資料中に名前が見える坪井教頭と、動員学徒を引率していた訓導(教師)1人、児童3人のみであったとされる。さらに、校舎も外形を保つばかりとなり、戦後の学校再開は多大な困難を伴うものとなった。
02 広島市原爆戦災誌資料表(庄原市) 昭和38(1963)年 (原爆戦災誌資料0198) ウェブブック
庄原市からの救護派遣(庄原市の広島原爆戦災誌資料表より)
資料表は、市内だけでなく周辺の市町村にも送付された。これは、その内の庄原市が回答したものである。
原爆炸裂時の閃光は、広島市から直線距離で約75キロメートル離れた庄原市においても目撃された。午後7時頃、芸備線戸坂(へさか)駅から移送され始めた負傷者は庄原国民学校等に収容された。その数は、10日頃までに900人を超え、広島第一陸軍病院庄原分院の職員らが懸命の治療に当たった。
また、広島市内での救護活動のため、救援の出動命令を受けた医療救護班に加えて、警防団や庄原実業学校(現庄原実業高等学校)の生徒らが被爆直後の市内へ出動した。
原爆体験記原稿
03 原子爆弾体験記(相原勝雄) 昭和25(1950)年 (原爆戦災誌資料0279)
被爆当時、広島財務局戦時施設課長であった相原勝雄の原爆体験記。筆者は台屋町(現南区京橋町)の自宅で被爆し負傷、この時屋外にいた12歳の次男と8歳の三男を亡くした。また、勤務先の広島財務局は、八丁堀の本館と疎開先としていた旧日本銀行広島支店3階部分のいずれも全焼し、93人(被爆時出勤者約120人)が死亡した。
被爆の5年後という原爆体験記の中でも早い時期に著されたものであり、鮮明な記憶に基づく記録と言える。この体験記は第3巻に掲載されている。
04 私の見たもの(フーゴー・ラッサール) 年不詳 (原爆戦災誌資料0517)
原題は“Bombed in Hiroshima : by an eye-witness 600 yards from the center ”。序言(introduction)には、「1949年8月6日」の日付がある。筆者はカトリック教会の司祭で、幟町天主公教会(現世界平和記念聖堂)で被爆した。後に帰化して「愛宮 真備」(えのみや まきび)となった。昭和43(1968)年、広島市名誉市民の称号を贈られている。
被爆時の状況だけでなく、「外国人」の視点から戦争末期の人々と社会の様子が描かれている。第4巻には、日本語訳された一部が「私の見たもの」と題して掲載されている。
05 原爆炸裂下における船舶部隊の活動について(木村経一) 年不詳 (原爆戦災誌資料0338)
被爆直後にいち早く救援を担ったのが、宇品町(宇品海岸)に位置した陸軍船舶司令部(通称は暁部隊)であった。ここに属する各部隊は、仁保町、似島、金輪島などに駐屯しており、大きな被害を受けなかった。
この体験記は、当時陸軍船舶練習部経理課長を務めていた木村経一によるもので、被爆直後の救護の様子が一将兵の視点で記録されている。船舶部隊の活動とこの体験記は、第1巻に掲載されている。
山田隆夫(当時広島矢賀警防分団所属)資料
06 警防日誌 昭和20年6月1日~25年3月 (原爆戦災誌資料0631) ウェブブック
8月6日の日誌(警防日誌より)
広島市矢賀警防分団の日誌。警報の発令状況が細かく記録されている。8月6日の記録には、午前7時9分に警戒警報が出され、同31分解除の後、8時15分に原子爆弾が投下されたとある。
その後は停電のため伝達が徹底せず、警報の発令状況は記録されていないが、鶴見町に出動していた国民義勇隊長が負傷しながら帰町し罹災状況を知らせたこと、尾長方面で火災があったこと、矢賀国民学校に救護所が開設されたことなどが記されている。
矢賀警防分団の日誌は昭和20年1月2日から12月31日までが第5巻に「防空日誌」として掲載されている。
竹内喜三郎(当時豊田郡地方事務所長)資料
07 雑記帳 昭和20(1945)年8月6日~9月21日 (原爆戦災誌資料0556)
8月7日の記録(救護所、食糧配給対策等について)(「雑記帳」より)
竹内喜三郎による記録。竹内は、被爆直後に豊田郡地方事務所長から広島県人事課長(食糧対策委員)に就任し、県の被爆救援対策、復旧対策などに当たった。この資料には、食糧対策を中心とした県による被爆後の対応が記録されている。
被爆翌日の7日の記録からは、計24か所に臨時救護所が設置されたこと、負傷者や救護班らを対象とした缶詰、蔬菜(そさい)、砂糖などの食糧配給対策が協議されたことが分かる。本資料の全文は第5巻に掲載されている。
戦災記録(広島県による記録)
08 戦災記録 第1号 昭和20(1945)年9月2日 (原爆戦災誌資料0540) ウェブブック(前半) ウェブブック(後半)
戦災記録 内題
原爆の被害とその対応に係る広島県の公式記録、報告書。内題は「広島市空爆直後ニ於ケル措置大要」。本資料は、『新修広島市史』第7巻、『広島県史 原爆資料編』に全文が掲載されている。
8月6日(「戦災記録 第1号」より)
広島県庁の被害とその直後の救援の要請、生き残った人々で協議して内務省への報告を行ったことが記されている。
8月9日(「戦災記録 第1号」より)
内務省の職員からの事情聴取があったこと、被爆後の限られた人員と施設で業務に当たったことが記されている。ここでは、「市役所」や「総監府」も含めて計57人の地方事務所員を配置したとある。
衛生速報(中国軍管区軍医部発行)
09 中国軍管区軍医部衛生速報 第6号(中国軍管区軍医部発行) 昭和20(1945)年9月12日 (原爆戦災誌資料0544)
中国軍管区軍医部は、被爆地での活動による人体への影響や原子爆弾の性質について研究を進めていた。被爆から約1か月後に出されたこの第6号では、「原子爆弾ニ対スル考察」として、爆発により発生した中性子とガンマ線が爆心地に近いほど多く、これらが減衰するまでの2、3日の間に爆心地で作業した者が「βγ線ニヨル障害ヲ生シタラン事ハ肯定シ得ベシ」とし、入市被爆による健康被害に言及している。
「広島原爆戦災誌編さん資料」には、第2号(同年9月2日発行)~第6号、第9号(同10月23日発行)があり、その写真版が第5巻にすべて掲載されている。
昭和二十年八月六日原子爆弾による人的被害及び一か年後の状況調査綴
10 昭和二十年八月六日原子爆弾による人的被害及び一か年後の状況調査綴 昭和22(1947)年頃 (原爆戦災誌資料0548)
町別被害状況表
広島市調査課が被爆から1年後に行った原爆の人的被害に関する調査の結果をまとめたもの。建物被害についてまとめた綴(2分冊)もある。この調査綴の一部は、第1巻に掲載されている。
原爆体験記募集原稿
11 原爆体験記募集原稿 No.1 昭和25(1950)年 (原爆戦災誌資料0927)
昭和25(1950)年、広島市は、「市民の貴重な体験を生かして世界平和運動に寄与するため」原爆体験記の発行を企画し、市民から原爆体験記を募集した。寄せられた原稿は165編に及び、そのうち18編を選び、同年8月『原爆体験記』を発行した。この時の募集原稿は、『広島原爆戦災誌』にも一部掲載されている。
「爆心に生き残る」(野村英三氏の体験記)原稿
「原爆体験記募集原稿」に綴られているもの。この体験記は、第2巻に掲載されている。
録音テープ
12 中島地区戦災状況の座談会(録音テープ) 昭和39(1964)年 (原爆戦災誌資料0884・0885)
資料表で情報が集まらなかった地区や官公庁については、詳細な状況を把握するため、個人への聞き取りや関係者による座談会が開催された。この座談会の記録は、第1巻に要約が掲載されている。