ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 市民局 > 市民局 国際平和推進部 平和推進課 > 広島平和記念資料館 学習ハンドブック 熱線による被害、爆風による被害

本文

広島平和記念資料館 学習ハンドブック 熱線による被害、爆風による被害

ページ番号:0000009493 更新日:2023年2月17日更新 印刷ページ表示

●熱線による被害

原爆が爆発した時の爆発点の温度は数百万度となり、空中に発生した火球は、1秒後には直径400mを超える大きさとなりました。この火球から四方に出された熱線は、爆発0.2秒後から3秒後までの間、地上に強い影響を与え、爆心地周辺の地表面の温度は3,000度から4,000度にも達しました(鉄が溶ける温度が約1,500度です)。

爆心地から約1.2km以内でこの熱線の直射を受けた人は、体の内部組織にまで大きな損傷を受け、ほとんどの人が即死か数日のうちに亡くなりました。また、約3.5km離れた所にいた人でさえ、素肌の部分は火傷を負いました。爆心地から600m以内の屋根瓦は、表面が溶けてぶつぶつの泡状になりました。

●爆風による被害

原爆の爆発の瞬間、爆発点は超高圧となり、周りの空気が急激に膨張して街を爆風が襲いました。爆心地から半径2kmまでの地域では、ほとんどの木造の建物は壊され、鉄筋コンクリート造の建物は、崩壊を免れた場合でも、窓や家具などが吹き飛ばされ、その後内部は全て焼き尽くされるなどの大きな被害を出しました。

爆風によって吹き飛ばされ、即死した人、飛び散ったガラス片が刺さりけがをした人、たおれた建物の下敷きになって圧死した人やそのまま焼け死んだ人がたくさんいました。

●放射線による被害

原爆の大きな特徴は、爆発したときのエネルギーが、それまでの火薬を使った爆弾とは比べものにならないくらい大きいことと、人体に危険な放射線を出すことです。

原爆が爆発して1分以内に「初期放射線」が大量に放出されました。特に、爆心地から1km以内で直接、放射線を受けた人はほとんど亡くなりました。

さらに、そのあとも「残留放射線」(※)が地上に残りました。このため、直接被爆しなかった人でも、救援・救護活動や家族などをさがすために爆心地近くに行き放射線を受け、それが原因で病気になったり亡くなったりする人も出ました。また、爆発により巻き上げられたチリやススが、黒い雨となって降りました。雨の中には放射性物質が含まれており、この地域で井戸水を飲んでいた人の多くは、その後3か月にもわたって下痢をするなど、健康に影響を与えました。

(※)残留放射線:初期放射線を受け、放射能を帯びた土や建築資材などから放出される誘導放射線と、核分裂で生まれた放射性物質や核分裂しなかったウランなどの放射性降下物(フォールアウト)から放出される放射線

●後障害

原爆の被害は、被爆直後からあらわれた急性障害(発熱、はき気、下痢など)だけではありません。その後も後障害という長期にわたるさまざまな障害が現れ、現在もなお苦しみ続けている人もいます。

1946年(昭和21年)初めごろから、火傷が治ったあとが盛り上がる症状、ケロイドが現れました。ケロイド は痛みやかゆみを伴い、まわりからの視線や心無い言葉により精神的な苦痛を受けることもありました。

また、被爆から年月を経て、白血病やがんによって 亡くなる人が増えていきました。白血病の増加は被爆して2年から3年後に始まり、7年から8年後に頂点に達しました。
一方、がんが発生するまでの潜伏期は長く、被爆後5年から10年ごろに増加が始まったのではないかと考えられています。

放射線が長い期間をかけて引き起こす影響については、まだ十分にわかっておらず、現在も研究が 続けられています

禎子さんと折り鶴

佐々木禎子さんは、2歳の時、爆心地から1.6km離れた楠木町で被爆しました。家は一瞬で倒壊しましたが禎子さんは奇跡的に無傷でした。その後禎子さんは広島市立幟町小学校へ入学しました。優しく、スポーツが得意な禎子さんはたくさん友達をつくり、6年生のときには秋の運動会のリレーで女子のアンカーを務めるほど元気で活発な少女に成長しました。

ところが、被爆から9年後、小学校6年生の冬が始まる頃から首が腫れ、次第に体がだるいと感じるようになりました。繰り返し検査を受け、翌1955年(昭和30年)2月、白血病と診断され、広島赤十字病院に入院しました。禎子さんは入院してすぐ持ち前の明るさで看護婦や他の患者と仲良くなりました。しかし、手足や首などには青紫の斑点が出始め、病状は悪化していきました。禎子さんは周りを心配させまいと包帯で斑点を隠してほしいと看護婦に頼んでいました。

折り鶴を千羽折れば願いが叶うと聞いた禎子さんは、病気が治ることを願って、薬の包み紙などで鶴を折り続けましたが、その願いもかなわぬまま、同年10月25日、8か月間の闘病生活の後、12歳の短い生涯を終えました。

この悲しい知らせを聞いた同級生たちは、禎子さんのためにお墓か記念碑のようなものを建てたいと考えました。その後禎子さんだけでなく、原爆で亡くなったすべての子どもの霊をなぐさめるための像を作ることになり、原爆の子の像建立運動が 始まりました。

原爆の影響と思われる白血病で亡くなったのは禎子さんだけではありませんでした。被爆から何年もたって白血病など「原爆症」を発症し、子どもが亡くなることは、当時報道を通じて広く知られていました。このことも原爆の子の像建立運動を大きく後押ししました。

運動を始めてから2年半後の1958年(昭和33年)5月5日、各地から寄せられた募金によって「原爆の子の像」の除幕式が行われました。禎子さんと折り鶴の物語は報道や出版に取り上げられ、世界中に広がりました。今でも原爆の子の像には平和を願って多くの折り鶴が捧げられています