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広島平和記念資料館 学習ハンドブック なぜ原爆が投下されたか?

ページ番号:0000009491 更新日:2023年2月17日更新 印刷ページ表示

●なぜ原爆を使用したのか

アメリカは原爆の開発が進む中で、日本への使用を検討しました。

1945年(昭和20年)春以降、日本の戦況が圧倒的に不利な中、アメリカには長引く戦争を終結させるための手段として、11月に予定していた日本本土上陸作戦のほか、ソ連(現在のロシア)への対日参戦の要請、天皇制の存続を保証し降伏を促すこと、原爆の使用などの選択肢がありました。

こうした状況の下、ソ連の対日参戦の前に原爆投下により戦争を終結することができれば、戦後、ソ連の影響力が広がるのを避けられ、また膨大な経費を使った原爆開発を国内向けに正当化できるとも考えました。

●広島への投下

原爆の投下目標都市は、軍人と科学者で構成する目標検討委員会で、軍事的観点から検討されました。1945年4月27日の第1回会議で目標地域の選定基準が決まり、17地域が研究対象として選ばれました。

5月11日の第2回会議では、都市の規模や爆風で効果的に損害を与えることができるなどの条件で京都、広島、横浜、小倉の4つの目標が選ばれました。

その後目標都市は何度か変更され、7月末に広島、小倉、新潟、長崎となり、8月2日、優先順位は広島、小倉、長崎の順となりました。

アメリカが知る限り小倉には捕虜収容所があり、広島にはなかったことから、広島が第一目標になりました。 

広島の歴史 

1589年、中国地方の戦国大名であった毛利輝元が、太田川河口の中州の一つに城を築き始め、この地を「広島」と命名しました。以降、城下町として、また交通や経済の中心地として発展していきました。

明治時代に入ると、軍事に関係した多くの施設が設置され、特に日清戦争、日露戦争では軍隊を海外へ送るための基地になり、「軍都」として発展していきました。また、多くの学校が設置され、「学都」(学問の都)としても発展しました。

 

戦時下の広島

日本軍の中国大陸での戦争は、1931年(昭和6年)の「満州事変」をきっかけに、1937年(昭和12年)に全面的な戦争へと拡大しました。さらに、1941年(昭和16年)には、日本軍によるマレー半島上陸とハワイ真珠湾のアメリカ軍基地への攻撃により、アメリカ、イギリスなど連合国を相手にした太平洋戦争に突入しました。

この間、広島では軍事施設の新設・拡充が行われるとともに、全国から集められた多くの兵士が海外に送られました。また、政府の命令により、工場では、戦争に必要なものを主に作ることになりました。長引く戦争で、市民生活は苦しくなり、多くの市民が戦場や軍需工場などに動員されました。