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ページ番号:0000009491更新日:2019年10月21日更新印刷ページ表示

修学旅行事前学習ハンドブック-3 原子爆弾による被害2

(2) 原子爆弾の被害の実相

  • 原爆被害の特質<外部リンク>(通常爆弾との違い)
    爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張し超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
    原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが、瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長年にわたり人々を苦しめたことです。
  • 死亡者数
    当時、広島市には約35万人<外部リンク>の市民や軍人がいたと推定されています。このうち、原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていません。これまでいくつかの推定の数字が公表されていますが、広島市では放射線による急性障害が一応おさまった1945年(昭和20年)12月末までに約14万人(誤差±1万人)が死亡したと推定しています。
  • 建物の被害状況
    原爆が市街地のほぼ中央で爆発したことと爆心地から3キロメートルの範囲内に市内の全建物の約85%があったことから、被害は市内の全域におよび、当時の建物7万6千戸のうち90%以上が破壊、または焼失しました。
  • 熱線による被害<外部リンク>
    爆発と同時に爆発点の温度は摂氏100万度を超え、空中に発生した火球は、1秒後には最大直径280メートルの大きさになりました。この火球から四方に放出された熱線は、爆発後100分の1秒から約3秒間、地上に強い影響を与え、爆心地周辺の地表面の温度は摂氏3,000~4,000度にも達しました(鉄の溶ける温度は摂氏1,536度)。強烈な熱線によって焼かれた人々は重度の火傷を負い、多くの人が亡くなりました。火傷は熱線に直接面していた部分にのみ生じており、爆心地から3.5キロメートル離れたところでも、素肌の部分は火傷を負いました。
    また、爆心地から600メートル以内の屋根瓦は、表面が溶けてぶつぶつの泡状になり、約1.8~2キロメートルでは、人の着ていた衣服や洗濯物に着火し炎上。樹木への着火も多く、約3キロメートル以内では、電柱や樹木、木材などが黒焦げになりました。
  • 爆風による被害<外部リンク>
    原爆の爆発の瞬間、爆発点は数十万気圧という超高圧となり、まわりの空気が急激に膨張して衝撃波が発生し、その後を追って強烈な爆風が吹き抜けました。衝撃波は、爆発の約10秒後には約3.7キロメートル先まで達し、その圧力は、爆心地から500メートルの所で1平方メートルあたり19トンに達するという強大なものでした。
    爆風がおさまると、中心部の空気が薄くなり、周辺部から爆発点に向って強烈な吹き戻しがありました。
    爆心地から半径2キロメートルまでの地域では、木造家屋はほとんどが倒壊し、鉄筋コンクリート造の建物は、崩壊はしないものの、窓枠や内部の家具類もことごとく吹き飛ばされるなどの大きな被害を出しました。
    爆風により人々は吹き飛ばされ、即死した人、負傷した人、倒壊した建物の下敷きになって圧死した人が相次ぎました。
  • 高熱火災による被害<外部リンク>
    原爆の炸裂と同時に、放射された高温の熱線により市内中心部の家屋が自然発火し、続いて、倒れた家屋の台所で使われていた火気などを原因とする火の手があがり、午前10時頃から午後2~3時を頂点に終日、天を焦がす勢いで燃え続けました。
    爆心地から半径2キロメートル以内の地域はことごとく焼失し、倒壊した建物の下敷きになって、生きながら焼かれ、亡くなった人も数知れません。
  • 放射線による被害<外部リンク>
    原爆の特徴は、通常の爆弾では発生しない大量の放射線が放出され、それによって人体に深刻な障害が及ぼされたことです。被爆直後から表れた急性障害は、発熱、はきけ、下痢、頭痛、脱毛、出血、血液成分の異常を生じ、約5カ月後には、ほぼ終息したと考えられています。
    放射線による障害は、爆心地からの距離やさえぎる物の有無によって、その程度が大きく異なっています。爆発後1分以内に放射された初期放射線によって、爆心地から約1キロメートル以内にいた人は、致命的な影響を受け、その多くは数日のうちに死亡しました。また、外傷が全くなく無傷と思われた人々が、被爆後月日が経過してから発病し、死亡した例もあります。
    さらに原爆は、爆発後、長時間にわたって残留放射線(注)を地上に残しました。このため、肉親や同僚などを捜して、また救護活動のため被爆後に入市した人々の中には、直接被爆した人と同じように発病したり、死亡したりする人もいました。
    一方、原爆の爆発後20~30分後頃から、爆発により巻き上げられた粉じんなどを含んだ黒い雨が、市の北西部の地域に降りました。この雨の中には強い放射性物質が含まれており、この地域で井戸水を飲んでいた人の多くは、その3カ月にもわたって下痢をしたということです。
    (注)残留放射線/核分裂で生まれた放射性物質や分裂しなかったウランから出る放射線と、初期放射線を受けたことで(土やがれきを構成する原子の)原子核が反応を起こして生まれた放射性物質が出す放射線のことです。
  • 後障害<外部リンク>
    原爆による放射線は、被爆直後の急性障害(発熱、はきけ、下痢など)だけでなく、その後も長期にわたって様々な障害を引き起こし、被爆者の健康を現在もなお脅かし続けています。
    1946年(昭和21年)初めころから、火傷が治ったあとが盛り上がる、いわゆるケロイド症状が現れました。また、胎内被爆児の死亡率は高く、小頭症なども現れました。
    さらに、被爆後5,6年が経過した1950年(昭和25年)頃から白血病患者が増加し、1955年(昭和30年)頃からは甲状腺ガン、乳ガン、肺ガンなど悪性腫瘍の発生率が高くなり始めました。
    放射線が年月を経て引き起こす影響については、未だ十分に解明されておらず、調査や研究が現在も続けられています。
  • 今に続く被爆者の苦しみ
    被爆者は、被災直後から現在まで、さまざまな苦悩を経験してきました。被爆によって病気の感染に対する抵抗力が低下し、熱傷や外傷の後遺症も長く続き、苦しみました。また、被爆のショックは、急性の身体障害とあわせて、さまざまな精神的な苦痛をもたらしました。被爆による後障害が現れるにともなって、被爆者は自分自身の発病へのおそれをいだくようになりました。
    現在、広島・長崎で被爆した人びとは全国各地に住んでいますが、韓国・朝鮮をはじめアメリカなど外国籍の人びともおられます。また、被爆当時は広島・長崎で生活しており、戦後になり、韓国・北朝鮮・中国・東南アジア諸国に帰国した人々や、北・南アメリカ諸国に移住した人々など、日本国外に住む被爆者もいます。
    今、これら全ての被爆者に対する医療面での支援などが大きな問題となっています。

もっと調べてみよう

  • 通常爆弾と原子爆弾との威力の差を調べてみよう
  • 原爆による被害について、詳しく調べてみよう
  • なぜ、正確な死亡者数が分からないのか調べてみよう

サダコと折り鶴<外部リンク>

佐々木禎子さんは、2歳の時に爆心地から約1.7キロメートル離れた楠木町で被爆しましたが、無傷でした。その後は、運動会のリレーの選手として活躍するなど、元気で活発な少女に成長しました。ところが、小学校6年生の秋、突然発症し、翌年の1955年(昭和30年)2月、白血病と診断され、広島赤十字病院に入院しました。
折り鶴を千羽折れば病気が治ると聞いた禎子さんは、薬の包み紙などで、鶴を折りつづけましたが、その願いもかなわぬまま、同じ年の10月25日、8カ月間の闘病生活の後、12歳の短い生涯を終えました。
この悲しい知らせを聞いた同級生たちが中心になって、禎子さんをはじめ原爆で亡くなった多くの子どもたちを慰霊し、平和を守るための記念の像をつくろうと呼びかけました。各地から寄せられた寄付によって「原爆の子の像」が完成し、1958年(昭和33年)5月5日に除幕式がありました。
禎子さんの物語は、世界各国で出版され、今も世界中の子どもたちに原爆の恐ろしさを訴え続けています。