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ページ番号:0000009488更新日:2019年10月21日更新印刷ページ表示

修学旅行事前学習ハンドブック-7 よくある質問

Q1 被爆した人に水を飲ませると死んでしまうというのは本当か?

A 火傷をすると体内の水分が失われ脱水状態を引き起こすので、通常は飲みすぎなければ水を飲んでも構いません。しかし、原爆での被災により起こる火傷は直接いのちの危機につながるものが多く、今にも死にそうな状態で水を飲んだ被災者は、ほっと安心し、緊張が解け、亡くなっていったのではないかと言われています。

Q2 放射線と放射能はどう違うのか?

A 全ての物質は原子というものが集ってできています。その原子の中心にある原子核が分裂して別の物質にかわるときに出すのが「放射線」です。「放射能」とは、「放射線を出してほかの物質に変わりやすい能力(性質)」のことです。
ウランのように放射線を出してほかの物質に変わりやすい性質(能力を持った)の物質を「放射性物質」と言います。自然の状態でも、いろいろな物質の原子核が分裂して放射線を出していますが、ごく少ない量なので人の体への影響はほとんどありません。

Q3 原爆ドームは原爆が投下される前はなんだったのか? 爆心地から近いのにどうして崩れずに残ったのか?

A 1915年(大正4年)に、広島県の物産品の販売促進を図る拠点とすることを目的として建てられたもので、設立当初は「広島県物産陳列館」という名称でしたが、その後「広島県立商品陳列所」「広島県産業奨励館」と改称されました。
大胆なヨーロッパ風の建物で、県下の物産品の展示・販売を行うほか、博物館・美術館としての役割を担っていました。しかし、戦争が激しくなった1944年(昭和19年)3月には産業奨励館としての業務が廃止され、内務省中国・四国土木出張所や広島県地方木材・日本木材広島支社などの統制会社の事務所として使用されていました。
原子爆弾の炸裂により、建物内にいた人は全て即死し、熱線による火災で全焼しました。爆風の圧力は1平方メートルあたり35トン、風速は440メートルという凄まじいものでした。建物の屋根やドーム部分は鉄骨部分を除き、多くは木材で作られていたため、真上からの爆風に対して耐力の弱い屋根を中心につぶされ、厚く作られていた側面の壁は完全には押し潰されませんでした。

Q4 広島や長崎には今でも放射能が残っているのか?

A 原子爆弾が、それまでの火薬を爆発させる爆弾と違うのは、爆発したときのエネルギーがケタはずれに大きいことと、放射線を出すことです。原子爆弾によって発生したエネルギーのうち、5%が「初期放射線」となり、10%が「残留放射線」となりました。
「初期放射線」は原子爆弾が爆発したときに出ました。これが人の体に大きな被害をもたらしたのです。特に、爆心地から1キロメートル以内で直接放射線を受けた人は、ほとんど亡くなりました。
そのあとに「残留放射線」が出ました。放出された「残留放射線」の全ての量を100とすると、爆発後24時間で、約80%が出ました。例えば、爆心地での「残留放射線」を受ける量は、爆発直後と比べると、その24時間後には1,000分の1になり、1週間後には100万分の1になったという研究報告があります。「残留放射線」は急速に少なくなっていったのです。
現在の広島や長崎にある放射線は、地球上のどこにでもあるごく少ない放射線(自然放射線)と変わりなく、人の体に影響を与えることはありません。

Q5 「ケロイド」とは何か?

A 被爆した人の火傷の跡で、火傷を負った部分の皮膚の細胞が異常に増えて多くなるために皮膚がひきつれ、肉が盛り上がる症状のことです。放射線の影響によるものと考えられています。

Q6 平和記念公園は以前はどんな町だったのか?平和記念公園の名前はどうしてついたのか?

A 平和記念公園とその周辺、中島地区は江戸時代から明治・大正時代にかけて、広島市内きっての賑わいを見せた場所でした。今は公園になっていますが、原爆が落とされる前は、長い歴史があり、多くの人が住んでいた町だったのです。
平和記念公園の名前の由来ですが、被爆直後から、もっとも被害の大きかった爆心地近くを記念区域として残そうという考えがありました。はじめこれは中島公園と呼ばれていましたが、1949年(昭和24年)に「広島平和記念都市建設法」が定められる前後から、平和都市を作ろうという考え方が強まるにつれ、平和記念公園と呼ばれるようになりました。

Q7 原爆で両親を亡くした子どもたちはその後どうやって暮らしたのか?

A 原爆により両親を亡くした孤児は2,000人とも6,500人ともいわれています。頼る親戚もない孤児たちは、たばこの吸殻を拾ったり、靴磨きをしたりして暮らしました。
また、孤児収容所ができ、広島市周辺には1947年(昭和22年)末現在で5施設が設けられました。
収容所は物資や資金も思うように集らず、食料の確保が最大の悩みでした。そのため、孤児は農作業や地引き網、貝掘りなど、できることは何でもして、食べられるものは何でも食べていました。
こうした中、戦前から移民として海外で暮らしていた広島県出身の人たちから多額の義援金が送られてきました。また、アメリカのノーマン・カズンズ氏は、精神養子運動(孤児に義援金を送り、精神的に支えること)を提唱し、孤児を支援しました。

この他にも次のホームページでよくある質問について紹介しています。