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広島平和記念都市建設法
”広島平和記念都市建設法”のコーナー Hiroshima Peace Memorial City Construction Law
ここでは、戦後の広島のまちづくりの根幹をなしている広島平和記念都市建設法およびこれに基づく具体的な都市計画である広島平和記念都市建設計画について解説しています。
原子爆弾で廃虚と化した広島市の復興は、税収の激減等から困難を極めました。国に対し、広島市への特別な援助の請願を行いましたが、多くの戦災都市のなかで、国が広島市のみに特別な援助を与えるには法的な根拠が必要でした。その根拠として、1949(昭和24)年に制定されたのが広島平和記念都市建設法です。
この法律の制定の経緯と条文の解説やこの法律に基づく広島のまちづくりの骨格となっている広島平和記念都市建設計画の概要などについて解説します。
広島平和記念都市建設法
法の制定までの経緯
被爆後、廃墟と化した広島市の復興は、人口の急減や建物の崩壊などにともなう税収の激減により、遅々として進みませんでした。このため、国に対し、国有地の無償譲渡などを要望しましたが、多くの戦災都市の中で広島市だけに特別な財政的援助を与える余地は国にはありませんでした。
そこで、考え出されたのが、憲法第95条による特別法(=特定の地方公共団体のみに適用される法律)の制定であり、市、市議会、地元選出国会議員など多くの人の尽力により、特別法である「広島平和記念都市建設法」は1949(昭和24)年5月に衆参両院満場一致で可決されました。
特別法の制定のためには住民投票で過半数の同意が必要であるため、同年7月7日に住民投票が行われ、圧倒的多数の賛成を得て、8月6日に公布・施行されました。
この法律により、広島市を世界平和のシンボルとして建設することが国家的事業として位置づけられました。
時期 | 内外の動き | 国に対する援助の働きかけ |
---|---|---|
1945(昭和20)年8月6日 | 原子爆弾投下 | |
1945(昭和20)年11月 | 木原市長、特別援助を国に申請 | 国有財産の払下げ・特別補助の陳情 |
1946(昭和21)年1月 | 旧軍用地の無償払い下げ申請(木原市長) | |
1946(昭和21)年10月 | 復興都市計画の決定 | |
1948(昭和23)年11月 | 「復興国営化請願書」を市議会が議決 | 復興の国営化の請願運動 |
1949(昭和24)年2月11日 | 同請願書を国会の関係議員などに配付 | |
1949(昭和24)年2月13日 | 請願運動の方針を参議院議長公舎にて検討 寺光参議院議事部長より法律制定の提案 |
平和記念都市法制定の運動 |
1949(昭和24)年2月14日 | 寺光部長により法案(第1次)が起草 | |
1949(昭和24)年4月25日 | 長崎市が平和都市法へ共同参画の意思表示 | |
1949(昭和24)年5月4日 | GHQが法案を承認 | |
1949(昭和24)年5月10日 | 衆議院で法案可決 | |
1949(昭和24)年5月11日 | 参議院で法案可決 | |
1949(昭和24)年7月7日 | 広島市で全国初の住民投票を実施(賛成多数) | |
1949(昭和24)年8月6日 | 法の公布、施行 | |
1952(昭和27)年3月31日 | 広島平和記念都市建設計画の決定 |
特別法制定を記念して発行された記念切手
法の解説
広島平和記念都市建設法は、7条からできている短い法律です。
しかし、この法律は平和都市広島を支える大切な法律なのです。
《目的》
第1条 この法律は、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする。
(解説)
この法律の目的は、広島市を他の戦災都市と同じように単に復興するだけでなく、恒久平和を象徴する平和記念都市として建設していこうというものです。
《計画及び事業》
第2条 広島平和記念都市を建設する特別都市計画(以下平和記念都市建設計画という。)は、都市計画法(昭和43年法律第100号)第4条第1項に定める都市計画の外、恒久の平和を記念すべき施設その他平和記念都市としてふさわしい文化的施設の計画を含むものとする。
2 広島平和記念都市を建設する特別都市計画事業(以下平和記念都市建設事業という。)は、平和記念都市建設計画を実施するものとする。
(解説)
道路、公園、下水道など都市の基盤となる公共施設をはじめ、土地の使い方や建物の建て方のルールなど、まちづくりに必要な多くのことがらは、すべての都市に共通して、都市計画法により定められています。
しかし、この都市計画法には、恒久の平和を象徴する平和記念都市にふさわしい計画まで含みきれていません。このため、普通の都市計画のほかに、平和都市にふさわしい文化的施設や「平和を記念する施設」などを含めることができるものとされました。
《事業の援助》
第3条 国及び地方公共団体の関係諸機関は、平和記念都市建設事業が、第1条の目的にてらし重要な意義をもつことを考え、その事業の促進と完成とにできる限りの援助を与えなければならない。
(解説)
本法では、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設するために、関係諸機関はできる限りの援助を、積極的に行わなければならないものとされています。
本法に基づく関係諸機関からの援助の事例は以下のとおりです。
⑴国による平和大橋・西平和大橋の整備
⑵旧日本銀行広島支店の広島市指定重要文化財への指定に伴い、2000(平成12)年7月より、日本銀行から同建物、土地が市に無償貸与されています(将来、国の重要文化財に指定された時点で、日本銀行は本法の適用により、市に譲与する方針を決定しています)
⑶国庫補助金の補助率の引き上げ(1950(昭和25)年度から1955(昭和30)年度)
⑷国庫補助金の別枠配分(1944、1945(昭和24、25)年に他の戦災都市とは別枠で広島市に配分)
《特別の助成》
第4条 国は、平和記念都市建設事業の用に供するために必要があると認める場合においては、国有財産法(昭和23年法律第73号)第28条の規定にかかわらず、その事業の執行に要する費用を負担する公共団体に対し、普通財産を譲与することができる。
(解説)
国が所有している土地などの財産は、通常、国有財産法で地方公共団体が無償で譲り受けることは困難になっていますが、旧軍用地等の普通財産は、本法により、平和記念都市を建設するために国が必要と認めた場合に、譲りうけることができるものとされています。
用途別 | 施設の内容 | 譲与土地面積(平方メートル) |
---|---|---|
教育施設 | 白島・似島・宇品東・吉島の各小学校、 江波・二葉・似島・幟町(一部)の各中学校、基町高等学校 |
146,888.26 |
水道施設 | 広島市水道の牛田町外9町所在の施設 | 171,153.39 |
厚生施設 | 京口門児童公園 金輪島墓地火葬場 |
1,513.44 |
保険衛生施設 | 市民病院・東清掃事務所 | 25,974.91 |
合 計 | 345,530.00 |
注)国有財産の無償譲与は1967(昭和42)年の基町高等学校が最後です。
《報告》
第5条 平和記念都市建設事業の執行者は、その事業が速やかに完成するように努め、少なくとも6箇月ごとに、国土交通大臣にその進捗状況を報告しなければならない。
2 内閣総理大臣は、毎年1回国会に対し、平和記念都市建設事業の状況を報告しなければならない。
(解説)
本法制定後、広島市における都市計画事業はすべて平和記念都市建設事業として行っています。その事業の実績は毎年国会へ報告しており、2023(令和5)年度末までの、街路事業、下水道事業、土地区画整理事業、公園事業を合わせた累計事業費は、約3兆2,096億円に達しています。
《広島市長の責務》
第6条 広島市の市長は、その住民の協力及び関係諸機関の援助により、広島平和記念都市を完成することについて、不断の活動をしなければならない。
(解説)
広島市長は、広島市民などの協力により、広島市を平和記念都市として建設することに、たゆまぬ努力をすることが義務付けられています。
本法に基づく住民その他からの援助事例は以下のとおりです。
- 市緑化推進本部において大々的な供木運動を行が行われた。なかでも、1957、1958(昭和32、33)年の2ヵ年には県内の市町村から合計約6,000本の供木が寄せられた。この供木運動により平和大通りは緑豊かな景観を有する道路となった。
- 1967(昭和42)年、1990(平成2)年の過去2回にわたり、市民からの寄付金により原爆ドームの保存工事を行った。
- 広島市民球場建設費について,法第1条の目的に則し平和記念都市にふさわしいスポーツの殿堂を建設する財源の確保に資する趣旨の市長と建設費寄付者との覚書などにより、地元財界から1956~1958(昭和31~33)年度に寄付を受けた。
- 平和記念公園内の公会堂が地元財界により1955(昭和30)年に建設され、寄付を受けた。
- 広島の児童たちのためにという米国ロサンゼルス市南加広島県人会からの寄付金を受け、1952(昭和27)年に児童図書館が建設された。
- 平和都市の建設に役立ててほしいという市民や団体等の寄付金は、これまでも、また現在も多く受けており、世界平和推進のための各種の事業を実施している。
《法律の適用》
第7条 平和記念都市建設計画及び平和記念都市建設事業については、この法律に特別の定がある場合を除く外、都市計画法の適用があるものとする。
(解説)
通常、都市に必要な道路、公園、下水道などは、都市計画法という法律により計画し、建設するものですが、平和記念都市については、都市計画法及び本法によって計画し、建設するものとされています。
※全国で初めての特別法
広島平和記念都市建設法は広島市のみに適用される特別法です。日本国憲法第95条の規定に基づく特別法としては全国でこれがはじめてでした(その後、他の都市でも特別法が制定されています)。
⑴ 日本国憲法第95条【特別法の住民投票】
「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。」
年月日 | 名称 |
---|---|
1949(昭和24)年08月06日 | 広島平和記念都市建設法 |
1949(昭和24)年08月09日 | 長崎国際文化都市建設法 |
1950(昭和25)年06月28日 | 首都建設法 |
1950(昭和25)年06月28日 | 旧軍港市転換法(横須賀、舞鶴、呉、佐世保) |
1950(昭和25)年07月18日 | 別府国際観光温泉文化都市建設法 |
1950(昭和25)年07月25日 | 伊東国際観光温泉文化都市建設法 |
1950(昭和25)年08月01日 | 熱海国際観光温泉文化都市建設法 |
1950(昭和25)年10月21日 | 横浜国際港都建設法 |
1950(昭和25)年10月21日 | 神戸国際港都建設法 |
1950(昭和25)年10月21日 | 奈良国際文化観光都市建設法 |
1950(昭和25)年10月22日 | 京都国際文化観光都市建設法 |
1951(昭和26)年03月01日 | 松江国際文化観光都市建設法 |
1951(昭和26)年03月03日 | 芦屋国際文化住宅都市建設法 |
1951(昭和26)年04月01日 | 松山国際観光温泉文化都市建設法 |
1951(昭和26)年08月15日 | 軽井沢国際親善文化観光都市建設法 |
広島平和記念都市建設計画
はじめに
広島の都市づくりの歴史は、約400年前、毛利輝元が広島湾頭の三角州に城を築き、広島と命名し、城下町を開いたときに始まりました。
1923(大正12)年、旧都市計画法の適用を受け、近代的な都市計画が始まりました。1925(大正14)年の都市計画区域をはじめとして、1927(昭和2)年には用途地域、1928(昭和3)年には道路、1941(昭和16)年には公園の重要施設が都市計画として定められました。しかしながら、1945(昭和20)年の原爆被災により、これら都市計画の基礎は、ことごとく灰じんに帰しました。
廃虚と化した広島市の復興へ特別な財政援助を与えるべく、1949(昭和24)年に制定された我が国初の特別法が広島平和記念都市建設法です。1952(昭和27)年には、この法律の趣旨に沿って、広島平和記念都市建設計画において、道路、公園、下水道などの都市計画決定がなされ、今日の広島市が築き上げられました。これらの精神及び計画は現在も広島市の根幹をなしています。
戦前の都市計画
明治維新後、広島は近代化の道を歩み始めましたが、都市形態はしばらく城下町時代のままでした。
明治20年代に入ると、都市形態が大きく変化し始めました。1890(明治23)年には宇品港が完成し、1894(明治27)年には山陽鉄道が広島まで開通しました。また、1898(明治31)年には軍用水道に接続する形で上水道が整備され、1916(大正5)年には第1期の下水道が完成しました。
1919(大正8)年、旧都市計画法が制定され、1923(大正12)年に全国24の主要都市とともに広島市に適用されました。このことにより、明治以降行われてきた都市基盤整備は、近代的な都市計画の考え方に基づいて進められることになりました。
1925(大正14)年に当時の広島市と隣接7か町村を含む面積6,988万424平方メートル、人口34万2,084人の地域が都市計画区域として決定されました。さらに1929(昭和4)年に広島市と周辺7か町村との合併が実現し、総合的な都市計画の実施が一層促進されました。
「広島都市計画地域図」1940(昭和15)年
広島復興都市計画
第二次世界大戦により罹災した全国の各都市の復興を早急に実施するため、政府は1945(昭和20)年11月に戦災復興院を設置し、事業の円滑な実施を図るため、1946(昭和21)年9月に特別都市計画法を制定しました。
広島市は、1946(昭和21)年10月、特別都市計画法の規定に基づき特別都市計画を実施する市町村として東京都の区の区域のほか114市町村の中の1市として戦災復興都市に指定されました。
広島市の復興都市計画は、内務省が示した戦災地復興計画基本方針をよりどころにしながら、広島市の復興構想や広島市復興都市計画(広島県都市計画課立案)に対する意見を広島市復興審議会へ諮問を行い取りまとめられました。
これらが復興都市計画(道路、公園、土地区画整理事業)として決定され、戦災復興事業が実施されることになりました。
この復興都市計画の決定と並行して、復興計画の前提となる、都市の性格や将来人口、土地利用その他の構想が、いろいろな団体や個人などから、さまざまな場で提案されたり発表され、広島市の復興への世論が高まりました。
「広島復興都市計画」1946(昭和21)年
広島平和記念都市建設計画
戦災による税源の全面的な喪失、終戦後のインフレのため、広島市の財政は壊滅的な状況にあり、本市の復興はその力だけではどうにもならない状況であったことから、復興の後押しを得るために、関係者のたゆまざる努力が続けられ、原爆投下のまさに4年後の1949(昭和24)年8月6日に広島平和記念都市建設法が公布されました。
この法律は、広島市を恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として建設することを目的とし、旧軍用地等の国有地の譲与、事業補助の優遇等が盛り込まれました。
1952(昭和27)年にこの法律の趣旨に沿って、まちづくりの具体的な計画として、広島平和記念都市建設計画が策定されました。
その大要は次の事項からなります。
1 原爆の爆心地に近い中島地区に12.21ヘクタールの公園を計画し、これを記念施設平和記念公園として位置づける。
2 広島城跡を含む58.74ヘクタール(現在44.1ヘクタール)を中央公園とし、その他市内に多数の公園を配置する。
3 市内を南北に貫く河川美を生かすため、河岸緑地を計画する。周辺山地部には山地部緑地を計画する。
4 市の中央を東西に貫く100メートル道路を軸とし、幹線道路を碁盤形式に配置する。
5 市街地の大部分は、デルタ地帯に位置しているため理想的な下水道計画を樹立する。
この広島平和記念都市建設法及び広島平和記念都市建設計画に基づいて今日の広島市は築き上げられ、また、これらが今日の広島市の都市計画の根幹をなしています。
「広島平和都市建設構想試案」1950(昭和25)年4月
市長室で策定し、1950(昭和25)年4月付けでまとめられたガリ版刷の構想試案。
「広島平和記念都市建設計画」1952(昭和27)年
現在の都市計画
1960(昭和35)年頃から、都市へ人口と産業が急激に集中し始め、地価の高騰、住宅難、交通混雑等のいわゆる都市問題が深刻なものになってきました。このため、国はこうした都市問題の解決手段として、1968(昭和43)年に新都市計画法を制定しました。
その後、社会情勢の変化等に対応して、現在までに幾度か法改正を行っています。
広島市では、1968(昭和43)年の新法施行に伴い、1971(昭和46)年から1973(昭和48)年にかけて、都市計画区域の指定、市街化区域及び市街化調整区域の決定、用途地域の決定を行い、1996(平成8)年には1992(平成4)年の法改正を受けた新用途地域を決定しました。
また、広島市では、2009(平成21)年に新たな「広島市基本構想」を策定し、「国際平和文化都市」を都市像として継承するとともに、2030(令和12)年を目標とする「第6次広島市基本計画」を策定しました。
広島市では、都市像として掲げる「国際平和文化都市」の実現に向け、広島平和記念都市建設法の精神に則り、道路、公園、下水道等の種々の都市施設の整備や市街地再開発事業の推進に積極的に取り組んでいます。
「広島市都市計画総括図」2023(令和5)年4月現在
これからの広島市
広島市は、戦災復興に大きな役割を果たし、市民に勇気と希望を与えた広島平和記念都市建設法の精神をいしずえに市民の英知と努力、国内外からの温かい援助などにより、中四国地方の中枢都市としてめざましい発展を遂げてきました。
近年ではグローバル化、少子高齢化、技術革新や情報化の進展など社会情勢が多様に変化してきていますが、これらの時代の潮流や社会的課題に的確に対応し、都市機能の充実と都市環境の整備を図り、都市像として掲げる「国際平和文化都市」の実現をめざし、市民の皆さんとともに、元気で、優しく、明るい未来を感じさせる「広島」を築いていきたいと考えています。