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広島市公文書館で開催中の展示会のWeb版です。
会場での展示は、
開催期間 令和4年2月21日(月曜日)から5月31日(火曜日)まで
開催場所 広島市公文書館ロビー・閲覧室
※特に記載がないものは広島市公文書館所蔵資料です。
※掲載している画像のうち、ダウンロード用のリンクが表示されているものは、任意にご利用いただけます。
ご利用については、「デジタル画像等の利用について」をご確認ください。
※絵葉書・写真の資料情報に記載している年月日・時代の表示は、写真の撮影時期や絵葉書の発行時期を示しています。
絵葉書には古い写真が使用されることもあるため、発行時期と撮影時期が異なる場合もあります。
広島市公文書館では、令和2年度から「絵はがきからたどる広島あの頃」というタイトルで、絵葉書を中心に、広島の街の風景や人々の暮らしをたどることのできる資料を紹介する展示会を開催しています。
被爆により市内中心部に壊滅的な被害を受けた本市においては、戦前の街の景観や建造物の変化などを記録した絵葉書は、広島市の昔の姿を知ることができる貴重な資料となっています。
今回の展示会では、広島駅、比治山(ひじやま)、皆実町(みなみまち)周辺を取り上げます。広島駅周辺や比治山公園は戦前から桜の名所が多く、春は花を愛でる人々で賑わいました。また広島駅の北側には歴史のある社寺があり、城下町広島の姿を今に伝える史跡も残っています。
この展示会を契機に、地域の歴史や文化について思いをはせていただければ幸いです。また、今回紹介した当館所蔵資料は、広島の歴史をたどるイベント等で御利用いただけます。ぜひ積極的に御活用ください。
目次
01 広島市街全景 大正期発行
01広島市街全景
左から
広島市街全景1 [ダウンロード/719KB]
広島市街全景2 [ダウンロード/739KB]
広島市街全景3 [ダウンロード/716KB]
広島市街全景4 [ダウンロード/749KB]
東練兵場(れんぺいじょう)は、明治23年(1890年)、広島市内東部の二葉山の麓の尾長・大須賀両村内の21万6690余坪を買収して設置された。
広島には、明治8年に鎮台練兵場(明治23年、西練兵場に改称。現中区基町)が設けられており、東西の練兵場では、召集された兵士の訓練や演習等が行われた。また兵器献納式等のイベントにも使用された。
これは大正10年(1921年)頃、二葉山の頂上から南方を撮影した4枚組パノラマ写真の絵葉書。左の2枚には東練兵場(れんぺいじょう)が写っている。
02 東練兵場での騎馬練習【写真】 吉原信光撮影
02 東練兵場での騎馬練習 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
東練兵場(れんぺいじょう)では、すぐ近くの騎兵連隊の演習や旧制中学の生徒の演習なども行なわれていた。
03 東練兵場での演習風景 大正9年(1920年) 大手町高橋
広島県立広島中学校の生徒が東練兵場(れんぺいじょう)で行った演習の記念絵葉書。これは模擬戦闘の様子を撮影したもの。
04 東練兵場に並ぶ陸軍九一式戦闘機 【写真】 昭和10年(1935年)6月24日 渡辺襄撮影
04 東練兵場に並ぶ陸軍九一式戦闘機 【写真】 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
東練兵場(れんぺいじょう)に並ぶ陸軍九一式戦闘機を撮影した写真。
05 東練兵場にて ハイキングの親子【写真】 昭和12年(1937年)5月30日 渡辺襄撮影
05 東練兵場にて ハイキングの親子【写真】 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
演習が行われないときは、東練兵場(れんぺいじょう)の中を歩くことができた。写真中央左側には国前寺(こくぜんじ)の山門や建物が見える。
06 昭和9年起 事務書類 草津南町
草津南町総代が保管していた、昭和9年(1934年)の事務書類の綴。
広島市では、明治維新後も近世以来の制度である町総代(町世話役)が町ごとに選ばれ、町内の自治を担っていた。市は町総代を市からの通知の周知等に利用しており、この簿冊には、市からの通知や住民への連絡事項がつづられている(昭和15年の内務省からの訓令により、同16年4月から町内会、隣組がその役割を担った)。
06-1 兵器献納命名式並市民大会挙行ノ件通知
昭和9年(1914年)3月8日付けで広島市役所から各町総代に送付された通知。3月10日に東練兵場(れんぺいじょう)で開催される兵器献納命名式と市民大会の開催を知らせるもの。当日は各戸で国旗を掲揚すること、雨天の場合は別の場所で開催することなどが記されている。
国民が軍事費のために献金する動きは、日清戦争(明治27~28年(1894~1895年))の頃からあったが、昭和に入って本格化し、献金により軍用機などの兵器を献納し、その命名式が各地で大々的に行われるようになった。
このときの兵器献納命名式では、当時の第五師管下の3県(広島県、山口県の大部分、島根県西部)の有志からの献金により装甲自動車が献納され、「愛国二十四(五師)号」と命名された。
06-2 兵器献納命名式次第
昭和9年(1934年)3月10日、東練兵場騎兵営前で開催された兵器献納命名式の式次第。参列者一同による皇居遥拝、国歌斉唱から閉式までの流れが記されている。命名式では献納者代表として広島県知事が献納の辞を述べ、委員長である第五師団参謀長が経過報告を行い、陸軍大臣名で命名が行われた。
06-3 兵器献納及模擬戦会場要図
昭和9年(1934年)3月10日の陸軍記念日に開催された兵器献納命名式では、模擬戦も行われた。
会場要図には、献納された装甲自動車の配置や献納命名式会場内の一般客の集合位置、練兵場(れんぺいじょう)外周の中等学校以上学生生徒、小学児童、広島市青年訓練生徒のそれぞれの参観場所が示されており、幅広い層の広島市民が参観に訪れていたことが分かる。また、この日に行われた模擬戦の布陣も書き込まれており、その様子を伺い知ることができる。
07 自昌山国前寺 (大正13年(1924年) 広島市編・発行『広島市史 社寺誌』より)
日蓮宗の寺院。元は暁忍寺(ぎょうにんじ)。明暦2年(1656年)、2代藩主浅野光晟(みつあきら)とその正室自昌院(加賀藩主前田利常三女)が浅野家菩提所と定め、寺領200石を与え、殿堂・楼門等を修造、国前寺と改号した。しかし、幕府が伝道を禁じていた不受不施派(ふじゅふせは)に属していたことから、元禄5年(1692年)、菩提所とすることを廃され、寺領も召し上げられ衰退した。
明治以降も、本堂・後堂・客寮・仁王門等は残っていたが、門前にあった寺領の多くは東練兵場(れんぺいじょう)の一部となった。
被爆により瓦がずれ建物が傾くなどの被害があったが、昭和63年(1988年)に庫裏(くり)の保存工事が始まるまで、大がかりな修復は行われなかった。
現在、寛文(かんぶん)11年(1671年)に建立された本堂と庫裏は国の重要文化財に、天保年間に再建された「山門(仁王門)と参道を構成する境内」は広島市の重要有形文化財に指定されている。
写真は山門(仁王門)と参道を中心に全景を撮影したもの。
08 広島東照宮 大正12年(1923年)発行
2代藩主浅野光晟(みつあきら)が正保3年(1646年)、広島市内東北にある尾長山の南麓に造営した神社。徳川家康を祀る。翌4年に完成し、慶安元年(1648年)、江戸から御神体を迎え遷宮式が行われた。以後毎年祭礼が行われたが、特に家康没後50年に当たる寛文(かんぶん)6年(1666年)の祭礼は盛大で、城下西部の広瀬御旅所への神輿渡御(みこしとぎょ)が行われた。廃藩置県後、旧藩主の移住により御神体も東京に移されたが、地元有志の懇願により復祀した。
被爆により本堂や拝殿などは倒壊・焼失した。かろうじて焼け残った唐門(からもん)、翼廊(よくろう)、手水舎なども、爆風で傾き、瓦や天井が吹き飛ぶなどの被害を受けた。唐門等は市の重要有形文化財に指定されている。写真は石の鳥居と石段、その奥の唐門が写っている。
09 東照宮 (大正13年(1924年) 広島市編・発行『広島市史 社寺誌』より)
広島東照宮の石段前の参道の両側に植えられているのは桜。明治以前から桜が植えられており、「桜の馬場」※と呼ばれる桜の名所だった。
※桜の馬場:明治23年(1890年)の東練兵場(れんぺいじょう)開設時に更地となったが、昭和4年(1929年)の広島市昭和産業博覧会開催に合わせて復活させることとなり、大正中期に植樹され、桜並木が復活した。
10 広島尾長山麓東照宮 昭和(戦前)期発行
広島東照宮とその前の桜並木を撮影したもの。満開の桜の下に集う人々の姿が見える。
11 鶴羽根神社 昭和(戦前)期 広島□○堂発行
元久(げんきゅう)年間(1204~1206年)、賀茂郡西条郷(現東広島市)を知行していた源頼政の側室の遺志により、家臣池田左衛門が社殿を建立したと言われている。当時は椎木八幡宮と称されていた。
以来、戦乱や火災等により興亡を繰り返したが、隣接する明星院が社務を行うこととなり、同院の鎮守社「明星院八幡宮」となった。天保4年(1833年)に明星院から出火して類焼、一旦同所(現在の饒津神社(にぎつじんじゃ)の境内)に仮社殿を落成したが、同6年の饒津神社造営に伴い現在地に遷座し、社殿を再興した。
明治元年(1868年)、神仏分離令により明星院から分離し、翌年鶴羽根八幡宮と改称した。同5年に現在の名称になった。
原爆の爆風より、本殿・祝詞殿(のりとでん)・拝殿・参集殿(さんしゅうでん)等は半倒壊などの被害を受けたが、焼失は免れた。絵葉書に写っている石鳥居や太鼓橋は現在も同じ場所に残っている。
12 広島鶴羽根神社 大正期発行
鶴羽根神社境内から石灯籠と太鼓橋を撮影したもの。橋の奥に見える草木や鳥居等は一部彩色されている。
13 広島月光山明星院境内 大正期発行
二葉山の西麓に位置する真言宗御室派の寺院。毛利輝元の母の菩提所であった妙寿寺の跡に福島正則がかつての任地であった伊予国石手寺から住持を招き、真言宗新義派の寺院「明星院」としたのが始まりとされる。その後入城した浅野長晟(ながあきら)は、和歌山愛王院の僧を招いて古義派に改め、父長政の位牌を安置し、寺領200石を寄進している。広島城の鬼門(東北)に位置するため、城の守護・祈祷所とされ、代々の藩主もしばしば参詣した。また城下五ヵ寺の一つであり、領内真言宗一派の触頭(ふれがしら)であった。
天保5年(1834年)、境内の西半分に饒津神社(にぎつじんじゃ)の造営が計画され、明星院は饒津神社の別当寺となった。同13年の火災により御影堂のみ残して焼失。明治維新による寺領廃止等により寺院の維持が困難となる時期もあったが、明治9年(1876年)の不動堂再建をはじめとして、つぎつぎ伽藍が復旧された。しかしこれらの伽藍は被爆によりすべて倒壊・焼失した。
14 饒津神社(石灯篭) 昭和(戦前)期発行
天保5年(1834年)に第9代藩主浅野斉粛(なりたか)が藩祖浅野長政の追悼のために建立を始め、翌6年に竣工、遷宮式が行われた。社領は300石で、「二葉山御社」と称された。この頃、飢饉や一揆、打ち壊しなどで世の中が不安定だったこともあり、揺らぐ藩政立て直しの精神的支柱とするため建立されたと言われている。境内には家老・年寄以下の上級藩士が奉献した24基の石灯籠の列や徒士(かち)・足軽をも含む家臣有志が献納した石の手水鉢などがある。
明治4年(1871年)の廃藩置県後、浅野家の東京移住に伴い廃社となることになったが、地元の懇願により同5年に復社し、翌6年県社に列せられ「饒津神社(にぎつじんじゃ)」と改称した。明治7年には、境内やその周辺が広島県により公園に指定され、広島市内最初の公園「饒津公園」となり、萩の名所としてにぎわった。
被爆により本殿、拝殿、唐門(からもん)、能舞台等すべての建物が倒壊・焼失した。参道に並ぶ石灯籠も擬宝珠(ぎぼし)が吹き飛び倒れるなどの被害があった。
15 饒津神社 (二の鳥居と狛犬) 昭和16年(1941年) 発行
これは二の鳥居と狛犬を撮影した絵葉書。奥には饒津神社(にぎつじんじゃ)向唐門(からもん)が写っている。
16 広島饒津神社 三百年祭渡御行列 明治43年(1910年)5月撮影
饒津神社(にぎつじんじゃ)では明治43年(1910年)5月、祭神である浅野長政の没後300年を記念して、「三百年祭」が執り行われ、広島東照宮の神輿渡御(みこしとぎょ)を模した行列や、浅野長晟(ながあきら)が広島に入国した当時の衣装や祭具を再現した時代行列が行われた。
これは行列が広瀬神社へ向かって出発するところを撮影した絵葉書。
17 広島饒津神社 三百年祭記念時代行列 明治43年(1910年)5月撮影
これは明治43年(1910年)5月に行われた、浅野長晟(ながあきら)が広島に入国した当時の衣装や祭具を再現した時代行列の絵葉書。行列が広島東照宮前の桜の馬場辺りに差し掛かったところを撮影したもの。
18 安芸国饒津神社並公園地之図 明治8年(1875年)発行
饒津神社(にぎつじんじゃ)と鶴羽根神社を含む一帯は、明治7年(1874年)、広島市内最初の公園「饒津公園」となった。これはその翌年に作成された木版画。左手奥には饒津神社の社殿が、その手前に大鳥居、そこから右手に続く境内の参道には24基の石灯籠が描かれている。扇を手に舞いに興じる花見客や参道の人力車、出店などが細かく書き込まれており、公園となった当時の賑わいが伝わる。
右側中段に描かれた雲の下には、饒津神社別当寺の明星院があるのだが、天保13年(1842年)の火災により御影堂を除いて焼失したためか描かれていない。
左上の和歌「千世かけて二葉の山のふもとこそ 老をわするゝところなりけれ」を詠んだ村田良穂は、幕末の広島藩の国学者。明治8年に厳島神社(現廿日市市)の禰宜(ねぎ)になっている。
19 饒津神社保存商議大意 明治17年(1884年) 協保会編・発行
饒津神社(にぎつじんじゃ)は天保6年(1835年)、浅野斉粛(なりたか)により建立されたが、それから僅か50年ですでに頽廃(たいはい)が進んでいた。これを憂い、饒津神社の永久保存のためには、有志が協議して保存策を検討する必要があるとして「協保会」が結成され、寄付金の募集が行われた。
これは、会発起の経緯や規則、予算書、寄付金募集手続等をまとめた冊子。規則には、協保会の事務取扱所を中島新町(現中区中島町)の国立銀行内に設け、会員は4銭以上の金銭または物品を寄附することや、明治17年(1884年)7月から翌年6月までの1年間で、一万円を集めることを目標としていることなどが記されている。
発起人には元家老を初めとして旧藩士らが名を連ねていた。
20 彩色石版刷広島名勝図絵 饒津神社・広島市街 明治28年(1895年) 田井久之助発行
広島名所を描いた彩色刷の石版画。
上段の饒津神社(にぎつじんじゃ)の絵には、鳥居、石灯籠、参道の松とともに、当時の参拝者の様子が色鮮やかに描かれている。
21 京橋 (南西から) 【写真】 昭和2年(1927年)8月 田部俊一撮影
21 京橋 (南西から) 【写真】 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
太田川水系の支流である京橋川に架かる橋。毛利氏の時代に広島城下から京都へ往来する道筋に架けられたため「京橋」の名がついたと言われている。この道筋は西国街道(さいごくかいどう)の一部にあたり広島藩の参勤交代の経路となった。
現在の橋は、昭和2年(1927年)8月に架けられたもので、市内で最も古い鋼橋(こうきょう)である。写真は完成直後に撮影されたもので、支柱の一部には金属の飾りが見える。この飾りは戦時中の金属供出により石に置き換えられた。左奥には二葉山が見える。
被爆後も現存する橋の中では爆心地から最も近い約1.5kmの地点にある。被爆により親柱(おやばしら)上部がずれるなどの被害を受けたが、通行に支障はなく、被爆者の避難路や救援活動の通り道となった。
橋の東側の京橋町は、江戸時代から商人や農民が雑居する町で、明治以降も日用雑貨や食品などを扱う商店が軒を連ねていた。
22 京橋 (北西から) 【写真】 昭和2年(1927年)8月 田部俊一撮影
22 京橋 (北西から) 【写真】 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
完成間もない時期の京橋。親柱(おやばしら)に「きやうはし」と刻まれた銅板がはめ込まれている。欄干や支柱の金属の装飾は、戦時中、供出された。
23 広島諸商仕入買物案内記並ニ名所しらべ 明治16年(1883年) 渡辺莱之助編
市内中心部の様々な店と名所の案内記。店の屋号や営業内容、通りから見た外観と店の内部が銅版画で詳細に描かれている。
この頃、西国街道(さいごくかいどう)沿いの京橋町には多くの商店が建ち並んでいた。この案内記によると鬢付油(びんつけあぶら)や国産綿糸等を扱う「保田九郎右衛門」(やすだくろうえもん、正しくは九郎左衛門か)、時計やガラス製品等を扱う「由良久登」、薬を扱う「大野木元助」「檜山秀助」、和菓子の製造と砂糖類の卸を行う「蔵本仙助」、干鰯(ほしか)、海苔、綿類(わたるい)を扱う「大藤新八」、紙や筆墨類を販売する「筑後屋事檜山平八」といった多様な店舗があったことが分かる。
中でも、京橋北側の保田九郎右衛門は、3代目九郎左衛門のころから京橋や近隣の町年寄を務め、6代目は藩との関係を深め城下を代表する商家に成長した。案内記には、保田九郎右衛門の広大な店舗が2丁に渡って描かれている。案内記が発行された頃、「広島きっての実力者、資産家」と呼ばれていた保田八十吉は、6代目九郎左衛門から分家して醤油製造業を始めた弟七兵衛の子孫である。
23-1 酒類醸造処 広島京橋町 山崎直次郎支店
23-2 諸油鬢附卸処 広島京橋町北側 井筒屋清三郎事 山崎直次郎
23-3 諸油鬢附卸処 国産紡績製綿糸大売捌所 首より上の薬 広島京橋町北側 保田九郎右衛門
23-4 時計類細工並ニビイドロ物いろいろ売捌所 広島京橋町 由良久登
23-5 薬種商 広島京橋町南側 大野木元助
23-6 御菓子製造並ニ砂糖類卸商 広島京橋町 蔵本仙助
23-7 干鰯海苔問屋並ニ綿類 広島京橋町北側 大藤新八
23-8 諸紙並ニ筆墨類売捌処 広島京橋町 筑後屋事檜山平八
23-9 和漢西洋薬種卸売商 広島京橋町南側 檜山秀助
24 京橋町田中屋呉服店の割引券
京橋町にあった田中屋呉服店の割引券。この券を持参すると、反物太物一円以上の購入で五歩(5%)引になり、福引券ももらえるとある。電話番号として「電電七九九番」が印刷されている。
25 広島郵便局電話番号簿 大正11年7月1日改 大正11年(1922年) 広島逓信局発行
大正11年(1922年)の広島郵便局管内の電話番号簿。記載は契約者名のイロハ順。「タ」の項には、24の割引券と電話番号が同じで住所が京橋一〇三となっている「田中屋呉服店」の記載がある。この電話番号簿には、京橋で呉服や反物を扱う店として、他に3店舗が記載されている。
この頃の電話は、電話交換手が相手方につなぐ方式であったため、巻頭には、交換手を呼び出すときの操作方法や交換手への電話番号の伝え方(10は「トウ」、20は「フタジフ」等)、電話応対の方法等をまとめた「一般通話心得」が附属していた。
26 猿猴橋開通式前夜 点灯試験の様子 【写真】 大正15年(1926年)2月 田部俊一撮影
26 猿猴橋開通式前夜 点灯試験の様子 【写真】 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
太田川水系の支流である京橋川から分流して瀬戸内海に注ぐ猿猴川に架かる橋。毛利氏時代の広島城下絵図にも描かれており、京橋とともに西国街道(さいごくかいどう)の経路にある。
大正15年(1925年)に木橋から鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられた。新しい橋の親柱(おやばしら)は地球儀とブロンズ製の鷹のモニュメントで飾られ、欄干には桃を持つ2匹の猿がデザインされていた。その華麗な装飾から「広島一豪華な橋」と言われていたが、昭和16年(1941年)には金属類回収令によりモニュメントは取り外され、欄干も石製のものに替えられた。
被爆により欄干等は破損したが、落橋は免れた。平成28年(2016年)、大正15年の架橋当時のモニュメントの一部や欄干が復元された。
これは開通式前夜に行われた照明灯の点灯試験の写真。親柱の地球儀の装飾も照明であったことが分かる。
26-1 架橋当時の欄干の装飾 【写真】 田部俊一撮影
26-1 架橋当時の欄干の装飾 【写真】 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
27 広島猿猴橋 大正~昭和(戦前)期 広島□○堂発行
大正15年(1926年)2月に竣工した猿猴橋(えんこうばし)を東詰から撮影したもの。橋西詰中央に見える2階建ての建物は東警察署、その右は芸備銀行(現広島銀行)京橋支店。
28 猿猴橋・東警〔察〕署 (絵 福井芳郎)
28 猿猴橋・東警〔察〕署 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
福井芳郎(よしろう)(1912~1974)は、広島出身の画家。16歳で帝展(後の日展)に入選し、以後連続して入選するなど、早くから才能を発揮した。昭和6年(1931年)、大阪美術学校を卒業。戦中は衛生兵として参戦し、広島で被爆した。
戦後は被爆体験をもとに「黒い雨」「ひろしまの悲しみ」などの原爆記録画を数多く描いている。
当館が所蔵するスケッチ画は、もともと中国新聞紙上に連載された薄田太郎(すすきだたろう)のエッセイ「がんす横丁」の挿絵として描かれたもので、福井の記憶に残る戦前の広島の風物が描かれている。福井は、このシリーズが後に本として出版された際は、その装丁にも携わった。
右側の木造2階建ての建物は当時の東警察署。その左側の木橋が大正15年(1926年)に架け替えられる前の猿猴橋。左手奥には対岸の東松原と二葉山が描かれている。東警察署は、昭和20年(1945年)7月、銀山町に移転した。
この絵は、『がんす横丁』(薄田太郎(すすきだたろう)著 昭和48年(1973年) たくみ出版発行)の挿絵。
29 東松原町 (絵 福井芳郎)
29 東松原町 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
猿猴橋東詰の西国街道(さいごくかいどう)筋の松原は、広島市西部の福島町の松原と区別するため「東松原」と呼ばれていた。また、48本の松があったことから「いろは松」と称された。
松の後ろにある青果物店と八百屋の間の通りには幟が立っており、その奥には芝居小屋のような建物が描かれている。
この絵は、『がんす夜話(よばなし)』(薄田太郎(すすきだたろう)著 昭和48年(1973年) たくみ出版発行)の挿絵。
30 広島停車場 明治~大正期発行
明治27年(1894年)6月、山陽鉄道の糸崎-広島間が開通し、広島駅(当時は広島停車場)が設置された。同年7月に日清戦争が勃発すると、東京からの陸路としての鉄道の西端であり、大型船が停泊できる港(宇品港)のある広島は、大陸へ出兵する兵士や物資を送る兵站基地となった。
開業当時木造2階建てであった駅舎は、大正11年(1922年)11月に駅舎としては、国内初の鉄筋コンクリート造りに建て替えられた。この駅舎は、隣接する広島駅前郵便局とともに多くの名所絵葉書に登場した。
被爆により、2階に張り出して増設された待合室が倒壊。類焼により駅舎内部が全焼して多数の死傷者が出た。鉄道は翌日夕方宇品線が、8日には広島-横川間が、9日に山陽本線、芸備線が開通し、10日には駅事務室がバラックで急造された。
戦後焼け残った駅舎は補修され、駅前はヤミ市でにぎわったが、昭和34年(1959年)に民衆駅※としての建設が決定し、同39年4月、取り壊された。
※民衆駅(みんしゅうえき)は、国鉄と地元が共同で駅舎の建設を行い、商業施設を設けた駅
31 広島停車場構内 明治~大正期発行
広島停車場構内の交差する線路とポイント、煙を上げて走る機関車を撮影した絵葉書。
32 広島駅及東郵便局 昭和(戦前)期 広島□○堂発行
広島駅(右側)、広島東郵便局(左側)を撮影した絵葉書。駅舎の前には自動車や人力車が停まっている。
33 広島停車場 (広島駅) 昭和(戦前)期発行
大正11年(1922年)11月に竣工した広島駅の絵葉書。西隣の広島東郵便局も写っている。絵葉書には「広島停車場」と印刷されているが、この頃の名称は「広島駅」であった。
34 広島駅駅舎内部 【写真】 昭和11年(1936年)10月29日 渡辺襄撮影
34 広島駅駅舎内部 【写真】 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
広島駅の駅舎の中を撮影した写真。入口広間は吹き抜けになっていた。鉄筋コンクリート造りだが、床までは整備されていなかったことが分かる。
35 広島駅ホーム 【写真】 昭和11年(1936年)7月29日 渡辺襄撮影
35 広島駅ホーム 【写真】 昭和11年(1936年)7月29日 渡辺襄撮影 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
東京に出発する知人を広島駅のホームで見送る一行を撮影した写真。
36 広島駅前 バス車内から 【写真】 昭和10年(1935年)6月16日 渡辺襄撮影
36 広島駅前 バス車内から 【写真】 昭和10年(1935年)6月16日 渡辺襄撮影 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
バス車内から広島駅前を撮影した写真。駅東側の建物や駅前に停車しているバスや自動車が見える。
37 比治山公園ヨリ見タル広島市街ノ一部 大正期 広島□○堂発行
比治山(ひじやま)は広島市南区の市街地にある標高約71メートルの山。天正16年(1588年)に毛利輝元が広島城築城に着手した頃、陸地であった五つの島の一つ。山の南麓からは縄文期の貝塚も発掘されている。
江戸時代は広島藩の藩有林(御留山)(おとめやま)であったため草木の伐採が禁止されていた。また明治に入っても、国有地となり自由に出入りできなかったことから、豊かな緑が残っていた。
明治31年(1898年)8月に広島市の公園に指定され、同36年から一般に公開された。同43年には御便殿(ごべんでん)が移築され、広島の名所となり、春は桜、秋は紅葉が楽しめる市民の憩いの場となった。現在は「比治山芸術公園」となり、広島市現代美術館や広島市まんが図書館などの文化芸術施設が整備されている。
これは比治山公園南部の展望台付近から北西の市街中心部方向を撮影した絵葉書。中央を流れるのは京橋川。左側には明治期に架けられた鶴見橋が写っている。
38 比治山公園 (昭和7年(1932年) 広島市編・発行『第16回 広島市勢一般』より)
桜が咲く比治山(ひじやま)公園を撮影したもの。左側に公園の桜が、右側に公園に上る道が写っている。
39 広島比治山公園多聞院境内 毘沙門堂 明治期 広島□○堂発行
比治山(ひじやま)西麓に位置する真言宗御室派の寺院。治承年間(1177~1181年)に高倉上皇が、厳島行幸(ぎょうこう)の際に携行した後白河法皇作の多聞天を安置するため、安芸の国司菅原在経に命じて堂宇を隠渡浦(現呉市音戸町)に建てさせたのがはじまりと言われている。その後、高田郡吉田町、沼田郡新庄村三滝へと場所を移したが、慶長9年(1604年)の福島氏の時代に現在地へ移った。
被爆により本堂と庫裏(くり)は大破し、山門も倒壊したが、鐘楼だけは屋根と天井のみの破損にとどまった。
広島県庁の緊急避難先に指定されていた多聞院には、被爆直後一時的に県の防空本部が置かれ、国への報告や県内の救護班への出動命令が出された(県庁は翌7日、東警察署に移転。)。
鐘は金属供出により失われていたため、昭和24年(1949年)、被爆地の砂を鋳込んだ鐘が「平和の鐘」として製作され、被爆建造物である鐘楼(しょうろう)につるされた。鐘には「No more Hiroshima」と刻まれている。
これは多聞院境内にあった毘沙門堂を撮影した絵葉書。この堂には本尊である毘沙門天が祀られていた。
40 山陽文徳殿 昭和(戦前)期 広島□○堂発行
昭和6年(1931年)の頼山陽没後100年を契機に、広島市が頼家(らいけ)の墓所である多聞院の上手に建設した。昭和9年10月竣工、鉄筋コンクリート造り。西洋風の重厚な外壁と九輪※(くりん)をいただく和風の屋根が特徴的な建物である。
戦局が悪化すると、市役所から戸籍簿の大部分が移され、戸籍選挙課の分室となった。被爆により窓ガラスが破れ、瓦が吹き飛ぶなどの被害はあったが、焼失をまぬがれたため、一部を除き戸籍も無事に残った。
昭和21年10月には応急修理を施し、被害が大きかった浅野図書館の蔵書を移し、同24年6月に小町に復帰するまで図書館業務が行われた。
屋根の上の九輪は爆風を受けて曲がり、現在もそのままになっている。
※九輪:塔などの頂上に突き出た飾りのうちの九つの輪
41 御便殿 昭和16年(1941年)発行
明治27年(1894年)に日清戦争がはじまると、大本営が置かれた広島では、臨時帝国議会が開かれた。「御便殿」は、西練兵場(れんぺいじょう)内(現在の中区基町)に仮議事堂とともに設けられた明治天皇の休憩所。
仮議事堂は明治31年に解体されたが、御便殿は広島市が譲り受け、比治山(ひじやま)公園に移築した。こけら葺きの質素な建物であったため、移築の際に上覆いとして瓦葺きの保存殿が建設され、同43年10月4日に落成式が行われた。
御便殿前の鳥居は、明治天皇の大喪の際に使用されたもので東京市(現在の東京都)から譲り受けた。周辺には桜が植えられ、桜の季節には花見客で賑わった。
被爆により建物は焼失したが、公園入口にあった石造の記念碑と石灯籠は今も同じ位置にある。ここは現在「御便殿跡広場」となっており、南側には広島市まんが図書館が建っている。
この絵葉書は御便殿とその前の鳥居、石灯籠を撮影したもの。手前にある2基の石灯籠のうち1基は、当時の場所(現比治山公園内)に現存している。
42 比治山の御便殿 昭和(戦前)期発行
御便殿(ごべんでん)前の桜と花見客を撮影した彩色絵葉書。手前には屋台も見える。比治山(ひじやま)公園入口に立つ2基の記念碑は今も公園内に残っている。
43 比治山の人出 花見 【写真】 昭和11年(1936年)4月19日 渡辺襄撮影
43 比治山の人出 花見 【写真】 昭和11年(1936年)4月19日 渡辺襄撮影 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
花見時期の比治山(ひじやま)公園を撮影した写真。中央手前から奥の山頂に続く道は「キリンビール」と印字された桜ぼんぼりで飾られ、花見客で賑わっている。
44 比治山 花見客 【写真】 昭和12年(1937年)4月3日 渡辺襄撮影
44 比治山 花見客 【写真】 昭和12年(1937年)4月3日 渡辺襄撮影 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
出店や桜ぼんぼりが並ぶ道を歩く比治山(ひじやま)の花見客を撮影した写真。
45 広島陸軍兵器支廠比治山土墻土車運搬桟橋之図 【写真】 明治40年(1907年)
45 広島陸軍兵器支廠比治山土墻土車運搬桟橋之図 【写真】 明治40年(1907年) ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
日清戦争において大陸への兵士の派遣、物資の供給等の役割を果たした広島は、戦争終結後も兵員や軍備物資の補給を行う兵站基地として整備が進められた。明治30年(1897年)、基町に大阪砲兵工廠広島派出所が設置され、同38年には広島陸軍兵器支廠に昇格、翌39年には機能拡充のため東新開(霞町)に兵器庫が増設され、大正8年(1919年)には組織も同所に移転した。鉄筋コンクリート造り、レンガ張り2階建ての倉庫群は翌9年頃竣工した。
明治38年頃の業務内容は、兵器・弾薬・器具・材料の購買、貯蔵、保存、修理、補給等であったが、昭和15年(1940年)に兵器廠と造兵廠を合わせた兵器廠が誕生すると、兵器や弾薬の製造も業務に加わった。戦局が進むと、学徒として動員された中学生、女学生、地域の婦人等が業務にあたった。
爆風により屋根や窓に少しの被害は生じたが、火災は免れた。昭和21年には広島県庁が移転し、新庁舎が完成する同31年までの間、ここで業務を行った。
写真は、明治40年(1907年)、陸軍兵器支廠造成地から南東に向けて撮影したもの。この付近はもともと新開地で地盤が軟弱であったことなどから、土砂を盛って建物が建てられた。この写真には、山からトロッコで土砂を運ぶために設けられた軽便軌道の仮設の橋が写っている。
46 広島陸軍兵器支廠比治山兵器庫新築工事中(其一)大岩組請負 【写真】 広島市郷土資料館所蔵・提供
46 広島陸軍兵器支廠比治山兵器庫新築工事中(其一)大岩組請負 【写真】 広島市郷土資料館所蔵・提供 ※この画像の利用を希望される方は、広島市郷土資料館にご相談ください。
広島陸軍兵器支廠の新築工事の写真。2階建ての鉄筋コンクリート造り、レンガ張り倉庫が次々と建設される様子が分かる。大正2年(1913年)頃に撮影されたもの。
47 霞町の広島陸軍兵器支廠 【写真】 昭和10年(1935年)10月6日 渡辺襄撮影
47 霞町の広島陸軍兵器支廠 【写真】 昭和10年(1935年)10月6日 渡辺襄撮影 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
広島陸軍兵器支廠の鉄筋コンクリート造り、レンガ張りの倉庫と蓮根田を写した写真。この頃の霞町周辺は水田や蓮根田が広がっていた。
48 陸軍被服廠広島派出所建築中之景 【写真】 明治38年(1905年)9月20日撮影
日露戦争開戦に伴い、明治38年(1905年)に出汐町に陸軍被服廠広島派出所として設置され、同40年(1907年)、被服支廠に昇格した。
業務内容は、中国、四国、九州の各部隊で必要な日用品(軍靴・軍服・襟賞など)の製造・調達・貯蔵・補給活動等であった。
鉄筋コンクリート造り、レンガ張りの倉庫群は明治38年から建設が開始され、大正2年(1913年)に竣工した。戦中は、被服支廠の傭員(よういん)だけでなく、女学校や中学校の生徒、地域の義勇隊、勤労婦人会の隊員などが業務に従事した。
爆心地から離れていたことや造りが強固だったことから、原爆の被害は、レンガ倉庫の窓の鉄扉がゆがむなどの損傷にとどまった。被爆直後は臨時救護所となり負傷者の治療が行われた。
現在4棟が残っており、このうち1棟を国が、3棟を広島県が所有している。
これは明治38年(1905年)に、陸軍被服支廠建築中の風景を撮影した3枚組の写真。左側から縫製工場、事務所建物、木造倉庫など。中央には資材搬入用軽便軌道が敷かれており、資材はトロッコで運搬されていた。後ろに見えるのは黄金山。
49 広島陸軍被服支廠 倉庫及貨物ホーム
広島陸軍被服支廠は、明治37年(1904年)に陸軍被服支廠の派出所として設置され、同40年に被服支廠に昇格した。左上の写真は被服支廠の倉庫、右下の写真は宇品線を利用して貨物を運搬するために設けられた貨物ホーム。
50 皆実新開の風景 【写真】 昭和11年(1936年)5月19日 渡辺襄撮影
50 皆実新開の風景 【写真】 昭和11年(1936年)5月19日 渡辺襄撮影 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
広島瓦斯株式会社や広島地方専売局のある皆実町(みなみまち)は、江戸時代から明治にかけて開発された新開地であった。稲作には向いていなかったため、江戸時代から綿作(めんさく)が行われており、明治に入っても長く続いた。
大正期に入ると次第に綿作が衰退し、綿畑は水田と蓮根田に代わっていった。また昭和初期には区画整理が行われ、住宅が増加していった。
この写真は、昭和11年(1936年)5月、皆実町から北方向を撮影したもの。住宅の後ろの黒くなだらかな山は比治山(ひじやま)。広島市内中心部に近い北から少しずつ住宅が増えているのが分かる。
住宅前の土を高く盛った農地には、この頃裏作として植えられた大麦が育っている。
51 広島瓦斯株式会社全景 明治43年(1910年) 広島瓦斯発行
広島瓦斯株式会社(現広島ガス株式会社)広島工場は、明治43年(1910年)9月、皆実村に完成し、同年10月にはガスの供給を開始した。この頃のガスは燃料としてではなく、主にガス灯に使用されており、ここで製造されたガスも、当時繁華街であった中島本町(現中区中島町)や堺町(現中区)に送られガス灯に明かりを灯した。
絵葉書は、広島瓦斯の開業を記念して作成されたもので、社屋と開業時のガスホルダー(ガスタンク)が写っている。ガスホルダーは、大正時代に1基増設され2基となった。
被爆により工場は全壊し、機能を完全に失ったが、8月中旬には工場内に仮事務所を設けて応急対策にあたり、昭和23年末までにほぼ戦前の状態に復旧した。ハンドルの影が映りこんだガスホルダーは、「原爆十景」の一つとなった。
52 広島瓦斯広島工場 ガスホルダー2基 【写真】 昭和11年(1936年)9月13日 渡辺襄撮影
52 広島瓦斯広島工場 ガスホルダー2基 【写真】 昭和11年(1936年)9月13日 渡辺襄撮影 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
創業時からのガスホルダーと、大正時代に増設されたガスホルダーの2基が並んでいる様子を撮影した写真。
53 広島瓦斯広島工場 ガスホルダーと蓮根田 【写真】 昭和11年(1936年)9月13日 渡辺襄撮影
53 広島瓦斯広島工場 ガスホルダーと蓮根田 【写真】 昭和11年(1936年)9月13日 渡辺襄撮影 ※この画像の利用を希望される方は、広島市公文書館にご相談ください。
ガス工場すぐ裏手の蓮根田と住宅。皆実町(みなみまち)周辺は蓮根田が広がっていたが、この頃には住宅が増えていた。
54 広島地方専売局局舎 (『広島県史蹟名勝写真帖』(昭和10年(1935年) 教育公報社編・発行)より
たばこと塩は日清戦争後の財源確保や日露戦争の戦費を調達する目的等で、製造から販売までを国の管理(製造専売)により行われていた。広島には明治30年(1897年)、段原村に煙草専売所が設置され、その後広島分工場、直営の皆実分工場を経て、大正10年(1921年)7月1日、大蔵省専売局の地方部局、広島地方専売局となった。
写真の建物は同年竣工した鉄筋コンクリート造りの局舎。煙突も見える。局舎の後ろには鉄筋コンクリート造りのたばこ製造工場があった。ここでは主に、両切紙巻たばこが製造されていた。
被爆により鉄筋コンクリート造りの工場は、窓ガラスが割れるなどの被害を受けた。木造倉庫等も全焼し、原材料の葉たばこが焼失。応急修理を終えてたばこのが製造が再開されたのは、10月半ば頃であった。工場は平成14年(2002年)に閉鎖され、跡地は商業施設となっている。
55 広島地方専売局 両切煙草工場(ボンサツク機械) 戦前期
広島地方専売局では主に両切紙巻たばこが製造されていた。
絵葉書の「ボンサック機械」は、たばこを自動的に紙に巻き取る機械。
56 宮島広島名所交通図絵 昭和3年(1928年) 広島瓦斯電軌株式会社発行
表面は吉田初三郎が描いた広島市街から宮島(現廿日市市)までの鳥瞰図。裏面の「広島瓦斯電軌沿線名所案内」では、広島電軌軌道(現在は広島電鉄株式会社)の市内線、宮島線沿線の名所が写真入りで紹介されている。
饒津神社(にぎつじんじゃ)、東照宮、比治山(ひじやま)等の花の名所はピンク色の花で飾られている。
57 大日本職業別明細図 大広島市 昭和14年 昭和14年(1939年) 東京交通社発行
昭和14年(1939年)の広島市内の市街地図。官公庁、学校、商店、社寺等の名称が詳細に記載されている。
58 広島市街明細地図 明治20年(部分) 明治20年(1887年) 浅井馨編・松村善助発行
明治20年(1887年)、広島が広島区であった頃の市街地図。宇品港から横浜や神戸など日本各地までの距離も書かれている。隣接する宇品村、皆実村、国泰寺村などには幹線道路しか記入されておらず、開発途上であったことが分かる。
59 最新実測広島市街全図 明治27年(部分) 明治27年(1894年) 鈴木常松発行
日清戦争が勃発した明治27年(1894年)に発行された市街地図。山陽鉄道や広島駅から宇品港に延びる宇品線の線路が記載されている。広島城内には「師団本営」の文字が見える。
60 最近実測広島市街地図 大正15年(部分) 大正15年(1926年) 広島市編・発行 『第10回 広島市勢一斑』附属地図
大正15年(1926年)頃の広島市街地図。学校、官公庁、社寺、工場(ガス・缶詰・ソーダ、ゴム等)、商店等の施設や軌道等が書き込まれている。広島湾内には牡蠣養殖、海苔養殖、水産物などの情報も書き込まれている。
61 広島市街地図 昭和10年(部分) 昭和10年(1935年) 広島市役所編・発行
昭和10年(1935年)の広島市街地図。皆実町南部の区画整理が進んでいるのが分かる。京橋川河口の防波堤や河川修築の予定が赤で書き込まれている。