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ページ番号:0000165469更新日:2020年6月11日更新印刷ページ表示

原爆ドームの歴史

原爆ドームの被爆前のすがた

広島県物産陳列館の建設

 明治後期の広島では、伝統工業のほか軍需に結びついた近代工業が発達し、特に明治37年(1904年)に起きた日露戦争を契機として、大量の軍需品の地元調達が行われたことなどによって、経済は活況を呈しました。このような経済的発展に伴い、国内での激しい市場競争に耐える製品の開発、品質向上、販路拡大等を図るための拠点づくりが求められていました。
 原爆ドームのもとの建物は、チェコ人のヤン・レツルが設計し、工事の施工を椋田組が請け負い、大正4年(1915年)4月、広島県物産陳列館として竣工しました。
 この建物は、一部鉄骨を使用した煉瓦造の建築で、石材とモルタルで外装が施されていました。全体は窓の多い3階建てで、正面中央部分は5階建ての階段室、その上に銅板の楕円形ドーム(長軸約11メートル、短軸約8メートル、高さ4メートル)が載せられていました。第1階は主に事務用、第2階及び第3階が陳列用に当てられました。庭園の広さは約500~600坪あり、樹木が植えられ、洋式庭園には八方から水を吐く噴水を備えた池、和風庭園には四阿(あずまや)も作られていました。建坪面積は310坪、陳列場は620坪でした。
 そのころの広島は、都心部のほとんどは木造2階建ての建築であり、大胆なヨーロッパ風の建築デザインによる物産陳列館のような建物は非常に珍しく、その出現は市民にとって大変な驚きであり、川面に映える姿の美しさとあいまって、広島名所の一つに数えられました。
 館の業務は県内の物産、他府県からの参考品の収集・陳列、商工業に関する調査及び相談、取引の紹介に関する図書・新聞・雑誌の閲覧、図案調製等でした。
 同館は、産業奨励だけでなく、会場を提供することで博物館・美術館の役割も果たし、広島の文化振興の場として大きな役割を担っていました。
 館の名称は、大正10年(1921年)に広島県立商品陳列所、さらに昭和8年(1933年)からは広島県産業奨励館と改称されています。

物産陳列館大正4年(1915年)に物産陳列館で開催された広島県物産共進会の会場風景 (広島市公文書館所蔵)の画像
 建築工事中の物産陳列館          大正4年(1915年)に物産陳列館で開催された広島県物産共進会の会場風景
  (広島市公文書館所蔵)                       (広島市公文書館所蔵)

被爆前の建物の活用状況

 しかし、戦争の激化につれて、より産業奨励に重点を置いた運営がなされるようになりました。さらに戦争が激しくなると、館内の展示も次第に縮小の一途をたどり、ついに昭和19年(1944年)3月31日、館業務は廃止され、内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材株式会社など、官公庁や統制組合の事務所に使用されることになりました。

 

原爆ドームの被爆について

昭和20年(1945年)8月6日、一発の原子爆弾により広島市街の建物は一瞬にして倒壊し、灰燼に帰しました。産業奨励館は爆心地から北西約160メートルの至近距離で被爆し、爆風と熱線を浴びて大破し、天井から火を吹いて全焼しましたが、爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、本屋の中心部は奇跡的に倒壊を免れました。当時この建物の中にいた内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材株式会社・日本木材株式会社広島支社・広島船舶木材株式会社等の職員は全員即死しました。

広島県産業奨励館(原爆ドーム)と爆心地の位置の写真
写真は昭和20年(1945年)7月25日米軍撮影(米国国立公文書館所蔵)

被爆前

被爆前の広島県産業奨励館の絵はがき
(広島市公文書館所蔵)

被爆後

被爆後の広島県産業奨励館の写真
(広島平和記念資料館所蔵 川本俊雄氏撮影)
 
 

原爆ドームの保存へ

戦後、旧産業奨励館の残骸は、頂上の円蓋鉄骨の形から、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになりました。
 当時、原爆ドームについては、記念物として残すという考え方と、危険建造物であり被爆の悲惨な思い出につながるということで取り壊すという二つの考え方がありました。
 散発的に出ていたこの存廃論議は、市街地が復興し、被爆建物が次第に姿を消していく中で、次第に本格化し、原爆投下をどう考えるか、被爆体験や肉親などの惨事をどう伝えるか、核兵器をめぐる世界の情勢をどう考えるか等の議論と重なりをみせていきました。
 原爆ドームは、昭和28年(1953年)、広島県から広島市に譲与され、ほぼ被爆後の原形のまま保存されていましたが、年月とともに、周辺には雑草が生い茂り、建物も壁には亀裂が走るなどの傷みが進行し、小規模な崩壊・落下が続いて危険な状態となりました。そのため、昭和37年(1962年)以降は周囲に金網がはられて内側への立ち入りが禁止されました。
 保存を求める声が高まる中で、広島市は昭和40年(1965年)7月から広島大学工学部建築学教室に依頼して原爆ドームの強度調査を行いました。翌昭和41年(1966年)7月、広島市議会が原爆ドームの保存を要望する決議を行い、これを踏まえ、広島市は保存工事のための募金運動を開始、国の内外から6,619万7,816円の寄附金等の浄財が寄せられました。そして、昭和42年(1967年)、第1回保存工事が行われました。

原爆ドーム保存を要望する決議

 広島市は昨年、100万円の調査費をかけ、原爆ドームの保存方法について調査を完了した。
 その結果、補強によって保存に耐えるとの報告をうけている。
 核戦争阻止、原水爆の完全禁止の要求とともに、ドームを保存することは被爆者、全市民、全国の平和をねがう人々が切望しているところである。
 ドームを完全に保存し、後世に残すことは、原爆でなくなられた20数万の霊にたいしても、また世界の平和をねがう人々にたいしても、われわれが果たさねばならぬ義務の一つである。
 よって、このドームの保存について万全の措置をとるよう決議する。

昭和41年7月11日

広島市議会

原爆ドーム保存のための募金活動

昭和41年(1966年)7月11日、広島市議会はドーム保存を要望する決議を行い、11月1日に募金活動を開始しました。目標の4000万円を達成し、翌年3月14日に打ち切り、7月31日までには、国の内外から6,619万7,816円の寄附金等の浄財、募金運動の参加者130万人以上という大きな善意が寄せられました。

募金趣意書

 あの戦慄すべき日から、すでに21年の歳月は過ぎ去りました。
 しかし、あの日、あの朝の広島の惨状は、ついにわたくしたちの脳裡から消え去ることはないでしょう。それは人間の想像をはるかに超えた悲痛きわまりないものでありました。一瞬にして全市は焦土と化し、老若男女の区別なく20数万の生命は無惨に奪い去られたのであります。まさに、地獄以上の地獄を私たちは経験してしまったのであります。
 この言語に絶する悲惨は、将来の戦争が如何なるものであるかを示唆し、戦争による人類絶滅の危機を警告すると同時に、戦争のために傾注せられる人類の努力と創意を転じて社会開発のために活用するならば、世界平和の建設は決して不可能ではないことを確信させるにいたりました。その教訓を生かすことこそ、地下に眠る犠牲者の犠牲を永遠に意義あらしめる唯一の道であり、世界人類に対する最大の貢献でなければなりません。
 あの日以来、かろうじて生き残った者たちを先頭に、幾多の苦難を越えて広島の復興は進められ、広島は今や平和を象徴する都市として回生し得たのであります。
 しかし、そのことによって、原爆の跡はほとんど取り除かれ、現在残されているのは、いわゆる「原爆ドーム」のみとなりました。
 「原爆ドーム」の原体は、大正4年、広島県産業奨励館として建設されたものでありますが、爆心点のほとんど直下に存在したがために、爆圧を垂直に受けることによって倒壊をまぬがれ、ガラン洞の残骸をさらすことによって、ようやく残存し得たのであります。
 その事実からして、この原爆ドームこそは、広島の惨害を記憶し、それを語る基点としてはまことにふさわしい記念物であります。もちろん、わたくしたちは原爆ドームが、人類史上類例もない大惨禍を実証するには余りにも小さすぎることを知っております。さらにまた、それが唯一の遺跡であるだけに市民の悲痛な記憶をえぐる誘因ともなっていることも知っております。
 しかし、わたくしたちは、そうした個々人の感情を離れてこれは残しておくべきではないかと思うのであります。
 忘れてはならないことは、わたくしたちは常に未来へ向かって生きなければならないことであります。過去の忌まわしい経験を忘れ去ることも、また一つ生き方ではありましょうが、過去の忌まわしい経験はそれを再び繰り返さない方向において生かし、新しい未来を求めることであります。広島原爆の遺跡は、ただ広島の惨害の記念物であるばかりでなく、人類が破滅と繁栄の岐路に立つ原子力時代の「警告」であり、人類がその過ちを二度とくり返してはならない「戒律」であります。その意味において、わたくしたちは、これを未来への道標としたいと思うのであります。これを残すことは、ひとり、広島の子孫に対するわたくしたちの責務であるばかりでなく、世界の良心が同胞に対してになう当然の使命であると存じます。言うならば、わたくしたちは、これを恨みの遺物、敵意の形見として保存するのではなく、人類懴悔の象徴として、平和祈願のために保存しようとするものであります。
 原爆ドームは、平和記念公園と密接な関係があり、平和記念公園の中心点には原爆慰霊碑が安置されており、原爆資料館、平和の灯、平和祈願の鐘堂と共にその慰霊碑をつつむ公園の重要なポイントの一つとなっております。
 しかし、その原爆ドームも被爆度21年を経た今日では、これに保存の手を加えない限り崩壊のおそれなしといえない状態にあります。したがって、わたくしたちは、いまのうちに、速かに、補修工事を施して原形を維持すると共にその環境を整備して万全の保存措置を講じたいと存じます。
 ただ、わたくしたちは、これを保存するには、ひとりでも多くの人の協力を得たいと思うのであります。その意味において国内はもとより国際的にも平和を願う人々の協力を願ってやまないのであります。
 以上、原爆ドーム保存の趣旨を申しのべましてご協力をお願いする次第であります。

昭和41年11月1日

広島市長 浜井 信三

 第2回保存工事の実施にあたっても募金運動が行われ、3億9,502万5,026円の寄附金が寄せられました。寄附金の余剰金は「原爆ドーム保存事業基金」に積み立てられ、第3回の保存工事に使われたほか、保存調査の経費としても使われています。

広島市原爆ドーム保存事業基金への寄付のご案内

世界遺産一覧表への登録

原爆ドーム平成4年(1992年)9月、日本の世界遺産条約加盟を契機として、原爆ドームを世界遺産に登録しようという声があがってきました。これを受け、広島市議会が「原爆ドームを世界遺産リストに登録することを求める意見書」を採択し、広島市も国へ要望書を提出しました。
当初、国は、「原爆ドームは国内法(文化財保護法)の保護を受けていないので世界遺産に推薦する要件を備えていない。また、文化財に指定するには歴史が浅すぎる。」という見解を示していました。
こうした中、平成5年(1993年)6月、市民団体からなる「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」が結成され、原爆ドームの世界遺産化を求める国会請願のための全国的な署名運動が展開されました。この請願は、平成6年(1994年)1月参議院で、6月衆議院でそれぞれ採択されました(署名は最終的に165万3,996名)。
地域をあげての運動の結果、国は平成7年(1995年)3月、史跡の指定基準を改正するとともに、6月に原爆ドームを史跡に指定し、9月には世界遺産として登録するよう世界遺産委員会に推薦しました。その後、国際記念物遺跡会議などの審査を経て、平成8年(1996年)12月、メキシコで開催された世界遺産委員会において、原爆ドームの世界遺産登録が決定しました。