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原爆関係の慰霊碑等の概要

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 市内各地に点在する原爆関係の慰霊碑や記念碑は、原爆被害を受けた各地域や学校、職場等に関わりのある方々が、原爆犠牲者への慰霊、平和への祈りなどの思いを込めて設置されたもので、それぞれ大切な意味を持っています。

本市では、これらの慰霊碑等を継承していくという観点から、市内にある原爆関連の慰霊碑等206基の概要について、市民団体や郷土史家の方々などから協力を得て、次のとおり取りまとめました。

これらの情報を地域での平和学習などの資料として、ぜひご活用ください。

原爆関連の慰霊碑等の概要(中区内:123基)(617KB)(PDF文書)

原爆関連の慰霊碑等の概要(東区内:8基)(PDF版)

原爆関連の慰霊碑等の概要(南区内:25基)(PDF版)

原爆関連の慰霊碑等の概要(西区内:13基)(PDF版)

原爆関連の慰霊碑等の概要(安佐南区内:13基)(PDF版)

原爆関連の慰霊碑等の概要(安佐北区内:16基)(PDF版)

原爆関連の慰霊碑等の概要(安芸区内:1基)(PDF版)

原爆関連の慰霊碑等の概要(佐伯区内:7基)(PDF版)


平和記念公園周辺の慰霊碑等の場所については、こちらをご覧ください。

平和記念公園・周辺ガイド

(表の一番左欄の( )の番号が平和記念公園・周辺ガイドの番号と対応しています。)

 

原爆関連の慰霊碑等の概要(中区内:123基)

地区
小学校区
中学校区

名称(注1)
建立年月日
所在地

碑文、追悼歌(注2)

建立者

建立経緯・来歴等

平和記念公園周辺01
 
世界の子どもの平和像
2001年8月6日
中区基町5番(旧広島市民球場南)
核兵器のない世界のために この像はヒロシマの子どもたちの 愛と平和のメッセージです 2001年8月6日建立 世界の子どもの平和像を広島につくる会
 
高校生が中心となって街頭募金などで資金を集め、「核兵器と戦争のない21世紀を」という決意を込めた平和像を建立した。像のデザインは、子どもが両手を広げ、その奥で大人の男女が手と手を固く取り合っている姿を表したもの。
 
平和記念公園周辺02
(39)
 
中国・四国土木出張所職員殉職碑
1954年8月6日
中区大手町一丁目10番(原爆ドーム北西)
原爆のいけにえとなりし人ひとは なごみゆく世のいしずゑにして 阿部一郎(歌碑) 
元内務省中国・四国土木出張所職員52名は国民義勇隊員として作業中昭和20年8月6日の原爆並びに戦災により平和の礎となりこの地に眠る 昭和29年8月6日 建設省中国・四国地方建設局職員一同建之(歌碑背面)
 
建設省中国・四国地方建設局職員一同 元内務省中国・四国土木出張所は県産業奨励館(現在の原爆ドーム)に事務所があった。同所では、建物疎開作業をしていた職員を含め、52人が犠牲になった。歌碑の横には名録碑があり、犠牲者の名前が刻まれている。
 
平和記念公園周辺03
(40)
 
広島県地方木材統制株式会社慰霊碑
1967年8月6日
中区大手町一丁目10番(原爆ドーム北東)
此のドームは第2次世界大戦時吾国の木材統制機関であった広島県地方木材株式会社の本社として職員260名の本拠であったが昭和20年8月6日午前8時15分至近上空に原爆投下され不幸にも役職員100余名がドーム内外において被爆殉職した ここに原爆ドーム永久保存の決定をみて当時の社長田中好一氏の発起により生存の旧役職員相集いその霊の冥福を祈るとともに世界永久平和を祈願して之を建碑する 併せて木材統制機関の日本木材株式会社広島支店及び広島船舶木材株式会社の殉職者を合祀する 昭和42年8月6日 広島県地方木材株式会社 旧役職員有志(背面)
 
広島県地方木材株式会社旧役職員有志 当時、広島県地方木材株式会社、日本木材株式会社広島支店、広島船舶木材株式会社の各統制会社は、県産業奨励館(現在の原爆ドーム)に事務所があり、役職員百余名が犠牲になった。原爆ドームが永久保存されることを受けて、当時の関係者が碑を建立した。
平和記念公園周辺04
(41)
 
原民喜詩碑(佐藤春夫の詩碑の記)
1951年11月、広島城跡に建立。1967年、現在地に修復移設
中区大手町一丁目10番(原爆ドーム南東)
碑銘 原民喜 遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻(正面)
原民喜詩碑の記 原民喜は人がら清純沈欝に流俗と遇ひ難い詩人であった。1951年3月13日夜、東京都西郊の鉄路に枕して濁世を去った。蓋しその生の孤独と敗戦国の塵労とは彼の如き霊の能く忍ぶところではなかった。遺書17通、先ず年来の友情を喜こび、さてさりげなく永別を告げんと記し、うち2通の文尾に書き添へた短詩「碑銘」は思いを最後の一瞬に馳せて亡妻への追慕と故郷破滅の日を記した力作「夏の花」に寄せる矜持と又啼泣とを「一輪の花の幻」の1句に秘めて46年の短生涯を自ら慰め弔ふもの。辞は簡に沈痛の情は深い。遺友等ために相謀り地を故郷に相し銘記せしめて之を永く天地の間に留めた。 1951年7月13日夜 遺友中の老人佐藤春夫記す(背面)
 
原民喜委員会(日本ペンクラブ、広島文学協会) 作家の原民喜氏は、幟町の生家で被爆したが、その前年に最愛の妻を失っていた。原爆は孤独な原の心に大きな絶望感を与えた。1951年3月、原氏は自らの命を絶った。
平和記念公園周辺05
(42)
 
動員学徒慰霊塔
1967年5月
中区大手町一丁目10番(原爆ドーム南東)
第2次世界大戦中増産協力等いわゆる勤労奉仕に動員された学徒は、全国にわたり三百数十万。あたら青春の光輝と、学究の本分を犠牲にしつつ挺身した者のうち、戦禍にたおれた者一万有余人。その六千余人は原爆死を遂げた。この塔は明眸青雲を望み、将来空高く羽ばたこうとした夢も空しく、祖国に殉じたそれら学徒の霊を慰めようと有志同胞の手によってうち建てた。
 
広島県動員学徒等犠牲者の会 第2次世界大戦中、増産協力、建物疎開作業などの勤労奉仕に動員されて亡くなった学徒(原爆の犠牲者を含む。)約1万余人の霊を慰めるため建立された。塔の高さは12メートル、有田焼陶板張り仕上げで、平和の女神像と8羽の鳩を配した末広がりの5層の塔で、中心柱に慰霊の灯明がついている。
平和記念公園周辺06
(16)
 
原爆の子の像
1958年5月5日
中区中島町1番(平和記念公園レストハウス北西)
これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための(正面)
原爆で亡くなった兄姉の霊をなぐさめ世界に平和を呼びかけるために広島市小・中・高校の子供が結集し全国の友達の支援のもとにこれをつくる(背面)
広島平和をきずく児童・生徒の会 白血病で亡くなった佐々木禎子さんを始め、原爆で亡くなった多くの子どもたちを慰霊し、平和を守るための記念の像を造ろうと、禎子さんの同級生らが募金を呼びかけて建立した。像の高さは9メートルで、その頂上に金色の折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、平和な未来への夢を託している。側面左右の二体は少年と少女と明るい希望を象徴している。
平和記念公園周辺07
 
平和の石塚
1972年8月2日
中区中島町1番(原爆の子の像北)
永年にわたり友情に結ばれているフォート・ウィリアムとダットレイの青年から善意と調和と世界平和を願うシンボルとして、この石を広島の青年に贈る。この石は特にイギリス最高峰ベン・ネビス山から切り出した(訳) 広島青年会議所 ベン・ネビス山は1945年、第2次世界大戦が終わった日に、イギリスの青年が「平和記念塚」を造ったのがきっかけで平和を誓う山となっていて、広島青年会議所が「ヒロシマの悲劇を世界平和のいしずえに」という銘板を贈った。その返礼として、フォート・ウィリアムとダットレイ両市から国際平和の願いが刻まれた二つの石造りの銘板が寄贈された。
 
平和記念公園周辺08
(7)
 
平和の時計塔
1967年10月28日
中区中島町1番(相生橋南詰)
核原子力の出現により、人類はいま生か死か、破滅か、繁栄かの岐路に立っている。ひろい世界を同じ心で一つに結ぶ、全世界のライオンズ会員が平和実現のために果たす役割りは大きい。原爆ドームの永久保存に呼応し、人類が初の原爆の洗礼を受けた時刻、8時15分に、毎日全世界に向けこの時計塔のチャイムが「ノーモアヒロシマ」を強く訴え、人類の恒久平和実現の一日も早からんことを祈り、この時計塔を建設し、市に贈るものである。 昭和42年10月28日 チャーター伝達10周年を記念し 広島鯉城ライオンズクラブ 広島鯉城ライオンズクラブ 広島鯉城ライオンズクラブが結成10周年を記念し建設。世界人類を象徴した直径2メートルの球体が、平和都市ヒロシマの市民の深い祈りの手と、苦難を超え、無限に伸びていく平和への希望を表した高さ20メートルの鉄塔3本に支えられている。
平和記念公園周辺09
 
遭難横死者慰霊供養塔
1957年9月
中区中島町1番(原爆供養塔北)
為原爆遭難横死者慰霊 県下真言宗徒 仏教では、人間の間違った行いは心の迷いから生じると考え、その迷いは真実を知らない無知から起こると説く。無知が縁となって戦争も起こるので、真実を知って無知をなくせば平和が訪れる。この塔に梵字で刻まれた言葉には、そのような自覚を人々に促し、平和を求める願いが込められている。
 
平和記念公園周辺10
(9)
 
原爆供養塔
1955年8月
中区中島町1番(相生橋南)
世界最初の原子爆弾(昭和20年8月6日午前8時15分)による犠牲者数万柱の遺骨を納める。この地一帯が爆心地であったため、期せずして、ここに痛ましい無数の遺骸が運ばれ処理せられたものである。 昭和21年1月広島戦災供養会が創立せられ、同5月仮供養塔、同7月仮納骨堂・礼拝堂が市民の喜捨により建立せられ、昭和30年7月満10周年を期して、広島市が中心となって、納骨堂を改築せられ、各処に散在していた遺骨を此処に納めた。毎年8月6日には全県市挙げて追悼の誠をこめた供養慰霊祭が行われるほか、毎月6日例祭が行われている。供養行事は広島県宗教聯盟が奉仕するほか、各宗教派別による特別供養も厳修せられている。 広島戦災供養会(説明板)
 
広島戦災供養会 1946年、無数の死体を焼いたこの地に仮の供養塔が建てられ、1955年、現在の姿となった。土盛りの内部には、原爆犠牲者約7万人の遺骨が納められている。名前不詳が大多数であるが、名前の分かる遺骨もあり、現在でも、遺族が分かり次第手渡されている。毎年8月6日を中心に、広島戦災供養会を始め、広島県宗教連盟及び各宗派による慰霊行事が行われている。
 
平和記念公園周辺11
(8)
 
平和の鐘
1964年9月20日
中区中島町1番(原爆供養塔北東)
平和の鐘 この梵鐘、鐘堂は広島の悲願に立って、すべての核兵器と戦争のない、まことの平和共存の世界を達成することをめざし、その精神文化運動のシンボルとしてつくりました。 この梵鐘、鐘堂は平和を願う万人の心と浄財を結晶させてつくりました。 この鐘の音を、広島から、世界のすみずみまでひびきわたらせ、全人類の1人1人の心にしみわたらせることを願っております。 この趣旨、目的を御理解の上、平和への願いをこめておつき下さい。 昭和39年9月20日建之 広島悲願の会(説明板)
 
広島悲願の会 核兵器と戦争のない、平和共存の世界を達成することをめざし、その精神文化運動のシンボルとして造られた。鐘の表面には、「世界は一つ」を象徴する国境のない世界地図が浮き彫りされている。訪れる人の手によって、自由に鐘が打ち鳴らされている。
 
平和記念公園周辺12
(10)
 
平和の石燈
1955年8月6日
中区中島町1番(原爆供養塔南)
閑思清和(正面)
被爆33回忌にあたりここに記す平和石燈の詞(昭和52年) 人生は起きて半畳、寝て1畳と申し畳の上で産声をあげてより畳の上で暮らし畳の上で入寂することが無上の仕合せとしております。原爆犠牲者の御霊の安らかな冥福を祈り、台石を特に畳の形とし常住畳の上で閑思清和の四季、旦座喫茶、合掌して永遠に献茶奉仕を捧げます。台石の高さは1年12カ月をもって1尺2寸とし、炉には2寸の縁をとり燈籠の高さは炉壇の寸法1尺5寸、台石との開きは8月6日を2分して4尺と3尺としました。 畳の上では主客平等で差別なく、浄水池は日の丸を型どり、108の煩悩によせて直径1尺8分とし、深さは3寸、昼は万物根源の太陽の徳を、夜は水の恩を賛えて、池中に映る月影を下化衆生の相、見仏聞法への心からなる手向けとしました。 昭和30年8月6日建設 発願建設者 淡交会広島支部長 石井淡笑斉宗寿(説明板)
茶道裏千家淡交会広島支部 原爆犠牲者の御霊の冥福を祈って造られた。毎年8月6日、石燈前で供茶の会が開催されている。
平和記念公園周辺13
(11)
 
韓国人原爆犠牲者慰霊碑
1970年4月10日
中区中島町1番(原爆供養塔南)
慰霊碑の由来 第2次世界大戦の終り頃 広島には約10万人の韓国人が 軍人、軍属、徴用工、動員学徒、一般市民として在住していた。 1945年8月6日原爆投下により、2万余名の韓国人が一瞬にしてその尊い人命を奪われた。 広島市民20万犠牲者の1割に及ぶ韓国人死没者は決して黙過できる数字ではない。 爆死した これら犠牲者は誰からも供養を受けることなく、その魂は永くさまよい続けていたが、1970年4月10日在日本大韓民国居留民団広島県本部によって悲惨を強いられた同胞の霊を安らげ原爆の惨事を二度と くり返さないことを希求しつつ平和の地、広島の一隅に この碑が建立された。 望郷の念にかられつつ異国の地で爆死した霊を慰めることはもとより 今もなお理解されていない韓国人被爆者の現状に対しての関心を喚起し、一日も早く良識ある支援が実現されることを念じる。 韓国人犠牲者慰霊祭は毎年8月5日この場所で挙行されている。 在日韓国青年商工人連合会及び有志一同(説明板)
 
在日本大韓民国居留民団広島県本部 碑は、亀を形どった大きな台座の上に碑柱が立ち、頂部に双竜の図柄を刻んだ冠がかぶさっている。元々、碑は、平和記念公園の外の本川橋西詰の河岸緑地にあったため、「民族差別」ではないかとの声が出されていた。このため、広島市長は1998年12月、公園内への移設を許可する方針を表明した。これを受けて、韓国人原爆犠牲者慰霊碑移設委員会によって1999年5月に起工され、同年7月21日に完工式が行われた。毎年8月5日、碑の前で慰霊祭が行われている。
平和記念公園周辺14
(12)
 
被爆した墓石(慈仙寺跡の墓石)
1689年
中区中島町1番(原爆供養塔南)
不詳 当時、この辺りは慈仙寺という大きな寺だった。爆心地から200メートルに位置し、全ての建物は壊滅し、住職など全員が犠牲になった。強烈な爆風で境内にあったたくさんの墓石も吹き飛ばされた。被爆当時の姿で残されているこの墓は、広島藩浅野家年寄の岡本宮内のもの。戦後、盛り土して公園が建設されたため、墓は周囲よりくぼんだ場所にあるが、その高さが被爆当時の地面のレベルである。
平和記念公園周辺15
(15)
 
平和の泉
1960年9月1日
中区中島町1番(原爆の子の像南西)
広島青年会議所 広島青年会議所創立10周年を記念して造られた。この泉の西側の本川一帯では、建物疎開作業に動員された中学生が被爆し、「水を、水を」と言いながら死んでいった。犠牲者の霊に捧げる泉であり、訪れた人のかわきをいやし、平和の尊さを訴える泉である。
 
平和記念公園周辺16
(13)
 
平和乃観音像
1956年8月6日
中区中島町1番(原爆供養塔南)
平和乃観音(正面)
嗚呼中島本町の跡 昭和31年8月6日 中島本町建之 広島市長渡辺忠雄謹書(背面)
嗚呼中島本町の跡 この地は明治・大正・昭和の初期広島で最も繁華の中心であった 昭和20年8月6日原爆一閃町民全員一瞬にして悲惨なる最後を遂げたり 生き残れる有志相集って平和観音像を建立し永遠にその霊を慰む 毎年8月6日午前9時より平和観音前に於て慰霊祭を執行いたしますので多数御参詣下さい 中島平和観音会有志(横の石碑)
中島本町会 かつて盛況であった中島本町も、爆心地から250メートルと近距離に位置していたため、原爆により焦土と化し、町民のほとんどが死亡した。戦後、町が平和記念公園となったので、生き残った町民が寄り集まって中島本町会を作り、無くなった町に対する惜別の情と犠牲者への慰霊の意を込めて像を建立した。像の手前に市民により作られた「広島市中島本町被爆復元地図」があり、横には犠牲者の名前を刻んだ名録碑がある。
平和記念公園周辺17
(3)
 
義勇隊の碑
1964年8月6日
中区中島町1番(本川河岸、国際会議場北西)
謹みて義勇隊員の霊にささぐ 我等みな忘れまじ 悲しみて余りある惨状の日を そは昭和20年8月6日午前8時15分なり 原爆この地に投下され 阿鼻叫喚の巷の中で 苦悶のはてに 吾がはらからは いまここに眠る 軍の至上命令とはいえ174名の尊き犠牲者 当日早朝より家屋疎開の作業に従事す その名川内村義勇隊旧安佐郡川内村温井部落居住者なり 戦禍の憎しみ今ここで言うをまたず 我等遺族その若き命をささげし霊に対し断腸の思い果つるを知らず ここに遺族一同相はかりて その尊き犠牲を永久に語りつたえ 今平和のきざしこの地より出ずるにあたり 霊よとこしえに安かれと祈念し この碑を建立す 昭和39年8月6日 安佐郡佐東町川内温井 遺族一同(横の石碑)
 
安佐郡佐東町川内温井遺族一同 安佐郡川内村温井(現在の安佐南区川内地区)から中島新町(現在の中島町。爆心地から650メートル)に出動した川内村国民義勇隊の先発隊は、現場で建物疎開作業中に被爆し、全滅した。また、後続隊は現場に向かう途中で被爆し、無傷で帰って来た人もいたが、後に原爆症に苦しむ人も少なくなかった。碑の背面には180人の犠牲者の名前が刻まれている。なお、この碑と同様に川内村国民義勇隊の犠牲者を慰霊する碑として、「安佐郡川内村原爆精霊供養塔」(西区)がある。さらに、義勇隊犠牲者を含めて川内村戦没者戦災死者を慰霊する碑として、「川内村戦没者戦災死者供養塔」(安佐南区)がある。毎年8月6日、碑の前で川内・温井義勇隊遺族会主催による慰霊行事が行われている。
平和記念公園周辺18
(4)
 
広島県立第二中学校慰霊碑
1961年8月6日
中区中島町1番(本川河岸、国際会議場西)
戦災並に原爆にて死没された元広島二中職員生徒352名のなつかしい名簿を此の碑の背面に記し永久の思ひ出と慰霊のよすがと致したいと思ひます 昭和36年8月6日遺族一同(碑)
なぐさめの言葉しらねばただ泣かむ 汝がおもかげといさをしのびて 元県立広島二中校長 古田貞衛(横の追悼歌碑正面)
嗚呼 昭和20年8月6日学徒動員作業中戦災並に原爆により教官7名生徒343名平和の礎となる 昭和28年8月6日 広島県立第二中学校遺族一同建之(横の追悼歌碑背面)
県立二中遺族一同 広島県立広島第二中学校(現在の広島観音高等学校)1年生は、建物疎開作業現場のこの地で被爆し、全滅した。碑の背面には、教師7人、生徒343人、事務員1人の351人の犠牲者の名前が刻まれている。
平和記念公園周辺19
(5)
 
広島市立商業・造船工業学校慰霊碑
1963年8月6日
中区中島町1番(本川河岸、国際会議場南西)
 
青天の霹靂とはまさにこのことであった 昭和20年8月6日午前8時15分 われらの郷土広島は ただの1発の原子爆弾によって この世ながらの地獄を現出し 一瞬にして壊滅した われらが母校広島市商は 当時造船工業に転換を余儀なくされていたのであるが 当日学徒動員市内建物疎開作業に出勤中の 生徒270名付添職員3名もまた 全滅の悲運に遭った われらは年少の諸君の清純熱烈な愛国の至情に想いを致し 可憐悲痛全くいうべき言葉を知らない われらここに殉難生徒職員各位の諸霊の冥福を祈り かくの如き悲劇の再び人間の手によってくり返さしめざることを誓うとともに 併せて今次大戦を通じて戦列に参加し奮戦苦闘武運拙くも散華して護国の鬼と化した多数の旧市商同窓生各位の英霊をも弔うべくこの碑を建立し われらの微衷を永く後世に伝えんとするものである 昭和38年8月6日 広島市商同窓会・造船学校遺族 広島市商業学校長 田中浩造 撰文(横の石碑)
 
広島市商同窓会・造船工業学校遺族会 広島市立商業学校は、戦争末期に市立造船工業学校になったが、戦後、広島市立商業高等学校として再発足した。1年生がこの付近の建物疎開作業に出動していて被爆し、全滅した。碑の背面には、市商戦没者125人に加え、原爆犠牲者として教師7人、生徒260人の名前が刻まれている。
平和記念公園周辺20
 
慈母の像
1961年8月6日
中区河原町1番(平和大通り緑地帯、西平和大橋西詰南)
慈母の像 平和の鳩を はなち給ふ 自得(台座正面) 高ノブ氏(寄贈)、建設世話人 原爆で夫と子どもを失った高ノブさんにより建立された。白い花崗岩で造られ、像の足元に合掌する童子のあどけなさが、子を奪われた母親の悲しみを訴えるかのようである。
平和記念公園周辺21
(33)
 
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
1971年8月6日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、国際会議場南)
太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり 篠枝(台座背面) 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会 広島県原爆被爆教師の会が中心となって建立した。台座に刻まれているのは原爆歌人正田篠枝さんの短歌。
平和記念公園周辺22
(32)
 
平和の像「若葉」(湯川秀樹歌碑)
1966年5月9日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、国際会議場南)
まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞ ここは 湯川秀樹 広島南ロータリークラブ 広島南ロータリークラブが創立10周年を記念して建立した。台座に刻まれているのはノーベル物理学賞の湯川秀樹博士の短歌。
平和記念公園周辺23
(34)
 
友愛碑
1965年8月3日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、国際会議場南)
友愛 日本損害保険協会広島地方委員会 日本損害保険協会加盟社の原爆犠牲者89人の慰霊と平和へのいしずえを祈念して建立された。円柱の上にある四個の十字形は、人間の形を表し、「四」は全世界を表す。四個の人の形によって平和を希求する全世界の人々の愛と良心のつながりを表現している。なお、この碑と同様に日本損害保険協会加盟社の犠牲者を慰霊する碑として、「全損保の碑」(中区)がある。
平和記念公園周辺24
(36)
 
旧天神町南組慰霊碑
1973年7月15日
中区中島町4番(元安川河岸、平和大橋西詰南)
慰霊 慰霊碑建設世話人会 天神町南組は爆心地から近距離に位置していたため、原爆の直撃を受けて全壊・全焼した。かつての地に旧町ゆかりの有志が碑を建立した。
平和記念公園周辺25
(35)
 
広島市立高等女学校原爆慰霊碑
1948年8月6日
中区中島町1番(元安川河岸、平和大橋西詰)
E=MC(正面)
友垣にまもられながらやすらかに ねむれみたまよこのくさ山に 昭和23年8月6日 宮川雅臣(背面)
この碑は昭和20年8月6日8時15分この地附近で家屋疎開作業中原爆に遭って全員殉職した広島市立第一高等女学校報国隊職員生徒679柱の霊を弔うため遺族会が昭和23年忌日母校校庭に建立同32年13回忌に現地に移したものである。 碑面の浮彫は河内山賢祐氏の作で国家の難に挺身した可憐な生徒たちを「あなたは原子力(E=MC2)の世界最初の犠牲として人類文化発展の尊い人柱となったのです」と慰めている姿をあらわしている(横の石碑の背面)
広島市女原爆遺族会 この地付近で建物疎開作業中被爆し、全滅した広島市立第一高等女学校(現在の舟入高等学校)職員生徒の霊を弔うため、遺族会が1948年、母校校庭に建立し、1957年、現在地に移設した。E=MC2は原子力を意味する(アインシュタインの「質量とエネルギーの転換式」)。なお、この碑と同様に広島市立第一高等女学校職員生徒の犠牲者を慰霊する碑として、「広島市立高等女学校職員生徒原爆追悼碑」(東区)がある。
平和記念公園周辺26
(29)
 
マルセル・ジュノー博士記念碑
1979年9月8日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、平和大橋西詰)
1945年8月9日赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日 広島の原爆被災の惨状を聞くや直ちに占領軍総司令部へ行きヒロシマ救援を強く要請 9月8日調達した大量15屯の医薬品と共に廃墟の市街へ入り惨禍の実情を調査 自らも被爆市民の治療にあたる 博士の尽力でもたらされた医薬品は市内各救護所へ配布 数知れぬ被爆者を救う 博士の人道的行為に感謝し 国際赤十字のヒューマニズムを讃え永く記念してこれを建てる(正面、日英併記)
無数の叫びがあなたたちの助けを求めている(背面)
献碑・ジュノー博士記念碑建立世話人会 マルセル・ジュノー博士(スイス人)は、9月8日、連合国軍総司令部から手に入れた15トンの医薬品などを持って広島に入り、被爆者の救護に人道的立場から尽力した。その功績を顕彰するため、碑が建立された。
平和記念公園周辺27
(53)
 
ノーマン・カズンズ氏記念碑
2003年8月2日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、平和大橋西詰)
世界平和は努力しなければ達成できるものではない 目標を明確に定め責任ある行動をとることこそ人類に課せられた責務である ノーマン・カズンズ(日英併記) ノーマン・カズンズ氏記念碑建設委員会 ノーマン・カズンズ氏(米国人)は、広島への原爆投下のため孤児となった子どもたちの精神養子運動や、被爆女性の米国でのケロイド治療などに尽力するとともに、核兵器廃絶を世界に訴え続けた。2001年の米国ニューヨーク市などでの同時多発テロをきっかけとして、カズンズ氏の顕彰碑建立の動きが起こった。これを受け、広島県医師会などによる碑建設委員会が募金を呼びかけ、建立した。
 
平和記念公園周辺28
(57)
 
バーバラ・レイノルズ氏記念碑
2011年6月12日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、平和大橋西詰)
私もまた被爆者です 私の心は いつも ヒバクシャ ヒロシマ とともにあります バーバラ・レイノルズ 広島市特別名誉市民 ワールド・フレンドシップ・センター創立者 2011 ワールド・フレンドシップ・センター(日英併記) NPO法人ワールド・フレンドシップ・センター バーバラ・レイノルズ氏(米国人)は、1951年、原爆傷害調査委員会(ABCC、現在の放射線影響研究所)の研究員だった夫とともに広島入りし、原爆被害の惨状に衝撃を受け、反核・平和運動に取り組んだ。「私の心はいつもヒロシマとともにある」という信念の下、ヒロシマの世界化に尽力したレイノルズ氏の功績を顕彰するため、碑が建立された。
 
平和記念公園周辺29
 
平和の塔
1974年10月30日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、平和大橋西詰)
世界連邦広島県・広島市宣言記念塔建設委員会、広島市
 
1954年10月30日に広島市が世界連邦都市宣言をしたのを記念して、20年後に建立された。塔は一辺が4メートルの五角錐で、五つの面は五大州を表している。
平和記念公園周辺30
(31)
 
嵐の中の母子像
1960年8月5日
中区中島町1番(平和大通り緑地帯、平和記念資料館本館南)
嵐の中の母子 広島市婦人会連合会 1959年に開催された第5回原水爆禁止世界大会を記念して、原水爆禁止日本協議会が広島市に贈った彫刻家本郷新氏の原型を、広島市婦人会連合会がブロンズ像に鋳造することを決め、募金して建立した。
平和記念公園周辺31
(30)
 
祈りの泉
1964年11月
中区中島町1番(平和記念資料館本館南)
広島銀行 「水を、水を」と言いながら死んでいった犠牲者の霊に捧げる噴水。地上10メートル吹き上がる噴水は、夜間はカラフルな水中カラーランプに彩られる。
平和記念公園周辺32
(25)
 
全損保の碑
1965年8月6日
中区中島町1番(平和記念資料館東館北)
なぜ あの日は あった なぜ いまもつづく 忘れまい あのにくしみを この誓いを 全日本損害保険労働組合 被爆20周年を記念して、日本損害保険協会加盟社の原爆犠牲者89人の慰霊と平和へのいしずえを祈念して建立された。なお、この碑と同様に日本損害保険協会加盟社の犠牲者を慰霊する碑として、「友愛碑」(中区)がある。
平和記念公園周辺33
(23)
 
峠三吉詩碑
1963年8月6日
中区中島町1番(平和記念資料館東館北)
ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ 峠三吉(正面) 平和のための広島県文化会議、峠三吉詩碑建設委員会 峠氏は翠町の自宅(爆心地から3キロメートル)で被爆した。焦土の中で青年運動を通じ、文学活動を行い、詩集などを出版した。碑面は自宅のあった方向に向けられている。碑の背面には、詩の英訳が刻まれている。
平和記念公園周辺34
(22)
 
材木町跡碑
1957年8月6日
中区中島町1番(平和記念資料館東館北)
材木町跡 材木町生存有志 材木町は爆心地から400メートルと近距離に位置していたため、原爆で一瞬に壊滅した。他の場所へ疎開などして生き残った旧町民が、公園に変わった旧町を惜しむとともに、犠牲者の冥福を祈って、かつての地に建立した。
平和記念公園周辺35
(20)
 
広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)
1952年8月6日
中区中島町1番(平和記念資料館本館北)
安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから 広島市 この碑は、1945年8月6日、世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して設立したものである。碑文は、すべての人びとが、原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。過去の悲しみに耐え、憎しみを乗り越えて、全人類の共存と繁栄を願い、真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている。中央の石室には、原爆死没者名簿が納められており、この碑はまた原爆死没者慰霊碑とも呼ばれている。
 
平和記念公園周辺36
 
平和祈念像
1977年8月2日
中区中島町1番(原爆死没者慰霊碑北西)
 
昭和20年8月6日原子爆弾の一閃は全市を廃墟と化し、20有余万の生命を奪い去った事実は世界史上初の一大痛恨事として永遠に忘れる事は出来ない。 爾来幾星霜、我々は地下に眠る精霊歔欷の声に応え平和を求め続けて来たが、いまだに核戦争の脅威と人類滅亡の不安に脅かされている。よって我々は原爆犠牲者の生命を永遠ならしめ、人類悠久の平和を願うためかねて全国の児童生徒に呼びかけ浄財の募金運動を展開し、有志団体の協力を得て、今こゝにこの像建立の目的を達した。我々の願いは必ずや世界恒久平和への道に通じるものと確信する。 昭和52年8月(台座背面)
 
広島平和祈念像建設会 全国の学童の募金や広島商工会議所などの協力によって建立された。台座は募金によるものだが、像は円鍔勝三氏の寄贈。円鍔氏は除幕に際して「親から子どもへ、きのうよりもあすへ。三日月もやがて満月になる。新しい未来を求めて、平和のラッパを鳴らしたい」と制作意図を語った。像の横に草野心平氏の詩碑がある。
平和記念公園周辺37
 
菩提樹の碑
1959年2月6日
中区中島町1番(原爆死没者慰霊碑北西)
原爆犠牲者の霊にこの菩提樹を捧ぐ 濱田頓蔵寄贈(日英併記) 濱田頓蔵氏 (詳細不詳)
平和記念公園周辺38
(18)
 
平和の灯
1964年8月1日
中区中島町1番(原爆死没者慰霊碑北)
平和の灯建設委員会 丹下健三氏の設計。「核兵器が地上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という日本全国民の平和の象徴。台座は両手を広げた形を抽象化したもので、国内35の社寺、教会から寄せられた「宗教の炎」や溶鉱炉など全国の工場地帯から届けられた「産業の火」によって点火された。
 
平和記念公園周辺39
 
祈りの像
1960年8月15日
中区中島町1番(原爆死没者慰霊碑北東)
平和記念慰霊国民大祭実行委員会 第2次世界大戦を始め、幾多の困難に際して国に殉じた犠牲者の慰霊と平和への祈りを込めた記念碑。台座の右手前には大木惇夫氏の詩碑がある。
平和記念公園周辺40
(19)
 
平和の池
1957年7月31日
中区中島町1番(原爆死没者慰霊碑北)
日本青年会議所 1956年の秋、第5回日本青年会議所会員大会が広島で開かれた時、大会の記念施設を広島に残すことになり、全国各地の青年会議所会員の拠出により完成した。池は原爆死没者慰霊碑が浮かび上がるように設計されている。
 
平和記念公園周辺41
(21)
 
旧天神町北組慰霊碑
1973年2月
中区中島町1番(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館南)
昭和20年8月6日憶 旧北天神町町民一同 天神町北組は爆心地から近距離に位置していたため、原爆の直撃を受けて全壊・全焼した。かつての地に旧町の関係者が昔日をしのび、犠牲者の冥福を祈って建立した。碑に犠牲者の名前が刻まれている。
平和記念公園周辺42
(45)
 
広島郵便局職員殉職の碑
1975年8月
中区大手町一丁目9番(元安橋東詰南)
広島郵便局職員288名原爆により殉職 広島郵便局有縁の有志 元広島郵便局舎があった場所近くに、原爆受難の地を永久に残したいという願いを込めて建立。なお、この碑と同様に広島郵便局職員の犠牲者を慰霊する碑として、「広島郵便局原爆殉職者の碑」(南区)がある。さらに、広島郵便局など郵政関係職員の犠牲者を慰霊する碑として、「郵政関係職員慰霊碑」(中区)がある。
平和記念公園周辺43
 
平和祈念碑
1984年6月24日
中区大手町一丁目9番(元安橋東詰南)
全人類の恒久平和のシンボルとして被爆の体験をもつ姉妹都市広島と長崎の両クラブがこの碑を建立する(日英併記) 広島西ライオンズクラブ、長崎西ライオンズクラブ 広島西ライオンズクラブと長崎西ライオンズクラブの姉妹縁組締結を記念して、核兵器の廃絶と恒久平和を願って、同じ「平和祈念碑」を広島・長崎両市に建立した。碑の建立日付は1984年3月14日と刻まれているが、これは月日のみ広島西ライオンズクラブの結成月日としたためである。
 
平和記念公園周辺44
(46)
 
原爆犠牲建設労働者・職人之碑
1988年8月5日
中区大手町一丁目9番(元安橋東詰南)
慰霊 原爆犠牲建設労働者・職人之碑(正面) 
全建総連に結集する43万人の総意にもとづき 原爆の犠牲となられた建設労働者・職人と家族の霊を慰め 地球上から一切の核兵器をなくし 平和で豊かな社会をつくることを念願しここに建立する 1988年8月5日 全国建設労働組合総連合会・広島県建設労働組合(背面)
全国建設労働組合総連合会、広島県建設労働組合 原爆の犠牲となった広島と長崎の多数の建設労働者や職人及び家族の御霊を慰め、再び、いかなる国のいかなる民族も犠牲者となってはならないことを後世に伝えるため、広島と長崎にそれぞれ碑が建立された。碑は、住宅の屋根をかたどっている。
平和記念公園周辺45
 
「平和の祈り」句碑
1987年11月12日
中区大手町一丁目9番(元安橋東詰南)
悲しみの 夏雲へむけ 鳩放つ 広島双葉ライオンズクラブ 刻まれている俳句は、中曽根康弘首相(当時)が、1983年の平和記念式典に参列した際の感想を詠んだもの。碑は、人の文字型の敷石の上に同型の碑を建立したデザインで、原爆によって生命を奪われた人々の痛みを時代を超えて後世に伝えようとする気持ちが込められている。
 
平和記念公園周辺46
(49)
 
石炭関係原爆殉難者慰霊碑
1957年8月6日
中区大手町二丁目5番(元安橋東詰南、大手町第一公園内)
為原爆殉難者慰霊 元日本石炭株式会社、元中国石炭配給統制株式会社、元西日本石炭輸送株式会社 当時、中国石炭配給統制株式会社の社屋はこの地にあり、社屋の中に日本石炭株式会社と西日本石炭輸送株式会社の出張所があった。被爆により、社員77人のうち76人が犠牲となった。これら犠牲者の冥福を祈って、生き残った職員が全国の石炭関係業者に募金を呼びかけて、碑を建立した。
平和記念公園周辺47
(47)
 
原爆犠牲ヒロシマの碑
1982年8月5日
中区大手町二丁目12番(元安橋東詰南)
天が まっかに 燃えたとき わたしの からだは とかされた ヒロシマの叫びを ともに 世界の人よ(正面)
この記念碑は 原子爆弾のさくれつによって 悲惨な死をとげた犠牲者たちをしのぶブロンズ像と 熱線をあびてとかされた「力ワラ」とで 構成されている。 かわらの表面にある あわだち・火ぶくれ状の変化は これらのかわらが 想像もつかない 高い温度で焼かれたことを示しており 『広島・長崎の原爆災害』によると 爆心地(爆発点直下の地上点)の温度は 摂氏約4,000度 爆心地から1,000米の地点でも 摂氏1,800度であった とされている。 この記念碑は 爆心地から 南141米の地点にあり 護岸にそって流れる元安川は 「あの時」 市民たちのしかばねでうまった。 1977年以降 平和記念公園一帯で 体験学習を続けていた広島の高校生たちは 元安川河床の泥土の中から 数千点にもおよぶ 被爆したかわらの破片を ほりだした。 生徒たちは これを「原爆がわら」とよび 焼けくずれたこれら瓦片に 被爆死をとげた人間の地獄図の中の叫び 苦しみを 重ねあわせながら 被爆体験を聞く学習活動をすすめた。 そして 核戦争の悲惨さと 核兵器廃絶への課題を学びつつ 平和への決意を固めあう記念碑の建立を発起し 全国募金運動に たちあがった。 呼びかけに こたえ 全国の小・中・高等学校の児童・生徒たちや 一般市民から寄せられた募金は 二千万円をこえ「あの日」凄惨をきわめた 爆心地に近い元安川のこの岸辺に「原爆犠牲 ヒロシマの碑」 は 建立された。 “ふたたび戦争の悪業を重ねてはならない 原爆の惨禍をくりかえしてはならない。” 爆発点直下にあって 一瞬にして その命を絶たれた人びと 熱線・爆風・放射線による 原爆症およびその後障害によって犠牲となった 二十数万の人間の 痛恨の叫びを ここに永遠に記し 「ヒロシマの心」として 訴えつづけるものである(背面、日英併記)
 
原爆犠牲ヒロシマの碑建設発起56団体 1977年以降、平和学習に取り組んできた広島の高校生らが、フィールドワークとして元安川河床の被爆したかわらの発掘を進めた。そして、核戦争の悲惨さと核兵器廃絶への課題を学びつつ、被爆したかわらを使った記念碑の建立を発起し、募金運動を行い、建立した。ブロンズ像は昇天する犠牲者の魂を表現したもので、台座の表には被爆がわらを組み合わせたパネルと碑文、裏には被爆がわらの発掘作業のレリーフと被爆当時の写真などがはめ込まれている。毎年8月5日、小中高校生による碑前祭が行われている。
 
平和記念公園周辺48
(48)
 
広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑
1967年8月2日
中区大手町二丁目12番(元安橋東詰南、大手町第一公園西)
1945年8月6日被爆 広島瓦斯株式会社 当時、広島瓦斯株式会社本社はこの地にあった。被爆により、本社に出勤中の35人を含む社員69人が犠牲となった。碑の上部には5基のガス灯があり、黄色い炎を灯し続けている。
平和記念公園周辺49
(50)
 
広島県農業会原爆物故者慰霊碑
1971年8月6日
中区大手町二丁目12番(平和大橋東詰北)
昭和20年8月6日午前8時15分広島市上空に炸裂した1発の原子爆弾により全市は一瞬にして壊滅し阿鼻叫喚の巷と化す 猛火市井を襲って廃墟となり広島県農業会役職員80余名尊き犠牲となる ここ広島支所の在りしゆかりの地に近く碑を建立して犠牲者の霊を祀る。 広島県農業協同組合中央会、広島県信用農業協同組合連合会、広島県経済農業協同組合連合会、広島県同栄社共済農業協同組合連合会、広島県厚生農業協同組合連合会
 
当時、農業会広島支所があった場所に、農業会役職員の犠牲者の御霊を慰めるため、建立された。碑の背面に、犠牲者83人の名前が刻まれている。
平和記念公園周辺50
(51)
 
被爆動員学徒慰霊慈母観音像
1966年7月31日
中区大手町三丁目14番(平和大橋東詰南)
観音となりて平和を守りゆく 少年学徒らの みたま尊し 山本康夫(台座) 
慈母観音に抱かれ眠る 汝が姿心にえがきて われら安らぐ 益田礼助(築山)
被爆動員学徒観音像奉賛会(当時の市内21校の遺族有志) 当時の市内21校の旧制中学、女学校生徒の遺族有志が世話人となり建立した。死没者約4千人の名前を刻んだプレートが築山内に納められている。
白島01
幟町01
安田高等女学校職員生徒慰霊碑
1951年5月
中区白島北町1番41号(安田学園白島キャンパス内、中学校校舎東)
この慰霊碑は昭和20年8月6日広島市に投下された原爆により尊い生命を失った職員13名及び生徒310余名の霊永久に安かれと祈念し職員生徒の奉仕を得て安田学園が建立したものである。 安田学園 安田高等女学校は、県庁北側(現在の平和記念公園付近)で建物疎開作業に動員中の職員、生徒が全滅するなど、多くの犠牲者を出した。碑の横には、職員13人、生徒315人の犠牲者の名前を刻んだ名録碑がある。
※見学する場合、正門で警備員に見学したい旨を伝え、受け取ったゲストカードを着用
白島02
幟町02
工兵第五連隊慰霊碑
1983年11月
中区白島北町1番(工兵橋南詰、安田学園白島キャンパスプール北)
工兵第五聯隊跡地(正面)
工兵第五聯隊 工兵第三十九聯隊 船舶工兵部隊 昭和五十八年十一月建立(背面)
工兵第5連隊、工兵第39連隊、船舶工兵部隊
 
当時、この地には中国軍管区工兵補充隊(旧工兵第5連隊)が駐屯していた。6日午前8時ごろ、下士官要員約100人が入隊するとともに、在隊者は作業演習のため、営庭に集合していた。被爆により、多数の隊員が犠牲となった。
 
白島03
幟町03
白島九軒町原爆死没者慰霊碑
1998年5月10日
中区白島九軒町25番(白潮公園内)
原爆死没者を火葬したこの地に慰霊の碑を建て哀悼の意を表すると共に世界平和を念願する。 平成10年4月吉日建之 白島九軒町町内会 会長 国分良徳(背面) 
原爆慰霊碑建立の趣意 爆心地より1.7キロ離れた白島九軒町は、被爆後火災によりほとんど焼失しました。 火に追われこの河原に避難し火傷、負傷で苦しみながら悲惨な死を遂げた町民を火葬にしたこの地に、慰霊碑を建立し死没者の冥福を祈ると共に世界の平和を祈念します。 平成10年5月吉日 白島九軒町町内会(横の木札)
 
白島九軒町町内会 1995年、国分氏が町内会長就任を機に碑建立を提唱し、町民の協力を得て建立した。当時、この辺りの河原には、市内中心部で被爆し避難してきた人が大勢押し寄せた。中には、力尽き、この地で荼毘に付された人もいた。
白島04
幟町04
郵政関係職員慰霊碑
1976年8月6日
中区東白島町19番8号(日本郵政グループ広島ビル前庭)
慰霊のことば 昭和20年8月6日午前8時15分、世界最初の原子爆弾が広島の地に投下され、一瞬にして街は焦土と化し、20数万の尊い生命が失われました。 焦げ付く太陽の下、炎に追われながら水を求めてさまよい歩く被災者は数知れず、また、焼けただれた遺体が至る所にころがり折り重なって、まさに焦熱地獄の惨状を呈したといわれております。 郵政部内においても、当時の広島郵便局の288人をはじめ、西部逓信総局広島逓信局・広島逓信病院・広島地方貯金局・広島市内各郵便局の職員等、合わせて500有余人が尊い犠牲となられたことは、誠に痛恨の極みであります。 あれから30有余年が過ぎた今日も、原爆の後遺症に苦しんでおられる人が多いことを思うとき、再びこのような悲劇が繰り返されてはなりません。皆様の霊を慰め永遠の平和を祈念するため、昨年被爆30周年を機に、遺族・退職者・全逓労組・全逓被爆者の会、並びに、郵政局・監察局、それぞれの代表者により、「原爆慰霊碑建設委員会」を設け、有志の浄財によってこの碑を建立しました。どうか安らかにお眠りください。昭和51年8月6日 原爆慰霊碑建設委員会(背面) 原爆慰霊碑建設委員会 爆心直下の広島郵便局など郵政関係機関の職員約500人を慰霊するため、碑が建立された。碑は、水を求めた人々への思いを表す池に囲まれている。碑の前には、被爆した旧庁舎玄関ホールにあった階段の一部が保存されている。なお、広島郵便局職員の犠牲者を慰霊する碑として、「広島郵便局職員殉職の碑(中区)」と「広島郵便局原爆殉職者の碑」(南区)がある。
※会社休業日(土日祝日など)は見学不可。見学時間は9時~17時45分
白島05
幟町05
国鉄原爆死没者慰霊碑
1973年8月6日
中区東白島町23番(東白島公園内)
天を撃つな 戦雲を射て 人を撃つな 戦禍を射て 原爆広島に眠る 無名の霊よ 国鉄の魂よ 霊の目はみつめ 魂の手をつかむ 平和と未来とを(前の石碑) 国鉄労働組合原爆被害者対策協議会 被爆により、国鉄職員400人以上が犠牲となった。碑は、国鉄労働組合(国労)が原水爆禁止運動に取り組む中で建立決議が行われ、募金によって広島・長崎に建立された。
基町01
幟町06
電信電話職員原爆犠牲者慰霊碑
1955年8月
中区基町6番77号(第7棟NTT西日本基町ビル(NTTクレド基町ビルの西隣)北西)
ひろしまの追憶は 世界の追憶であれ ひろしまの嘆きは世界の嘆きであれ 天地くだけたる日のくるしみを 告ぐることなく わが友は ここに眠る。 原爆10周年にあたり日本電信電話公社職員の心からなる據金によってこれを建つ。(背後の壁面)
昭和20年8月6日午前8時15分 晴れわたった空に閃光一閃 一瞬のうちに広島は廃墟と化してしまいました 当時広島では緊迫した情勢の中で約2000名の職員が電信電話の仕事にたずさわっていましたがそのうち600名近くの人たちがとうとい命をうしなわれ 平和のいしずえとなられました この慰霊碑は原爆10周年にあたる昭和30年8月 亡くなられた方々への心からの追悼とみたま安かれとの願いをこめて日本電信電話公社の職員の手によって建てたものです(横の石碑)
 
電々公社職員有志 爆心地から540メートルに位置していた広島中央電話局など電信電話関係機関の職員を慰霊するため、募金により碑が建立された。中央にきのこ雲をかたどった碑を設置し、その中に動員学徒を含む電信電話職員の犠牲者名簿が納められている。毎年、碑の前で慰霊祭が行われている。なお、広島中央電話局の犠牲者を慰霊する碑として、「広島中電話局鎮魂の碑」(中区)がある。
基町02
幟町07
日本銀行広島支店職員慰霊碑
1966年8月6日
中区基町8番17号(日本銀行広島支店4階)
日銀慰霊碑建立世話人会 当時、日本銀行広島支店は袋町(爆心地から380メートル)にあり、出勤途中の行員を含め、42人が犠牲となった。碑には、犠牲者の名前が刻まれている。1992年、現在地への社屋移転に伴い碑も移設され、4階の壁にはめ込まれている。
※見学する場合、原則3週間前までに事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-227-4100)で)
基町03
幟町08
水道部員殉職之碑
1949年8月6日
中区基町9番32号(広島市水道局駐車場東)
為原子爆弾罹災者建之(背面)
三上水道部長外82名(右側面)
広島市上水課 当時、現在地周辺に広島市水道部基町庁舎(爆心地から550メートル)はあった。原爆により庁舎は壊滅し、庁内にいた職員は全員犠牲になるなど、水道部全職員186人のうち83人の尊い命が奪われた。水道施設も甚大な被害を受けたものの、職員の懸命な応急復旧により、市全域での断水が避けられた。広島の水道はこの不断水の記録を今日まで守り続けている。
基町04
幟町09
中国軍管区司令部軍人・軍属・動員学徒慰霊碑
1979年5月
中区基町21番(広島護国神社東)
原爆に散華された旧中国軍管区司令部軍人軍属(旧広島師団司令部)・旧比治山高等女学校動員学徒の皆様 いつもあなたたちを憶う 8月6日を思う あなたたちの尊い犠牲を無にすることなく とわに世界の平和に結びつけたい どうぞお心安らかに(背面) 広島師友会 当時、広島城を中心とする基町一帯は、軍の施設が集まる一大軍事拠点で、その中心ともいえる中国軍管区司令部の庁舎は広島城の本丸と二の丸に置かれていた。原爆により、軍関係者のほか、通信業務に動員されていた比治山高等女学校の生徒・教員も犠牲となった。碑の横には、同女学校生徒が広島壊滅の第一報を発信した中国軍管区司令部防空作戦室跡が残っている。なお、司令部軍関係者の犠牲者を慰霊する碑として、「中国軍管区司令部殉職の碑」(南区)がある。
基町05
幟町10
広島陸軍病院原爆慰霊碑
1955年8月6日
中区基町22番(三篠橋東詰南、本川河岸緑地)
昭和20年(1945)8月6日広島が人類最初の原子爆弾により、一瞬にして20数万の尊い犠牲者を生じるに至った。爆心地に極めて近かった元広島陸軍病院に勤務の職員以下及び入院中の患者等で被爆死された方々の御霊を永遠にお祀りするため、同病院関係の生存者で職員・その他有志並びに遺族賛助者等により、広島陸軍病院原爆慰霊会を結成し昭和30年8月6日原爆10周年を記念しこの病院跡に当時の表門石柱を碑とし台石は全部病院の庭石等を用い、ここに「広島陸軍病院原爆慰霊碑」を建立した。 ついで同50年8月6日30周年記念行事として合祀名碑の建立並びに同病院の遺跡(明治以来の記念碑及び被爆当時の裏門石柱など)保存と併せて敷地の整備をも計画し昭和52年8月6日完成するに至った。御霊よ どうぞ 安らかに お眠りください。 合掌 昭和52年8月6日 誌之。 広島陸軍病院原爆慰霊会(横の合祀名碑背面)
 
元広島陸軍病院関係有志・広島陸軍病院原爆慰霊会 当時、広島城を中心とする基町一帯は、軍の施設が集まる一大軍事拠点で、第1陸軍病院と第2陸軍病院も配置されていた。現在地は第2陸軍病院の跡地である。両院の被爆直前の収容患者数は約千人で、爆心地から近いこともあって多くの犠牲者を出した。合祀名碑に「広島陸軍病院原爆死没者合祀者」として陸軍病院職員738人の名前が刻まれている。このほか、収容患者約千人が犠牲となった。元の病院の被爆した庭石を積み重ねた上に、病院の門柱を碑石としている。
 
幟町01
幟町11
広島法曹原爆物故者慰霊碑
1965年8月6日
中区上八丁堀2番43号(広島高等・地方・簡易裁判所、西側前庭)
敬憶 広島の法曹関係者有志 原爆の犠牲となった元広島控訴院、広島地方裁判所、広島区裁判所及び広島弁護士会の関係者をしのぶため、全国の法曹関係者約1600人からの募金により建立。背面に、被爆し、死亡した68人の名前が刻まれている。
※見学する場合、正門で警備員に見学したい旨を連絡
 
幟町02
幟町12
国税職員原爆慰霊碑
1965年8月6日
中区上八丁堀6番30号(合同庁舎中庭、1号館附属棟西)
和(正面) 
原爆により死没した国税職員のみたま安かれと祈り とこしえの平和を祈念してこれを建てる。 昭和40年8月6日 国税職員一同・同出身者一同(背面)
国税職員一同・同出身者一同 原爆投下により、広島財務局(現在の広島国税局)の職員84人、広島税務署の職員41人、学徒動員により勤務していた広島女学院の生徒19人の合計144人が亡くなった。亡くなった方々の霊を弔うため、原爆投下20年後の1965年8月6日、国税職員や亡くなった方々の遺族、先輩方の意思により、合同庁舎敷地内に碑が建立された。
※見学する場合、広島合同庁舎には駐車できません。
 
幟町03
幟町13
広島通産局慰霊碑
1977年8月6日
中区上八丁堀6番30号(合同庁舎中庭、1号館附属棟西)
祈(正面)
昭和20年8月6日 広島に投下された原子爆弾のため尊い生命を失われた職員の霊を慰め 永遠の平和を祈りこの碑を建てる(背面)
広島通商産業局関係職員原爆慰霊碑建立会 現在の中国経済産業局に当たる中国地方軍需管理局は、当時、爆心地から710メートルの福屋百貨店内にあった。原爆の強烈な爆風により建物内の施設や備品は飛散し、多くの犠牲者を出した。
※見学する場合、広島合同庁舎には駐車できません。
幟町04
幟町14
中国海運局職員慰霊碑
1970年8月6日
中区上八丁堀6番30号(合同庁舎中庭、1号館附属棟西)
中国海運局原爆犠牲者慰霊のためにこの碑を建つ(台座背面) 慰霊碑建立発起人会 中国海運局(現在の中国運輸局の一部門)は、当時、爆心地から710メートルの福屋百貨店6階にあった。原爆の強烈な爆風により建物内の施設や備品は飛散し、多くの犠牲者を出した。円形の碑正面の縁に、犠牲者19人の名前を刻んでいる。
※見学する場合、広島合同庁舎には駐車できません。
 
幟町05
幟町15
済美国民学校職員生徒慰霊碑
1970年8月6日
中区八丁堀7番11号(広島YMCA2号館、南西角)
済美学校は明治5年2月能美円乗先生により創立された開成社を前身とする 明治26年済美学校となり人格的訓育を主眼においた教育は全国に多数の英才を輩出した 昭和20年8月6日原子爆弾により校舎は壊滅し 職員生徒多数死没した 同年12月廃校となり73年の歴史を終えた 洵に懐旧の情にたえず校舎あとに記念碑を建て 済美の偉業を後世にとどめる 昭和45年8月6日 済美学校卒業生及旧職員一同(横の説明板)
 
済美学校卒業生及び旧職員一同 済美国民学校は、陸軍の将校准士官の親睦組織である偕行社が経営する小学校。学校は、爆心地から700メートルの現在地にあった。被爆時、校舎にいた教職員5人、児童約150人は、全滅したと思われる。碑の傍らに当時の門柱が建つ。
 
幟町06
幟町16
縮景園原爆犠牲者慰霊碑
1988年3月19日
中区上幟町2番11号(広島県縮景園内。正門を入り、跨虹橋を渡った先の丘の辺り)
この碑は、昭和20年8月6日原子爆弾投下による被爆犠牲者の御霊のご冥福を祈るとともに、永遠なる戦争の再発防止や、核兵器の廃絶を県民こぞって提唱し世界恒久平和の確立を期するため建立したものである。 昭和63年3月19日 広島県縮景園長(背面右)
この1枚の被爆写真を手がかりに昭和62年7月31日埋葬地点を発見、64体のご遺体を発掘し、同年8月6日平和記念公園内原爆供養塔に納骨した。 写真撮影者は、元朝日新聞社カメラマン松本栄一氏、揮毫は茶道の上田宗箇流家元上田宗源氏(背面左)
縮景園原爆犠牲者慰霊供養会 1987年7月下旬、被爆直後の縮景園を撮った写真が発見され、その1枚に、「戦死者之墓38名」「戦死者墓5名」「戦死者21名墓」と記した3本の立て札が並んで写っていた。県教育委員会が同年7月31日と8月1日、遺骨の発掘調査を行ったところ、数千点の骨片を収集し、6日、原爆供養塔に納骨した。これを機に、地元町内会や老人クラブなど11団体からなる供養会が結成され、碑が建立された。毎年8月1日、供養祭が行われている。
※見学する場合、入園料が必要
幟町07
幟町17
広島女学院高等女学校職員生徒慰霊碑
1953年4月
中区上幟町11番32号(広島女学院中学・高等学校内、ゲーンス記念ホール東)
昭和20年8月6日の原爆に斃れた教職員18名生徒300余名の霊を合祀してその平安を祈る。 昭和28年4月吉日 広島女学院 これは復活なり 生命なり 我を信ずるものは 死ぬとも生きん(ヨハネ伝)(背面) 広島女学院 女学院高等女学校1、2年生350人は、雑魚場町(現在の国泰寺町一丁目。爆心地から1.2キロメートル)で建物疎開作業中に被爆し、大半が死亡したり、重軽傷を負った。聖書の一節を刻んだ碑は、十字をかたどっている。碑は当初、女学院大学構内に建立されたが、1991年、現在地に移された。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-228-4131)で)
 
幟町08
幟町18
市立幟町国民学校職員生徒・特設警備隊慰霊碑
1981年7月
中区幟町11番(幟町公園内)
慰霊 幟町国民学校跡(正面)
中部第32037部隊 広島東部、中部第32057部隊世羅郡、部隊所属婦人挺身隊、幟町国民学校教職員児童(背面)
旧幟町国民学校教職員卒業生有志・旧警備隊世話人会 当時、幟町国民学校(現在の幟町小学校)は、現在の小学校地から南方の、碑が建立している辺り(爆心地から1.1キロメートル)にあった(1949年、幟町小学校は現在の場所に移転した。)。碑は、被爆当時校内に駐屯していた兵士らを含めて犠牲になった多くの人々を慰霊するため、建立された。
幟町09
幟町19
堀川地区町民慰霊碑
1957年8月6日
中区新天地1番(中央通り沿い歩道)
殺身以成仁 They sacrificed their lives to preserve their virtue complete! (Confucian Analects). 堀川町原爆慰霊碑建設委員会 当時、堀川町(現在の新天地)は爆心地から750メートルに位置し、多くの犠牲者を出した。台座の上のブロンズ像は、被爆者の悲しみと苦しみを表しており、高く伸ばした手は、原爆がさく裂した爆心を指している。碑文は論語の一節。
袋町01
国泰寺01
広島銀行役職員物故者慰霊碑
1968年11月
中区紙屋町一丁目3番8号(広島銀行本店屋上)
 
役職員物故者のみたまここに鎮まる その遺業をたたえ景慕敬弔の誠を捧げる 創業90周年を迎えて 昭和43年11月 頭取 井藤勲雄(背面) 広島銀行 芸備銀行(現在の広島銀行)本店は爆心地から260メートルの位置にあった。原爆により、本店建物内で被爆した17人を含む行員144人が犠牲となった。外形のみ残して内部が全焼した本店建物は、被爆後改修して使用されていたが、1965年に建て替えられた。1968年、創業90周年を迎えたのを機に慰霊碑が建立された。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-247-5151)で広報・地域貢献室へ)
袋町02
国泰寺02
NHK原爆の碑
1966年3月22日
中区大手町二丁目11番10号(NHK広島放送センタービル南)
NHK広島放送局 当時、広島中央放送局(現在のNHK広島放送局)の局舎は上流川町(現在の幟町。爆心地から1キロメートル)にあった。原爆により、職員260人のうち34人がその日のうちに死亡した。放送は、翌日午前9時に再開された。局舎は1960年、大手町に移転した。碑は局舎の建て替えに伴い1994年、現在地に移設された。
 
袋町03
国泰寺03
ヒロシマの火 平和への灯
2007年8月1日
中区大手町二丁目11番10号(NHK広島放送センタービル南)
ヒロシマの火 平和への灯 NHK広島放送局 モニュメントには、平和記念公園の「平和の灯」と福岡県星野村の「平和の火」から分火された、“2つの火”が灯されている。「平和の火」は、1945年、星野村出身の山本達雄さんが、原爆で亡くなった親戚の形見として、廃墟となった広島の街から持ち帰った“原爆の火”である。自らも被爆した山本さんは、多くの尊い命が奪われた“ヒロシマ”を忘れてはならないと、自宅で絶やすことなく火を守り続けた。その後、1968年、この火は「平和の火」として星野村に引き継がれ、広島から遠く離れた地で、今も、燃え続けている。モニュメントに灯された“ヒロシマの祈りの火”は、原爆で亡くなられた方々の霊を慰め、核廃絶と恒久平和を願い燃え続けている。
袋町04
国泰寺04
平和への誓い~被爆放送局の碑~
2005年8月6日
中区大手町二丁目11番10号(NHK広島放送センタービル南)
NHK広島放送局 1928年に完成した初代の広島放送局は、上流川町(現在の幟町。爆心地から1キロメートル)にあった。原爆投下により放送局も壊滅的な状態となったが、翌日には被災を免れた施設を使って放送を再開した。広島放送局はその後、1960年、大手町に移転したが、被爆した旧局舎は、1997年に老朽化により解体されるまで、福屋百貨店幟町別館として利用された。被爆60年にあたり、核兵器の恐ろしさを世界に伝え、恒久平和の願いを永遠に受け継いでいく誓いを込めて建立されたモニュメントは、被爆した旧局舎の縁石の一部を使い、原爆の投下された「午前8時15分」 を表している。
袋町05
国泰寺05
日本発送電株式会社中国支店原爆殉職者慰霊碑
1953年4月
中区大手町三丁目14番(エネパーク大手町西、元安川河岸緑地)
慰霊碑 日本発送電株式会社中国支店 当時、日本発送電(株)中国支店(現在の中国電力(株))は爆心地から900メートルの位置にあった。原爆により、木造2階建ての社屋は崩壊し、焼失した。当日、支店で勤務していた117人のうち1年以内に115人が犠牲となった。他で被爆した者を含め、同支店では、169人の犠牲者を出した。
 
袋町06
国泰寺06
大手町小学校・国民学校跡地記念碑
1985年2月
中区大手町四丁目1番8号(NTTドコモ中国大手町ビル南西)
慰霊 原爆死歿教職員並に同窓生(背面) 
昭和60年2月吉日建立 教職員、同窓生一同(横面)
大手町小学校・国民学校教職員、同窓生一同
 
当時、大手町国民学校は、現在、碑が建立されている辺り(爆心地から1.1キロメートル)にあった。原爆により、教職員と児童約40人が犠牲となり、校舎は倒壊し、跡形もなく焼き尽くされた。被爆後、開校されることなく、廃校となった。
 
袋町07
国泰寺07
広島中電話局鎮魂の碑
1985年3月1日
中区袋町6番11号(NTT袋町ビル北)
昔、ここに広島中電話局があった。 昭和20年8月6日、午前8時15分、原子爆弾が投下されすさまじい爆風と熱線により、建物が壊滅状態となった。当日勤務していた職員、女子挺身隊員、動員学徒等451名のうち約半数におよぶ尊き命が失われた。 当ビル新築にあたり、旧庁舎屋上に使用されていた被爆タイルを埋め込み、当時をしのぶこととした。(横の説明板) 日本電信電話公社中国電気通信局 広島中電話局は、爆心地から540メートルの位置にあった。当日、電話局に勤務していた451人のうち209人が犠牲となった。建物は躯体を残して全焼したが、改修し、使用された。建物建て替えに当たり、遺族会や職員などから建物の一部保存の要望を受け、旧局舎屋上に使用されていた被爆タイル104枚をはめ込んだ壁面と碑を建立した。なお、電信電話関係の犠牲者を慰霊する碑として、「電信電話職員原爆犠牲者慰霊碑」(中区)があり、同碑の前で毎年、慰霊祭が行われている。
袋町08
国泰寺08
袋町地区原爆死没者慰霊碑
1992年8月1日
中区袋町9番(袋町公園内)
爆心の袋町にあって、総てを絶たれ、いまなおその証しさえなく眠る原爆死没者のみ霊に捧げるためこの碑を建立する 平成4年8月 袋町地区社会福祉協議会 袋町地区原爆死没者慰霊碑建立委員会 袋町地区(旧町名、猿楽町・立町・細工町・横町・鳥屋町・塩屋町・尾道町・播磨屋町・平田屋町・革屋町・研屋町・東魚屋町・袋町・新川場町・下中町・中町・国泰寺町・西魚屋町・雑魚場町・小町・紙屋町・鉄砲屋町・大手町1丁目~8丁目)(台座背面)
 
袋町地区社会福祉協議会、袋町地区原爆死没者慰霊碑建立委員会 爆心地を含む袋町地区は、被害が最も大きな地区の一つで、多くの犠牲者を出した。1992年、碑建立の声が高まり、碑建立委員会が結成され、募金により碑が建立された。碑の台座と敷石の一部には、地区内にある旧広島市庁舎と旧元安橋の被爆石が使われている。
袋町09
国泰寺09
移動演劇さくら隊原爆殉難碑
1955年8月6日
中区小町1番(三井ガーデンホテル広島南東、平和大通り緑地帯)
移動演劇さくら隊原爆殉難碑の由来 広島の移動演劇さくら隊原爆殉難碑は、原爆投下から7年後の1951年(昭和26年8月)中国新聞社芸能記者の人達によって「丸山定夫・園井恵子 追慕の碑」として、白いペンキ塗りの質素な木の碑として新川場町のどぶ川のほとりに建立された。それから4年後の1955年(昭和30年)8月に広島で開かれた第一回原水爆禁止世界大会で、碑の建設が、劇団俳優座の永田靖氏らによって、新劇人へ呼びかけられた。建設に当たっては徳川無声、八田元夫、山本安英の各氏が奔走し、1959年(昭和34年)8月、新制作座、文学座、俳優座、ぶどうの会、民芸、中央芸術劇場の6劇団と「演劇人戦争犠牲者記念会」の協力によって建立された。 碑の「桜隊」の「桜」が「さくら」と仮名文字で彫られているのは、占領下のもとであったため漢字の「桜」は使用出来なかった。 2000年8月 広島市民劇場
 
新協劇団、文学座、俳優座、ぶどうの会、民芸、中央芸術劇場、演劇人戦争犠牲者記念会 桜隊は、戦争末期、軍隊や工場などの慰問公演のために広島を拠点に活動していた移動劇団で、9人編成だった。隊員は堀川町(現在の新天地。爆心地から750メートル)の宿舎で被爆し、5人が即死し、4人は東京などに逃れたが、月末までに全員が死亡した。戦後、ゆかりの新劇人らによって被爆場所に近い現在地に碑が建立された。碑の背面には、犠牲者9人の名前が刻まれている。
袋町10
国泰寺10
殉職医師・医療従事者合同慰霊碑
1960年8月
中区小町2番(中町信号機南西、平和大通り緑地帯)
身を挺し市民救護の使命に殉じた医師看護婦の霊を祀る。昭和35年8月 被爆15周年にあたりて広島市医師会これを建つ(横の石板) 広島市医師会 戦争末期、広島市内の医師、歯科医師、薬剤師、看護婦など医療関係者は、市外への疎開を禁止されていたため、その多くが犠牲となった。医師を国手と呼ぶことにちなんで、碑は“大地に生えた手”を表している。
袋町11
国泰寺11
広島県立広島第一高等女学校職員生徒追憶碑
1955年8月
中区小町2番(三井ガーデンホテル広島南西、平和大通り緑地帯)
昭和20年8月6日遭難 職員校長共20名 生徒277名及同窓生(側面) 
今学び舎のこの跡に 受難の跡を弔いて み墓の前にぬかずけば 無量の思い胸にわく ああ師の君よわが友よ 鎮まり給え安らけく(背面)
第一県女原爆犠牲者遺族会 当時、爆心地から600メートルのこの地に広島県立広島第一高等女学校(現在の広島皆実高等学校)の正門があった。当日在校していた生徒のほか、建物疎開作業に出動していた1年生と引率の教師が全滅するなど、多くの犠牲者を出した。校舎は爆風により倒壊し、焼失した。右奥の石柱は、当時の門柱の一つである。
 
袋町12
国泰寺12
広島県職業安定行政原爆殉職者鎮魂の碑
1995年8月6日
中区国泰寺町一丁目1番41号(国泰寺中学校南端歩道沿い)
昭和20年8月6日、職業安定行政職員41名が建物疎開の勤労奉仕中原爆によりこの地で殉職された。 この碑は再びこうしたことのないことを願いつつ建立したものである(右側面) 
平成7年8月6日 広島県職業安定行政経験者及び職員有志一同(左側面)
広島県職業安定行政経験者及び職員有志 職業安定行政とは現在のハローワークの業務である。広島国民勤労動員署の職員が、建物疎開作業に動員されてこの地(雑魚場町。現在の国泰寺町一丁目。爆心地から1.2キロメートル)で犠牲となった。碑の後ろには、41人の犠牲者の名前を刻んだ名録碑がある。この辺りは、同署職員同様に建物疎開作業に動員された多数の女学生が犠牲となった場所で、道路の向かい側には彼女らを追悼する慰霊碑(殉国学徒の碑(中区))が建立されている。
袋町13
国泰寺13
広島県立広島第一中学校職員生徒追憶の碑
1948年8月6日
中区国泰寺町一丁目2番49号(広島国泰寺高等学校内、正門入って右)
昭和20年8月6日戦災死職員生徒追憶ノ為3周年日之ヲ建ツ(背面) 一中遺族会 広島県立広島第一中学校(現在の広島国泰寺高等学校)1年生約150人は学校南側(雑魚場町。現在の国泰寺町一丁目。爆心地から1.2キロメートル)で建物疎開作業中に被爆し、全滅した。また、残りの1年生約150人は校舎内(爆心地から約900メートル)で待機中に被爆し、ほとんどが犠牲となった。さらに、3年生の一部約50人は、土橋付近(爆心地から約800メートル)で建物疎開作業中に被爆し、全滅した。このほか、他の学年の生徒9人も犠牲となった。碑の後ろに職員12人、生徒354人の名前を刻んだ名録碑(1958年10月26日建立)がある。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-241-1537)で)
袋町14
国泰寺14
広島市役所職員慰霊碑
1965年12月18日
中区国泰寺町一丁目6番34号(広島市役所本庁舎前庭)
昭和20年8月6日の原子爆弾により尊い生命を失なわれた本市公務員の霊のためにこの碑を建て永遠の平和を祈る。 昭和40年12月 広島市長 浜井信三(後ろの壁面) 広島市 当時の粟屋市長を始め、原爆の犠牲となった市役所職員を慰霊するために建立された。爆心地から1キロメートルの位置にあった本庁舎は、躯体は残ったが、内部は焼失した。碑の横には、旧庁舎の地下室の一部を利用して、原爆被災資料を展示する資料室が整備されている。
袋町15
国泰寺15
広島県立広島第二高等女学校殉国学徒の碑
1952年8月6日
中区国泰寺町一丁目9番30号(荒神堂境内)
嗚呼 昭和20年8月6日学徒動員作業中原爆により教官2名生徒43名平和の礎となる(背面) 広南同窓会・遺族会 広島県立広島第二高等女学校(現在の広島皆実高等学校)2年生の1クラスは、爆心地から1.2キロメートルのこの地(雑魚場町。現在の国泰寺町一丁目)で建物疎開作業中に被爆し、1人を除いて全滅した。碑は、同じ場所で被爆し、犠牲となった生徒らを慰霊する「広島女子高等師範学校・同附属山中高等女学校殉国学徒の碑」と同じ台石に建てられている。また、荒神堂の入口には「原爆記念雑魚場疎開地跡」の石柱が建てられている。
袋町16
国泰寺16
広島女子高等師範学校・同附属山中高等女学校殉国学徒の碑
1952年8月6日
中区国泰寺町一丁目9番30号(荒神堂境内)
 
嗚呼 昭和20年8月6日学徒動員作業中原爆により教官4名生徒382名平和の礎となる(背面) 橘香会(同窓会)・遺族会 広島女子高等師範学校附属山中高等女学校(現在の広島大学附属福山中学・高等学校)1、2年生は、爆心地から1.2キロメートルのこの地(雑魚場町。現在の国泰寺町一丁目)で建物疎開作業中に被爆し、1人を除いて全滅した。また、市内の軍需工場に動員されていて犠牲となった広島女子高等師範学校(現在の広島大学)生徒も多数いる。碑は、同じ場所で被爆し、犠牲となった生徒らを慰霊する「広島県立広島第二高等女学校殉国学徒の碑」と同じ台石に建てられている。また、荒神堂の入口には「原爆記念雑魚場疎開地跡」の石柱が建てられている。
竹屋01
国泰寺17
三川町町民慰霊碑(子まもり地蔵尊)
1949年秋
中区三川町8番12号(円隆寺境内墓地)
円隆寺 当時、国民学校(現在の小学校)まで遠距離の地区に住んでいた児童は、近くの寺などを分教場として、そこで授業を受けていた。円隆寺は、竹屋国民学校(現在の竹屋小学校)の分教場の一つで、寺にいた児童25人全員が犠牲となった。他の場所で被爆し、助かった住職が、犠牲となった子どもたちの供養のために地蔵尊を安置した。
※お話を伺いたい場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-241-7420)で)
竹屋02
国泰寺18
歯科医師職員慰霊碑
1967年8月6日
中区富士見町11番9号(広島県歯科医師会館前北東)
広島市歯科医師会 原爆で犠牲となった歯科医師と職員を慰霊するために建立された。
竹屋03
国泰寺19
竹屋地区原爆慰霊碑
2008年8月
中区鶴見町8番49号(竹屋小学校内、校舎南の中庭)
原爆慰霊碑 平和の祈り 永遠にとどけ 竹屋地区社会福祉協議会、竹屋小学校同窓会 竹屋国民学校(現在の竹屋小学校。爆心地から1.5キロメートル)では、当時学校にいた教師5人、児童50人が犠牲となった。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-241-9138)で)
千田01
国泰寺20
浪切不動尊(龍心寺原爆死没者慰霊の像)
1956年4月28日
中区大手町五丁目2番11号(龍心寺境内)
原爆死者之霊(台座) 新長武氏 当時の住職が、原爆犠牲者を弔おうと呼びかけ、信者の寄進によって建立された。背負っている火は原爆の炎を表す。傍らの童子の像は、炎に追われ、炎に消えた幼い広島の子どもたちを表している。向かって右の像は合掌して冥福と平和を祈り、左の像は再建へ励む姿とも言われる。
 
千田02
国泰寺21
大手町地区町民原爆犠牲者慰霊碑
1970年8月6日
中区大手町五丁目23番(新明治橋東詰南、元安川河岸緑地)
新長武氏(寄贈)、鷹野橋商店街振興組合 大手町という名は、広島城大手門から川に沿ってできた町に由来し、かつては藩士の屋敷が続いていた。当時、大手町は一丁目から九丁目まであり、爆心地に近い六丁目辺りまではほとんど全滅の状態だった。
千田03
国泰寺22
広島大学原爆死没者追悼の碑
1974年8月6日
中区東千田町一丁目1番89号(広島大学東千田キャンパス内、東千田共用施設C棟東)
昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投ぜられた。一瞬、莫大な破壊を生じ、無数の人命を奪ったのみならず、その被害は長く今日に及び、身心の傷痕なお癒ゆることがない。本学前身諸学校のうち、広島文理科大学、広島高等学校、広島工業専門学校、広島高等師範学校、同附属中学校、同附属国民学校、広島女子高等師範学校、同附属山中高等女学校、広島師範学校、同附属国民学校、広島県立医学専門学校、広島市立工業専門学校は当時市内に所在し、直接被災した。その教職員並びに学生生徒児童は学校の内外において死傷し、また後遺症により没した者多きを数える。爾来星霜30年を経て、被爆により死没せられた人々を悼む心吾人において益々ふかく、核兵器を憎み、その完全な廃絶と、世界恒久の平和を願うこと切なるものがある。ここに有志相はかり、建碑して追悼の意を表するとともに、広島大学が人類平和の確立に敢然寄与すべきふかい学問的責務を負う所以を永久に銘記する。 昭和49年8月6日 広島大学学長 飯島宗一撰 元広島大学教授 井上政雄書 広島大学原爆死没者慰霊行事委員会 1972年3月に発足した広島大学原爆死没者慰霊行事委員会(委員長:学長)は、その主要事業のーつとして追悼之碑を建立した。広島大学では、1974年以降、毎年8月6日に同碑の前で追悼式を行っている。同碑の内部には、広島大学及び前身校の原爆死没者名簿が納められており、関係者の申し出により毎年書き加えられている。なお、同碑の設計を担当した佐藤重夫氏(当時工学部教授)によると、その造形には「原爆の重大な犠牲となられた悲しみは推し測ることも出来ない重いことで、動かしえない現実に、我々は本当に静かなご冥福を祈る気持ちでいっぱいである。したがって静かにどっしりと安定した、無限の自然が造りあげた重い重い大きな石で、しかも自然の美しい形のものがどんな人工の碑よりもこの原爆碑に最もふさわしく、永遠に祈りの碑となるものと私は思った。裂き砕かれた鋭い大小の割石を下部に乱積にしたものは、世の矛盾、悲しみ、争いを連想して、碑石の底部に押しつぶして積むことにしたものである。」という意図が込められているとのことである。
※見学する場合、正門で警備員に見学したい旨を連絡
千田04
国泰寺23
広島文理科大学・広島高等師範学校原爆死没者遺骨埋葬の地碑
1972年12月25日
中区東千田町一丁目1番89号(広島大学東千田キャンパス内、東千田共用施設C棟南)
広島文理科大学・広島高等師範学校原爆死歿者遺骨埋葬の地 広島大学原爆死没者慰霊行事委員会 1945年8月6日の夕方及び翌7日にかけて広島文理大学・広島高等師範学校の構内や周辺から遺体8、9体及び遺骨10数体が発見された。遺体及び遺骨は学校関係者が氏名を確認し、遺体は構内において茶毘に付した。大半の遺骨は遺族に渡されたが、1945年末の段階でなお小量(鉄かぶと 1杯足らず)が残った。そこで、これを鉄かぶとに納め広島文理科大学本館(旧広島大学理学部1号館)の裏に埋葬した。1970年に埋葬地にボイラー室が建設され、工事の際に鉄かぶとが発見されたものの遺骨は完全に土化していた。広島大学原爆死没者慰霊行事委員会が被爆時の実態調査を進める中で、こうした事情が判明したため、遺骨埋葬地付近に石碑を建立した。その後、広島大学の移転に伴い、同石碑は 1996年に現在地へ移設された。
※見学する場合、正門で警備員に見学したい旨を連絡
千田05
国泰寺24
千田国民学校原爆犠牲教師と学童追憶の碑
1976年8月
中区東千田町二丁目1番34号(千田小学校内、正門の車回し横の日本庭園内)
 
原爆犠牲教師と学童追憶之碑 1976.8 千田国民学校遺族会 千田国民学校遺族会 5日深夜に空襲警報が発令されたこともあって、千田国民学校(現在の千田小学校)では疎開していない残留児童の始業時刻はいつもより30分遅い9時だった。そのため、被爆時、十数人の児童しか登校していなかった。一方、高等科生徒(現在の中学1、2年生に相当)は雑魚場町(現在の国泰寺町一丁目。爆心地から1.2キロメートル)で建物疎開作業に出動中に被爆し、全滅したと思われる。碑の背面に、犠牲となった教師3人、学童41人の名前が刻まれている。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-241-8623)で)
千田06
国泰寺25
広島電鉄株式会社慰霊碑
1977年7月
中区東千田町二丁目9番29号(広島電鉄株式会社千田車庫内、引き込み線のポイント前)
この碑は会社創立以来の殉職者と原爆により死没された当社役職員・家政女学校職員生徒・女子挺身隊員・動員学徒の方々のご冥福を祈念し建立したものである(背面) 広島電鉄株式会社 広島電鉄では、社員とともに電車・バスの運行を担っていた広島電鉄家政女学校(現在廃校)の生徒約30人を始め、動員学徒を含めて約190人が原爆の犠牲となった。これらの原爆死没者と会社創立以来の殉職者の霊を慰めるため、慰霊碑を建立した。なお、市内電車の車両は123両中108両が損壊するなど壊滅的な被害を受けたが、被爆当日の午後には復旧に取りかかり、8月9日には一部区間で運行を再開した。再び走り始めた電車の姿は人々を大いに勇気づけたと言われており、現在も、2両の被爆電車が営業運転を続けている。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-242-3521)で)
千田07
国泰寺26
千田町一丁目町民慰霊碑(ふりかえりの塔)
1977年8月6日
中区千田町一丁目3番(鷹野橋交差点ロータリー内)
ふりかえりの塔 ピカドーン くずれた家々は たき火のように燃え拡がり はりの下敷きとなって あちらこちらで 助けを求める悲痛な叫び 迫り来る火の海の前に 人の力は あせれど弱い 「逃げて 早く逃げて…」と叫ぶいとしい人の声もとだえた今 後髪を引かれ 振り返ってはころび 火の粉を浴びながら また 振り返る 偲い残り あの時 あの日を 再び繰り返してはならない(台座)
 
広島市千田町一丁目原爆慰霊碑建設委員会 千田町一丁目の町民ら原爆犠牲者を慰霊するために建立された。
千田08
国泰寺27
広島赤十字病院慰霊碑
1959年11月
中区千田町二丁目5番64号(日本赤十字社広島県支部前庭)
死はこの市に住む人々をもその救護を使命とする人々をも同時に襲った。かくして残虐な無差別兵器はこの地点において赤十字が創設した博愛の施設にも打撃を与えたのであった。 しかしこの事件は人間の良心をを呼びさました。 その後人類は一体となって戦争を放棄し正義と平和の支配する友情の世界を生み出さねばならないことを知った。 赤十字はこの福祉の業にその熱情と誠意とを傾けるであろう。 赤十字国際委員会々長 レオポルド・ポアシエ(横の石碑)
 
日本赤十字社 原爆により、広島赤十字病院関係者と患者の多くが犠牲となった。病院は外郭だけを残して破壊されたが、多くの被爆者が救護を求めて集まった。かろうじて生き残った医師・看護婦は、わずかな医療資材を用いて懸命に治療を続けた。碑は1959年、広島赤十字病院開院20周年記念行事の一つとして建立された。2013年、病院の建て替えに伴い現在地に移設された。
 
千田09
国泰寺28
修道中学校職員生徒慰霊碑
1946年8月
中区南千田西町8番1号(修道中学・高等学校内、本館北)
慰霊 修道学園 修道中学校では、雑魚場町(現在の国泰寺町一丁目。爆心地から1.2キロメートル)で建物疎開作業中の1年生37人、2年生136人を始め、多くの犠牲者を出した。碑は、戦後、最も早く建てられたが、占領政策を受けて1946年に政府が出した方針(学校及び公共用地等にある忠魂碑等の撤去)に伴い、碑の裏に刻まれていた原爆の文字と建立年月日を削り取り、セメントを塗った。現在、犠牲者188人の名前を刻んだ銅板が背面にはめ込まれている。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-241-8291)で)
 
千田10
国泰寺29
「歴史に生きる」碑
1993年10月16日
中区南千田西町8番1号(修道中学・高等学校内、本館北)
歴史に生きる 平成5年8月6日 東京芸術大学長 平山郁夫書(正面)
被爆建物 旧広島陸軍兵器支廠の外壁煉瓦 旧広島陸軍兵器支廠は、昭和19年9月から昭和20年8月15日まで旧制修道中学校生徒が学徒勤労令による動員で作業に従事した場所である。昭和20年8月6日 3年生を中心とした多数の生徒がここで被爆した。 このたび旧広島陸軍兵器支廠倉庫の最後の1棟(現在広島市南区霞1丁目広島大学医学部構内)が取り壊されるにあたり、当時の動員生徒有志の醵金によって、その外壁煉瓦を本校で保存するに至った。 (写真は旧広島陸軍兵器支廠倉庫 煉瓦はその一部) 平成5年(1993年)10月16日 修道中学校 修道高等学校(正面の銅板)
旧広島市庁舎被爆石(台座正面)
贈 被爆当時修道中学校3年生有志(背面)
被爆当時修道中学校3年生有志 修道中学校3年生約140人は、広島陸軍兵器補給廠(竣工時:広島陸軍兵器支廠。爆心地から2.8キロメートル)に動員作業中被爆し、3人が犠牲となった。碑銘を揮毫した平山氏も被爆した生徒の一人だった。1993年2月、旧陸軍兵器支廠の最後の倉庫が取り壊されたことに伴い、当時の3年生らは、思い出の多い被爆倉庫のれんがを保存し、被爆の証として平和の尊さを後世に伝えるため、記念碑建立を発意した。完成した記念碑には、被爆れんがのほか、旧広島市役所庁舎の被爆石なども組み込まれている。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-241-8291)で)
本川01
国泰寺30
左官町周辺縁故者原爆精霊供養塔
1951年8月6日
中区本川町一丁目2番9号(善応寺境内)
為7回忌追善菩提 左官町居住者ならびに縁故者一同 当時、現在の十日市町一丁目、本川町一丁目辺りに左官町(爆心地から550メートル)があった。同町の原爆による被害は甚大で、家屋は全壊・全焼し、人的被害は即死者約91パーセントである。被災後戻った町民らが、犠牲者を慰霊するために寄付を募って塔を建立した。塔の左右に263人の犠牲者の名前が刻まれた名録碑がある。
本川02
国泰寺31
本川小学校原爆慰霊碑
1995年11月3日
中区本川町一丁目5番39号(本川小学校内、本川小学校平和資料館西)
あまねくとどけ 平和の祈り(正面) 
被爆50周年記念として 本川地区原爆慰霊碑建立委員会之を建つ 平成7年11月3日(背面)
碑に寄せて 昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分相生橋上空五百数十米にて爆発した1発の原子爆弾は、瞬時に全市を壊滅させた。 爆心に最も近いこの学校では児童教職員四百十余人全員爆死し、数千人もの地区民も熱線爆風の直撃を受け惨憺たる有様であった。廃墟となったこの学校は臨時救護所に当てられたが、焼けただれ水を求めてさまよう人々を手当する術も無く、校庭はたちまち死骸の山となり已むなくこの地で荼毘に付された。当時を偲べば追悼の念を禁じ得ない。 この事実を後世に伝え核兵器の廃絶と永久の平和を希って、地区と学校が一体となりこの平和資料館の傍らに慰霊の碑を建立する。 平成7年11月3日 本川地区原爆慰霊碑建立委員会(横の石碑)
本川地区原爆慰霊碑建立委員会 本川国民学校(現在の本川小学校)は爆心地に最も近い場所にあった学校で、その距離410メートル。約400人の児童、10人の教職員が犠牲となった。校舎は外郭を残して全焼したが、被爆後も補修・改修を繰り返して使用された。校舎建て替えに伴い、一部が保存され、1988年、平和資料館として整備された。その後、本川小学校児童らから、碑建設を望む声が高まり、本川地区社会福祉協議会など8団体で構成する碑建立推進委員会が結成され、碑が建立された。説明板がはめ込まれた横の石碑の台座は、本川小学校校庭の被爆石が使われている。
※学校休校日は見学不可。見学時間は8時30分~17時。個人で見学する場合、正門インターフォンで見学したい旨を連絡。団体で見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先をFAX(082-234-0910)で)
本川03
国泰寺32
本川学区町民慰霊碑
1957年8月6日
中区本川町三丁目5番(空鞘橋西詰南、本川河岸緑地)
為原爆死没者(背面)
この地は、かつて空鞘町防空壕があり、昭和20年8月6日原爆投下された際、本川地区一帯の被爆死亡者数千の遺体を本川小学校に集め荼毘に付し、その遺骨を埋葬した場所であります。
その後遺骨は平和公園内の供養塔に移されましたが、永遠にこの聖地を記念し、その霊を慰めるために、地区有志一同相寄り昭和32年8月6日この慰霊碑を建立したのであります。平成6年4月 本川地区町民有志・本川町二丁目三丁目町内会・十日市町二丁目1区2区3区町内会(横の説明板)
本川学区内有志 本川地区一帯の原爆犠牲者数千の遺体が本川国民学校(現在の本川小学校)に集められ、焼却された遺骨は、この地にあった防空壕内に埋められた。その後、遺骨は平和記念公園内の原爆供養塔に納められた。永くこの場所を記念して、犠牲者を慰霊するため、碑が建立された。
 
本川04
国泰寺33
広島市立中学校職員生徒慰霊碑
1948年8月6日
中区小網町8番(緑大橋東詰北、天満川河岸緑地)
広島市立中学校は昭和17年天満小学校の一部を仮校舎として創立され、翌年中広町の新校舎に移転する。戦局の激化に伴い、工場に、農村にあるいは建物疎開作業等に動員され、厳しく鍛えぬかれた生徒は市中精神に徹し、健気に銃後を護る。 昭和20年8月6日原爆による広島壊滅の日、小網町で建物疎開作業中の全員及び登校していた者やその他370余名の職員生徒が劫火の犠牲となる。 このたび三光寺にあった碑を多くの生徒が斃れたこの地に移し、その霊を慰めるとともに、広島市立中学校の名を茲に留めんとするものである。 昭和50年8月6日 広島市立中学校遺族会・広島市立中学校同窓会
 
広島市立中学校遺族会・同窓会 広島市立中学校(現在の基町高等学校)では、小網町(爆心地から900メートル)で建物疎開作業中の1、2年生を始め、約370人の犠牲者を出した。1948年、犠牲者を慰霊するため、建物疎開作業場所に近い三光寺(小網町)に碑を建立した。1975年、同寺から現在地に移設するとともに、「慰霊」と刻まれた碑などが追加された。
本川05
国泰寺34
西地方・西新町町民慰霊碑
1947年8月15日
中区土橋町2番4号(浄国寺境内墓地)
浄国寺 当時、現在の土橋町辺りに西地方町(爆心地から700メートル)、西新町(爆心地から800メートル)があった。地区の住民やこの地域で原爆の犠牲となった人々を慰霊するため、当時の浄国寺住職の母親が木碑を建立した。現在、木碑は朽ちて、代わりに無銘の石が置かれている。隣には、原爆により笠の部分が破損した宝塔が建っている。
本川06
国泰寺35
広島県防空機動隊員慰霊碑
1947年8月15日
中区土橋町2番4号(浄国寺境内墓地)
(かつては、「防空機動隊員慰霊碑」と記されていたが、現在判読不能) 岡野俊二郎氏、生存友人有志 原爆や戦争の犠牲になった広島県防空機動隊員を慰霊するため、建立された。なお、この碑と同様に広島県防空機動隊員の犠牲者を慰霊する碑として、「広島県防空機動隊戦病没者慰霊碑」(西区)がある。
 
中島01
吉島01
日本生命保険職員殉職碑
1949年
中区中島町3番25号(ニッセイ平和公園ビル北西角)
昭和20年8月6日殉職 日本生命広島支社関係者一同 当時、日本生命広島支店は広島の金融街として発展する大手町二丁目(爆心地から180メートル)にあった。原爆で建物は壊滅し、日本生命全体で職員28人が犠牲となった。1948年、同地に社屋を再建した後、犠牲者を慰霊するため、碑を建立した。その後、社屋の移転とともに碑も移設され、2006年、現在地に移設された。碑の背面に、犠牲者28人の名前が刻まれている。
中島02
吉島02
 
県立広島工業学校職員生徒慰霊碑
1987年3月
中区中島町10番(藤和平和公園前コープ西、本川河岸緑地)
原爆遭難の碑 県工同窓会 広島県立広島工業学校の生徒210人は、4人の教師の引率の下、建物疎開作業のため、中島新町(現在の中島町。爆心地から600メートル)に出動中被爆し、全滅した。創立90周年記念事業の一つとして、214人が犠牲となった場所に慰霊碑が建立された。
中島03
吉島03
 
広島県職員原爆犠牲者慰霊碑
1958年8月6日
中区加古町17番(アステールプラザ南西、本川河岸緑地)
昭和20年8月6日投下された原子爆弾は広島県庁および出先機関職員のうち800有余の生命を一挙に奪い去った 祖国のために一身の安危を顧みずひたすらに公務に精励していた人々のこの尊い犠牲はまことに痛惜きわまりない この附近は当時の殉難者が最も多く眠るところである このゆかりの地を選んで碑を建て身をもって平和の礎となった人々の霊をまつる 昭和33年8月6日 広島県知事 大原博夫(背面)
 
広島県 碑が建立されている辺りは、当時、広島県庁(爆心地から850メートル)や広島県病院があった。原爆により木造の広島県庁舎は瞬時に倒壊し、全焼した。職員の多くは即死か倒壊物の下敷きとなったまま焼死した。碑の横に犠牲者1,134人の名前が刻まれた名録碑がある。
中島04
吉島04
 
広島刑務所鎮魂の碑
1995年12月15日
中区吉島町13番の114(広島刑務所内)
鎮魂 法務大臣 宮沢弘 広島刑務所職員一同、矯正協会、広島県教誨師会、広島県教誨事業後援会 爆心地から約2キロメートルの位置にあった広島刑務所は、外塀に守られていたものの、建築物はほぼ全壊した。即死・行方不明者は、職員8人、被収容者15人であるが、その後原爆症により犠牲になった方、職員の家族、そして救護活動にかかわり二次被爆された方々など多くの死傷者を出した。被爆50周年を迎えるに当たり、原爆犠牲者の霊を慰め、永久に記録するため、碑建立の声が高まり、1995年、碑が完成した。
※現在、庁舎改築中で、見学不可
中島05
吉島05
原爆犠牲新聞労働者の碑(不戦の碑)
1985年8月6日
中区加古町3番(広島市文化交流会館北西、本川河岸緑地)
不戦 中国新聞労働組合 職場単位の国民義勇隊として、当時の広島県庁の建物疎開作業に当たっていた新聞労働者は建立地あたりで被爆した。碑は、「ピース」「プレス」の頭文字「P」を抽象化したデザインで、2度と戦争のためにペンを、カメラを取らない、輪転機を回さないとの誓いと、犠牲者への深い追悼の思いが込められている。碑には犠牲者132人の名前が刻まれている。
吉島東01
吉島06
原爆死没ろう者を偲ぶ碑
2003年8月3日
中区吉島東二丁目10番33号(広島県立広島南特別支援学校内、グラウンド南東)
 
鎮魂(正面)
平成15年(2003)8月 広島県立広島ろう学校同窓会建之(背面)
広島県立広島ろう学校同窓会 広島県聾学校は、爆心地から2.7キロメートルに位置し、原爆で16人が犠牲となった。碑は「原爆死没ろう者を偲ぶ会」が中心となり建立した。同校は2007年、広島県立広島南特別支援学校に校名変更した。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-244-0421)で)
吉島東02
吉島06
国有林野関係職員原爆慰霊碑
1976年8月6日
中区吉島東三丁目2番51号(広島森林管理署内、庁舎西)
原爆落つ ああここに 悲しき犠牲者あり 冥福を祈りて 浄財を集め この碑を立つ(背面) 国有林野関係職員原爆慰霊碑建設委員会 1976年、国有林野関係職員の犠牲者を慰霊するため、中区基町にあった広島営林署構内に碑が建立された。1989年、庁舎の移転に伴い現在地に移設された。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-247-2201)で)
広瀬01
(西区)
中広01
中国配電職員弔魂塔
1948年8月6日
中区寺町1番19号(本願寺広島別院境内、正門入って右)
昭和20年8月6日ノ戦災ニ因リ本社社員ノ前後非命ニ斃レシ者278名是レ皆国家再造ノ犠牲本社進展ノ礎石ト謂フ可シ茲ニ3周年ニ当リ僚旧均シク哀ヲ新ニシ慼ヲ増ス仍テ此ノ塔ヲ建テテ聊々追弔ノ情ヲ表ハシ亦以テ永ク其ノ幽魂ヲ慰メント欲ス。昭和23年8月6日 中国配電株式会社取締役社長 島田兵蔵撰並書(背面) 中国配電株式会社 爆心地から680メートルに位置していた中国配電株式会社(現在の中国電力株式会社)本店の犠牲者163人を始め、電業局、支店、被爆当時出張で広島にいて犠牲となった社員全278人を慰霊するために建立された。
広瀬02
(西区)
中広02
特設警備隊広島西部第二部隊慰霊碑
1982年5月16日
中区広瀬北町9番(中広大橋東詰北、天満川河岸緑地)
特設警備隊 広島西部第二部隊原爆戦死合祀者名 昭和20年8月6日(背面) 慰霊碑建立委員会 碑は、当時、特設警備隊広島西部第二部隊が駐屯していた広瀬国民学校(現在の広瀬小学校)跡地(爆心地から1.1キロメートル)に建立されている。同部隊は、陸軍が太平洋戦争末期の本土決戦に備えて編成した臨時の部隊で、原爆により多くの隊員が犠牲になった。碑背面には、犠牲者に加え、数人の生存隊員と碑建立世話役94人の名前が刻まれている。
広瀬03
(西区)
中広03
広瀬学区表忠碑
1956年6月24日
中区広瀬町1番19号(広瀬神社境内)
大東亜戦争に於ける 戦死者 並 原爆死没者 847柱合祀す 昭和31年6月24日 再建立 広瀬学区郷友会 広瀬地区社会福祉協議会 広瀬学区郷友会、広瀬地区社会福祉協議会 日清・日露戦争の戦死者を慰霊するために1911年に建立された碑を、1956年、広瀬学区の日中戦争から太平洋戦争までの戦死者と原爆犠牲者847人を合祀して再建立された。
広瀬04
(西区)
中広04
広瀬学区原爆死没者慰霊碑
2004年8月3日
中区広瀬町2番8号(広瀬小学校内、南校舎南)
昭和20年8月6日午前8時15分人類史上初めての原子爆弾が 広島に投下された 爆心地に近い当学区内も 熱線爆風の直撃で一瞬の内に ほとんどの家屋が倒壊し延焼した 下敷き状態から救出を求めながら焼け死んだ人も多く学区内は地獄と化し 推定死亡者は 五千人を越えた(原爆被爆者動態調査誌参照) 広瀬国民学校児童の大半は縁故疎開や 集団疎開をしていたが当日登校していた教師7人児童37人 行方不明児童100人の尊い命が失われ犠牲者となった ここに 原爆で亡くなられた多くの方々を 慰霊するとともに 被爆の事実を風化させぬ為 また 不戦の誓いと世界恒久平和の祈念の場として住民の意志を結集し慰霊碑を建立するものである 平成16年8月3日 広瀬学区原爆死没者慰霊碑建立委員会 被爆当時学校区町名 寺町 広瀬北町一丁目 二丁目 三丁目 広瀬元町 錦町 西九軒町 横堀町 北榎町 新市町 西引御堂町 中広町 中広本町 中広北町 中広町一丁目 上天満北町(背面)
 
広瀬学区原爆死没者慰霊碑建立委員会 地元住民による寄付などにより碑が建立された。広瀬学区は比較的爆心地から近距離に位置し、5千人を超える犠牲者を出した。また、当時、広瀬国民学校(現在の広瀬小学校)は爆心地から1.1キロメートルの広瀬北町にあり、児童百数十人が犠牲となった。1950年、同校は現在地に移転した。
※学校休校日は見学不可。見学時間は8時30分~17時。正門インターフォンで見学したい旨を連絡
 
神崎01
江波01
市立第二高等小学校職員生徒慰霊碑
1977年7月
中区河原町1番(西平和大橋西詰、平和大通り緑地帯)
慰霊碑 広島市立第二高等小学校 第二高等小学校同窓会、二高会(旧職員) 高等小学校は、現在の中学1、2年生が通う学校。木挽町(現在の中島町。爆心地から550メートル)で建物疎開作業をしていた広島市立第二高等小学校(当時の名称は、第二国民学校。現在の観音中学校)の生徒・教職員全員約250人が犠牲になった。
神崎02
江波02
神崎学区原爆慰霊碑
1995年8月3日
中区河原町15番(河原町公園内)
昭和20年8月6日、人類史上はじめて投下された原子爆弾により、神崎学区も未曾有の被害を受けた。 本年被爆50周年を迎えるに当たり、原爆で亡くなられた多くの方々を慰霊するとともに世界の恒久平和を祈念して、地域住民の総意によりここに慰霊碑を建立するものである。 平成7年8月3日 神崎学区原爆慰霊碑建立委員会 神崎学区原爆慰霊碑建立委員会 神崎国民学校(現在の神崎小学校。爆心地から1.2キロメートル)の教職員・児童147人を始め、神崎学区は比較的爆心地から近距離に位置することから、多くの犠牲者を出した。同校の校庭(現在の国道2号付近)では連日、遺体の焼却が続いたという。それからまもなく、永光寺(舟入本町)の檀家総代が焼却地付近に高さ3メートルの木碑を建てた。その後、国道2号の整備事業に伴い、木碑は同寺に移設されたが、腐食が進み、1960年代に焼却された。50回忌を機に同寺の住職が地区住民に慰霊碑再建を呼びかけ、これに応えて、町内会など21団体の長らで碑建立委員会が組織され、募金運動を経て碑が建立された。碑の台座の一部には、神崎小学校に残っていた被爆石4個が使われている。
神崎03
江波03
小網町原爆慰霊碑(女子挺身隊・義勇隊・動員学徒慰霊碑)
1976年8月
中区舟入町3番(平和大通り緑地帯、広島三菱自動車販売(株)中央店前)
原爆慰霊碑 小網町町内会 建物疎開作業の片付けのため、多くの中学校生徒、職域・地域義勇隊が小網町(爆心地から900メートル)で動員中に被爆し、多くの犠牲者を出した。それら犠牲者を、三光寺(小網町)住職が弔った。1948年、町内の人々は犠牲者950人を供養するため同寺に木標を建てた。1976年、遺族により朽ちた木標から石碑に建て替えられ、1995年ごろ、現在地に移設された。
 
神崎04
江波04
原爆地蔵尊
1960年
中区舟入幸町14番(舟入公園内)
この地蔵尊は、沢山の被爆者の方々が、この付近で亡くなられその冥福を祈念してこの地に建立されました。(以下略)(説明板) 三上早上氏 被爆直後、現在地周辺で多数の原爆犠牲者を荼毘に付した。1954年、現在公園となっている場所に白鳩園という保育園が開設され、1960年、原爆死没者の慰霊と園児の無事故を祈って当時の園長が地蔵尊を建立した。白鳩園は1971年、神崎保育園と合併して廃園となり、跡地が公園に整備され、地蔵尊はそのまま残された。1980年、北隣の舟入むつみ園の入所者・職員によりお堂や説明板などが整備された。毎年10月24日、同園と町内会の共催により「原爆地蔵祭」が行われている。
 
舟入01
江波05
県立広島商業学校職員生徒慰霊碑
1961年9月30日
中区舟入南六丁目7番11号(広島県立広島商業高等学校内、正門入って右)
祖国の柱に捧ぐ 第11回生 大木惇夫 戦ひのいけにゑとして散りし花 わかき友らは今も生く この門に生く 仰ぎみん 御霊やすかれ 合掌禮拝 原爆慰霊碑建立委員会(遺族会、同窓会) 広島県立広島商業学校では、2年3組が、動員先の工場から、建物疎開で土橋付近(爆心地から800メートル)を通りかかっていたとき被爆し、全滅した。また、4年1組は、雑魚場町(現在の国泰寺町一丁目。爆心地から1.2キロメートル)で建物疎開の作業にあたろうとしているときに被爆し、多くの死傷者を出した。同校では、職員3人、1年生18人、2年生60人、3年生21人、4年生35人の計137人が犠牲となった。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-231-9315)で)
江波01
江波06
江波地区戦死者戦病死者並原爆死者之霊・塔婆
不詳
中区江波東二丁目6番13号(丸子山不動院境内)
江波地区戦死者戦病死者並原爆死者之霊 不詳 江波地区は比較的爆心地から離れていることもあって、地区内にいた人で即死した人はいなかったが、他の地区にいて犠牲となった人はいた。
江波02
江波07
母子愛の碑
1995年8月7日
中区江波二本松二丁目12番(江波山公園内展望広場)
碑に寄せて 昭和20年8月6日午前8時15分。 1発の原子爆弾は相生橋上空5百数十米において炸裂した。一瞬にして街は阿鼻叫喚の巷と化した。 わが江波町の人的物的被害は中心部に比して軽かったが、時を経ずして、多くの負傷者が見るも無残な姿で殺到し、その数は1万人を突破した。 一方、炎熱に耐えかねて本川に入水した無数の死傷者が折りからの下げ潮にのって江波町の波打ち際に漂着して来た。 その日、江波町は夏祭りであったが暗転して惨劇の街と化していった。 肉親探し、救援、看護、更には火葬等の諸活動は町内会、警防団、婦人会等、役割を分担しながら秋までも続いた。 あれから時は流れて半世紀、今日に至る江波町有縁の犠牲者は推定1万数千名にも及んでいる。 襟を正して、これらすべての犠牲者の魂安かれと祈ることは現代に生きる者の責務であろう。更には人類の滅亡につながる核兵器の廃絶を願い、不戦の決意も新たに、ひいては世界恒久平和の実現を誠実に希求するその証として、心ある人々の浄財をもってこの碑を建立するに至った。 碑面は「世界平和」を礎に、不変の真理である「おやこの愛」と「生命の尊さ」を訴えた。作者は中国広州美術学院教授曹崇恩先生であり、日中友好の懸け橋ともなればとの想いも含まれている。 願わくばこの心を子々孫々に至るまで受け継ぎ護り給わんことを。 平成7年8月7日 除幕 江波地区社会福祉協議会 江波地区社会福祉協議会 江波地区では、市内中心部に動員されて犠牲となった学徒や義勇隊に加え、中心部から逃れてきたり、川に流されたりした犠牲者1万人以上が荼毘に付されたと言われる。そうした犠牲者を慰霊するため、1993年、江波地区社会福祉協議会により木碑が建立され、慰霊祭が行われた。その後、被爆50周年前に、江波でこうした事実があったことの風化を防ぐためにも本格的な碑を建てようとの声が高まり、木碑のあった場所に像が建立された。なお、犠牲となった江波地区町民を慰霊する碑として、「江波地区戦没者慰霊碑」(中区)がある。
江波03
江波08
江波地区戦没者慰霊碑
1983年5月
中区江波南一丁目11番12号(海宝寺境内、本堂前)
戦没者慰霊碑 江波遺族会 江波地区の日中戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(319人。うち原爆犠牲者は動員学徒101人、軍人41人、国民義勇隊38人、軍属6人、挺身隊4人の190人)を慰霊するために建立。背面に犠牲者の名前が刻まれている。毎年8月6日、碑の前で慰霊行事が、また、8月12日には遺族会による追弔法要が、それぞれ行われている。

(注1)名称は建立者が定めたものにしていますので、敬称が付いていないものもあります。

(注2)原則、漢数字は算用数字で表記しています。

 

原爆関連の慰霊碑等の概要(東区内:8基)

地区
小学校区
中学校区

名称
建立年月日
所在地

碑文、追悼歌(注)

建立者

建立経緯・来歴等

戸坂01
戸坂01
広島市立高等女学校職員生徒原爆追悼碑
1951年8月6日
東区戸坂千足一丁目12番27号(持明院境内、正門入って左)
教え子を水槽に入れ自らは 掩ひとなりて逝きし師のあり。 万歳の声をいまわに倒れゆきし 清き乙女の赤き血の色。 ゆきゆきてかえらぬ人の面影を しのびて夜半の古枯をきく。 昭和26年8月6日 宮川雅臣(背面)
この追悼碑は、昭和20年8月6日学徒動員中原爆によって散華した広島市立高等女学校職員生徒679柱のみ霊を悼み、臨終の地近くの広島市木挽町持明院に建立、41年12月当地に移されたもので、元安河畔の市女慰霊碑とともに、本会寄進の持明院ご本尊聖観音像の大慈大悲のみ光により、永く安らかに涅槃の境に鎮まり給えと、遺族の悲願がこめられている。 昭和52年8月 33回忌 広島市女原爆遺族会(横の石碑)
 
広島市女原爆遺族会 広島市立第一高等女学校(現在の舟入高等学校)職員・生徒は木挽町(現在の中島町。爆心地から500メートル)で建物疎開作業中に被爆し、全員犠牲となった。戦後、犠牲となった地近くの木挽町の持明院住職が犠牲者の遺骨を発見、同院に安置供養する。その縁で、1951年、広島市女原爆遺族会により持明院に碑が建立され、1966年、現在地への同院の移転に伴い移設された。なお、この碑と同様に広島市立第一高等女学校職員・生徒の犠牲者を慰霊する碑として、「広島市立高等女学校原爆慰霊碑」(中区)がある。
戸坂02
戸坂02
戸坂供養塔
1945年10月
東区戸坂桜上町20番(正池平墓地内入口付近)
昭和20年8月6日原子爆弾が投下され広島市は壊滅し多くの被爆者が陸軍病院戸坂分院(戸坂小学校等)に避難し死亡された方々の遺骨を仮埋葬しその標識としてこの供養塔が建立された(横の石碑の正面)
供養塔は昭和20年10月に建てられたものであるが戸坂村が広島市に合併して40周年の節目に当り説明文碑を建立して後世に残す 平成7年4月10日 戸坂連合社会福祉協議会(横の石碑の側面)
戸坂村 戸坂地区は爆心地から比較的離れているため、原爆による大きな被害はなかった。被爆後、市内中心部から避難してきた多くの被災者の救護に村民を始め、戸坂国民学校(現在の戸坂小学校)に所在していた陸軍病院戸坂分院の軍医などが当たった。地区内で死亡した約600人は、村民などにより荼毘に付された。1945年10月、遺骨が長尾山に仮埋葬され、そこへ標識として供養塔が建てられた。1959年4月、遺骨は平和記念公園内の原爆供養塔に納められた。1995年4月、供養塔が現在地に移設された。
 
牛田01
牛田01
牛田供養塔
1950年
東区牛田中二丁目3番(牛田公園内)
任都栗司氏 牛田地区は原爆の被害は大きく、地区住民の約半数が死傷した。また、市内中心部から多くの被災者が避難してきたほか、上げ潮で無数の死体が流れ着いた。こうして、地区では700人以上の犠牲者が荼毘に付されたと言われる。これらの犠牲者を慰霊するため、1950年、供養塔が建立された。その後、1969年には慰霊碑が、1970年には観音像が、それぞれ建立された。毎年8月5日、牛田地区の三つの学区社会福祉協議会による追悼式典が行われている。
 
尾長01
二葉01
二葉山平和塔(仏舎利塔)
1966年8月5日
東区光が丘1番
この広島市二葉山平和塔は、人類の幸福と戦争のない世界の恒久平和を念願し、史上最初の原子爆弾の犠牲者二十数万の冥福を祈り、平和の聖者釈尊の御真骨を奉祀して建立されたものであります。 昭和29年4月、日本山妙法寺主藤井日達聖人により地鎮祭が行われましたが、その後、12年を経て昭和40年、地元の開拓団の方々が、各自の土地の一部を売却して建設資金をつくり、日本山妙法寺や有志の協力により完成し、昭和41年8月5日に落慶式と広島市への寄贈式が行われました。 塔内にはインドのネール首相より贈られた仏舎利が一粒、モンゴル仏教徒やセイロン国(現スリランカ国)より贈られた各一粒も併せて奉安されています。正面の仏像は、昭和41年5月、セイロン国から贈られたものです。また県市民の平和の願いをこめた祈念石数万個も収納されています。 なお、標高139米の山頂のこの地は、半地下式の大型高射砲四門がすえられていたところです。(案内板) 日本山妙法寺、地元有志 世界の恒久平和を念願し、原子爆弾の犠牲者の冥福を祈るため、建立された。
尾長02
二葉02
尾長慰霊碑
1968年12月
東区曙二丁目4番(尾長公園内)
慰霊 広島市長 山田節男 尾長町内会慰霊碑建設委員会 尾長町(爆心地から2.9キロメートル)、曙町四丁目(爆心地から3.5キロメートル)、曙町五丁目(爆心地から3.7キロメートル)の原爆犠牲者を慰霊するため、碑が建立された。これらの町では1945年末までに31人が犠牲となった。
尾長03
二葉03
松本商業学校職員生徒慰霊碑
1966年7月
東区尾長西二丁目12番1号(瀬戸内高等学校内、グラウンド西)
慰霊碑 松本商業高等学校 松本商業学校は、1944年、国の政策により松本工業学校に転換した。同校では、動員先の工場から再動員され、水主町(現在の加古町)の県庁付近(爆心地から900メートル)へ建物疎開作業に出動した1年生を中心に大きな被害を受けた。犠牲となった職員・生徒50数人を慰霊するため碑が建立された。1972年、瀬戸内高等学校と改名した。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-261-1296)で)
(中区)
白島01
(中区)
幟町01
二葉の里原爆慰霊碑
1966年8月5日
東区二葉の里二丁目1番18号(東照宮参道、石段手前)
昭和20年8月6日の原爆により罹災者境内に溢れ救護所設けらる 偶境内に湧井在り この清水を飲みて幽明異にする者多し 寔に哀愍の情に堪えず 茲に慰霊碑を改建して永く哀史を伝えんとす。 昭和41年8月5日 東照宮宮司久保田幸重誌(背面)
 
東照宮 東照宮(爆心地から2.1キロメートル)は原爆により本殿と拝殿を焼失するなど大きな被害を受けた。当日、境内は市内中心部から逃れてきた多くの被災者であふれ、石段下には臨時救護所が設けられた。二葉の里一帯に避難してきた人々は次々と亡くなり、荼毘に付された。1947年ごろ、東照宮宮司により犠牲者を慰霊する木碑が建てられた。1966年、社殿再建に併せて現在の碑に建て替えられた。
 
(中区)
白島02
(中区)
幟町02
原爆65周年追憶碑
2010年8月6日
東区二葉の里二丁目1番18号(東照宮参道、石段手前)
コハ今後生キノビテコノ有様ヲ ツタヘヨト天ノ命ナランカ 原民喜 平成22年8月6日 広島市長 秋葉忠利書 東照宮 作家の原民喜氏は、幟町の生家で被爆し、7日夜、親族とともに東照宮境内で一夜を過ごした。その際、被爆当日の惨状の様子をメモに残した。碑には、メモの抜粋などが銘板に刻まれている。

(注)原則、漢数字は算用数字で表記しています。

 

原爆関連の慰霊碑等の概要(南区内:25基)

地区
小学校区
中学校区

名称
建立年月日
所在地

碑文、追悼歌(注)

建立者

建立経緯・来歴等

荒神町01
段原01
松原地区(荒神学区)町民慰霊碑
1968年8月5日
南区松原町12番(福屋広島駅前店南、猿猴川河岸緑地)
慰霊 荒神学区住民有志 1968年、駅前地区の再整備が行われ、緑地帯ができたのを機に、地区の住民で市内中心部に建物疎開作業に出ていて犠牲となった人に加え、地区で亡くなった人などを慰霊するため、町内会により碑が建立された。毎年8月6日、前の川で慰霊のため、灯ろう流しが行われている。
 
段原01
段原02
的場地区町民慰霊碑
1957年5月19日
南区的場町一丁目10番(荒神橋西詰北、猿猴川河岸緑地)
原爆慰霊碑 的場町原爆慰霊碑建設委員会 1946年、焼け跡にバラックを建てて住んだ地区の人々が原爆の犠牲になった町民の供養を行った。毎年近くの寺などで供養を行ううち、碑建立の声が上がり、募金活動を経て建立された。犠牲となった町民67人の名前が下部に刻まれている。毎年8月6日、碑の前で追弔の盆踊りが行われている。
 
段原02
段原03
妙詠寺原爆死歿者供養塔
1994年7月24日
南区松川町3番1号(妙詠寺境内墓地)
原爆死歿者供養塔(正面)
被爆五十回忌法要之砌 建立 平成6(1994)年7月24日 法流山妙詠寺 開眼主顕本法華宗管長 総本山妙法寺第303世 協賛 顕本法華宗 總本山 妙満寺(側面)
 
妙詠寺 被爆50回忌を前に碑が建立された。
段原03
段原04
広島郵便局原爆殉職者の碑
1953年8月6日
南区比治山町7番10号(多聞院境内、正門入って右)
広島郵便局原爆殉職者之碑 慰霊碑建設委員会 当時、広島郵便局舎は爆心地である島病院の道路向かいにあり、在局舎全員が犠牲になった。犠牲者には、動員中の祇園高等女学校(現在のAICJ中学・高等学校)と本川国民学校高等科(現在の中学1、2年生が通う学校)の教師・生徒55人も含まれる。碑は1953年、現在地に移設された。背面に、犠牲者288人の名前が刻まれている。なお、この碑と同様に広島郵便局職員の犠牲者を慰霊する碑として、「広島郵便局職員殉職の碑」(中区)がある。さらに、広島郵便局など郵政関係職員の犠牲者を慰霊する碑として、「郵政関係職員慰霊碑」(中区)がある。
段原04
段原05
殉職警察職員慰霊碑
1949年9月23日
南区比治山公園3番(ひかり茶屋手前)
此の碑はもと水主町旧武徳殿前に存し、昭和20年8月6日の原子爆弾に破壊されたが、英魂を永えに鎮めその芳名を千載に伝うべく、県下警察職員の総意によって此の地を選んで再建する。時はこれ昭和24年秋分の日である(背面) 殉職碑建設委員会 当時、水主町(現在の加古町)には、広島県庁(爆心地から850メートル)や県病院があった。この碑は殉職した警察職員を慰霊するため、武徳殿(県庁構内にあった武道場)前にあった。占領政策を受けて1946年に政府が出した方針(学校及び公共用地等にある忠魂碑等の撤去)に伴い、現在地に移設された。背面下部に殉職者441人(うち原爆犠牲者354人)の名前が刻まれている。
段原05
段原06
消防職員殉職碑
1950年11月
南区比治山公園3番(ひかり茶屋手前)
この碑は元水主町旧武徳殿前に存し原爆に被災倒壊せるを此の地に移築再建したものである。昭和25年11月 広島県消防殉職碑建設委員会(背面) 広島県消防殉職碑建設委員会 当時、水主町(現在の加古町)には、広島県庁(爆心地から850メートル)や県病院があった。この碑は殉職した消防職員を慰霊するため、武徳殿(県庁構内にあった武道場)前にあったもので、原爆により倒壊し、3つに割れた。占領政策を受けて1946年に政府が出した方針(学校及び公共用地等にある忠魂碑等の撤去)に伴い、1950年、現在地に移設され、それに合わせて原爆犠牲者も合祀された。
段原06
段原07
船舶通信隊補充隊特別幹部候補生鎮魂の碑
1975年8月
南区比治山公園6番(陸軍墓地内)
友よ安らかにねむれ 兄等修羅の巷に逝きて30年 祖国存亡の秋に 少年学徒の身をもって馳せ参じ 人類史上例をみない被爆によってこの地にねむる 瀕死の身をいとわず友の安否を訪ねし兄等混迷のままに痛恨の思いをのこして散華せし友よ 兄等ののこした痛哭の思いは 生きのびた吾等の心に今なおうずく ここに同期の友等相集い 兄等在りし日の至純を追慕しいまわの声を継承してとわの平和を誓う 安らかにねむれ 若き友よ(正面)
由来記 船舶特別幹部候補生は 第2次大戦の末期 風雲急を告げる戦局打開のため志願応募した学徒少年兵で 若潮部隊と称されていた。 主力は海上挺進戦隊として小型舟艇に爆雷を搭載し 先輩は比島及び沖縄に出撃千有余名の者が散華していった 船舶通信隊補充隊特別幹部候補生隊は小豆島での基礎教育後広島に転属 ㋴と称した輸送船舶の通信要員として 千田町国民学校を宿舎にして教育を受けていた8月6日 朝の点呼中校庭で被爆 帰営中の三期生を含め 全員が重軽傷を負い特幹隊は壊滅の状態に陥ちた 各施設に収容されたものの 終戦の混乱で治療もままならず 旬日のうちに幾十名の者が散華していった。 昭和45年以来生存者有志相集い これら友の惨死を風化させるにしのびず 相はかりて還らざる友の冥福を祈り あわせていまわの声を継承し とわの平和を誓って鎮魂の碑を建立するものである。 昭和57年8月吉日 元船舶通信隊補充隊特別幹部候補生隊・若潮千通会有志一同建之(背面)
元船舶通信隊補充隊特別幹部候補生隊・若潮千通会有志 船舶特別幹部候補生は、第2次世界大戦末期、戦局打開のため志願応募した学徒少年兵だった。小豆島での教育後、広島に転属され、千田国民学校(現在の千田小学校。爆心地から約1.7キロメートル)を宿舎として教育を受けていた。8月6日朝、点呼中、校庭で被爆し、帰営中の三期生を含めて全員が重軽傷を負った。碑の背面には、犠牲者45人の名前が刻まれている。
段原07
段原08
中国軍管区司令部殉職の碑
1965年
南区比治山公園6番(陸軍墓地内)
昭和20年8月6日殉職 中国軍管区司令部故陸軍少将倉繁三蔵外102柱追悼之碑 比治山陸軍墓地保存協賛会 当時、広島城を中心とする基町一帯は、軍の施設が集まる一大軍事拠点で、その中心ともいえる中国軍管区司令部の庁舎は広島城の本丸と二の丸に置かれていた。原爆により、軍関係者のほか、通信業務に動員されていた比治山高等女学校の生徒・教員も犠牲となった。なお、軍関係者と比治山高等女学校の犠牲者を慰霊する碑として、「中国軍管区司令部軍人・軍属・動員学徒慰霊碑」(中区)」がある。
段原08
段原09
段原地区町民慰霊碑
1959年8月6日
南区段原三丁目1番(大正橋西詰南、猿猴川河岸緑地)
原爆慰霊碑 段原本通商店街、段原大畑町町内会、段原東浦町上組町内会、同下組町内会、段原新町上組町内会、同下組町内会、段原末広町町内会、段原中町上組町内会、同中組町内会、同下組町内会、南段原1丁目町内会、段原日出町町内会、段原山崎町町内会、段原本通商店会
 
比治山の爆心地の反対側に位置する段原地区は、家屋の倒壊も少なく、火災も発生しなかった。しかし、建物疎開作業のため雑魚場町(現在の国泰寺町一丁目。爆心地から1.2キロメートル)に動員された地区住民など、地区内では約800人が犠牲になった。こうした犠牲者を慰霊するため、きのこ雲に似た形の石で碑を建立した。碑の横に山本康夫氏による「原爆に あまた逝かせし なげきのみ うづきてやまず きのふのごとく」という歌碑がある。毎年8月6日、前の川で慰霊のため、灯ろう流しが行われている。
比治山01
段原10
広島市立第一高等小学校・第一国民学校慰霊碑
1990年7月31日
南区霞一丁目3番30号(段原中学校内、正門入って左)
被爆教師と生徒の碑 一高会原爆慰霊碑建設委員会 旧広島市立第一高等小学校 旧広島市立第一国民学校 一高会原爆慰霊碑建設委員会 広島市立第一高等小学校(現在の段原中学校)は1941年、第一国民学校に改称した。同校の教職員・生徒671人のうち、150人余りが昭和町(爆心地から1.5キロメートル)で建物疎開作業中に被爆し、負傷者が続出したが、正確な死亡者数はつかめていない。また、軍需工場に動員されて犠牲になった生徒も多いと言われている。教職員・生徒の消息を明らかにしようと、元教師と卒業生らが「一高会」を結成し、調査を開始するとともに、合わせて碑建立の募金運動を行い、碑を建立した。建立時までに判明した犠牲者は教職員11人、生徒51人である。2011年、段原中学校の移転に伴い、現在地に移設された。
※学校休校日は見学不可。見学時間は8時30分~17時。正門入って正面の事務室で見学したい旨を連絡
皆実01
翠町01
仏立寺原爆供養塔
1967年5月
南区比治山本町4番15号(仏立寺境内)
原爆供養塔 仏立寺 原爆で亡くなったすべての犠牲者を慰霊するため建立された。
皆実02
翠町02
電電搬送通信部関係職員慰霊碑
1950年1月30日
南区比治山本町11番20号(NTT DATA比治山ビル前庭)
廣島や 一灯もなく 天の川(正面)
この碑は、原爆直後に広島搬送電気通信工事局員52名の慰霊の為に、当時の局長中井秀基氏の自筆の句を刻んだもので、原子爆弾で亡くなられた友に贈る思慕の碑であり平和への祈りです。 「夜が来ると、暗い屋上に身を横たえては、仏の数を数えるようになった。-その仏の行方を追うかのように- 星が小さくまたたいて数が増えていく空の下で、それから、銀の星が嬉しいものの一つとなった。」多くの人々の平和のために、この碑の祈りを永く語りつづけたい。 昭和62年8月 NTT電信搬送関係者有志 NTT中国ネットワーク支社(台座)
生存職員有志・遺族会 当時、広島搬送電気通信工事局は、市役所南隣り(現在の国泰寺町一丁目。爆心地から1キロメートル)にあり、52人が犠牲となった。碑が建立された当時、役所内に慰霊碑を建てることは好ましくないという上層部の意向により句碑となった。建物の建て替えに伴い、1987年、現在地に移設された。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-563-5060)で)
皆実03
翠町03
進徳高等女学校職員生徒慰霊碑
1959年8月3日
南区皆実町一丁目1番58号(進徳女子高等学校内、正門入って右の講堂の南)
波羅密多 進徳学園 当時、進徳高等女学校は南竹屋町(爆心地から1.4キロメートル)にあった。同校は、原爆により学校内にいた2年生を中心に多くの犠牲者を出した。
※見学については要相談(事前に文書で見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を明記し、〒734-0007南区皆実町一丁目1番58号 進徳女子高等学校あて提出。後日、回答)
皆実04
翠町04
市立皆実小学校職員児童同窓生慰霊碑
1981年12月1日
南区皆実町一丁目15番32号(皆実小学校内、正門入って右)
いしぶみ 昭和56年12月1日建立(正面)
同窓生死没者並びに原爆死没者の先生・児童のみたまを弔う。本校創立60周年記念事業の一つとして同窓会が建立する(背面)
皆実小学校同窓会 皆実国民学校(現在の皆実小学校。爆心地から2.2キロメートル)では、当時学校にいた教師・児童を始め十数人が犠牲となった。また、1944年、1945年の同校卒業生の多くが市内中心部で建物疎開作業に出動中、亡くなったと思われる。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-251-2358)で)
皆実05
翠町05
広島高等師範学校附属中学校原爆死没者・戦没者慰霊碑
2005年4月17日
南区翠一丁目1番1号(広島大学附属小学校・中学校・高等学校内、正門入って右)
母校の創立百周年にあたり、戦争とりわけ原子爆弾に依ってあたら前途有為の人生を奪われた諸霊に対し、深甚なる弔意を捧げ碑を建立する 平成17年4月17日広島高等師範学校附属中学校 広島大学附属中、高等学校同窓会 アカシア会 原爆死没教職員 岡本恒治外7名 原爆死没元教職員 高橋悦郎外6名 原爆死没生徒 加藤恭三外18名 原爆死没アカシア会員 正岡一薫外66名 戦没元教官 寺田角一外2名 戦没アカシア会員 本村秀夫外121名(背面)
 
アカシア会 広島高等師範学校附属中学校では、在校生19人を含む学校関係者101人が原爆の犠牲となった。建立者のアカシア会は、広島大学附属中・高等学校の同窓会である。
※見学する場合、10日前までに事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-251-9881)で)
翠町01
翠町06
市立第三国民学校慰霊塔
1946年8月1日
南区翠四丁目15番1号(翠町中学校内、テニスコート右)
為昭和20年8月6日之戦災斃職員生徒児童210名。依遺族之寄附建之。昭和21年8月1日建之。 長屋裕智氏(当時の教師)および遺族 広島市立第三国民学校(現在の翠町中学校)では、雑魚場町(現在の国泰寺町一丁目。爆心地から1.2キロメートル)で建物疎開作業をしていた教員・生徒を始め、多くの犠牲者を出した。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-251-7448)で)
大河01
翠町07
比治山高等女学校職員生徒慰霊碑
1961年11月
南区西霞町5番16号(比治山女子中学・高等学校内、B館横の池の南)
ペンを預け たゞ一すじに 捧げたる 若きみ魂を 永久に偲ばむ(正面)
昭和20年8月6日散華 動員学徒職員75名 於中国軍管区司令部其他 昭和36年11月建之 比治山学園(背面)
比治山学園 比治山高等女学校では、原爆による犠牲者のほとんどが、広島城本丸内の中国軍管区司令部(爆心地から790メートル)で通信業務に動員されていた3年生と教員だった。1、2年生は市内中心部に建物疎開作業に出動するため、学校(爆心地から2.9キロメートル)に集合していて、難を逃れた。碑は校内の庭園の中に庭石のように設置されている。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-251-4478)で)
大河02
翠町08
県立広島工業学校職員生徒慰霊碑
1962年5月
南区出汐二丁目4番75号(県立広島工業高等学校内、正門入って左)
雨の日も風吹く夜半も 鎮もりて み魂よまもれ わが学び舎を 県工同窓会 広島県立広島工業学校の生徒210人は、4人の教師の引率の下、建物疎開作業のため、中島新町(現在の中島町。爆心地から600メートル)に出動中被爆し、全滅した。また、当時同校は、千田町三丁目(爆心地から2キロメートル)にあり、倒壊した校舎の下敷きになって亡くなった生徒もいた。碑の横には、明治時代に建てられたレンガ造りの広島県職工学校の校門が建っている。
大河03
翠町09
大河地区町民慰霊碑
1981年8月6日
南区北大河町23番8号(大教寺境内、鐘楼隣)
慰霊 大河文化財保存会 大河地区は比較的被害が少なかったが、当時、市内中心部にいて犠牲となった住民もいる。被爆証言運動が盛んになる中、地域の犠牲者を明らかにしようという機運が高まり、碑が建立された。横に名録碑があり、原爆死没者84人(直後の死没者79人と3年以内の死亡者5人)と戦没者92人の名前が刻まれている。
楠那01
楠那01
日宇那原爆慰霊碑
1952年
南区日宇那町13番6号(光明寺境内)
原爆慰霊碑(正面)
昭和27年建立(背面)
日宇那町内会 日宇那・楠那地区は比較的被害が少なかったが、当時、市内中心部にいて犠牲となった住民もいる。そうした犠牲者を慰霊するため、1952年に木碑を建立し、1981年8月に石碑を再建した。1952年以来毎年8月6日早朝、地元有志による慰霊祭が行われている。
宇品東01
宇品01
金輪島原爆死没者慰霊碑
1998年8月2日
南区宇品町金輪島170番地の1(金輪島トンネル出入口付近)
御霊安かれ 1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、街は一瞬のうちに破壊し、熱線に焼かれて跡形もなくなった。市民は熱線と放射能で即死、又は全身に火傷を負って逃げまどった。そのうち約500人位が金輪島に運ばれ、暁部隊の方などに助けられ、看護を受けた。負傷者は血だらけで、手をにぎると皮がつるりとむげ、水をくださいと叫びながら、次々に恐怖と苦悶の中で息絶えたという。同年8月15日、ついに終戦して戦火はやんだ。今日、広島は平和都市として復興し、我々は平和の恩恵を受けているが、この平和は50余年前不幸にして戦火の中に亡くなられた方々の犠牲の上に築かれたものである。 この碑を建てることにより、金輪島で息絶えられた方々の御霊を慰め、共々に平和を守る気持ちを新たにしたいと思う。(正面)
平成10年8月2日建之 金輪島原爆慰霊碑建立委員会(背面)
 
金輪島原爆慰霊碑建立委員会 平和再来の機縁となった原子爆弾による犠牲をいつまでも心にとめ、また、戦争が人類にとり悲惨な結果をもたらすことを若い世代にも末永く伝えるため、遺族等による募金により碑が建立された。
宇品01
宇品02
宇品地区町民慰霊碑
1966年8月
南区宇品海岸一丁目2番22号(コスタ宇品南)
(1)原爆犠牲者慰霊之像(正面)
 人類の破滅の危機を防ぎしぞ 霊安かれとここに祈羅む 酌熱の地獄のうめき 許せねぞ 平和の日々を送るよろこ飛。 弥陀のもとあなたも君も我も行く あゝ美しきなむあみだぶつ 見ず聞かず何んにも云えず知りもせず ただひたすらに弥陀の御許え。 私の本日あるも父母乃恩 山より高く海より深し。 1966年8月(側面・背面)
(2)原爆犠牲者慰霊(正面)
 永遠の平和祈念願 永遠の原水爆禁止(台座)
 
浜田一氏 原爆で亡くなった人々を慰霊するため、個人が建立した。建立者の父親も原爆の犠牲になった。
似島01
似島01
似島慰霊碑
1972年11月
南区似島町(似島中学校横)
昭和20年8月6日 広島市は人類最初の原子爆弾によって 一瞬のうちに20数万人の死傷者を出した 負傷者は各所に避難し ここ似島にも1万人余におよぶ人々が収容され 応急看護の甲斐もなく死亡者が続出し 混乱のなかとはいえ一部は仮埋葬のままでこの地に眠り悲しくも20有6年の歳月が過ぎた 昭和46年11月 はからずもこの地から遺骨が発見され推定517柱を発掘し 原爆供養塔に合祀した ここに1周年を迎え 諸霊の冥福を祈り平和への誓いを新たして この碑を建立する。 昭和47年11月 広島市長山田節男(背面)
 
広島市 1971年11月、似島中学校農業実習地から推定517体の遺骨と推定100体分の骨灰、その他の遺品が発掘された。1972年11月、原爆で亡くなられた御霊の冥福を祈り平和の誓いを新たにするため、碑が建立された。1990年9月には、旧陸軍馬匹検疫所焼却炉跡からスコップ300杯分の骨片、骨灰が発掘された。さらに2004年には、推定85体分の遺骨と65点の遺品が発掘された。これらの発掘された遺骨は、平和記念公園内にある原爆供養塔に納骨され、遺品は平和記念資料館に保管されている。
 
似島02
似島02
旧陸軍運輸部馬匹検疫所焼却炉の遺構碑
1991年2月
南区似島町(広島市似島臨海少年自然の家東)
旧陸軍運輸部馬匹検疫所焼却炉 この遺構は、平成2年(1990年)9月、ここから約600m南にある似島住宅用地内で発掘された旧陸軍運輸部馬匹検疫所(軍馬の検疫・消毒を行う施設)の焼却炉の一部を移設したものです。 昭和20年8月6日、広島市は人類最初の原子爆弾によって一瞬のうちに壊滅し、多くの死傷者を出しました。この年の12月末までに約14万人の人が死亡したと言われています。 ここ似島にも、約1万人の負傷した原爆被爆者が収容されましたが、応急看護のかいもなく死亡者が続出し、その遺体がこの焼却炉においても火葬されたものです。 ここに、原爆による被害の悲惨さを後世に伝えるとともに、恒久平和実現への誓いを新たにして、この遺構を保存します。 平成3年(1991年)2月 広島市 広島市 1945年8月に推定一千体の遺体を焼いたとされる旧陸軍馬匹検疫所の跡地の馬体焼却炉(現在、広島市似島住宅)を1990年9月に発掘調査し、原爆死没者の骨片を収集した。1991年、市民の要望により馬体焼却炉の一部を現在地に移設保存した。
似島03
似島03
原爆被爆者診療の地の碑
1978年5月3日
南区似島町(広島平和養老館前)
原爆被爆者診療の地(似島臨時野戦病院) 昇天の霊よ永久に安らかなれ 旧暁6165部隊は昭和16年7月広島にて編成以来病院船に乗組み主に南方方面の傷病兵を輸送診療に従事していたが最後にこの地に於て野戦病院を開設し1万人に及ぶ原爆被爆者を診療看護して復員する 旧暁6165部隊(病院船衛生53班) 西村幸之助外生存者 昭和53年5月3日建立 旧暁第6165部隊西村幸之助氏ら生存者 1945年7月、暁部隊所属の病院船衛生第14班、53班を含む船舶衛生隊が似島検疫所に本部を移して間もなく、原爆投下による負傷者が検疫所に収容された。臨時野戦病院に指定された似島検疫所に配置されていた病院船衛生隊第53班も被爆者の治療、看護にあたった。この歴史的事実の伝承と慰霊のため当該地に碑が建立された。

(注)原則、漢数字は算用数字で表記しています。

 

原爆関連の慰霊碑等の概要(西区内:13基)

地区
小学校区
中学校区

名称
建立年月日
所在地

碑文、追悼歌(注)

建立者

建立経緯・来歴等

大芝01
中広01
大芝学区町民慰霊碑
1977年8月6日
西区大芝公園2番(大芝公園内)
原爆死没者之碑 原爆死没者の33回忌に当り 御霊を慰め御冥福を永遠にお祈りし その遺族と被爆者に寄せられた各方面からの御厚意と御尽力に感謝し あの悲惨な原爆投下を忘れる事なく 世界平和を祈念するためこれを建立す(背面) 財団法人広島市原爆被爆者協議会大芝学区支部(15ケ町)および会員外有志
 
大芝地区では、小網町(爆心地から900メートル)に建物疎開作業に出動していた住民のほとんどが犠牲になった。こうした犠牲者を慰霊するため、原爆被災者が多く収容された似島に似た形の石で碑を建立したと言われる。
三篠01
中広02
広島県防空機動隊戦病没者慰霊碑
1971年11月
西区三滝山411番地(三瀧寺境内)
慰霊碑 広島モーターサイクル協会MCA 原爆や戦争の犠牲になった広島県防空機動隊員を慰霊するために建立された。なお、この碑と同様に広島県防空機動隊員の犠牲者を慰霊する碑として、「広島県防空機動隊員慰霊碑」(中区)がある。
 
三篠02
中広03
中広二丁目地区町民慰霊碑
1977年8月6日
西区三滝山411番地(三瀧寺境内)
原爆33回忌追善菩提也 益田マサヨ氏 犠牲になった中広地区町民を慰霊するため、個人が建立した。建立者は、原爆で夫を失い、子どもを戦争で失った。碑の横に建立者の家の墓石があり、その台座に「戦のいけにえとなりし夫と子のおもかげ追ひて掌を合せ生く」と刻まれている。
 
三篠03
中広04
安佐郡川内村原爆精霊供養塔
1951年5月
西区三滝本町一丁目(三滝墓苑)
原爆精霊供養塔 誓願寺、遺族一同 安佐郡川内村温井(現在の安佐南区川内地区)から中島新町(現在の中島町。爆心地から650メートル)に出動した川内村国民義勇隊の先発隊は、現場で建物疎開作業中に被爆して全滅した。また、後続隊は現場に向かう途中で被爆し、無傷で帰って来た人もいたが、後に原爆症に苦しむ人も少なくなかった。碑は当初、材木町(現在の中島町)にあった誓願寺に建立され、1965年5月、同寺の三滝への移転に伴い現在地へ移設された。なお、この碑と同様に川内村国民義勇隊の犠牲者を慰霊する碑として、「義勇隊の碑」(中区)がある。さらに、義勇隊犠牲者を含めて川内村戦没者戦災死者を慰霊する碑として、「川内村戦没者戦災死者供養塔」(安佐南区)がある。
 
観音01
観音01
福島地区町民慰霊碑
1977年7月25日
西区福島町二丁目2番(福島生協内科クリニック南東、平和大通り緑地帯)
天に抱くがごとく両手をさしのべし 死体のなかにまだ生きるあり 深川宗俊 福島地区被爆者の会 福島生協病院のケースワーカーらが中心となって町民とともに長年の募金運動の後、建立した。運動の一環として、手記集が発行された。碑の横に名録碑があり、犠牲者241人の名前が刻まれている。
観音02
観音02
観音東地区原爆犠牲者慰霊碑
1961年8月19日
西区東観音町31番(観音橋公園内、観船橋西詰北)
原爆犠牲者慰霊碑 観音町、観音本町一・二丁目、東観音町 各町内会 観音東地区では、多くの住民が市内中心部へ建物疎開作業に出動し、原爆の犠牲になった。こうした人を始め、地区の犠牲者を慰霊するため、建立された(1970年7月5日、再建)。なお、この碑と同様に観音東地区の犠牲者を慰霊する碑として、「観音東地区町民慰霊碑」(西区)がある。
観音03
観音03
観音東地区町民慰霊碑
1965年8月6日
西区東観音町31番(観音橋公園内、観船橋西詰北)
原爆慰霊碑 広島市観音婦人会 観音東地区では、多くの住民が市内中心部へ建物疎開作業に出動し、原爆の犠牲になった。こうした人を始め、地区の犠牲者を慰霊するため、建立された。1975年7月、碑を台座として親鸞聖人像が安置された。なお、この碑と同様に観音東地区の犠牲者を慰霊する碑として、「観音東地区原爆犠牲者慰霊碑」(西区)がある。
観音04
観音04
殉国国民義勇隊慰霊碑(観音西地区町民慰霊碑)
1971年8月6日
西区西観音町2番(西観音町交差点南西、平和大通り緑地帯)
殉国国民義勇隊は建物疎開に出動し被爆された ここに犠牲となられた多数隊員の霊を慰める。 昭和46年8月6日 広島市長 山田節男書(側面、背面)  有松喜一氏(寄贈)、慰霊碑建設世話人会 観音西地区では、住民270人が水主町(現在の加古町)の県庁付近(爆心地から900メートル)へ建物疎開作業に出動し、全員犠牲になった。こうした犠牲者を慰霊するため、建立された。
南観音01
観音05
山陽中学校職員生徒追悼碑
1957年8月6日
西区観音新町四丁目12番5号(山陽高等学校内、2号館と3号館の間)
碑に誌す 昭和20年8月 原爆による殉職者学校長外職員17名 犠牲者生徒486名いまここに集いて安らかに眠る その追憶 新たに尽きるときなし さわれ 歳月流れて13年 校運益々隆昌 先猷に応え 正に創立50周年の盛儀を迎う 往昔を離れ 我等と共に 平和の学園を護り給うしるしとて 茲に学園関係者相計りこの碑を立て 篤く供養を献ぐ。 昭和32年8月6日 学校法人石田学園 山陽中・高等学校(背面)
 
石田学園山陽中・高等学校 山陽中学1年生約410人は、雑魚場町(現在の国泰寺町一丁目。爆心地から1.2キロメートル)や天神町(現在の中島町。爆心地から400メートル)に建物疎開作業に出動し、そのほとんどが犠牲となった。また、当時、同校は、宝町(爆心地から1.2キロメートル)にあり、倒壊した校舎の下敷きになって亡くなった教職員・生徒もいた。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-232-9156)で)
己斐01
己斐01
被爆者の慰霊碑
2010年7月31日
西区己斐上二丁目1番1号(己斐小学校内、グラウンド南東)
祈り 原爆の 閃光にやかれ 己斐の地に逃れてきて 誰にも看取られず 荼毘にふされた人々の 無念の思いを 決して忘れません(台座) 己斐小学校に原爆のモニュメントをつくる会 被爆直後、己斐国民学校(現在の己斐小学校)は救護所となった。校庭で荼毘に付された2千人の犠牲者を慰霊するため、元児童が呼びかけて寄付金などで碑を建立した。このモニュメントは、「千羽鶴」「五大陸」「地球儀」「放射能標識」そして「被爆した広島」をテーマにデザインされた。999羽の鶴で五大陸を表現し、1000羽目の鶴と地球儀を組み合わせた構成になっている。放射能標識は旧広島市役所庁舎の被爆石で表し、今なお放射線の被害に苦しんでおられる被爆者の思いが込められている。「被爆した広島」は荼毘に付された学徒動員の方の形見のボタンや溶けたガラス瓶、食器、被爆した屋根がわらなどで原子爆弾の惨状を伝えている。己斐小学校で荼毘に付された方々への鎮魂と、これからの日本を背負っていく小学生が世界平和の心を持つことを祈念して制作された。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-271-4208)で)
庚午01
庚午01
庚午・高須地区町民原爆慰霊碑
1959年12月
西区庚午北二丁目14番(庚午第一公園内)
原爆慰霊碑
原爆慰霊碑の由来 太平洋戦争末期の1945年(昭和20)8月6日、突如人類初の原子爆弾が広島市上空で炸裂、一瞬のうちに十数万人の命を奪い去ると同時に多くの負傷者が出ました。 避難する途中この地で力尽き亡くなられた被災者は、地元高須庚午北町住民により荼毘に付され、ここに埋葬されました。 1948年(昭和23)遺骨の発掘が行なわれ、同年8月6日192柱が平和公園内の原爆供養塔へ納骨されました。 1959年(昭和34)恒久平和の願いを託して、書家 堀川岳陽先生揮毫による慰霊碑が高須、庚午北町民の浄財により建立されました。 建立50周年、慰霊碑改修工事にあたり碑の由来を記すとともに、往時を偲び改めてあまたの原爆犠牲者に哀悼の意を表します。 2010年(平成22)8月5日 高須町内会 庚午北町内会(説明板)
高須・庚午北町町内会 市内からこの周辺まで逃げてきて亡くなった人々を慰霊するため、建立された。当時、1回何十人と火葬したと言う。1946年に建立した木碑が1959年の台風で倒れ、その後現在の碑を建立した。2010年8月5日、碑建立50周年を迎え、碑の説明板を新たに設置するなど改修工事を行った。
 
草津01
庚午02
護法の碑
1963年11月23日
西区草津本町15番14号(教専寺境内)
昭和20年8月6日の朝わが教専寺総代世話係12名の方が、本尊御宮殿及び須彌壇の御迎えに、当時の市内天神町教念寺へ出向かれ、爆心地より620米の現地で、原爆によって一瞬の中に全員殉死されたのである。 ここに、親鸞聖人直筆の教行信證阪東本より護法の文字を頂き、護法之碑を建立し12名の功績を讃えると共に、開基より400数年にわたる総代世話係の御苦労に謝意を表すものである。 昭和38年11月23日 第16世住職 故選一法(背面)
 
教専寺 天神町(現在の中島町)は爆心地から近距離に位置していたため、原爆の直撃を受けて全壊・全焼した。天神町にあった教念寺へ出かけていた教専寺の総代世話係12人と役僧1人が犠牲になった。碑背面には、犠牲者13人の名前が刻まれている。
草津02
庚午03
草津南町国民義勇隊追悼碑
1981年8月2日
西区草津南一丁目16番(西部埋立第八公園内)
碑文 昭和20年8月6日午前8月15分広島市上空に投下された一発の原子爆弾により市内は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵と化し 無残に崩壊した瓦礫の焦土の中を蜿々と死の行列が続いた。 この日 軍の至上命令にもとづく広島市長の指令により出動した か弱い女子100名を含む草津南町国民義勇隊は市内小網町附近建物疎開作業任務中被爆し全員傷つき焼けただれ悲惨きわまる苦悶の果て次々と斃れていった。 私ども遺族は痛恨のうちに逝った肉身の無念を想いこのむごたらしい戦禍の再び繰り返すことのない平和への祈りをこめて157名の尊い犠牲を永久に伝へ残すべく記念の碑を建立し ここに追悼の意を捧げます。 昭和56年8月2日 草津南町国民義勇隊遺族一同。 撰文遺族代表 小西ノブ子(横の石碑)
 
草津南町義勇隊の慰霊碑を建設する会、草津南町国民義勇隊遺族一同 草津南町国民義勇隊は小網町(爆心地から900メートル)へ建物疎開作業に出動し、157人の犠牲者を出した。犠牲者数は当時の町人口の約1割に当たる。横には犠牲者の名前を刻んだ名録碑がある。また、碑文が刻まれた碑の上部には、当時の軍命令の「国民義勇隊出動指令伝達」文書も記されている。

(注)原則、漢数字は算用数字で表記しています。

 

原爆関連の慰霊碑等の概要(安佐南区内:13基)

地区
小学校区
中学校区

名称
建立年月日
所在地

碑文、追悼歌(注)

建立者

建立経緯・来歴等

梅林01
城山北01
佐東町八木地区戦没者慰霊碑
1977年5月
安佐南区八木三丁目26番16号(光廣神社境内)
日清及日露戦争5名、支那事変21名、大東亜戦争53名、軍属・義勇隊・学徒動員27名、原爆犠牲者40名(背面)
昭和8(1933)年御神殿造営の際發掘された由緒ある石を碑として御霊を合祀して永久の冥福を祈る。 昭和52(1977)年5月吉日 八木地区有志建立(台座)
八木地区有志 八木地区の日清戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(146人。うち原爆犠牲者40人))を慰霊するため、建立された。背面には、犠牲者の名前が刻まれている。
梅林02
城山北02
緑井慰霊碑
1984年1月29日
安佐南区緑井町権現山中腹(毘沙門天堂 多宝塔1階)
慰霊 荒木武書 毘沙門天堂総代原爆犠牲者慰霊多宝塔建設委員会 緑井、八木、川内の佐東地区旧3村ゆかりの原爆犠牲者の慰霊多宝塔を建立するため、約30年間の歳月と多くの方々からの募金により塔が完成した。碑は塔の1階にあり、内部には地元緑井地区の犠牲者27人と各世帯の物故者代表106人の過去帳が納められている。背後の壁面には、「念ずれば花ひらく」と刻まれている。毎年4月、慰霊行事が行われている。
川内01
城南01
川内村戦没者戦災死者供養塔
1953年12月6日
安佐南区川内五丁目40番1号(川内小学校内、正門入って左)
川内村戦没者戦災死者供養塔 川内村未亡人会(白梅会) 安佐郡川内村温井(現在の安佐南区川内地区)から中島新町(現在の中島町。爆心地から650メートル)に出動した川内村国民義勇隊の先発隊は、現場で建物疎開作業中に被爆して全滅した。また、後続隊は現場に向かう途中で被爆し、無傷で帰って来た人もいたが、後に原爆症に苦しむ人も少なくなかった。碑は、こうした原爆犠牲者と第2次世界大戦の戦没者を慰霊するため、建立された。なお、川内村国民義勇隊の犠牲者を慰霊する碑として、「義勇隊の碑」(中区)と「安佐郡川内村原爆精霊供養塔」(西区)がある。毎年8月10日ごろ、校庭で川内学区社会福祉協議会主催による慰霊祭が行われている。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-877-0044)で)
緑井01
城南02
緑井地区戦没者慰霊碑
1959年5月
安佐南区緑井四丁目34番17号(専蔵坊山門前)
緑井地區戦歿者慰霊碑 緑井地区民 緑井地区の戊辰戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(165人。うち原爆犠牲者55人)を慰霊するため、建立された。横に名録碑があり、犠牲者の名前が刻まれている。
安東01
安佐01
安忠魂碑
1961年5月20日
安佐南区相田二丁目4番(相田集会所前)
忠魂碑 安忠魂碑修築委員会 旧安村の西南戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(373人。うち原爆犠牲者は国民義勇隊78人、動員学徒53人の131人)を慰霊するため、建立された。左右に名録碑があり、犠牲者の名前が刻まれている。毎年秋に、遺族会主催の慰霊行事が地元の寺院(輪番制)で行われている。
中筋01
東原01
東野戦歿者慰霊碑
1960年10月2日
安佐南区東野二丁目22番20号(善教寺境内前)
戦歿者慰霊之碑 昭和35年9月 広島県知事 大原博夫敬書 東野地区戦歿者慰霊碑建設委員会 東野地区の西南戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(77人。うち原爆犠牲者は一般原爆死24人、動員学徒9人、動員学徒・女子挺身隊7人、軍人1人の41人)を慰霊するため、建立された。台座正面に犠牲者の名前が刻まれている。
原01
祇園東01
原忠魂碑
1967年8月(改修)
安佐南区西原六丁目13番(冬木神社前)
忠魂碑 原地区民有志・遺族会 旧原村の日露戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(133人。うち原爆犠牲は動員学徒37人、挺身隊7人、国民義勇隊6人、軍人6人、軍属5人、徴用工1人の62人)を慰霊するため、建立された。碑は当初1932年11月に建立されたが、占領政策を受けて1946年に政府が打ち出した方針(学校及び公共用地等にある忠魂碑等の撤去)を踏まえ、「忠魂碑」の文字がセメントで塗りつぶされ放置されていた。日本の独立回復後、文字は掘り出され、1967年の改修の際、原爆死没者なども含めて慰霊した。台座正面に犠牲者の名前が刻まれている。
祇園01
祇園01
祇園慰霊碑
1970年7月
安佐南区祇園二丁目21番12号(安神社境内)
国のため 行きて帰らぬ みたまを しのびて (台座正面) 祇園地区慰霊碑建設実行委員会、祇園地区社会福祉協議会 旧祇園町の日清戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(146人。うち原爆犠牲者は動員学徒38人、義勇隊8人、徴用工7人、軍人6人、勤労報国隊2人の61人)を慰霊するため、建立された。碑は当初1932年に祇園小学校内に建立されたが、占領政策を受けて1946年に政府が打ち出した方針(学校及び公共用地等にある忠魂碑等の撤去)に伴い、地元民が解体して地中に埋めた。日本の独立回復後、新しく戦没者慰霊碑を建立したいという声が高まり、1970年、地元民から寄せられた募金により現在の碑が建立された。毎年7月末か8月上旬、遺族会による慰霊祭が行われている。
祇園02
祇園02
大下学園祇園高等学校職員生徒慰霊碑
1954年9月22日
安佐南区祇園二丁目33番16号(AICJ中学・高等学校内、正門奥の中庭)
しづかなる 山のふもとの 学び舎に 君をしのびて われはげむべし(横の歌碑) 大下学園祇園高等学校 AICJ中学・高等学校の前身である祇園高等女学校の生徒は細工町(現在の大手町一丁目。爆心地から50メートル)にあった広島郵便局に動員中、被爆し、全滅した。碑の横には、犠牲になった生徒83人、教員1人の名前を刻んだ名録碑がある。
※学校休校日は見学不可。見学時間は8時30分~17時。正門入って左側の事務室で見学したい旨を連絡
 
山本01
祇園03
山本忠魂碑
1967年8月(修復)
安佐南区山本一丁目9番(「山本小学校前」バス停前)
忠魂碑 陸軍大将鈴木荘六書 山本地区民有志・遺族会 旧山本村の太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(72人。うち原爆犠牲者は動員学徒24人、国民義勇隊2人、徴用工2人、勤労報国隊2人、軍人1人、軍属1人の32人)を慰霊するため、建立された。碑は当初1935年に建立されたが、占領政策を受けて1946年に政府が出した方針(学校及び公共用地等にある忠魂碑等の撤去)を踏まえ、地区民は「忠魂碑」の文字をセメントで埋め、「平和塔」として保存した。日本の独立回復後、セメントを除去し、忠魂碑に復元した。1967年、碑の修復の際、原爆犠牲者なども含めて慰霊した。毎年8月15日、碑の前で遺族などによる慰霊祭が行われている。
長束01
長束01
長束忠魂碑
1954年4月29日(修復)
安佐南区長束二丁目1番(ネッツトヨタ広島祇園店西、蓮光寺専用駐車場内)
忠魂碑 陸軍中将 大谷喜久蔵書 長束地区民有志・遺族会 旧長束村の西南戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(121人。うち原爆犠牲者は動員学徒26人、義勇隊4人、徴用工4人、軍人4人、軍属3人、勤労報国隊2人の43人)を慰霊するため、建立された。碑は当初1913年に建立されたが、占領政策を受けて1946年に政府が出した方針(学校及び公共用地等にある忠魂碑等の撤去)を踏まえ、地区民は「忠魂碑」の文字をセメントで埋めて、保存した。1954年、碑の修復の際、原爆犠牲者なども含めて慰霊した。2010年8月、現在地へ移設された。
伴01
伴01
伴忠魂碑
1955年3月(修復)
安佐南区伴中央四丁目7番18号(専念寺前)
忠魂碑 陸軍中将正四位勲一等功二級男爵 真鍋斌書 伴村、伴村郷友会、伴村遺族会 旧伴村の西南戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(251人)を慰霊するため、建立された。犠牲者の名前が碑の四方に刻まれている。
 
伴02
伴02
広陵中学校職員生徒慰霊碑
1965年8月
安佐南区伴東三丁目14番1号(広陵高等学校内、正門入って右奥)
慰霊 広陵学園・同PTA 当時、広陵中学校は宇品町(爆心地から3キロメートル)にあった。1、2年生は、雑魚場町(現在の国泰寺町一丁目。爆心地から1.2キロメートル)から鶴見橋(爆心地から1.6キロメートル)周辺に建物疎開作業に出動し、生徒22人、職員2人が犠牲となった。また、その他軍需工場などに出動中の生徒14人が犠牲となった。
※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(082-848-1321)で)
 

(注)原則、漢数字は算用数字で表記しています。

 

原爆関連の慰霊碑等の概要(安佐北区内:16基)

地区
小学校区
中学校区

名称
建立年月日
所在地

碑文、追悼歌(注)

建立者

建立経緯・来歴等

井原01
白木01
井原甲田慰霊碑
1969年3月
安佐北区白木町井原(「甲田」バス停前)
慰霊碑 森川茂省氏 海軍軍人だった個人が、甲田地区の日中戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(13人。うち原爆犠牲者は県職員1人、軍人1人、準軍属1人の3人)を慰霊するため、建立した。碑正面下部に犠牲者の名前が刻まれている。なお、碑建立後に被爆死と判明した準軍属1人の名前は墨書されていたとのことだが、現在は消えている。毎年8月初め、遺族により慰霊行事が行われている。
 
井原02
白木02
井原地区平和の碑
2005年8月6日
安佐北区白木町井原(栄堂橋南詰西)
ひろしまの被爆体験を未来への警鐘として平成元年(1989年)「井原原爆被爆者の会」を結成し、5年毎に地区内の三ケ寺(浄満寺、養泉寺、高源寺)に於いて物故者追悼法要を厳修し被爆者による犠牲者の安らかな眠りと、平和への思いを新しくして被爆の実相を正しく後世に伝え、核兵器の廃絶、世界の平和と地域社会の繁栄を広く呼びかけ生ある限り人間の尊厳を求めて茲に「平和の碑」を建立する 平成17年8月6日 (2005年) 井原原爆被爆者の会 被爆60周年記念として、建立された。台座周囲には、地区内の被爆者の名前が刻まれている。
井原03
白木03
大寺慰霊碑
1975年4月
安佐北区白木町井原(荒神社境内)
慰霊碑 大寺地区民有志 旧市川村大寺地区の日中戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(7人。うち原爆犠牲者は学徒1人、軍人1人の2人)を慰霊するため、建立された。後方には犠牲者の名前を刻んだ名録碑がある。
 
志屋01
白木04
志屋慰霊碑
1975年10月
安佐北区白木町志路(県道68号大林井原線、龍福観音堂上り口付近)
慰霊碑 志屋地区遺族会 旧志屋村の日清戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(119人。うち原爆犠牲者は軍人11人、一般村民8人、軍属8人、動員学徒4人の31人)を慰霊するため、建立された。毎年秋、遺族会主催による慰霊行事が行われている。
 
三田01
白木05
三田慰霊碑
1956年9月28日
安佐北区白木町三田2649番地(三田小学校内、正門付近)
慰霊碑 文部大臣灘尾弘吉書 三田村 三田地区には、かつて忠魂碑があったが、戦後直後に撤去された。1956年、三田村が遺族の心情を汲んで碑を建立した。なお、旧三田村の日清戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者は173人で、うち原爆犠牲者は動員学徒23人、軍人2人の25人。毎年10月、遺族会主催による慰霊祭が行われている。
口田東01
口田01
慰霊碑
不詳
安佐北区口田南八丁目48番(教蓮寺矢口が丘墓苑内)
南无阿弥陀佛 前田元一郎氏 口田地区は、爆心地から離れていることもあり、人的被害はなかったが、爆風によって建物の屋根や建具などが破損した。被爆後、市内中心部から多くの被災者が逃れてきて、口田国民学校(現在の口田小学校)や口田村農業会(現在のJA広島)に約380人が収容された。そのうち約70人が犠牲となり、河原で荼毘に付されたり、山林に土葬されたりした。戦後、矢口の火葬場にあった慰霊碑を現在地に移設し、原爆慰霊碑として再建立した。
大林01
三入01
戦没者慰霊碑
1976年8月15日
安佐北区大林町3697番地(大林八幡神社境内)
戦没者慰霊碑 大林地区在住者一同 旧大林村の日清戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(原爆犠牲者は軍人7人、動員学徒4人、義勇隊2人、軍属2人などの計18人)を慰霊するため、建立された。碑正面に犠牲者の名前が刻まれている。
 
可部01
可部01
福王寺原爆聖靈供養寶塔
1971年8月6日
安佐北区可部町綾ケ谷251番地(福王寺境内、大師堂前)
南無大師遍照金剛尊(側面)
同一性故入■字(背面)■≒阿
服部静子氏 1963年に木碑が建立され、1971年に現在の石碑が建立された。
可部南01
可部02
可部地区原爆被爆者慰霊碑
不詳
安佐北区可部東四丁目2番13号(曼荼羅寺観音堂前)
原爆被爆者慰霊碑 山田保氏 可部地区に避難し、犠牲となった被爆者を慰霊するため、建立された。
亀山南01
亀山01
亀山原爆犠牲者の碑
1990年2月4日
安佐北区可部町大毛寺(亀山五丁目47番から福王寺山へ登る。福王寺山南麓)
昭和20年8月6日8時15分 原爆投下の際落下傘の落ちた地点 武田元繁後裔14世 安光覚遊建之 平成元年3月 題字 八十八翁 津恵保夫 安光覚遊氏 1945年8月6日、原爆炸裂に伴う気圧や温度の変化を調べるため、原爆投下に合わせて落下傘を付けた測定装置が投下された。約2時間後の10時15分、福王寺山南麓の安佐郡亀山村(現在の安佐北区亀山)に3個が落下し、そのうちの1個は碑建立者の個人所有の山林に落下した。建立者の長男は、学徒動員中被爆し、落下地点近くの姉の嫁ぎ先まで避難したが、そこで力尽きた。原爆の惨禍とパラシュートの落下の事実を伝えるため、長男の死没地近くのパラシュート落下地点に個人が碑を建立した。なお、落下したパラシュートと測定装置の一部は、平和記念資料館に保管されている。毎年8月6日の8時15分と10時15分に慰霊行事が行われている。
 
鈴張01
清和01
鈴張慰霊碑
1969年12月7日
安佐北区安佐町鈴張(鈴張小学校裏)
慰霊碑 鈴張慰霊碑建設委員会 旧鈴張村の日清戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(137人。うち原爆犠牲者は動員学徒9人、軍人3人の12人)を慰霊するため、建立された。碑背面に犠牲者の名前が刻まれている。
 
鈴張02
清和02
鈴張原爆慰霊碑
1970年8月
安佐北区安佐町鈴張1965番地(長覚寺境内)
原爆慰霊碑 鈴張地区民、長覚寺 被爆当日から傷付いた被災者は鈴張村へも避難してきた。翌7日以降、150人以上の負傷者がトラックで長覚寺に収容され、10月までに100人以上が亡くなった。そのうち80人以上の遺骨は遺族、近親者に引き取られたが、10数体の遺骨は引き取り手のないまま無縁仏として共同墓地に埋葬された。1970年に共同墓地が移転することになり、遺骨が再び長覚寺に移された。地元鈴張地区の人々はこれら被爆者の死を悼み、碑を建立し、遺骨を納めた。
※お話を伺いたい場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先を電話(坊守080-6307-5750、長覚寺082-835-1028、082-835-1929)で)
小河内01
清和03
小河内戦没者慰霊碑
1969年3月21日
安佐北区安佐町小河内3234番地(大歳神社付近)
慰霊碑 小河内慰霊碑建設委員会 旧小河内村の日中戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(118人。うち原爆犠牲者は軍人11人、動員学徒5人、軍属2人の18人)を慰霊するため、建立された。碑正面に犠牲者の名前が刻まれている。
 
飯室01
清和04
飯室忠魂碑
1971年4月29日(改修)
安佐北区安佐町飯室(養専寺前)
慰霊のことば このたび累次の戦いに尊い命を捧げられた方々の霊をこの碑に合祀し慰霊いたします。 どうぞ故郷の地に永久に安らかにお眠り下さい。 昭和46年4月(台座正面) 慰霊碑建設委員会 旧飯室村の日露戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(122人。うち原爆犠牲者は動員学徒の13人以外は不明)を慰霊するため、建立された。碑周囲に犠牲者の名前が刻まれている。
 
久地01
清和05
久地忠魂碑
1970年7月12日(改修)
安佐北区安佐町久地(「久地本郷下」バス停前)
忠魂碑 陸軍大将宇垣一成謹書 久地忠魂碑建設委員会 旧久地村の日清戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(160人。うち原爆犠牲者は学徒12人、軍人7人、準軍属6人、軍属5人、女子挺身隊1人の31人)を慰霊するため、建立された。碑は当初1929年に建立されたが、占領政策を受けて1946年に政府が出した方針(学校及び公共用地等にある忠魂碑等の撤去)を踏まえ、地区民が解体して地中に埋めた。1968年、碑再建の機運が高まり、碑が掘り出され、2年後に原爆死没者なども慰霊対象に含められた。碑側面及び台座に犠牲者の名前が刻まれている。
日浦01
日浦01
日浦慰霊碑
1971年12月
安佐北区安佐町後山(「後山農協前」バス停北200メートル)
慰霊碑 広島市長 山田節男謹書 日浦慰霊碑建設委員会 旧日浦村の日中戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(104人。うち確認されている原爆犠牲者は学徒の15人)を慰霊するため、建立された。碑背面に犠牲者の名前が刻まれている。後山地区の住民により、毎週一回、慰霊のための献花が行われている。

(注)原則、漢数字は算用数字で表記しています。

 

原爆関連の慰霊碑等の概要(安芸区内:1基)

地区
小学校区
中学校区

名称
建立年月日
所在地

碑文、追悼歌(注)

建立者

建立経緯・来歴等

中野01
瀬野川01
瀬野川地区原爆死没者追悼碑
1994年7月24日
安芸区中野三丁目9番(中野第二公園内)
碑文 第2次世界大戦が終局を迎えようとする昭和20年(1945年)8月6日広島に 9日長崎に 人類史上初の原子爆弾を投下され 両市は一瞬にして焦土と化し広島では20数万人が尊い命を奪われた。 黒こげになった屍の山、眼球や内臓のとびだした死体、黒こげの満員電車、倒れた家の下敷きになり生きながら焼かれた人たち、人の世の出来ごととはいえない無残な光景であった。 瀬野川地区でも建物疎開、学徒動員等で172名が死没され、4,446名の方が学校、寺院などの臨時救護所に収容された。(瀬野川町誌20年8月31日現) 被爆50周年を迎えるにあたり 死没された方の追悼と「人類とは共存できない核兵器の廃絶」2度と被爆者をつくらないことを後世に伝え、世界平和を祈念してこの碑を建立する。 1994年7月 瀬野川地区原爆被爆者の会(背面)
 
瀬野川地区原爆被害者の会 被爆50周年の節目の事業として、瀬野川地区住民の寄付金によって建立された。碑文にある犠牲者172人は、名前が判明した分のみで、地区に設けられた臨時救護所での犠牲者数は不明である。毎年7月、瀬野川地区原爆死没者追悼式典が行われている。

(注)原則、漢数字は算用数字で表記しています。

 

原爆関連の慰霊碑等の概要(佐伯区内:7基)

地区
小学校区
中学校区

名称
建立年月日
所在地

碑文、追悼歌(注)

建立者

建立経緯・来歴等

湯来東01
湯来01
水内慰霊碑
1960年11月
佐伯区湯来町麦谷1803番地の1(湯来東小学校前)
慰霊碑 広島別院輪番小笠原彰真書 旧水内村 水内村など3村が湯来町に合併したことを記念し、旧水内村の日清戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(293人。うち原爆犠牲者は軍人・軍属42人、動員学徒13人、勤労奉仕隊員7人、義勇隊3人、徴用工員3人の68人)を慰霊するため、建立された。碑背面に犠牲者の名前が刻まれている。毎年秋、水内地区遺族会などによる慰霊行事が行われている。
湯来東02
湯来02
湯来町原爆死没者慰霊碑
1996年12月5日
佐伯区湯来町和田333番地(サンピア湯来構内)
被爆50周年にあたり、原子爆弾により尊い命を奪われた数多くの御霊に捧げるために、ここに原爆死没者慰霊の碑を建立する。 私達、被爆者は、被爆50周年を新たな出発点として、再び悲劇を繰り返さないため、核兵器廃絶と恒久平和の実現に向かって、なお一層努力することを誓います。 平成8年3月 湯来町原爆被爆者の会(背面) 湯来町原爆被爆者の会、原爆死没者慰霊碑建立実行委員会 1993年、湯来町原爆被害者の会による「証言湯来のヒロシマ」の発刊が端緒となり、碑建立実行委員会を組織し、被爆50周年記念事業として建立事業を始め、1996年に碑が完成した。
湯来西01
湯来03
上水内慰霊碑
1959年9月
佐伯区湯来町多田2416番地(河内神社境内)
慰霊碑 広島県知事大原博夫 旧上水内村 上水内村など3村が湯来町に合併したことを記念し、旧上水内村の日清戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(204人。うち原爆犠牲者は27人)を慰霊するため、建立された。台座正面に犠牲者の名前が刻まれている。毎年秋、上水内地区戦没者追弔法要実行委員会などによる慰霊行事が行われている。
湯来南01
砂谷01
砂谷慰霊碑
1956年9月30日
佐伯区湯来町伏谷25番地の1(西光寺境内)
慰霊碑 昭和31年9月30日 龍谷勧学文学博士 大江淳誠 旧砂谷村 砂谷村など3村が湯来町に合併したことを記念し、旧砂谷村の西南戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者(286人。うち原爆犠牲者は軍人・軍属33人、動員学徒8人、義勇隊8人、徴用工7人の56人)を慰霊するため、建立された。台座正面に犠牲者の名前が刻まれている。毎年秋、砂谷地区戦没者追弔法要実行委員会などによる慰霊行事が行われている。
※見学する場合、事前連絡必要(電話0829-86-0495)
五日市中央01
五日市01
佐伯区原爆死没者慰霊碑
1995年7月2日
佐伯区五日市中央六丁目1番(五日市中央公園内北東)
被爆50周年記念 平成7年8月6日 財団法人 広島市原爆被害者協議会佐伯支部建之(背面) 
広島の願い 平和の継承(碑前の被爆石)
昭和20年(1945) 8月6日午前8時15分 あの日 あの時 あれから 50年 世界のはてすべてに 広島の願い 平和つなぎうけつげ いつまでもいつまでも(碑右前の被爆石)
広島市原爆被害者協議会佐伯支部 被爆50周年を迎えるに当たり、広島市原爆被害者協議会佐伯支部会員の永年の願いであった碑建立が実現した。波形の曲線を持つ碑を、佐伯区を構成する旧5町村から集められた石の5重の輪が取り巻き、それに旧広島市役所庁舎の被爆石10個が配されている。被爆後から碑建立までに亡くなった1万人近い名簿は碑前の地下に埋納されている。碑とそれを囲む5重の石の輪には、被爆50周年の節目の年に、平和を希求するヒロシマの声が佐伯区から天高くのぼり、日本全国へ、さらに全世界へ波及するようにとの願いが込められている。碑前に立って、50年前の惨禍とヒロシマの願いをじっくりと考えてほしいという思いが、2個の被爆石に刻まれた簡潔な碑文に凝縮されている。
 
五日市01
五日市02
五日市町原爆死没者慰霊碑
1965年5月23日
佐伯区五日市二丁目1番1号(光禅寺参道)
原爆の犠牲となった人々を忘れず 原水爆のない平和な世界を築こう(正面) 
原爆慰霊碑由来 1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分広島の上空570メートルで世界最初の原子爆弾が投下されました その日は雲一つない晴天真夏の太陽がじりじりと照りつけはじめたとき1発の原爆は閃光と同時に大音響を発し瞬時にして20数万の尊い人命を奪い街を廃墟と化した 当時五日市町から広島市内各職場への通勤者軍指示による建物疎開作業者市内に点在する公共の事業場兵器廠、被服廠、糧秣廠、軍需品の生産工場へ動員されていた生徒および女子挺身隊員など多数の町民が原爆の惨禍に遭遇しました 原爆はただ単に瞬間的破壊力や殺傷力が大きいだけでなく放射線によって人体の細胞組織まで破壊し永続性的原爆症の障害を終生払拭することはできません 人類が生きつづけるために再び戦争を繰り返してはなりません 原爆を体験した私たちは生証人として非人道的な原水爆の禁止を強く訴えるとともに原爆犠牲者の霊をなぐさめるためにここに原爆慰霊碑を建立しました 七尾中学校吉野誠教諭による慰霊碑のデザインは人間が合掌した像を表現したものです 碑文は広島大学教授文学博士森滝市郎氏の揮毫で蒲谷組株式会社が工事を担当 光禅寺さんのご協力でこの地に1965年(昭和40年)5月23日被爆20周年を記念して町民の浄財で原水爆禁止五日市町協議会が建立しました なお慰霊碑には234名の原爆死没者の氏名を謹載した過去帳と5柱の遺骨が安置されています(碑横)
原水爆禁止五日市町協議会 五日市町の原爆犠牲者239人を慰霊するため、建立された。
五日市02
五日市03
五日市町原爆・戦災犠牲者慰霊碑
1965年8月6日
佐伯区五日市二丁目2番9号(正向寺境内、本堂南)
怨親平等 戦病死者 原爆死者之霊 正向寺(高光粂一氏、高光コサト氏、竹本タマヨ氏寄贈) 戦病死者及び原爆犠牲者約800人(うち原爆犠牲者は約6割)を慰霊するため、建立された。

(注)原則、漢数字は算用数字で表記しています。

このページに関するお問い合わせ先

市民局 国際平和推進部 平和推進課
電話:082-242-7831 /  FAX:082-242-7452
メールアドレス:peace@city.hiroshima.lg.jp