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平和記念施設保存・整備方針 資料編4.平和記念施設の保存・整備に係る過去の理念・議論

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平和記念施設保存・整備方針 資料編4.平和記念施設の保存・整備に係る過去の理念・議論

1.過去の理念・議論の概要
2.過去の理念・議論等

目次
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この資料は、平和記念施設あり方懇談会で議論をいただくため、平和記念施設に関連する過去の理念や議論を、各施設の保存・整備に係る節目の事項と併せ、市民局国際平和推進部において整理したものである。
 

  1.過去の理念・議論の概要

 

  1.原爆ドーム  

●原爆ドームについては、戦後、記念物等として残すという考え方と、危険建造物であり、被爆の悲惨な思い出につながる等の理由で取り壊すという二つの考え方があった。しかし、市街地が復興し、被爆建物が次第に姿を消していく中、保存を求める声が高まり、昭和41年(1966年)7月広島市議会が原爆ドームの保存を決議した。これを踏まえ、昭和42年(1967年)第1回目の保存工事が実施され、その後数回の保存工事を経て、現在に至っている。

[原爆ドームの呼称]

○「原爆ドーム」の名は建物の頂上天蓋の残骸が傘状になっている姿から、「いつ頃からともなく、市民の間から誰いうともなく自然に言い出された」と言われている。新聞紙上においては、昭和23年(1948年)に「元産業奨励館のドーム」の呼称が用いられ、昭和25年(1950年)の社説(6月23日中国新聞)の文中に「原爆ドーム」の記述があり、当時の巷間では既にその呼び名が定着していたと考えられる。

[原爆ドーム保存の理念]

(1)被爆の証
「原子爆弾洗礼の記念的な残骸である旧産業奨励館を、…」(昭和26年(1951年)広島平和記念都市建設専門委員会の都市建設計画についての答申)
「悲劇を刻むこのドームは絶対に取り除いたりすべきでなく、…」(昭和33年(1958年)国の観光診断)
「被爆都市広島を表徴する記念聖堂であって世界における類例のない文化財である」(昭和40年(1965年)湯川博士等要望書)

(2)戒め、核兵器廃絶の象徴
「原爆ドームは世界の原水禁運動の象徴だ」(昭和35年(1960年)日本原水協要望)
「人智のとどまることを知らぬ発展と変化はこの過ちを再び繰り返すこと保しがたいので原水爆を永久にこの地上から抹殺するためにはこの記念聖堂をその戒めとして永久に保存しなければならない」(昭和40年(1965年)湯川博士等要望書)
「広島の惨害の記念物であるばかりでなく、人類が破滅と繁栄の岐路に立つ原子力時代の「警告」であり、人類がその過ちを二度とくり返してはならない「戒律」であります」(昭和41年(1966年)原爆ドーム保存趣意書)
「悲惨な事実を後世に伝え人類の戒めとするため…」(昭和42年(1967年)原爆ドーム説明板)

(3)平和の象徴
「広島市民が平和を希求しているシンボルである」(昭和29年(1954年)広島県観光連盟)
「原爆ドームのもつ人類史的意義、とりわけ世界平和確立の銘鑑としてもつ重要な意義に思いを致され…」(昭和39年(1964年)被爆者団体等の要請書)
「人類懺悔の象徴として、平和祈願のために保存しようとするものであります」(昭和41年(1966年)原爆ドーム保存趣意書)

(4)観光資源
「歴史的記念物であるとともに観光資源に乏しい広島市にとって重要な観光資源であり、…」(昭和29年(1954年)広島県観光連盟)
「原爆の観光資源として保存すべきものである」(昭和31年(1956年)渡辺市長議会答弁)

(5)平和記念公園の構成要素
「平和公園もこのドームを中軸として設計されたものであるので…」(昭和33年(1958年)国の観光診断)
「ドームは平和公園の一環となって設計されているものだし、その意味からも重要」(昭和35年(1960年)浜井市長)
「特に原爆記念公園の焦点的存在である点からみてこの記念聖堂は現存する位置に存置する必要がある」(昭和40年(1965年)湯川博士等要望書)

  2.平和記念公園  

●平和記念公園については、被爆後のごく早い時期から、“被災の状況を保存”するとともに、“原爆死没者を慰霊”し、“世界恒久平和を祈念”する公園と関連する記念施設を整備しようとする構想が数多く提案されている。
その整備は、当初の中島公園としての計画から、平和記念都市建設法の制定に伴い、平和記念施設事業として行われた。昭和25年(1950年)から着工し、昭和27年(1952年)に原爆死没者慰霊碑、被爆10周年に当たる昭和30年(1955年)までに平和記念館(現在の平和記念資料館東館)、平和記念資料館などが完成し、これと並行して現在の平和記念公園の礎となる付属施設、植樹も完成した。
平和記念公園は、「被災の状況を保存」「原爆死没者を慰霊」「世界恒久平和の拠点」などの整備当初の理念を継承し、その機能を拡充しつつ現在に至っている。

[平和記念公園整備の理念]

  • 被災の状況を保存
     
  • 原爆死没者の慰霊
     
  • 世界恒久平和の拠点
    「爆発地点中心附近を相当広範囲にわたって記念区域とし存置する」(昭和20年(1945年)9月広島県の広島市復興の構想)
    「世界平和の発祥地を象徴して爆心地を中心に一キロ平方の霊地圏を設定し二十万戦災死者の大供養塔と終戦記念館を設立する」(昭和20年(1945年)11月桑原市男(旭株式会社社長)の広島建設案「新広島建設要綱」)
    「原子爆弾を記念し、世界平和復興を記念する公園として、関連した施設を整備する」(昭和21年(1946年)10月都市計画広島地方委員会で中島公園を説明)
    「ピカドン被害を保存する目的をもった記念公園(メモリアル・パーク)」(昭和22年(1947年)マイルス・ヴォーンUP東洋方面副杜長「ピカドン記念公園・博物館の構想」)
    「公園の中心に慰霊碑を建てて、永遠の平和を祈念する、市民の精神涵養と鼓吹の場とする」「ここを原爆ドームを中心として、永久に世界平和の拠点とする構想をたてた」(浜井市長の回顧)
    「世界平和復興を記念する公園として大規模の中島公園(現在の平和記念公園)を設けることとした」「原爆の惨状を後世に伝えるものを考えていたが、広島県産業奨励館の壊れたドームがほとんど爆心地にあたることや、その外観から最適と思われたので、中島公園と一体として記念公園を考えることとした」(竹重貞蔵寄稿文「49年前を回顧して~広島市の戦災復興都市計画の構想」)
    「歴史的原爆の爆心地と同時に平和都市広島の中心地である中島の地域に記念公園を造成しその中に平和都市の基調となる諸施設を配置する」(昭和27年(1952年)広島平和記念都市建設計画決定並びに同事業の決定図書)
  • 市民の憩いの場
    「昔から水の美しい町として、臨水公園をつくりたかったからであった」「もともと私の構想は、この記念公園を市民の憩いの場とする」(浜井市長の回顧)
  • 観光資源
    「世界の旅行者を引付ける甚大な価値」(昭和22年(1947年)マイルス・ヴォーンUP東洋方面副杜長「ピカドン記念公園・博物館の構想」)
  3.平和記念資料館  

●平和記念資料館は、昭和30年(1955年)8月、原爆による被害の実相を世界中の人々に伝え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与するために設置された。
現在の平和記念資料館は、東館には被爆前と被爆後の広島の歴史的事実を踏まえた「広島のあゆみ」を、本館には被爆者の遺品や写真などを展示している。また、資料館では、原子爆弾による被災及び平和に関する資料の収集、保管、展示及び供用のほか、原子爆弾による被災に関する調査研究、平和学習、被爆体験の継承等平和を考える場の提供などを行っている。

[平和記念資料館整備の理念]

  • 原子爆弾に関する博物館
    「原子時代博物館を建設すること」(昭和22年(1947年)タム・デーリング・レクリェーション公園計画相談所「絶好の機会と重責を課せられた広島の将来に対する概観報告書」)
    「ピカドンに関する資料、写真を陳列するピカドン博物館の建設」(昭和22年(1947年)マイルス・ヴォーンUP東洋方面副杜長「ピカドン記念公園・博物館の構想」)
  • 平和運動、平和問題研究のための拠点
    「平和記念館はそういう意味で、平和運動や文化活動の集会や展覧会が開けるようにし、平和問題研究のための図書室、研究室を置くこともできるように設計させた。資料館も、単に原爆の資料を陳列するだけでなく、広く平和運動に関する資料や郷土の博物資料なども展示できるようにしたいと思っていた」(浜井市長の回顧)
    「丹下は「平和は祈ることによって与えられるものではない。平和は、建設されるものである。新しく設けられる記念館は、平和をつくり出す工場でありたいと思う」と述べている」(広島被爆40年史都市の復興)
  4.平和大通り  

●戦後の広島市の復興における街路計画において、平和大通りはまず、「市街を東西に貫く幅100mの防災道路を兼ねた美観的な緑地帯」としてその整備が計画された。計画当初には、「百メートルも幅のある道をつくって、一体市はどうするつもりだろうか」「もったいない話だ」などとする意見が根強くあった。
「平和大通り」の名称は、平和記念公園の両側に架かる「平和大橋」「西平和大橋」とともに、市民から募集し、決まったものである。また、平和大通りの緑化は、昭和32年(1957年)から33年(1958年)にかけて行われた供木運動などより進められ、現在では市民がその木陰で休み、憩う場となっている。

[平和大通り整備の理念]

  • 防災機能を持つ道路
    「市街地は相当な広場と広幅の道路とによって将来火災の延焼予防や菜園建設をはかりたい」(昭和20年(1945年)9月広島県知事「広島再建の計画」)
    「幅100メートルの防火用直線道路を造り」(昭和21年(1946年)2月広島市復興審議会第1回会合で長島敏復興局長が新生広島市の都市計画案を発表)
  • 美観的な緑地、レクリェーション・観光
    「防災道路を兼ねた美観的な緑地と考えている」(昭和21年(1946年)8月都市計画広島委員会への付議)
    「交通目的の外レクリェーション、観光、防災に資せしめる」(昭和27年(1952年)3月都市計画広島地方審議会)
  • 平和記念、平和の形象
    「広島市全体を平和の形象をもって埋め尽すことは、望むべくして経済的に成り立たない…百米街路にもまたこれを望むことが可能であり、且つ有意義である」(昭和26年(1951年)8月広島平和記念都市建設専門委員会の都市建設計画についての答申)
    「本市の中央を東西に貫く100米街路を平和記念道路として計画し」(昭和27年(1952年)3月都市計画広島地方審議会)

     

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  2.過去の理念・議論等

 

年月

内容

昭和20年(1945年)9月

広島県の広島市復興の構想≪平和記念公園≫

原子爆弾が大東亜戦終結の重大契機となったものでこれを記念するため何らかの施設を講ずべきであるとの意見が強く、(中略)もっとも被害の大きかった 爆発地点中心附近を相当広範囲にわたって記念区域とし存置する方針である…(昭和20年(1945年)9月2日中国新聞)

広島県知事「広島再建の計画」≪平和大通り≫

市街地は 相当な広場と広幅の道路とによって将来火災の延焼予防や菜園建設をはかりたい(昭和20年(1945年)9月7日中国新聞)

11月

桑原市男(旭株式会社社長)の広島建設案「新広島建設要綱」≪平和記念公園・平和記念資料館≫

新広島は 世界平和の発祥地を象徴して爆心地を中心に一キロ平方の霊地圏を設定し二十万戦災死者の大供養塔と終戦記念館を設立する(昭和20年(1945年)11月20日中国新聞)

昭和21年(1946年) 1月

復興計画についての広島県都市計画課長談「幅員100メートルといふ"長い公園"といったやうなものも出来る」が報じられる(昭和21年(1946年)1月21日中国新聞)

2月

広島市復興審議会第1回会合で長島敏復興局長が新生広島市の都市計画案を発表≪平和記念公園・平和大通り・平和記念資料館≫

比治山公園から己斐にかけ幅100 メートルの防火用直線道路を作り、爆心地には公園、記念施設を設計(昭和21年(1946年)2月27日中国新聞)

5月

ジョン・モントゴメリー中尉らが復興審議会で爆心地の建物保存について発言(昭和21 年(1946 年) 5月17日第11回復興審議会)≪原爆ドーム≫

モントゴメリー中尉 「あのまゝで何年持つだろうか。保存したいものである」
藤田一郎委員 「相当持つものと思はれる。是非さう願いたい」
(広島新史資料編2)

6月

公園・緑地・墓苑計画ほぼ固まる。この中に大公園として中島公園:昭和21年(1946年)6月24日復興審議会審議決定事項(広島新史資料編2)≪平和記念公園≫

8月

佐藤七郎広島工専校教授「ユートピア広島の建設」≪平和記念公園≫

爆心地区は世界平和の重大なる意味を有する国際的史跡である故、平和記念塔を中心として国際平和広場を設け、ここを緑化して一大公園としその中には国際倶楽部ないし国際会館を設けて…(昭和21年(1946年)8月6日中国新聞)

都市計画広島委員会で復興都市計画街路決定の件を説明:昭和21年(1946年)8月≪平和大通り≫

…真中の大きな線は広路第1号(平和大通り)であり、東の比治山と西の己斐とを結ぶ、 防災道路を兼ねた美観的な緑地と考えている…(戦災復興事業誌)

10月

都市計画広島地方委員会で中島公園を説明:昭和21年(1946年)10月≪平和記念公園≫

〔竹重幹事(広島県都市計画課長)〕…中島公園でありますが、これは三方を川に挟まれて居ります、非常に景勝の地でございまして、慈仙寺の鼻から南の方百米の公園道路までの間約三万三千坪の区域であります、この区域で偶々原子爆弾の中心地区域に当って居るのでございまして、 原子爆弾を記念すると申しますか、又は世界平和復興を記念する公園と致しまして、それに関連した施設を此処に行っていきたいと考える訳であります…(広島新史資料編2)

 

〔村上委員(市議会議員)〕…中島公園の一件でございます。あれを全部緑地帯の公園にするよう仰言ったのでありますが、これは広島市の商業都市の礎石を成して居るものでありまして、地元民の多数の要望であり、又広島市自体もこれに対しまして相当関心をもって居るのでございます。 これを是非とも商業地帯に御願致します(戦災復興事業誌)

昭和22年(1947年) 6月

タム・デーリング・レクリェーション公園計画相談所が「絶好の機会と重責を課せられた広島の将来に対する概観報告書」を公表  ≪原爆ドーム≫

「絶好の機会と重責を課せられた広島の将来に対する概観報告書」
… 原子時代記念館及び平和記念碑として原爆投下点に近く中央に位置する建物を保存すること…(新修広島市史第7巻資料編その二:昭和23年(1948年)1月29日付書簡)

昭和22年(1947年) 7月

マイルス・ヴォーンUP 東洋方面副杜長「ピカドン記念公園・博物館の構想」≪平和記念公園・平和記念資料館≫

ピカドン被害を保存する目的をもった記念公園(メモリアル・パーク)は世界の旅行者を引付ける甚大な価値を有する。ピカドンに関する資料、写真を陳列するピカドン博物館を建設する。(昭和22年(1947年)7月29日中国新聞)

時期不明

浜井市長の回顧≪平和記念公園・平和記念資料館≫

… 歴史的な由緒のある中島地区をとり潰して、公園にするとはけしからぬという反対が起きた。さびれたとはいえ、国道筋にはやはり商店が並んでいた。公園で東と西の商店街が切られると、西側はますますさびれる。つまり反対は感傷論と経済上の理由からであった。…私たちが特に 中島を平和記念公園に選んだのは、爆心地に近いことと、昔から水の美しい町として、臨水公園をつくりたかったからであった。…そしてここを原爆ドームを中心として、永久に世界平和の拠点とする構想をたてた…もともと私の構想は、この 記念公園を民の憩いの場とすると同時に、公園の中心に慰霊碑を建てて、永遠の平和を祈念する、市民の精神涵養と鼓吹の場とする、というのにあったのである。そのため慰霊碑前には、数万の市民が集まることのできる広場をつくり、文化的な施設を公園内に設けることにした。 平和記念館はそういう意味で、平和運動や文化活動の集会や展覧会が開けるようにし、平和問題研究のための図書室、研究室を置くこともできるように設計させた。資料館も、単に原爆の資料を陳列するだけでなく、広く平和運動に関する資料や郷土の博物資料なども展示できるようにしたいと思っていた…(浜井信三「原爆市長ヒロシマとともに二十年」)

竹重貞蔵(元広島県都市計画課長)寄稿文「49年前を回顧して~広島市の戦災復興都市計画の構想」≪平和記念公園≫

世界平和復興を記念する公園として大規模の中島公園(現在の平和記念公園)を設けることとした…
原爆の惨状を後世に伝えるものを考えていたが、広島県産業奨励館の壊れたドームがほとんど爆心地にあたることや、その外観から最適と思われたので、中島公園と一体として記念公園を考えることとした…(戦災復興事業誌)

昭和23年(1948年) 7月

広島市復興顧問ジャビー少佐が被爆遺物の保存運動を提唱(昭和23年(1948年)7月8日中国新聞)≪原爆ドーム≫

広島市観光協会が観光ヒロシマ建設へ13ヶ所の原爆名所(元産業奨励館など)の保存を決定(昭和23年(1948年)7月13日夕刊ひろしま)

8月

広島市観光協会が元産業奨励館の存廃アンケートを実施
604通の回答で存置436通、否存置168通(昭和23年(1948年)8月18日中国新聞)

昭和24年(1949年) 4月

平和記念公園設計懸賞募集≪平和記念公園≫

条件として 「世界永遠の平和を祈念するための平和記念館と戦没者をまつる慰霊塔は必ず公園内に設け、慰霊塔には原爆の各種記念品を納める科学記念館を併置すること」が示された(戦災復興事業誌)

8月

「広島平和記念都市建設法」公布

丹下グループの設計案≪平和記念公園≫

東京大学建築学教室丹下グループの作品が一等に選ばれた。同設計は、 百メートル道路を正面とし、南向きに平和記念館を設置、同館は廊下によって本館と集会所の二つの建物がつながれ、公園の中央には、平和の記念碑ともいうべきアーチの塔をつくり、随所に緑が配され、百メートル道路の位置に観光客が立てば、記念館の列柱廊とアーチの塔を透かして、原爆ドーム(旧産業奨励館)が見通し得るようになっていた。この設計案が、市の平和記念施設事業を進める元になった(戦災復興事業誌)

平和都市建設の中心課題(平和会館)丹下健三≪平和記念公園≫

…四つの基本的な施設―平和会館―広場―祈りの場所―原爆の遺跡―が配置されたのである。100米道路から、記念館の列柱廊を通って、ほぼ二万人を容れる広場に入ることができる。その先には、平和の鐘を釣したアーチがそびえ、そのアーチを通して原爆記念の遺跡を望むことができるのである。アーチから原爆の遺跡との間には、規則的に植樹された地帯があり、遺跡がしばしば見られることを避けるためにスクリーンの役割を果たしている。…(財団法人都市計画協会『新都市』第四巻第八号(昭和25.8):広島県史原爆資料編)

9月

広島市基町の広島中央公民館内に原爆参考資料陳列室を開設。岩石、かわら、コンクリート、植物など6,700点。長岡省吾元広島文理科大地質鉱物学教室嘱託が資料収集(昭和24年(1949年)9月30日中国新聞)≪平和記念資料館≫

10月

広島市調査課が「広島原爆体験者についての産業奨励館保存の是非と平和祭への批判と希望に関する世論調査」を実施(昭和25年(1950年)2月11日中国新聞)

昭和25年(1950年) 2月

広島市調査課、旧産業奨励館保存の是非についてのアンケ-ト調査結果を公表

428人の回答者のうち、「保存を望む」が62%、「取り払いたい」が35%。前者の理由の内訳は、 「記念のため」50.4%、「戦争のいましめ」40%、その他「平和の象徴」など。後者は、「惨事を思い出したくない」が最も多い60.9%、その他「残骸は平和都市に不適、実用的施設に用いよ」など(昭和25年(1950年)2月11日中国新聞)

6月

日本建築士会会長山下寿郎氏が広島市で「広島県産業奨励館の廃墟は取り払った方がいい」と発言(昭和25年(1950年)6月4日夕刊中国新聞)

昭和26年(1951年) 8月

浜井市長、大原県知事、森戸学長ら「平和祭を語る」座談会(中国新聞紙上)で、原爆ドーム保存に消極的発言

浜井市長「問題となっているドームにしても金をかけさせてまで残すべきではないと思っている」、森戸学長「過去を顧みないでいい平和の殿堂を造るほうにより意義があります。いつまでも残しておいてはいい気分じゃない」(昭和26年(1951年)8月6日中国新聞)

広島平和記念都市建設専門委員会の都市建設計画についての答申発表(昭和26年(1951年)8月)≪原爆ドーム≫

「都市建設計画についての答申」
旧産業奨励館(原爆遺跡)
旧産業奨励館は爆心にほぼ近く、被爆当時のまま残存する唯一の建物で、現在なお印象的なドームの鉄骨をもち、この建物の周囲は公園として計画せられている。
被爆当時を偲ぶ唯一の建物として残すことを希望する意見と、原爆の悲劇を想起せしめないように取払うことを希望する意見とが内外人の間にある。この問題は将来、周辺の公園や市街地が整った時に、その雰囲気とこの原爆遺跡とが調和するか否かにより、はじめて根本的解決をなすのが適切であると考える。当分は危険防止の施策を行うにとどめておくことが適当であろう。(広島新史資料編2)

広島平和記念都市建設専門委員会の都市建設計画についての答申(昭和26年(1951年)8月)≪原爆ドーム・平和記念公園・平和大通り≫

広島市では 原子爆弾洗礼の記念的な残骸である旧産業奨励館を、本公園計画で重要な要素の一つとし、元安川を越したこの飛地の一小区域を公園地域内に含めている。…
…第1に百米街路より記念館の列柱廊を通して園内ならびに旧産業奨励館を見透す際同時に眺望せられる 背後の商工会議所等が、この見透しの効果を減殺するのではないかと思われるので、その点について十分の検討ならびに処置を希望する。
第2に前述の如き事情よりして 原爆遺跡を取除ける場合のあることも一応予想して検討する必要がある
… 広島市全体を平和の形象をもって埋め尽すことは、望むべくして経済的に成り立たないから、特定のものに一応限定することが効果的であると考えられる。その一つの限定地域として平和記念公園にこれを望まんとしているのであるが、更に 全市域を東西に横断する百米街路(広路)にもまたこれを望むことが可能であり、且つ有意義である(広島新史資料編2)

11月

懸賞募集により、百メートル道路を平和大通り、新橋を平和大橋、新大橋を西平和大橋と決定(昭和26年(1951年)11月7日中国新聞)

時期不明

竹重貞蔵(元広島県土木部都市計画課長)寄稿文「49年前を回顧して~広島市の戦災復興都市計画の構想」≪原爆ドーム・平和記念公園≫

原爆の惨状を後世に伝えるものを考えていたが、広島県産業奨励館の壊れたドームがほとんど爆心地にあたることや、その外観から最適と思われたので、中島公園と一体として記念公園を考えることとした。当時、危険建造物整理事業というのがあって、本省から係官が来て査定して予算をつけていったが、その中にこのドームも含まれていた。私は独断でこのドームの取壊しを中止させ、予算を返上した。このドームの永久保存にはどれだけの費用がかかるかということまでは考え及ばなかった。(戦災復興事業誌)

浜井市長の回顧≪原爆ドーム・平和記念公園≫

市の復興計画を審議するとき、「原爆の惨禍を後世に伝えるためにも、このドームは、いまの姿のまま残すべきである」という意見はかなり多かった。しかしまた、それに強く反対する意見も少なくなかった。その人たちは、「真に世界平和を望むならば、過去の恨みや憎しみを思い起こさせるようなものは、速やかに取り除くべきだ」…
…当時そんな予算はとれないし、しばらくそのままにしておくことにした。そしてドームの周辺を、対岸の中島につくった平和記念公園と旧西連兵場の中央公園を結ぶ緑地として、公園用地に指定しておいた。(浜井信三「原爆市長ヒロシマとともに二十年」

昭和27年(1952年) 3月

広島平和記念都市建設計画決定並びに同事業の決定図書≪平和記念公園≫

平和記念公園設計予定説明書
歴史的原爆の爆心地と同時に平和都市広島の中心地である中島の地域に記念公園を造成しその中に平和都市の基調となる諸施設を配置する計画のもとに本公園には公園施設の外平和記念館(本館、記念陳列室、集会場よりなる)及記念碑を設置することとし、平和都市広島の表徴として市民はもとより世界の人々の平和希求の理想を表現した公園とすべく、計画し、別紙設計図のとおりその施設を配した(昭和27年(1952年) 3月31日)

都市計画広島地方審議会≪平和大通り≫

建設計画の骨子
(1)本市の中央を東西に貫く100米街路を平和記念道路として計画し、 交通目的の外レクリェーション、観光、防災に資せしめる(昭和27年(1952年)3月)

8月

原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)が昭和27年(1952年)8月6日に除幕。このときから、平和祈念式典が慰霊碑前で行われるようになった。(戦災復興事業誌)≪平和記念公園≫

昭和28年(1953年) 2月

浜井市長が広島青年会議所の2月例会で元産業奨励館のドーム存廃について発言≪原爆ドーム≫

「私個人の意見は、あの程度の建物は例えば普通の火災でもああなるから原爆の威力を示す参考にはならない。ただ現在は広島をシンボライズする絵として役立っているので、しばらくはこのままにするがよいと思う」(昭和28年(1953年)2月15日中国新聞)

11月

広島県、広島市に原爆ドームの管理を移管(昭和28年(1953年)11月15日中国新聞)

昭和29年(1954年) 4月

平和記念公園完成

5月

広島県観光連盟は広島市観光協会や交通業者などに呼びかけて原爆ドーム保存期成同盟結成。 同連盟のドーム撤去の反対理由は、(1)原爆ドームは広島市民が平和を希求しているシンボルである、(2)歴史的記念物であるとともに観光資源に乏しい広島市にとって重要な観光資源であり、いったん破壊したら後に復元が難しい、の2点。市緑地課は、原爆ドームに新しく金網を張り(既存金網は補修)人々の立入を厳禁に。(昭和29年(1954年)5月21日中国新聞)

8月

昭和29年(1954年) 8月7日広島市議会速記禄≪平和大通り≫

… 無用の長物である百メーター道路であります。この百メーター道路が、広島市民のために、何の利益をしておるでありましょうか。
およそ広島市民は、誰一人としてこの百メーター道路が必要であるとは言わないと思うのであります。 百メーター道路は、道路ではありません。花畠であります。…(広島市議会史 議事資料編2)

時期不明

浜井市長の回顧≪平和大通り≫

復興都市計画の中核となるものは、幹線道路網を定めることであった。まず、市街の中央部に百メートル道路を打ち抜いて大動脈とする。… 「百メートルも幅のある道をつくって、一体市はどうするつもりだろうか」「もったいない話だ、全く」「いや、飛行機を発着させるそうな」…しかしこの構想は、道路本来の交通ということもさることながら、主要目的は、防災空地ということにウエートがかかっているのである。…百メートル道路は、将来に備えてのゆとりとしても、都市の一つのアクセントとしても、これはぜひつくっておかねばならないと考えたのである(浜井信三「原爆市長ヒロシマとともに二十年」)

昭和30年(1955年)4月

「百米道路の幅員を半分に」の公約を掲げた渡辺忠雄新市長が当選

この選挙は、現職浜井信三候補と新人二人の争いとなったが、新人の一人渡辺忠雄候補は、「都市計画を再検討する。道路・緑地帯・公園などの敷地が余りに膨大、 住宅敷地の不足を緩和するため、百メートル道路の緑地帯の一部には鉄筋製の文化アパートを建設する」とし、これが共感を呼んで当選した。結果的にこの考えは実現されず、逆に緑化を図る供木運動へと進展した(戦災復興事業誌)

5月

平和記念館(現在は平和記念資料館東館)完成

8月

平和記念資料館完成

平和記念資料館(陳列館)

…1階は柱ばかりという高床式の建築様式で、設計者の丹下健三によると、「 1階部分の空間を、平和を行動的に戦いとる人々のエネルギーで満たしたい」という構想によるものである(戦災復興事業誌)

平和記念館

…設計者である丹下によれば、当館を本館と呼び、 図書室は平和問題関係の資料、文献で埋まり、集会室では平和問題シンポジウムが開かれ、世界各国から広島を訪れる人が、ここで平和問題について共同研究する、こういった構想のもとに設計したとのことである。(戦災復興事業誌)

 

丹下はこの建物を本館と呼び、平和のための研究室、図書室、集会室を設計しようとしたのである。丹下は「 平和は祈ることによって与えられるものではない。平和は、建設されるものである。新しく設けられる記念館は、平和をつくり出す工場でありたいと思う」と述べている(広島被爆40年史都市の復興)

昭和31年(1956年) 3月

広島市議会で原爆ドームの存廃が議論

渡辺市長は、「 原爆の観光資源として保存すべきものである。そのためには少し補修しなれればならないと思う」。
原爆ドーム廃止論の理由としては、「いつまでも不快な記憶を留めたくない」「市の美観を損なう」「悲劇を売り物にするのは間違っている」「原爆があの程度の破壊力でしかないと誤解されるおそれがある」など様々。これに対して存続論は、 「平和のシンボルとして置くべきだ」「戦争の惨禍を忘れないためにも必要」「ドームの価値は超越した価値だ。今更撤去するのは間違っている」「ドームは既に世界のドームだ」といったもの。(昭和35年(1960年)8月21日中国新聞夕刊)

昭和32年(1957年) 2月

広島市緑化推進本部が呼びかけて平和大通りへの供木運動始まる(戦災復興事業誌)

昭和33年(1958年) 6月

広島市が、総理府・厚生省・運輸省・建設省の各観光係官へ観光診断依頼。その報告書では「 悲劇を刻むこのドームは絶対に取り除いたりすべきでなく、平和公園もこのドームを中軸として設計されたものであるので、大乗的見地から永久に保存すべきだ 」との結論(昭和33年(1958年)6月28日中国新聞)

昭和35年(1960年) 8月

浜井広島市長が記者会見で平和記念資料館について、「 資料館が被爆者や遺族に残酷な思い出をよみがえらせ苦痛を与えているという。このため、同資料館を美術館に転用し、資料館は原爆ドーム付近に新しく移したい。財源の見通しがつけば具体化したい」(昭和35年(1960年) 8月19日中国新聞)

浜井市長「ドームの存廃は世論に従って決める」と発言

「結論から言えば、積極的に壊す気はないが、存廃はすべて世論にしたがって決める。 ドームは平和公園の一環となって設計されているものだし、その意味からも重要。しかし、今すぐ予算のねん出が困難だ。被爆当時と今とでは型も変わりザンコクさがなくなっているので、このていどでは原爆のおそろしさを誤解されないともかぎらない。存置と撤去の投書は毎日のように来ているが、今すぐドームに手を加える気がない」(昭和35年(1960年)8月21日中国新聞夕刊)

広島折鶴の会、白血病で亡くなった高校生・楮山ヒロ子さんの日記をきっかけに、原爆ドーム保存署名運動を開始

「あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも、恐るべき原爆を後世にうったえてくれるだろう」(楮山ヒロ子さん昭和34年(1959年)8月6日の日記)

 

「こわれかかって、取り払われようとしている原爆ドームを、私たちの手で守りましょう」と、平和公園、原爆の子の像の前で原爆ドームの修理費の募金と、取りこわし反対の署名運動を始めた。(昭和35年(1960年)8月29日中国新聞)

12月

日本原水協、広島市に原爆ドームの永久保存を要望

「 原爆ドームは世界の原水禁運動の象徴だ。運動のマイナスにならないよう保存するべきだ。できれば市議会で存置を決議してほしい」(昭和35年(1960年)12月3日中国新聞)

昭和36年(1961年) 8月

近藤泰夫京大名誉教授、補強工事の必要性を指摘

もともと弱いレンガ建築のうえ、原爆で焼け落ちてからすでに17年目。その間、風雨にさらされっ放しなので、非常に危険状態に陥っている。かなりの地震でもあれば、一挙に崩壊するだろう。とくに周囲の外壁はあぶない。近くを走る車の震動ていどでもくずれる恐れがある。一日も早く専門的な調査をし補強工事をすべきで、万一くずれ落ちれば復元はおろか、ドームを中心に総合設計された平和記念公園はバランスを失う。これ以上放置できない限界に来ている(昭和36年(1961年)8月31日中国新聞)

昭和38年(1963年)10月

広島市が広島県被団協(森滝市郎理事長)、広島宗教者平和協議会(桑原英昭会長)主催の原爆被害者援護法制定促進大会の平和記念公園使用を断る。同市が原爆関係の集会に原爆慰霊碑前の広場を含む同公園の使用を断ったのは初めて。理由は「秋の行楽シーズンの人出が混乱しては困る」。集会は市公会堂に移す(昭和38年(1963年)10月19日中国新聞)

昭和39年(1964年) 6月

広島市が8月5日~7日の3日間、原爆慰霊碑前広場を集会に使用させない方針を決める(昭和39年(1964年)6月6日中国新聞)

12月

原水禁広島協議会、核禁広島県民会議など11 平和団体が原爆ドームの永久保存を浜井広島市長に要請。市長は昭和40 年度予算に計上し保存方法の研究を約束(昭和39年(1964年)12月23日中国新聞)

「被爆者団体、平和団体等からの要請書」
… 原爆ドームのもつ人類史的意義、とりわけ世界平和確立の銘鑑としてもつ重要な意義に思いを致され、これを後世に完全な姿で残すよう、一日も早く具体的措置に着手されることを、心から願って止みません(広島市議会史議事資料編2)

昭和40年(1965年) 2月

折鶴の会、広島市にドーム保存資金の寄付と署名提出(昭和40年(1965年)2月12日中国新聞)

広島市40年度予算で原爆ドームの強度調査計上、佐藤重夫広大教授に依頼(昭和40年(1965年)2月12日中国新聞)

3月

近藤泰夫博士、湯川秀樹、丹下健三連名でドーム保存要望(昭和40年(1965年)3月30日)

「原爆ドーム保存要望書(湯川博士、丹下教授等からの要望書)」
原爆ドームは被爆都市広島を表徴する記念聖堂であって世界における類例のない文化財である。人智のとどまることを知らぬ発展と変化はこの過ちを再び繰り返すこと保しがたいので原水爆を永久にこの地上から抹殺するためにはこの記念聖堂をその戒めとして永久に保存しなければならない。特に原爆記念公園の焦点的存在である点からみてこの記念聖堂は現存する位置に存置する必要がある。…(広島市議会史議事資料編2)

7月

原爆ドームの耐久度調査開始

11月

佐藤重夫教授が「原爆ドームは補強すれば保存できる」と中間報告(昭和40年(1965年)11月16日中国新聞)

昭和41年(1966年) 7月

広島市議会、原爆ドーム永久保存を決議

「原爆ドーム保存を要望する決議案」(昭和41年7月11日)
核戦争阻止、原水爆の完全禁止の要求とともに、ドームを保存することは被爆者、全市民、全国の平和を願う人々が切望しているところである。
ドームを完全に保存し、後世に残すことは、原爆でなくなられた二十数万の霊に対しても、また世界平和を願う人々に対しても、われわれが果たさねばならぬ義務の一つである。
よって、このドームの保存について万全の措置を取るよう決議する。(広島市議会史議事資料編2)

8月

広島市は関係幹部会議で、原爆ドームの保存工事費4,000万円を一般募金で賄うことを決定。保存、募金の理念は 「戦争のない世界にする反省の起点としてドームを保存し、これを平和な未来建設の出発点とする」という内容で、「その意味で一般募金は意義がある」というもの(昭和41年(1966年)8月2日中国新聞)

10月

広島を訪問のサルトル氏とボーボワール女史が、原爆ドーム保存へ寄せ書きを残す

サルトル氏「 日本に存在するただ一つのものであるこの廃墟は、まことに、あの殺りくが、決して2度と起こらないために、みんなが生き、かつ戦うわれわれ意志のあかしである」。
ボーボワール女史「 あの戦争の恐怖の象徴である、上空から狙われたこのドームは、われわれに、あらゆる力を傾けて平和のために戦う決意を迫る」(昭和41年(1966年)10月11日中国新聞)

11月

広島市の原爆ドーム保存募金運動がスタート

「原爆ドーム保存趣意書」(昭和41年(1966年)11月1日)
…過去の忌まわしい経験を忘れ去ることも、また一つの生き方ではありましょうが、過去の忌まわしい経験はそれを再びくり返さない方向において生かし、新しい未来を求めることであります。
広島原爆の遺跡は、ただ広島の惨害の記念物であるばかりでなく、人類が破滅と繁栄の岐路に立つ原子力時代の「警告」であり、人類がその過ちを二度とくり返してはならない「戒律」であります。その意味において、私たちは、これを未来への道標としたいと思うのであります。これを残すことは、ひとり、広島の子孫に対する私たちの責務であるばかりでなく、世界の良心が同朋に対してになう当然の使命であると存じます。言うならば、私たちは、これを恨みの遺物、敵意の形見として保存するのではなく、 人類懺悔の象徴として、平和祈願のために保存しようとするものであります。
…わたくしたちは、これを保存するにはひとりでも多くの人の協力を得たいと思うのであります。その意味において国内はもとより国際的にも平和を願う人々の協力を願ってやまないのであります。(広島市)

昭和42年(1967年) 7月

山田市長が所信表明で「 平和記念公園を中心とする聖域地区を設定し、施設管理に一段の工夫を加え、原爆死没者の霊を慰め、世界平和祈願の一助とする。」と述べる。以降、平和記念公園の使用許可について、メーデーを除くデモや集会を不許可とし、芝生広場への立入を禁止するなど他の公園に比べ厳しい取扱いとなる。

8月

第1回目の原爆ドーム保存工事が終了(昭和42年(1967年)8月5日)

「原爆ドーム保存工事説明板」

原爆ドーム

昭和20年8月6日 
史上はじめての原子爆弾によって破壊された
旧広島県産業奨励館の残骸である
爆弾はこの建物のほぼ直上約600 メートルの空中で爆発した
その1個の爆弾によって20万人をこえる人々の生命が失われ
半径約2キロメートルに及ぶ市街地が廃墟と化した
この悲惨な事実を後世に伝え人類の戒めとするため
国の内外の平和を願う多数の人々の寄金によって補強工事を施し
これを永久に保存する(広島市)

第1回目の保存工事以降、柵の設置、張芝など原爆ドームの周辺整備を実施

9月

広島市平和記念施設運営協議会(田中好一会長)が平和記念公園内の新たな慰霊碑の建設を認めない方針を決める。「慰霊碑や記念碑が28あり、多すぎて聖地の印象を損なう」。広島鯉城ライオンズクラブの「平和時計塔」建設に最後の認可(昭和42年(1967年)9月12日中国新聞)

昭和45年(1970年) 2月

「広島平和記念公園基本整備計画」が策定され、以降、慰霊碑周辺の整備や広場、園路、緑地帯などの整備が行われる。≪平和記念公園、平和記念資料館≫

「広島平和記念公園基本整備計画」報告書(丹下健三+都市・建築設計研究所)
-諸建物について-
資料館は、原爆の記憶を世界の人々の脳裏にとどめるための重要な記念建造物である。
-公園に関して-
資料館前の広場は、慰霊碑、原爆ドームに至る一連の象徴的空間の始まりであり、神聖な公園のアプローチとして、重要な場所である。

昭和56年(1981年) 2月

平和記念公園でローマ法王平和の集いを開催。昭和59年(1984年) 5月には、カーター前大統領平和の集いを開催

昭和57年(1982年) 9月

原爆ドーム周辺の再整備に着手。柵の再整備と柵周辺の植栽の整備を実施

10月

芝生広場を取り囲む現在の柵が完成

平成元年(1989年) 3月

「平和記念公園再整備計画」が策定され、公園内の再整備が行われる。

「平和記念公園再整備計画」における整備方針
(1)国際平和文化都市の原点となる「聖地」にふさわしい整備を行う。
(2)平和文化都市の象徴である「観光地」としての機能の充実を図る。
(3)市民に愛される「都市公園」としての機能の充実を図る。

5月

第2回原爆ドーム保存募金を開始(平成元年(1989年)5月1日)

第2回保存工事「募金趣意書」(広島市原爆ドーム保存募金事務局)
被爆の惨禍を被ったことにより、この建物の残がいは「原爆ドーム」と呼ばれ、 世界の人々に永遠の平和を訴えつづけるシンボルとして新しい「任務」を与えられるとともに、核兵器による人類自滅の危機を警告する役割を果たすこととなりました。(中略)
本市としては、広島の悲惨な体験を二度と繰り返してはならないという原爆犠牲者への誓い、これを実践してきた先人の意思、22年前に全国各地の多数の人から寄せられた感動と激励のことば・貴重な浄財を思うとき、「原爆ドーム」は単に広島だけの原爆遺跡としてではなく、世界恒久平和を願っている人々共通の「平和のシンボル」であると考えております。

平成2年(1990年) 3月

第2回目の原爆ドーム保存工事が終了

「広島市原爆ドーム保存事業基金条例」(平成2年3月7日条例第3号)

(設置の目的)
第1条 被爆の惨禍を後世に伝え、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を訴える原爆ドームを永久に保存する事業(以下「事業」という。)を円滑かつ効率的に行うため、広島市原爆ドーム保存事業基金(以下「基金」という。)を設置する。

平成4年(1992年) 3月

平成3年度(1991年度)の平和記念資料館の入館者数が約159万人となる。
入館者数はこれを境に減少し、平成16年度(1985年度)にはピーク時の約67%となる約107万人まで減少。

9月

広島市議会が原爆ドームの世界遺産化の意見書を採択(平成4年(1992年)9月29日)

広島市議会は、 人類が二度と悲惨な過ちを繰り返さないための恒久平和の象徴として、原爆ドームの永久保存を決議しているところでありますが、 核時代に生きる人類の誓いのシンボルとして、原爆ドームを「世界遺産リスト」に登録する意義は大きいところであります。(中略)
よって、政府におかれては、日本の恒久平和実現への決意を示す上からも、原爆ドームを早急に「世界遺産リストに」登録されるよう求めるものであります。

日本が世界遺産条約の加盟国となる(平成4年(1992年)9月30日)

第1回目の原爆ドームの健全度調査完了(以降、健全度調査は、平成7年度(1995年度)、平成10年度(1998年度)、平成14年度(2002年度)、平成17年度(2005年度)に実施)

平成5年(1993年) 1月

広島市長が原爆ドームの「世界遺産一覧表」への登録について要望書を提出

本市は、この 「原爆ドーム」を、人類最初の原子爆弾使用の惨禍を後世に伝え、さらには、核兵器の廃絶と世界恒久平和を訴える証として、日本の歴史上のみならず、世界の歴史においても普遍的価値を有する遺跡として、国内外の世界平和を願う人々から寄せられた浄財により過去二度にわたり保存工事を実施するとともに、これらの人々の願いに応えるため、平成2年3月「広島市原爆ドーム保存事業基金条例」を制定し、 永久保存を図ってまいることとしております。

6月

市民団体「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会(すすめる会)」が発足(6月7日)、すすめる会が国会請願のため署名運動を開始(6月19日)

7月

原爆ドームのユネスコ世界遺産一覧表への記載推薦について、 広島県議会が意見書を採択(平成5年(1993年)7月2日)

原爆ドームは、 人類史上初めての原子爆弾による生々しい惨禍を永く後世に伝え、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を訴えつづける永遠のシンボルとしての普遍的価値をもっている。
このため、原爆ドームを 平和のシンボルとして後世に引き継ぐべき世界の貴重な遺産として位置づけ、ユネスコの世界遺産条約に基づく「世界遺産一覧表」に記載する意義は大きい。

平成6年(1994年) 1月

すすめる会の請願が参議院で採択

6月

平和記念館を建て替え、平和記念資料館東館を整備

すすめる会の請願が衆議院でも採択(署名は最終的に1,653,996名)

平成7年(1995年) 4月

芝の全面張替えを機に、公園利用者の芝生広場への自由な立入を禁止

6月

文部大臣が原爆ドームを文化財保護法の史跡に指定

文部大臣通知(平成7年6月27日)
原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)は、第2次世界大戦末期、広島に投下された原子爆弾によって破壊された遺跡である。
原爆投下の歴史的事実と人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を伝える遺跡であり、核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和希求のシンボルとなってきた重要な遺跡であるので、史跡に指定し保存を図るものである。

9月

国が原爆ドームを世界遺産として世界遺産委員会へ推薦

「世界遺産一覧表記載推薦書」
ドームは、第2次世界大戦末期に、広島市に投下された原子爆弾によって破壊された広島県産業奨励館の残骸を、当時の姿のまま今日に伝える資産である。従って、人類が初めて被った核兵器の惨禍の跡を留める資産であり、人類が忘れることのできない歴史的記念的意義を有する資産として、世界遺産条約第1条の規定する記念工作物に該当する。(中略)
ドームは、人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を如実に伝えるものであり、時代を超えて核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の記念碑である。

「原爆ドーム及び平和記念公園周辺建築物等美観形成要綱」及び「美観形成基準」を定める。

「美観形成基準」
原爆ドームは、人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人であり、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願う世界中の人々の心の拠り所となっている。また、平和記念公園は、原爆の犠牲になった多くの人々の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲惨なできごとを起こしてはならないという決意を込めてつくられたものである。
世界平和を希求する市民が、そして広島を訪れる人々が、平和を祈り、平和を考え、そして、やすらぎ、くつろぐことのできる雰囲気を壊さないよう、原爆ドーム及び平和記念公園周辺地区については、国際平和文化都市の象徴にふさわしい景観の形成に努める。

平成8年(1996年)12月

メキシコのメリダで開催された世界遺産委員会で世界遺産への登録が決定(12月5日)、 世界遺産一覧表に登録(12月7日)

原爆ドームの世界遺産登録(平成8年(1996年)12月7日)

「世界遺産説明板」

世界遺産 原爆ドーム

人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として
また 核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いのシンボルとして
「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」
に基づき世界遺産一覧表に記載された 広島市

平成11年(1999年) 3月

「史跡原爆ドーム保存整備計画」を策定

史跡原爆ドーム保存整備計画-序- 原爆ドームは、人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として、世界の歴史において普遍的な価値を有していることが、国際的に認められた貴重な世界遺産であります。この原爆ドームの持つ普遍的な価値を損なうことなく、そのままの状態で将来の世代に残していくことは、現代に生きる私たち共通の責務であります。

平成11年(1999年) 8月

原爆ドーム対岸の平和記念公園内でオーガスト・イン・ヒロシマを開催

平成13年(2001年) 3月

3月24日、芸予地震(震度5弱)に遭うが、原爆ドームへの影響はなし
(芸予地震に関連した新聞記事)

広島・安芸灘を震源とした地震で、広島・平和記念公園内にある世界遺産・原爆ドームには、広島市の調査で、「奇跡的」に被害のなかったことが確認された。被爆前の「県産業奨励館」時代から耐震性の弱さが指摘されていたうえ、原爆で壊滅的なダメージを受けたため、専門家の間では「震度5以上で壊れる可能性がある」と指摘されていた。
(67年と89年の)補強工事に携わった佐藤重夫・広島大名誉教授(建築意匠学)は「原爆ドーム周辺の地盤は砂地で、もろく、れんががただ積み重なっているだけで、壊れなかったのは偶然だ」とし、地盤を固めるなど、耐震性の強化を訴えた。(平成13年(2001年) 3月27日朝日新聞)

 

国史跡でもある世界遺産原爆ドーム(中区)の保存方法を検討する広島市の史跡原爆ドーム保存技術指導委員会(委員長・飯田喜四郎名古屋大名誉教授)が26日、中区で初会合を開いた。審議では過去2回の保存工事で、れんがの補強に使った接着剤のエポキシ樹脂が取り上げられ、「今回の地震に堪えられたのは、この補強の効果」との見方が示された。(平成13年(2001年) 3月27日中国新聞)

史跡原爆ドーム保存整備計画に基づく専門調査・試験を実施するため、専門家により構成される「史跡原爆ドーム保存技術指導委員会」を設置(3月26日)。平成13年(2001年)から概ね平成22年(2010年)までの10年以内の期間で、オリジナル記録調査、保存材料試験、保存工法試験、構造解析などの専門調査・試験を実施する。

12月

原爆ドームへの落書き事件が発生。以降、平和記念公園での事件が相次ぐ。
平成14年(2002年)2月と平成15年(2003年)8月には「原爆の子の像」に捧げられた折り鶴への放火、平成14年3月には原爆死没者慰霊碑にペンキがかけられ、平成17年(2005年)8月には原爆死没者慰霊碑の碑文が傷つけられる  など

平成14年(2002年) 8月

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が開館

原爆死没者追悼平和祈念館開設準備検討会中間報告―広島に設置する祈念館について―
祈念館は、原子爆弾被爆地である広島市の広島平和記念公園内(広島市中区中島町1番)に設置する。その構造等については、広島平和記念公園の持つ全体的な雰囲気と調和するよう配慮し、「地中化(地下2階建)」とする。原爆ドームがユネスコの世界遺産とされたことも念頭に置き、広島平和記念公園全体としての人の流れを十分に考慮する必要がある。

10月

「平和大通りリニューアル事業」基本方針を策定≪平和記念公園・平和大通り≫

平和記念公園及び周辺地区の整備の方向
基本的な機能は現状を維持しながら、公園利用者のための利便性向上、平和の発信機能の強化を図っていく。
●平和記念公園のゲート性に配慮した整備
●国内外の人々が交流できる賑わいの空間づくり

平成15年(2003年) 1月

「水の都ひろしま」構想を策定、10月には「水の都ひろしま」推進計画を策定≪平和記念公園≫

平和記念公園周辺地区において、もてなしの水辺づくりの実現に向け、元安川オープンカフェ等の拡充、市民・商店街によるイベント等の実施、「水辺のステージ」における様々な利活用などの社会実験を行う。

3月

第3回目の原爆ドーム保存工事が終了

7月

「平和記念施設保存・整備方針」及び「広島平和記念資料館更新計画」の策定に着手≪原爆ドーム、平和記念公園、平和記念資料館≫

平成16年(2004年) 3月

「広島市の魅力ある風景づくり基本計画」を策定≪平和記念公園≫

原爆ドーム及び平和記念公園周辺
この地区を「重点的風景づくり地区」と位置付け、現行の「原爆ドーム及び平和記念公園周辺建築物等美観形成要綱」の協議対象地区を拡大するとともに、景観法に基づく景観計画を策定し、景観誘導の強化に取り組む。

5月

「ビジターズ倍増に向けて-千客万来の広島の実現-」を策定

「住んでよく訪ねてよい千客万来の都市」をつくり出すため、都心の魅力と賑わいづくり、広島情報のPR、ビジターズの受け入れ環境づくりなどに取り組む。
●ホスピタリティ広島運動
●平和のホスピタリティ
●平和グッズ など

平成17年(2005年) 2月

「ひろしま都心ビジョン」を策定≪平和記念公園、平和大通り≫

原爆ドーム・平和記念公園周辺及び平和大通り沿道地区の取組方針
●平和文化の発信など平和都市の象徴となる都市空間の形成
●公共空間の有効活用などによる賑わいと回遊性の創出

8月

平和記念公園の芝生広場で「平和コンサート」を社会実験として開催

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