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ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇

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自己紹介

 東京一極の中、野球、サッカー、地方唯一の交響楽団と、世界の願い平和を、広島は発信します。文学と歴史に興味。

作品

【平成27年(2015年)】

 猿猴橋

 

【平成26年(2014年)】

 安佐動物公園

 

【平成24年(2012年)】

 夏の宮島を訪ねて~シルエットの中に清盛を想う~(後編)

 夏の宮島を訪ねて~シルエットの中に清盛を想う~(前編)

 

【平成23年(2011年)】

 似島・平和への道

 広島邦楽、今昔

  会話のはずむ「広島風お好み焼き」

 黄金山

 

【平成22年(2010年)】

 横川界隈~横川界隈を訪ねて

  広島(宇品)港界隈と宇品島

  三瀧寺のせせらぎ

  毘沙門堂を訪ねて

 国泰寺を訪ねて


【平成21年(2009年)】

 広島の奥座敷、湯来温泉

 ミソ地蔵

  寺町界隈

 広島城~球団の名を背負う城

 問屋街の風景
 

【平成20年(2008年)】

  並木通り

 白島沿線界隈

  武田山

 不動院

  ひろしまの魚市場 朝の風景

 鈴ヶ峯に登る

 

【平成19年(2007年)】

 広島市現代美術館

 頼山陽居室

 ヒロシマのとうろう流し

 福王寺 安芸の高野山
 

 広島カキ

 歴史発見!広島の街ウォーキング

    ~目から鱗が落ちました


【平成18年(2006年)】

 海蔵寺と旧山陽道周辺

 知識の宝庫、広島市立中央図書館を訪ねて!
 

 広島東照宮

   カモの飛来するころ(八幡川河口)

 

猿猴橋

 猿猴橋、風変わりな橋名は、どこから来たのだろう。
 「猿猴」は、広島ではエンコー、インコー、カッパなど、架空の水陸両性の動物のことだ。筆者も子供の頃、「エンコーが引き込むぞ」と、深い川のふちで泳ぐのを大人にたしなめられた記憶がある。猿猴橋周辺は、子供たちの冒険心を満たす。すてきな遊泳場所であったのだろう。


猿猴橋北側

 

駅前大橋から撮った猿猴橋全景

 

北側(福屋広島駅前店側)から
撮った猿猴橋

 最近、テレビで猿猴橋の復元が行われるのを知った。いい話に心が揺すれられて、早速、広島市道路課に電話を入れる。
 「猿猴橋の復元は被爆70周年を記念した事業です。来年度(平成27年度)から工事を予定しています」
 S係長のキビキビした声が返る。それだけではなかった。戦時中に供出された、親柱にあった地球儀の上で羽ばたく鷲と照明灯、さらに欄干にはめ込まれた2匹の猿が桃をかける像も復元されるのだ。

猿猴橋の南側に建つ案内板

左の案内板の中の戦前の猿橋橋
(鷲が羽ばたく様子がうかがえる。)
 猿猴橋は京橋川と分流する猿猴川に架かる橋で、駅前大橋と荒神橋に挟まれている。今、幅8.2メートルにすぎないこの橋は、物流の主たる席を他の2橋に譲っている。が、この橋には歴史と文化がある。

江戸時代の広島城下町絵図
(『広島城下町絵図集成』(広島市立中央
図書館)の「承応切絵図 京橋町3」より)
 『広島城下町絵図集成』(広島市立中央図書館発行)」によると、江戸時代の様子を描いた「承応切絵図 京橋町3」に、「えんかう橋(猿猴橋)」の名が見られ、橋の道筋(西国街道)には、道を挟んで長右衛門他14名の魚商人の名が連なるなど、往時の繁栄ぶりをうかがわせる。
 筆者も、この橋の歴史・文化を微小にだが知っている。平成18年11月23日、広島市の歴史系4施設の共同イベント「広島の街ウォーキング」での体感だ。コースは、猿猴橋から平和記念公園までの旧西国街道。
 頼山陽史跡資料館学芸員のHさんは、出発に先立って、頼山陽の七言絶句『郷に到る」(*)を紹介された。文政8年、広島に規制した山陽が、夕暮れ迫る猿猴橋に立った際に感慨に浸って書いたもので、優しい母への気持ちと、往時の橋畔の風情がくみ取れるのだ。
 数年前、筆者も同じようにプラハの町でも感慨を味わっている。モルダウ川に架かるゴシック調式カレル橋には、殉教者ヤン・ネポムツキーなど30体の立像があった。プラハの人、いや世界各地からの人が立像を見上げ、時を忘れて散策を楽しんでいるのだ。橋は人々に安らぎを与えている。そのとき、橋の持つ不思議な力を知るのだった。
 
 猿猴橋よ、早く復元されて、昔の姿を見せておくれ!
 強い思いを胸に、記事を求めてカメラ片手に猿猴橋へと向かうのだった。

* 頼山陽の漢詩
 猴子橋頭生暮煙 已看両岸市燈懸 同人莫恠吾行疾 欲及萱堂未就眠
(猿猴橋のたもとには夕もやが生じ、すでに両岸には街灯がともっているのが見える。同行の人よ、私の足どりが早いのを怪しまないで欲しい。母が眠りにつかないうちに家に着きたいのだ。)
 

 (ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)
 (ひろしまファンクラブ 平成27年3月5日号掲載)

安佐動物公園

4月23日、快晴の下、安佐動物公園を訪ねた。はじめに飼育係の南方さんから動物の話を聞くことにして、キリンテラスを伺う。
ラッキーだった。安佐動物公園の開園は昭和46年9月1日で、面積は全体で約51.4ヘクタールのうち、動物が展示しているのは25.6ヘクタールであること、展示している動物は155種で、約1,600点であることなど、安佐動物園の概要を聞きながら、観客と動物のスキンシップの場面を見ることができたのだ。


右側のキリンが文章中の人懐こいキリン
筆者と対談する飼育係の南方さんをジッと見つめるキリンがいた。
 「あのキリンちゃんは、人懐こいです。触ってください。喜びます。」
飼育係の南方さんが観客に呼びかける。と、女児連れの若い母親が応じた。母親がキリンの顔(鼻)を手で触り、ついで女児が、恐々手を差し伸べて、ニッコリする。南方さんの優しい目線は、終始、この親娘に向けられているのだ。
 

なかなか正面から写真を撮らせてくれないトラ君

 「動物の世話は、大変でしょう。」、そう筆者がねぎらうと、
 「動物が大好き。だから楽しくて」と、屈託のない、明るい声が返ってくる。
 南方さんは、平成4年に安佐動物公園に入職。以来、トラ、ヒョウ、大型インコ、ヒヒ山のアヌビスヒヒの群れ、オオサンショウウオの世話などをして、現在、キリンとダチョウを担当する。
 ダチョウは興奮すると踊るとか、油断しているとダチョウにけられるとか、キリンの妊娠周期は約450日、つまり1年3カ月もあるのに、子どもを産んだらすぐ次の子どもを妊娠できるなど、飼育係ならではの裏話を聞く。
 ことに惹かれたのは、動物園の役割だ。南方さんは、「種の保全」、「教育・環境教育」、「調査・研究」、「レクリエーション」の四つを挙げられ、「種の保全」に安佐動物公園は、ダルマガエル、クロサイの繁殖(クロサイの中で最高齢の「ハナ」が生んだ10頭の子供の数は国内でトップ、世界で二番目)に成功していると胸を張られる。
 「あれを見て。」
 南方さんが指すのは疾走するシマウマの群れだ。離れたり群れたりと奔放に走る姿が、彼らの故郷の原野(見たことはない。)を想像させる。
 「どうです。動物園は全国に100カ所以上あるが、シマウマが群れで走れるのは少ないです。」と、環境の良さを言われる。
 どうやら自然環境のよさが、この動物園の特徴らしい。恵まれた環境にある動物たちに会っていきたいが、閉演(16時30分)までに残された時間は30分少々だ。駆け足で回ることにした。チンパンジーの檻に来ると、数人のお年寄りが、動き、飛び回る被写体にカメラを構え、悪戦苦闘しながらも楽しんでいる。

「ゾウさん、ゾウさん」と、若い母親と
子供に人気のアフリカゾウ

小さな子が「ヒイ、フー」と数えていた
フラミンゴ
子供たちに人気のヒヒ山のアヌビスヒヒ
 

 足をアフリカゾウのエリアに向けると、若いお母さんや小さな子供たちでにぎわっていた。おサルの里のヒヒ山も、隣のフラミンゴ・ペリカンのエリアも賑わっていた。そんな中、筆者の目に留まったのが、手押し車に糞尿などを運んで、黙々と作業する人たちだ。
 環境整備の下支えは、この人たちの手にあるに違いない。南方さんの言われた「シマウマが群れで走れる動物園」が思い出され、「ごくろうさま」のひと言が、ごく自然に口に出た。
 

 (ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)
(ひろしまファンクラブ 平成26年5月8日号掲載)

 
夏の宮島を訪ねて~シルエットの中に清盛を想う~(後編)

平成8年(1996年)、寝殿造りのこの優雅な社は、ユネスコの世界遺産に登録され、安芸の宮島から、世界の宮島へ飛躍した。それは国の内外から、多くの人を呼ぶことでもあった。

東側回廊からの五重塔
東側回廊から五重塔を望む

東入口から回廊に入る。まっすぐ左側に客(まろうど)神社、そして少し離れた辺りには、カメラを構える外国人さんのグループを見かける。カメラの方位に目線をやると、そこは客神社と五重塔・千畳閣(注1)が綺麗におさまる絶好の撮影場所。感心しながら(人の)流れに従い、拝殿に向かう。
拝殿では、「皆が、元気でありますように」、かみさん、息子と嫁、孫を思いながら、久々に神妙な気持ちに帰って手を合わせる筆者だ。チラリ横をうかがうと、異国の人の手を合わせる姿がある。それも一人、二人でなく、数人連れ立っている。恋の成就、父母の健康・・、この人たちのユーモラスな挙動が、勝手な想像をさせる。
西回廊に回る。大国神社本殿の前にさしかかると、今まで回廊の柱と柱の間に見えていた神社本殿の全景が姿を現す。史上最大の神社本殿(平清盛と宮島〔三浦正幸広大教授〕)といわれるだけに、仰ぎ見る檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の雄大さと、その曲線美に、しばらく惹きつけられる。
能舞台
反橋から能舞台を望む
唐破風造りの屋根
西出口屋根。唐破風(からはふ)造りの格調高い屋根
反橋(そりはし)(注2)にかかると、右正面に能舞台。神社説明の「厳島神社の能は、室町時代末期に京都から観世太夫を招いたのが最初」と、あるのが、さまざまに思い呼ぶ。
・・厳島神社は、平家の氏神。その神社が、平家滅亡後も衰亡せず、今にあるのは、時の為政者の保護による。が、見方を変えれば、清盛の造営した、過去に例をもたない海上神社の素晴らしさが、人々を惹きつけてきたからだ・・と。
1時間余の270メートルの回廊めぐりは、平安時代の昔を偲ぶ小旅行であった。「神社」を創造した清盛が、幾分か理解できた気分で、西の出口から外に出る。振り向くと、唐破風(からはふ)造りの格調の高い(西出口の)屋根が、目にはいった。
 

午後8時、大音響とともに夜空を照らす花火が、打ち上げられた。会場に金色の光の花が咲き、大鳥居と社殿のシルエットが浮かびあがる。と、管弦の調べが流れ、幻想的な光のショーが繰り返される。それは、清盛が大鳥居の両側や回廊に松明を並べてしたという、千僧供養(せんぞうくよう)にあやかるものだろうか。約1時間の光と音が共演した絵巻は、少々、傲慢なところがあったにせよ、政治家として、文化人として、第一級の人物平清盛を思わせた。
宮島水中花火大会の模様


(注1)五重塔・応永14年(1407年)創建。千畳閣のある丘に立つ。千畳閣・天正15年(1587年)創建。豊臣秀吉が千部の経を毎月読ませるために建てさせた大経堂。
(注2)反橋・弘治3年(1557年)毛利隆元が再建した、半円形に反り返った橋。朝廷からの使いである勅使がわたる橋。

(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)

(ひろしまファンクラブ 平成24年10月11日号掲載)

夏の宮島を訪ねて~シルエットの中に清盛を想う~(前編)

NHK大河ドラマ「平清盛」が低視聴率(平均13%台、ビデオリサーチ)の泥沼から抜け出せないでいる。理由に「源義経以前の時代に対して人々のなじみが薄い。朝廷の権謀術数や平家一門の内向きの物語に共感しにくいなど(日経・文化往来)」といわれるが、筆者には、平家物語の清盛=悪人説が、影を落としているように思えてならない。
歴史叙述は勝者によって描かれる。平家物語は、その冒頭に「おごれる人も久しからず」と、おごれる人の筆頭に清盛をあげて傍若無人な人間像を作り上げている。「判官贔屓」の大衆は、悪人清盛のドラマについていけないのでは、と。
8月11日、宮島水中花火大会の見物を兼ね、「平清盛」の主舞台の島を、ブラリ歩いた。清盛像に、迫りたいと思ったのだ。
 

二位殿灯篭
「二位殿灯篭」 二位殿の亡骸だけが
波に漂いこの岸に流れ着いた

暑い日だった。宮島上陸一番、目にしたのは大群衆。照り付ける日差しの中を、交通整理のマイクに導かれ、ゆっくりゆっくり神々の坐(おわ)す島の神域にながれている。
「さて、どこからはじめよう」
仮設案内所で、マップを貰う。NHKドラマ関連企画展示「平清盛館」入館者優待施設のマップだったが、町並みや、見どころの寺社の表示のあるのがありがたい。手近に「二位殿灯篭」があるようだ。
二位殿(尼ともいう)とは、清盛の奥方、時子。あの壇ノ浦で、孫にあたる御幼帝、安徳天皇を胸に抱き、「波の底にも都の候ぞ」と、海に身を投げた御方だ。
幼帝と、海の底で離ればなれとなり、二位殿の亡骸だけが波に漂い、厳島に辿り着いたのだろうか・・。思いをしながら、それらしきを探して歩く。
「あった」
それは、小高く盛り土をした石垣の中に立つ、かなり丈高な灯篭だ。壁面に「二位殿・・・」と彫られた文字が見える。周囲には、露天商がテントを連ねて、盛んに声をかけている。誘われて、立ち止まる姿はあるが、二位殿灯篭の前は、通り過ぎていく。カメラを向ける。群衆に無視され、ポツンと取り残された「二位殿灯篭」が、滅ぼされた平家のレクイエムに思えたのだ。
嚴島神社 回廊
東入口辺りから拝殿を望む

撮り終わると、夫清盛造営の嚴島神社へ。
長さ270メートル(神社発行の解説)の朱の回廊と、海中に立つ朱の大鳥居とが相和した空間には、一大スペクタクルの観がある。いつ見ても見飽きることのない風景に八百余年歴史が重なり、先人清盛の雄大な構想に今更ながら感じ入る。(後編に続く)


(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)

(ひろしまファンクラブ 平成24年10月4日号掲載)

似島・平和への道
 

似島は、広島市南区の市域に属する唯一の島の山である。標高278.1メートル。広島湾の南の海上に聳える姿が富士山に似ることから「似島」といわれ、別名「安芸の小富士」とも呼ばれる、広島市のシンボルである。
 

 西区草津八幡神社から似島を臨む

西区草津八幡神社から似島を臨む
 安芸の小富士から元宇品島・金輪島を臨む
安芸の小富士(標高278.1メートル)の頂上から
元宇品島・金輪島を臨む
広島市似島臨海少年自然の家の表玄関 
広島市似島臨海少年自然の家の表玄関


十月下旬、島を訪ねた。
島の施設「広島市似島臨海少年自然の家」など見学のためだが、歴史を知る機会でもあった。
それは、出迎えを受けたM氏註1の、「少年自然の家の敷地は広いでしょう、戦時中の軍の検疫所跡です。」にはじまる。


戦争中は、集落以外は全島が軍の基地であり、機密の島だったのだ。
明治27年、日中戦争がはじまると、その翌年、陸軍の第一検疫所が開設(現、似島学園附近)された。戦地から帰った軍人は必ずこの島に上陸して検査を受け、所持品のすべてを消毒して宇品に上陸した。
明治37年、日露戦争が始まると第二検疫所(現、少年自然の家附近)と馬匹検疫所(現、似島小学校附近に作られ、現在は少年自然の家に移転保存)が造られた。明治38年9月、戦争が終わると、第一検疫所は捕虜収容所や弾薬庫などに使われた。
昭和20年8月6日の原爆投下で、検疫所は臨時野戦病院に変わった。都心の被爆負傷者が集められ、小船で臨時野戦病院や空き地に一万とも二万ともいわれる人が運ばれた。しかし、手の施しようはなく、多くの人がバタバタと亡くなった。命を救う知識も薬もなく、ただ死を見届けるだけだった。悲惨な戦争。似島は、戦争に深くかかわり、その末路を見届けたのだ。

「戦後、似島は平和の島にかわりました。」、M氏は、島に近郊農業と野菜、ミカン栽培、真珠、ハマチ、エビなどの養殖が試みられたこと、第一検疫所に似島学園註2が創設され、原爆孤児が収容されたこと、キャンプ場、宿泊棟、体育館、多目的広場等を備えた「似島臨海少年自然の家」が、第二検疫所跡に造られたことなど話される。 

安芸の小富士から、宮島方面を望む
安芸の小富士から、宮島方面を望む。
中央に浮ぶ二つの島の小さい方が
通称・天邪鬼(あまのじゃく)島
カヌーの指導を受けるO小学校の児童たち 
似島臨海少年自然の家の海水プールで専門のコーチから
カヌーの指導を受けるO小学校の児童たち

ことに、少年自然の家のくだりでは、
「ローボート、カヌー、登山など野外活動に、児童生徒たちは目を輝かす。」と、ご自身の瞳を輝かされるM氏だ。そして、
「今、市内O小学校児童達が登っています。行かれますか。」と、
安芸の小富士の登山を勧められ、同行もしてくださるというM氏の言葉に、甘えることにした。

道幅は狭いが、登山道はよく整備されている。右折、左折する道を登る。名も知らない木々の茂る中に、珍しい果実を見る。秋熟すと縦に割れ、白色半透明の実のなるアケビだ。五つ六つある。さらに登る。ミモザの群生に出会う。淡黄色の花をつけ、山に春を呼ぶ、といわれる木だ。「見栄えのいい花だろう。」、チラッと横目にしながら上へ上へと歩行する。
所要時間、約58分。山頂を極める。展望が良い。北に海見山、武田山、東に灰が峰、野呂山、絵下山、西に大峯山、野貝原山などを望み、眼下に広島市街を一望する。

そして、似島を取り巻く青い海、点々と浮ぶ島々やカキ筏が風景画を見る思いにさせるのだ。

頂上を示す赤い鉄柱そばには、先行したO小学校の児童達が弁当を食べ終わり、「ゴミをださないように。」の教師の指示で、手回り品を片付けている。自然になれ親しむ野外活動の一環だろう、動作がキビキビとして気持ちよい。
「もう、降りるの。」、そっと問いかけると、
「これからね、カヌーの稽古。」、児童たちの元気な声が、はじける。

安芸の小富士の下山は50分足らず。島のことを少しでも伝えたいからだろうか、M氏は「似島学園港まで送る。」と、いわれる。受けることにした。

少し遠回りして、大黄海岸の原爆石碑に手をあわせる。軍馬検疫所跡地にできた似島中学の生徒が、三々五々に下校中だった。彼、彼女たちは口々に、「今日は。」と、見知らぬ筆者に挨拶する。
「島の環境がよろしいから、島外からの生徒もあります。」と、M氏。海風を受けながら歩くこと、約15分。似島学園港に着く。
「あそこが弾薬庫跡です。」、M氏の指す先には、草叢の茂った小高い丘があるだけだ。

似島学園桟橋では若い女性が七、八人の子供達の世話をしている。M氏によると、「グループ・ホーム。」とかの制度で、島外から似島学園にかよう子供たちだという。似島は、未来の先取りができている・・。
「春、ミモザの咲く頃、また、いらっしゃい。」、M氏の誘いの声を耳にしながら、島が歩んだ平和への道を、強く感じるのだった。

註1 M氏は似島臨海少年自然の家所長。
註2 昭和21年、戦災孤児教育所として34人の孤児が収容された。森園長・吉川園長の献身的な奉仕活動があった。昭和41年精神薄弱児(知的障害児)施設を併設。

似島臨海少年自然の家道順
※JR広島駅より広電・広島港行き広島港下車、フェリー約20分。

(ひろしまファンクラブ 平成23年11月10日号掲載)

 

「広島邦楽、今昔」
 

 リズム主体のポップス調の歌に戸惑い、落ち着いた歌謡メロディーに郷愁を感じる中・高年齢者が増えている。
 そうした中「間」や「小節」を利かした日本独自の音楽世界「邦楽」が、静かなブームを呼んでいる。
 

入江富士子の墓のある光福寺 
入江富士子の墓のある光福寺
 入江富士子の墓
光福寺(寺町)にある昭和三味線の名人
入江富士子の墓
(入江家とある石の下が三味線の胴をかたどる。土台の石には弟子たちの名がある。)


 筆者は、昭和初期、三味線の名手といわれた入江富士子
(天満町<現広島市西区>)のことを、『がんす横丁』(薄田太郎 M35.11.1~S42.4.23)で知った。
 太田川の三角州に育った広島の街に、彼女の爪弾く三味線は風情を添えたことだろう・・。そんな思いが、光福寺(中区寺町)に眠る名人を訪ねさせた。

 「入江富士子さんのお墓ねー。」、梵妻の案内で探して回ること小半時、立並ぶ墓石の中に薄茶けた墓標を見つけた。三味線の胴をかたどったそれには、弟子たちの名が並んでいる。こんなに慕われる名人とはどんな人、また、得意としたジャンルは・・。いつしか故人を偲び、当時の広島の邦楽に思いをするのだった。

 幸運だった。(1)「NHK広島放送局六○年史」や(2)「新修廣島市史」閲覧の機会に恵まれ、一端が覗えた。
 (1)には、広島地域に伝わる邦楽の記述がある。それには、古いものに雅楽、謡曲、狂言などをあげ、江戸時代末期からは、三味線で伴奏するものを浄瑠璃系統と歌謡系統に二分し、前者に、義太夫・常盤津・清元・新内を、後者に、長唄・端歌・歌沢(小唄とともに端歌から派生した俗曲)・小唄をあげている。
 (2)には、明治から昭和初期ごろの当地での邦楽人気の記述があり、浪花節、浄瑠璃、長唄、清元、小唄が上位を占めている。また、観客で賑わった朝日座、柳座、活動写真館「天使館」など、当時の劇場も散見されたのだ。

 

本川と天満川 
直線の流れが本川、右の流れが天満川 
広島は太田川の三角州に育った風情のある町である。
(胡神社から二ツの流れの分流を撮る。)

 これら小史に触れて、名手入江富士子の得意なものが、おぼろげながら見えてきた。名手の住まいが、七つの川(現在は六つ)の一つ天満川河畔の天満町にあったことが、暗示した。
 天満町は、西の盛り場といわれた町で、粋筋の人でもある名手は、当時流行の「端唄」か、小粋な芸に洗い上げられた「小唄」に携わったように思えたのだ。
 それからの筆者は、興味一杯、あたりに気を配りながらの散歩であった。街の路地裏にある○○流・三味線教室、○○派小唄(三弦)稽古処など小さな看板を目にする都度、足を止め、澄んだ三味線の音色に耳を傾けた。あの墓標にある名手にかかわりの人のことを思ったのだ。
 

 小唄「満月」を演奏する二人
小唄「満月」を演奏する二人
向って右側、小唄M流派の師匠。左側同派名取のIさん。
 小唄M流派の稽古発表風景
小唄M流派の稽古発表風景
向って右から二人目、同派師匠。
向って左から二人目、同派名取Iさん。


 ♪満月やー 葉越し柳の涼風に 吹かれて歩む二人連れ・・

 半開きになった教室(紙屋町、みずほ銀行6F)のドアーから、漏れて聞えるのは小唄だ。いい声だ。豊かな声量ではないが、三味線に合わせた声はしんみりとして旨みがある。あるときはか細く、力を入れると凛と響くのだ。
 名手入江富士子を思わす三味線の伴奏者は、小唄M流派の師匠で、歌い手は同派名取のIさんであることを、後で知った。側に(唄の)順番待ちする人が、数人いた。

 端っこの女性に、
 「はじめて、長いの。」、そっと訊いた。
 「入ったばかりですが。」と、言って、彼女はこう続けた。今まで、カラオケ教室に通っていたが、何か物足りなくて、これ(小唄)に代わった。三味線音楽は、奥が深くて、やりがいがあると。

 邦楽ブームの根源を見る思いだった。そして、広島の文化として根付いて欲しいと、心密かに彼女達へエールを送るのであった。

(参考)光福寺・・別院前電停下車、徒歩3分。
     みずほ銀行6FのM流派三味線・小唄教室・・紙屋町西電停下車、徒歩1分。

 

(ひろしまファンクラブ 平成23年9月15日号掲載)

 

会話のはずむ「広島風お好み焼き」
 


NHK朝のドラマで「てっぱん」が放映されて、お好み焼きが広く知られるようになった。

広島市は「広島風お好み焼き」の発祥の地であるだけに、街角や小さな通りにも「○○チャン」などと書き染めた、お好み焼き屋の暖簾を見る。

狭い路地裏のお好み焼き屋に、小さな子連れの母子などの姿をみると、何故かホッとさせられる。
対照的なのが、繁華街のお好み焼き屋だ。

西新天地広場南側(アリスガーデン)には、戦後の屋台からはじまった「お好み村」がある。鉄筋7階建てのビルには27、8軒のテナントがあり、修学旅行生の定番として、また、宴会の場として賑わっている。隣の5階建てのビルには「お好み共和国ひろしま村」というのもある。

路地型、都市型、いずれにも共通するのが、店に会話の溢れることだ。

(お好み焼きの)焼き手と客と、また、たまたま席を隣り合わせた客同士がカープを語り、さらに景気や政局など多彩な話題で賑わい、店内は庶民のサロンと化すのだ。
 

 西新天地広場のお好焼村
西新天地広場のお好焼村


西新天地広場のお好み共和国

西新天地広場のお好み共和国
お好みKの店長
お好みKの店長の腕をふるうところ


西区住まいの筆者は、ときどき帰路に便利な南区松原町に14店が集う「広島駅前ひろば店」を利用する。お目当てはKで、この店には沖縄出身のS君(24歳)が将来、故郷に「広島風お好み焼き屋」を開きたいと、頑張っている。S君はこの途4年、おっとり型だが、手さばきはみごとだ。

厚い鉄板にサーッと油を敷く。溶かした粉を、おたまでたらして円形の薄焼きを作る。広島風お好み焼きの生地である。それに素早く鰹節(粉末)をかけながら、細かく切ったキャベツを山盛りに載せる。さらに、もやしをのせ、天かすがのり、青ねぎがのり、薄い豚のバラ肉が三枚のる。

オーダーがあるとイカ天、餅などものる。その上に、小麦粉の溶かしたのを少し振りかけて、厚く層をなした材料が崩れないよう、整える。

少し焼けると、両手のヘラで次々と生地を裏返していく。鉄板がジュ、ジュッと音をたてる。かすかな湯気とともに、肉や野菜の香りがほのかに漂う。脇でソパやうどんをほぐす。すかさず鉄板に卵を落として拡げて焼き、その上に(野菜の入った)本体を載せる。お好み専用のソースを刷毛で塗り、粉状の青海苔を振りかけ、
「はい、おまちどうさん。」と差し出す。この間、十数分。S君の鮮やかな手つきは、待ち時間を感じさせない。
「サアー、いただこう。」小さなヘラで、食べやすいように切って、フウ、フウ息を吹きかけながら口に運ぶ。山盛りに乗せられたキャベツの甘味が、舌につたわる。ビールのお代わりをしたくなるこの味が、広島風お好み焼きの醍醐味だ。胃袋が一息つくと、さらに会話がはずみ、陽気な時間がつづいていく。
 

広島駅前ひろば店
14店の集う「広島駅前ひろば店」
 

メニューと有名人の色紙

Kの店のメニューと有名人の色紙
 

広島駅前店のKの店長(左)と従業員

南区松原町の
広島駅前店のKの店長(左)と従業員

 


広島風お好み焼きは、65年前、一発の原子爆弾で廃墟となった焼け跡からスタートした。70年間、草木も生えないといわれた原爆スラムにバラックが建ち、街角や裏通りにポツリ、ポツリとお好み焼きの店が出現した。そこに子供たちの元気な声がよみがえり、働く人やおばさんたちの笑顔が揃い、街は元気な姿を取り戻したのだ。
このたびの東北・関東大震災は、あの広島の悲劇を思わせる。日々に伝わる惨状は「がんばってください。」と軽々にいうのは憚られる。それでも、被災地に寄り添いたい。

会話のはずむ「広島風お好み焼き」は、そんな思いで、書かせていただいた。

(ひろしまファンクラブ 平成23年5月12日号掲載)

カモの飛来するころ(八幡川河口)

八幡川河口にカモが来た。満ちる潮、引く潮に揺れながら冬雲を映す川面をスイスイいく。光沢のある緑色の頭が雄、地味な茶褐色が雌。大きな群れ、小さな群れが鉄架橋の下を、人工干潟の水辺を潜ったり「ガ、ガッ」と鳴いたり、中にはオレンジ色の足をヨチヨチさせて岩場を登る愛嬌ものもいる。

カモの来るころは、河口は野鳥の生命で輝いてくる。ユリカモメ、セグロカモメ、ウミネコ、カワウなどの飛来鳥、イソシギ、ミサゴ、アオサギなど留鳥に、ポピュラーな烏も。

ユリカモメが目線の高さに飛んできた。赤い服の女性が手にする餌を目当てに白灰色の翼の裏を、表を見せながら次々と旋回する。シャッターを押し続ける人がいる。尾羽根を上下に振りながら水辺を小走りする鳥がいた。

灰色の小さな鳥は何鳥、思い出す間もなく「チッ、チッ、チッ」と鳴いて飛んでいった。「ハクセキレイよ」、女性の声に振り向くと、河口の改修前にはもっといたと、肩から外して望遠鏡を覗かせた。レンズに、沖合いの竹竿に休む黒褐色のミサゴが、手前の黄色い波除のフェンスには黒い姿のカワウが数羽並んで映っていた。ここには自然や水鳥に惹かれて観鳥する人、談笑する人、散歩する人たちの笑顔がある。

傍らのコンクリート堤には、五日市南小学校四年生の「八幡川クリーンプロジェクトメモ」のプレートや川に生きる小生物の「陶版」があった。八幡川の環境を守って、泳げる川、遊べる川、生き物の棲める川を取り戻したい、と。

そういえば水門附近に箒やシャベルを手にして除草、ゴミ拾いをするお年寄りがいた。児童たちの願いに響く、清清しい風景だった。西風が子供たちの声を運んだ。「みずとりの浜公園」に遊ぶ子供たちだ。

大都市近郊に自然に触れ合う遊び場がある。海があり、川があり、小さな生き物がいて、魚がいて、野鳥が棲んでいる八幡川河口。カモの飛来は、自然の仕組み(食物連鎖)に思いをはせた、北からの便りなのかも。

(ひろしまファンクラブ 平成18年3月23日号掲載)

 

 

カモの飛来するころ (ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)

カモの飛来するころ(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇) 

 カモの飛来するころ (ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)


広島東照宮

広島駅新幹線口から北に向かって徒歩10分、丹塗りの広島東照宮がある。

参堂から高い石段を登って唐門をくぐると拝殿、奥の本院へとつづく。唐門から西に伸びる翼廊(よくろう)を辿ると手水舎(てみずしゃ)、社務所、御供所(ごくしょ)、脇門、参集殿があり、唐門の東側には本地堂(ほんじどう)がある。

建物に備わった説明書をメモしていると、お年寄りから声があった。
「建物は以前の桧皮葺(ひわだぶき)から銅版葺きに変わったが、構えは以前と変わらない姿です。」と。

三代目宮司 久保田 訓章(のりあき)さん(74歳)だった。

「静かなところですね。」
神域の静かさを感じた私は、少し的外れなことを言ったようだ。

宮司さんはニッコリされ、東照宮略記を手に
「徳川家康公を祀る東照宮は、広島藩主浅野光晟(みつあきら)公によって造営された。光晟公の生母は、家康公の第三女、振姫(ふりひめ)であり、祖父家康公の遺徳を敬慕して、神霊は祀られた。」と由緒を話された。

更に
「家康公が薨去されて50年ごと「通り祭礼」と称する盛大な式典が行なわれるのを、後世になって、徳川幕府に対する(浅野家の)お追従だと貶す人もいるが、あの乱世を治め平和をもたらした人です、当然です。」と、毅然とされたのが印象的だった。

壮麗を極めた東照宮は、爆心から東北へ約2,200メートル、強烈な爆風ですべての建物などが中大破した。

幸いに火災を免れた唐門、翼廊、手水舎、本地堂、御供所、脇門および神輿はその後修復されて、広島市の重要文化財に指定されている。

「東照宮が創建されて350年目に当たるのを記念して、平成10年11月に183年ぶりに「通りご祭礼」を行ないました。5万人もの観衆に感動を与えました。今度は、平成27年(2015年)の四百年祭です。」
宮司さんは広島の伝統文化を継承していくことを誇りにされていた。

境内に葉桜が7,8本あった。

「ここで、花見をする人は・・・」
「ええ、家族連れの方が弁当持参でみえますよ。」

物静かな宮司さんの口調は、東照宮が平和を願う広島市民のオアシスであることを願われているようであった。

宮司さんとお別れし、52段の石段を降りきったところに原爆慰霊碑があった。

「ここでは被爆者が山から湧いて流れた僅かな水を求め、多くの人が死んでいった、と伝わっています。」息子さんの説明が胸をついた。

(ひろしまファンクラブ 平成18年8月3日号掲載)

 

広島東照宮(ひろしま市民パブリシスト 水野 郷子)

広島東照宮(ひろしま市民パブリシスト 水野 郷子)

広島東照宮(ひろしま市民パブリシスト 水野 郷子)
写真撮影
ひろしま市民パブリシスト
水野 郷子

 


知識の宝庫、広島市立中央図書館を訪ねて!

「広島市立中央図書館の蔵書はざっと94万冊です」と、案内してくださるのは、この道10年の森岡司書さん。「この中には、少年の魂に響く本がきっとあるはず」、『狭き門(ジイド)』に、ときめいたころがあったな…。

そんな想いで、足を運んだのが広島資料室。書架には数多くの郷土資料、広島県史、原爆関連の書籍が…。図書館の利用をほとんど閲覧室で済ます筆者は、膨大な郷土資料に目をみはる。隣は、広島文学資料室。壁面に郷土の偉大な作家の写真と略歴が、旋錠されたガラスケースには、創刊号など貴重な作品がズラリ…。自らの手で命を絶った原民喜の肉筆が目を引く、三重吉の「赤い鳥」が懐かしい。

同じ3階には膨大な資料を擁する参考閲覧室。カウンターでレファレンスサービスを受ける人、黙々とオーパック(コンピュータ目録)を操る人、分厚い参考書から抜書きする人、みんな図書館に溶け込んでいる、いや、図書館が地域に溶け込んでいるのだ。

時間にせかされ、階下の自由閲覧室Aに足を運ぶと、「9月から始めた闘病記コーナーです」、入り口近くの書架を指しながら、微笑まれる森岡さん。闘病記は、がん、肝臓病、腎臓病等々、病名ごとに整理した、利用しやすい配列だ。有名人の闘病記もある。「大空真弓、『多重がん』撃退中!」、新藤兼人「愛妻記」(肝臓がん)など、早期発見、早期治療の必要を説くシグナルだ。

いよいよ、自由閲覧室Bへやって来る。入り口正面が「起業・創業情報コーナー」。「事業を起こしたい人には、無料相談があります」、カウンターの女性職員がリーフレットを配る。起業する人はどんな人、勇気のある人だろうな・・・、と思いをめぐらす。

と、「これ、どうです」。差し出した森岡さんの手にも、リーフレットが。それには『本の交換市』と太書きされ、自宅に眠る本を持ち寄り、感動を分かち合おう、と呼びかけてある。筆者は(図書の)閲覧の場だけでなく、地域に向かって活動する図書館の姿に、心の底の底からフツフツと湧いてくるぬくもりを感じたのです。

広島市文化財団 文化情報マガジン「to you」平成18年11月号 掲載)

 

知識の宝庫、広島市立中央図書館を訪ねて!(ひろしま市民パブリシスト 平井 英子)
書庫。
これでもホンの一部です。

知識の宝庫、広島市立中央図書館を訪ねて!(ひろしま市民パブリシスト 平井 英子)
鈴木三重吉著の貴重な「赤い鳥」
知識の宝庫、広島市立中央図書館を訪ねて!(ひろしま市民パブリシスト 平井 英子)
一所懸命に検索中。
知識の宝庫、広島市立中央図書館を訪ねて!(ひろしま市民パブリシスト 平井 英子)
毎日廻るたくさんの本と格闘中・・・。

写真撮影
ひろしま市民パブリシスト
平井 英子

 


海蔵寺と旧山陽道周辺
 

海蔵寺は、標高約100メートルの行者山の麓にある。広電宮島線、草津駅から北に徒歩数分。旧国道とJR山陽線を越え、石段の道を60段登ると山門が。

傍らに西国第74番、宗名・曹洞宗、本尊・観音様とある。左奥には本堂、目に飛び込んだのは瓦葺大屋根のきれいな勾配。参内する・・・、写経、参禅の場の厳粛な空気。

山畔には元禄時代(作)の石組み庭園、池泉の面に木の葉を浮かべる静かな佇まいに、なんとなく風雅を感じる。

西の丘陵へ歩く。古木の生い茂った中に梵字のある五輪の塔が七、八柱。東城浅野家(広島藩浅野家の家老)の墓所だ。塔は地輪の方、水輪の円、火輪の三角、風鈴の半月、空輪の宝珠形と五つ石が積み上げられ、苔むしている。

少し上手には、歴史の不思議、山中鹿之助の次女、盛江の墓が、また、秀吉に滅ぼされた北条氏政の子、氏直の墓があるのだ。海蔵寺は山門からの眺望がよい。遠くに安芸富士を望み、眼下には旧山陽道に沿って古い町並がつづいている。

いよいよ「草津まちなみ探訪マップ」を手に、西国街道筋のブラ歩き。慈光寺、浄教寺、教専寺、西楽寺と、狭い界隈に五つの寺。神社も沢山ある。草津八幡宮、鷺森神社、幸神社、一畑薬師如来、住吉神社、胡子神社、竜宮神社と、祠など加えるとその数は。まこと寺社の姿の似合う町である。

町屋の通りを左折れする。入り組んだ狭い道の両側に、古い家屋が・・。うだつのある家、ベンガラを塗った格子構えの家がある。みんな古風で趣のある家。マップを見た。島田家、小川家、宮本家、三島家など、旧家を思わす名であった。

小路が幅広な道に、突然変わった。「延焼防止線」。密集する家屋を大火から守る、昔の人の知恵だった。傍らには「釣井(つるい)」と、香の焚かれている「地蔵尊」がある。寺社の門前、路地の辻々に、まちづくりの会が作った史跡案内がある。街並みは静かだ。古い町並みを大切に想う人の住む草津のまちは、非凡な町である、と思った。

(ひろしまファンクラブ 平成18年10月19日号掲載)

 


海蔵寺と旧山陽道周辺(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)
海蔵寺本堂

海蔵寺と旧山陽道周辺(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)
石組庭園

海蔵寺と旧山陽道周辺
北条氏直の墓

 


歴史発見!『広島の街ウォーキング』 目から鱗が落ちました

歴史系4施設の共同イベント「広島の街ウォーキング」は、猿猴橋から始まった。11月23日、予報は雨天にもかかわらず、参加者は25名。老若男女、顔ぶれはさまざまだが、みんなの目はキラキラしている。 

広島城学芸員の玉置さんから挨拶とコースの説明。頼山陽史跡資料館学芸員の花本さんが、頼山陽の七言絶句『郷に到る』を紹介されると、夕暮れ迫る猿猴橋に立って、母を思う作者の心情が伝わり、歴史発見の門出にふさわしい雰囲気を醸し出した。 

10時出発。カメラを持つ人、メモ帳を手にする人。筆者の前を行くのは那須さんご夫婦。「『稗搗き節』の那須の大八郎にゆかりの者(?)」と、笑顔をみせるご主人の広さん(49歳)。 

京橋に着く。「京都に向かう道の出発点にあったから京橋」と、郷土資料館学芸員の村上さん。傍らの石碑に「被爆に耐え、救援の道となった・・」とある。 

八丁堀界隈に出る。「堀の長さが南北八丁(約900メートル)あったから八丁堀」「東新天地公共広場周辺は、劇場、映画館が立ち並ぶ繁華街でした」と、道々の玉置さん、村上さんの話には興味が尽きない。本通り(旧西国街道)を西進。あれが虎屋饅頭(慶長5年(1600年)創業)のあった場所、これが赤松薬局(元和元年(1615年)創業)と、みんな、すっかり西国街道を行く旅人だ。

通りの敷石に『平田屋川』とある。「平田屋川は天正の昔、築城用の資材を運ぶために造った運河です」と、玉置さん。おシャレな並木通りは運河であった。歩いて初めて知った歴史だ。西に進むとアンデルセンが・・。ルネッサンス風の建物が原爆により被った惨禍の話に、最前列でメモを取る女性が顔を曇らせる。 

『革屋町』、『東横町』とある敷石を踏んで西進する。「戦前、本通りの自慢は、すずらん灯でした」という村上さんの話を聞きながら平和公園を目指す。 

雲行きの怪しい中、辛うじて元安橋東詰に到着する。「中島は、太田川の水運の利もあって、陸上交通の要衝、広島城下の中心地でした」と、玉置さん。サツキの茂みに隠れるように立つ石碑『広島市道路元標』が、かすかに往時のよすがを伝えている・・。

元安川を渡れば平和記念公園、ウォーキングの終点は目の前だ。熱心に聞き入る輪に、メモ書きする那須さんたちが・・。「ウォーキングは、どうでしたか?」、筆者の問いに「広島に生まれ、広島で育った私ですが、新たな発見がいっぱい、目から鱗が落ちました」という明るい声は、那須さんの奥さんの美恵さん(46歳)でした。

広島市文化財団 文化情報マガジン「to you」平成19年1月号 掲載)

 

歴史発見!「広島の街ウォーキング」 目から鱗が落ちました(ひろしま市民パブリシスト 粟根 和也)
出発前。猿猴橋でコースの説明を受ける。
歴史発見!「広島の街ウォーキング」 目から鱗が落ちました(ひろしま市民パブリシスト 粟根 和也)
「広島城八丁堀外濠跡」の
碑の前で。

歴史発見!「歴史の街ウォーキング」 目から鱗が落ちました (ひろしま市民パブリシスト 粟根 和也)
原爆被災説明板(市内に45ヶ所)の
1つがここに。

歴史発見!「広島の街ウォーキング」 目から鱗が落ちました(ひろしま市民パブリシスト 粟根 和也)
指さす先に隠れているのが、
広島市道路元標。


写真撮影
ひろしま市民パブリシスト
粟根 和也


広島カキ
 

安芸の国名は「土産多く、飽き足りる」に由来すると仄聞する。土産の代表格が「カキ」であることを思えば、たとえ俗説としても、伝えるものにはロマンがある。

広島湾一帯では、縄文・弥生時代から住民が天然のカキを食べていたことが、貝塚から出土するカキ殻からわかる。

養殖の移行期は明らかではないが、室町時代の終わりごろの天文年間(1532~55年)に安芸の国でわが国最初の養殖法を発明したとする説がある。大正13年に草津村役場(現西区草津町)が発行した「草津案内」に「天文年間、安芸国において養殖の法を発明した」という記述があり、当時から広島湾一帯でカキの養殖が行われていたことがうかがえる。(広島市水産振興センター『かき養殖・海辺の教室』より)

カキの養殖方法は、石蒔式(いしまきしき)の原始的方法から、ひび建て養殖法、杭打垂下法と工夫改善が重ねられた。

昭和28年に孟宗竹を組み立てた筏式垂下法が広島県水産試験場で開発されると、漁場の沖合化が可能となり、漁場面積が拡大して、生産量が飛躍的に伸びた。

平成16年(2004年)度の広島県の年生産量、21,074トンは全国生産量の57%強を占めており、第2位の宮城(6,015トン)、第3位の岡山(3,301トン)を大きく引き離している。

広島カキが有名になったのは、近世中期にカキ船を大阪に向かわせて、販路の拡張に努められたことにはじまる。西区草津町の漁民会館の敷地内には安芸国養蠣之碑(ようれいのひ)がある。小林五郎佐衛門ら江戸時代の養殖功労者を記念して建てられたもので、草津かき組合では毎年『かき供養』を開催して、先人の偉業を偲んでいる。

広島カキは今年、ピンチを迎えた。ノロ・ウィルスが噂され、売り上げが伸び悩んだのだ。平成2年には「広島県のさかな」に選定されているカキである。立ち上がったのは、我らがカープのブラウン監督だ。野球の采配同様、広島カキに寄せる熱い思いとメッセージが、広島の味覚に確かな支援をもたらした。

カキ料理といえば、酢ガキ、土手鍋、カキの殻焼き、カキフライなどがあるが、いずれも広島を代表する味覚である。筆者といえば、アルコール解禁となった遠い成人の日、酒の肴にしたカキフライの味が忘れられない。

(ひろしまファンクラブ 平成19年3月1日号掲載)

 

 


広島カキ(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)
 

広島カキ(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)
 

広島カキ(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)
 


福王寺 安芸の高野山 

四月中旬、(安佐北区)可部市街地の西北、福王寺山(496.2m)の頂付近にある福王寺に参詣した。参道は南原(なばら)からの歩行路と、途中までマイカーも利用できる国道191号線沿いの福王寺口からのコース(全長約6,7キロ)とあるが、地理不案内の筆者は後者を選んだ。

車を降りて、山路を5、6百メートル登ると木の間隠れに山門が見える。さすが真言宗の古刹、姿にりん凛としたものを感じる。


金剛力士像のある山門を潜って人跡で擦り減った石段を登りきると、樹齢数百年(広島市教育委員会説明書)の燈明杉(とうみょうすぎ)(広島市指定天然記念物)の巨大さや、多くのお堂が並んでいるたたずまいが目を瞠らせる。

福王寺の山門(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)
福王寺の山門
 

寺伝によれば福王寺の開創は828年(天長5年)、空海によるとされている。
巡釈中の空海がこの山に登り、林の中の一大奇樹に霊気を感じて枝や根をつけたままの形で3メートル余の不動明王立像を彫像し本尊にした、と伝わっている。

寺の裏側には金の亀が空海を参拝の礼で迎えた、という金亀伝説(きんきでんせつ)の池(周囲約220メートル)があり、福王寺の山号、「金亀山」の起源になったといわれている。


福王寺は最盛期には僧舎48を数えたが、時代の変化により頽廃した。

金亀伝説のある池 建物は弁財天(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)
金亀伝説のある池 (建物は弁財天)  

鎌倉末期には河内国の人、禅智上人が入山し、安芸国守護武田氏信が堂舎、御影堂、仁王門などの造営を援助した。
以後、戦国時代まで武田氏の保護が続いた。

福王寺は過去4回火災にあっている。中でも昭和52年9月3日の落雷による火災では金堂が焼失し、安置されていた「立木仏・不動明王像」が焼けている。

現本堂は昭和56年の再建である。「不動明王坐像」は福王寺の檜80本余りを使用してつくり、落雷によって黒焦げになった先の不動明王像が、胎内仏像として納められている。

本尊「不動明王坐像」(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)
本尊「不動明王坐像」

傍らには祈祷の際、悪魔を払うといわれる寺宝の金剛五鈷杵(こんごうごこしょ)(写真)が安置されている。
寺には豊臣秀吉や福島正則などとゆかりの「さざれ石」が寺宝として伝わっていたが、落雷により粉砕した。写真は庫裏に保管されているその一部である。

広大な境内(約二万坪)は、松、杉、檜などの老樹に覆われ、その間に本堂、庫裏、開山堂、鎮守堂、鐘楼などの諸堂が散在する静かな景観は、安芸の高野山の呼称に相応しく、聖地、福王寺を強く感じさすのである。

(ひろしまファンクラブ 平成19年6月7日号掲載)

 

燈明杉(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)
燈明杉

本堂(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)
本堂

鐘楼(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)
鐘楼

阿弥陀堂にある駕籠(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)
阿弥陀堂にある駕籠

馬屋原さん写真
金剛五鈷杵(本堂の不動明王坐像の横にある)
 


 

 

庫裏に保管されている「さざれ石」(ひろしま市民パブリシスト 馬屋原 勇)
庫裏に保管されている「さざれ石」


ヒロシマとうろう流し

8月6日、夜、ヒロシマの川には灯りを点したとうろうが無数に浮かんで、流れて行きます。

「やすらかに眠ってください」、川辺には思いを込めてとうろうを流す人影が、絶えません。

父を、母を、わが子を偲ぶ人たちだろう・・、そんな思いでフィルターを覗いていると「ご趣味ですか」厳粛な声に振り返りました。

Dさんでした。

「○○中学二年生だった兄が、建物疎開に行ったまま、還らないのです、ここを兄の終焉の場と思うことにしています・・」、

とうろう流しに託した悲しみを、述懐されるのです。

祈りを捧げる人の中に、B君の姿がありました。

中学三年生のB君は、自分で流した「世界平和」と書いたとうろうを見つめながら、今年三月、原爆症で亡くなった祖父を語ってくれました。

筆者は1945年8月6日のヒロシマの川を知りません。しかし、川が熱地獄から逃れようとした人々を呑み込み、黒焦げの死体をいっぱい浮かべたことは、書物で知り、人からも聴いています。

10幾万人の被爆死と、その後も放射線に苦しんでいる人のことも・・。

あれから62年、ビルが立ちならび、緑の街路樹に覆われた街のたたずまいは、この町の歴史を知らないかぎり、他の都市と変わるところはありません。

ここ元安川の岸辺には、崩れた煉瓦の壁からあばら骨をむきだしにした原爆ドームが、あの日の証言者として立っています。

平和記念公園では、8時15分の鉦を合図に平和記念式典が開催されました。

「原爆犠牲者のめい福を祈り、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現」を願って、平和宣言が行われたのです。そんな願いを他所に、

「原爆投下はしょうがない」、という防衛大臣がいました。核実験をする国も、後を絶たないのです。

とうろうは、核に痛恨の思いを残して亡くなった人の霊魂です。とうろうは、この世に核があるかぎり、ヒロシマの川を流れてゆくのです。

(ひろしまファンクラブ 平成19年8月30日号掲載)

静かに流れるとうろうを川辺で見送る人たち
  静かに流れるとうろうを川辺で見送る人たち

世界平和等が書き込まれたとうろうが並ぶ原爆ドーム横の慰霊碑
 世界平和等が書き込まれたとうろうが並ぶ原爆ドーム横の慰霊碑

あの日の証言者として、元安川の岸辺にあばら骨をむき出して立つ原爆ドーム 
あの日の証言者として、元安川の岸辺にあばら骨をむき出して立つ原爆ドーム

平和記念式典終了後の原爆死没者の慰霊碑
平和記念式典終了後の原爆死没者の慰霊碑

内閣総理大臣の献花
 内閣総理大臣の献花

原爆の子の像と平和メッセージを書く外国人女性
原爆の子の像と平和メッセージを書く外国人女性


頼山陽居室

 中区袋町の「頼山陽居室」を訪ねた。傍に「頼山陽先生日本外史著述宅跡」と石柱のある正門を潜ると、周囲のビル街と一線を画す静寂があった。

この日、敷地内に隣接する頼山陽史跡資料館では、叔父杏坪(きょうへい)との特集展『頼山陽と頼杏坪』が開催されていた。

「脱藩は、山陽の人生の大きな節目です」、

 花本さんは山陽の人となりについて、先ず、脱藩を挙げられた。丁寧な語りだ。いただいた名刺には広島県立歴史博物館(頼山陽担当)主任学芸員とある。

 山陽は21歳で広島半を脱藩して京都に向かったが、叔父杏坪らによって連れ戻される。

当時、届けを出さず藩を離れることは、打首に相当する重罪。幸い、山陽は死罪やお家断絶という最悪の事態は免れるが、狂人ということで廃嫡され、24歳までの3年間を自宅の離れに幽閉される。しかし、山陽はこのピンチを自らの手で切り開く。

 その間、江戸後期から明治にかけて広く愛読され、ベストセラーとなった『日本外史』を執筆したのだ。

 そのとき幽閉された離れの建物が頼山陽居室と呼ばれるもので、木造平屋建、延べ40平方メートル、土間のほか8畳と6畳半の二間がある。

昭和11年(1936年)に国の史跡の指定を受けたが原爆で倒壊し、昭和31年(1956年)、元の姿に復元されている。

 居室には詩や絵画はもとより、およそ飾りつけというものはないが、それがかえって推敲(すいこう)を重ねる山陽の姿を髣髴(ほうふつ)させる。

 山陽史跡資料館には山陽の描いた山水画、山陽が得意とした『川中島』など詠史詩(えいしし:歴史を詠んだ詩)や叔父杏坪の『芸備孝義伝』などの珍しい作品が数多く展示されている。しかし、どれも漢字ずくしで、読解は容易ではない。

 と、 

「頼山陽先生 日本外史著述宅跡」の石柱のある正門
  「頼山陽先生 日本外史著述宅跡」の石柱のある正門
山陽が脱藩の罪によって幽閉された居室
山陽が脱藩の罪によって幽閉された居室
資料館正面玄関詠史詩「天草の洋に泊す」
▲資料館正面玄関        ▲詠史詩「天草の洋に泊す」

 難しい漢字の詰まった書に見入っている若い女性グループがいた。

   雲耶山耶後耶越(くもかやまかごかえつか)
      水天髣髴青一髪(すいてんほうふつせいいっぱつ)
      ・・・・・・・

 どうやら、山陽の「天草に洋(なだ)に泊(はく)す」のようだ。目が輝いている。ジーパンを穿いて町を闊歩しても可笑しくない年頃だが、彼女達は資料館の空気に溶け込んでいる。

 ここには、人の気を引く何かが・・ありそう。筆者には、簡素な山陽居室が、日本人の心の故郷のように思えた。

(ひろしまファンクラブ 平成19年10月11日号掲載)

 


広島市現代美術館

緩やかな山道を登ると、行く手に広島市現代美術館の三角屋根が、秋の日差しに輝いていた。

比治山は小高い山だが、広島の街を一望することができる。

眼下に広がる美しい街並からは、1945年8月6日の惨状を想像することは容易でない。

しかし、あの日、この山には火炎と放射能を浴び、ボロボロの姿の人たちが大勢押しかけ、ばたばたと死んでいったのだ。

この美術館は、その人たちの痛恨の思いが建設させたにちがいない・・。そんなことを考えながら、館内に入った。

取材には美術館の広報スタッフが対応してくれた。

「おっしゃるとおり、ヒロシマを表現する収蔵作品は、国内有数の美術館です、先ず作品を見てください」と、案内された。

その日、「路上のニュー宇宙」と題した大竹伸朗展が開催されていた。展示作品は総数約630点。絵画、水彩、素描、彫刻、さらに写真や印刷物、廃材などの素材を利用した平面、立体の大小さまざまな作品が広い広場をうめつくしていた。

しかし、どの作品も筆者の平凡な頭脳を遥かに超えている。

そうすると、「(目でみる)一般の絵画と違って、現代美術は体全体で感じるもの」、というアドバイスが。

なるほど、黒いシルクハットに細い手足の道化師「Mr.ピーナツ(1978-81)」君が、戦争を止めない人類を揶揄する顔に見えてくる。

さりげなく描かれた「歯科医の記憶」と題する作品も、筆者流では「よみがえれヒロシマの記憶」と変る。

収蔵作品展会場に回った。

いきなり目に入ったのはダンボールで作った大きなオートバイ。題して「オートバイX‐50」(篠原有司男)とある。

「50台を、みんな並べたら壮観だろうな」と、目は遠い日の少年のそれにかえっている。限られた展示作品だが、異色を放つものばかりだ。

中でも、エンツォ・クッキの「ふたたびスミレの花開く」、岡本太郎の「風」、河原温の「SEPT.8,1984」、フランク・ステラの「ラッカ1」などは、一昨年、ソフィア王女芸術センター(マドリード)で観賞した、ピカソの「ゲルニカ」を思わせる。

大作「ラッカ1」は、中・高校生に最も人気があるようで、記念写真を撮りあっている。質問を向けると

「色彩が鮮やか」、「幾何学模様、分度器の着想が良い」、「線の組模様が確か」と、若者らしい、鋭い答えが返ってくる。

頂いた栞をめくると、広島市現代美術館基本理念の冒頭に「現代をみつめ、未来への展望をきりひらく」とある。

筆者は作品収集を含め、この美術館があるべき理想の姿に近づきつつあるのを強く感じた。

 

(ひろしまファンクラブ 平成19年11月8日号掲載)

建物全景
建物全景

ヘンリームーアの作品「アーチ」
ヘンリームーアの作品「アーチ」

(C)大竹伸朗《シップヤードワークス 船底と穴》 1990-2005年
(C)大竹伸朗《シップヤードワークス 船底と穴》
1990-2005年

 

 (C)大竹伸朗《Mr.ピーナッツ》(1978-81年)
(C)大竹伸朗《Mr.ピーナッツ》(1978-81年)
 

(C)フランク・ステラ《ラッカ1》(部分)1967年
(C)フランク・ステラ《ラッカ1》(部分)1967年

 


鈴ヶ峯に登る

広島市の西端にある鈴ヶ峯に登った。

山麓はゴルフ場や団地造成に削り取られて少々痛々しいが、凛としてそびえる峰の姿は心を引く。

登山路はいくつかある。
JR新井口駅から近い鈴ヶ峯公園登山路を選んだ。

標識に、『鈴ヶ峯の森は、かつてシイやカシなどの巨木が繁っていました。平清盛はこれを使い、厳島神社を建てたといわれています・・・』とあるのも、非凡な山の証しだ。

山に入ると、渓谷は思いのほか広い。紅葉、マキ、サカキ、クマザサなどと、中には立ち枯れた木もそのままに保護されているのだ。
山道には、誰が祀ったのか、手作りされた小さな地蔵が座している。

道行く人にはお年寄りが多い。それも女性のグループが目立つのだ。
行き交うと、
「お先にどうぞ。」
「お気をつけて。」
知らぬ同士が掛け合うのも、この山ならでの風景だろう。

尾根近くでは(カープの)ユニフォーム姿の幼児二人が、若いお父さんに手を引かれていた。
「坊や、いくつ?」
あどけなさに、思わず声をかけると、二人の坊やは可愛い手で三本の指をこしらえた。

つづらに折れる道をいくつか曲がると、鈴ヶ峯東峰(312m)だった。
眺望もさえぎるものは何も無い。青い海と瀬戸の島々を眼下におさめるのだ。展望案内には鉾取山(ほことりやま)、黄金山(おうごんざん)、絵下山(えげざん)、金輪島(かなわじま)、灰ヶ峰(はいがみね)、休山(やすみやま)、似島(にのしま)、江田島(えたじま)、倉橋島(くらはしじま)、能美島(のうみじま)、大奈佐美島(おおなさびじま)、小黒神島(こぐろかみしま)、周防大島(すおうおおしま)、宮島(みやじま)とある。

島影の一つひとつを追っていると、
「やっと着いた。」
呼吸の荒い声がした。杖を頼りに、登ったお婆さんだった。
「お元気ですね。」
「何の、この山のおかげですよ。」
お婆さんはさりげなく言ったが、山頂を極めた笑顔は素敵だった。

 

井口台中学校側にある鈴ヶ峰憩の森への案内
井口台中学校側にある鈴が峰憩の森への案内

登山路の途中にある小さな地蔵様1

登山路の途中にある小さな地蔵様2
登山路の途中にある小さな地蔵様

鈴ヶ峰東峰の山頂
鈴が峰東峰の山頂

植林と給水
植林と給水


 

瀬戸の島々を眺望する-宮島方面-
瀬戸の島々を眺望する-宮島方面-
瀬戸の島々を眺望する-東方面-
瀬戸の島々を眺望する-東方面-

 

≪追記≫
○鈴ヶ峯の山頂三角点は西峰(320.6m)で、東峰からミニ縦走する。
○登山路・・・鈴ヶ峯公園登山口、美鈴が丘西登山口、美鈴が丘南登山口、八幡東登山口など。
○鬼ヶ城山(282.5m)は鈴ヶ峯東峰から北へ縦走する。山道は峻厳だが、ロープが設置されている。



(ひろしまファンクラブ 平成20年2月7日号
 


 


 


ひろしまの魚市場 朝の風景

鮮魚の箱
鮮魚の箱

せり売りに参加する仲買人
せり売りに参加する仲買人

ずらり縦列に並んだ鮪
ずらり縦列に並んだ鮪

鮪を洗う女性
鮪を洗う女性

 

広島市中央卸売市場中央市場は西区草津港一丁目にある。

構内を大型保冷車、トラックなど車両が引切り無しに走り、海の玄関、草津漁港には、係留された漁船の姿がある。

広い。
正門に立つと、市場の東、南端は目線の遥か彼方である。
水産係、T主査は「敷地面積、約242,300平方メートル」と、マップを指される。
それには水産棟、青果棟、花き棟のほか、いくつもの倉庫や加工場、商店街を思わす関連事業の店舗などのレイアウトが見られるのだ。

早朝4時、ベルを合図にせり売りがはじまった。
「サンマル、サンマル、サンゴー、はいサンゴー」、せり人の錆びた声が、朝の空気にはねかえる。
床面には鯵、かれい、おこぜ、あいなめ、蟹、鯛、たこ、ひらめ、ふぐ、すずきなどの箱がある。
エラ呼吸をするのもあって、鮮度は飛びきりのようだ。

せり人を囲むのは赤い帽子の仲買人。
その数ざっと、3、40人、歯切れのよいせり声に、思い思いの手が上がる。
競り落とされた魚箱には、メモ書きが載せられて落着。
手際のよいせり人に次々捌かれ、鮮魚はあっという間に完売される。

9時から始まる鮪の解体場に、(H魚市場会社の)O常務に案内された。
床面に7、80尾の鮪が縦列に並んでいる。
丈は1メートル前後、尻尾には一様に深い切込みがあるのだ。
不思議な光景に見つめる筆者に、「品質をみるためだよ」とO常務。
そして、あれがトンボ、これがキハダとメバチ、右の少し小さいのがホンマグロと、一尾、一尾に説明がつくのだ。

9時丁度、鮪の解体がはじまった。
包丁を手にするのは、以外にも若い女性だ。
すらりとした、たおやかな顔立ちの人だった。
男性が、魚体をまな板に載せる。
惑うことなく包丁を振るう女性。
頭がはねられ、腹部が開かれ鰭と尻尾を切り落として、解体作業は完了する。と、次の鮪が、まな板に。
鮪たちは、どんどん、まな板に載せられていくのだ。

正午前、市場を行き交う人は、疎らになった。
「市場の喧騒が、116万人、広島市民の台所を支える」喧騒の遠のく中で、ボンヤリと思った。

(ひろしまファンクラブ 平成20年4月24日号
 


不動院

 
楼門
楼門 昭和33年国重要文化財指定

国宝 金堂
金堂 昭和33年国宝指定 

鐘楼
鐘楼 昭和22年国重要文化財指定 

 

JR広島駅から北西に約3キロ、青葉若葉の山裾に、不動院のしずかなたたずまいがある。
不動院は、もと安国寺といった。
南北朝の戦乱で散った武士達の霊を慰めるため、足利尊氏が全国60余州に設立して安国寺と名づけたもののひとつだという。

先ず目に入るのが、二階作りの雄大な姿の楼門(ろうもん)。
正面三間(約7.9メートル)奥行き二間(約5.5メートル)で左右に仁王像が安置された堂々とした姿は、安芸の国の中心寺院だった安国寺の風格を偲ばせる。
楼門を潜ると、広い境内が目に飛び込む。

広場として開放されているのか、老松の根方には無心に遊ぶ子と、付き添う若いお母さんの姿がある。


正面のお堂には、頭を垂れるお年寄りの姿がある。
国宝金堂だ。
古色然とした二層の萱葺きの大屋根が、周囲の緑と映えあって醸す静寂がある。

建物の両脇にある白い花頭窓(かとうまど)の内側には、面相円満な木造薬師如来座像がおあす(御座)という。

楼門と金堂の間の南よりには、不動院鐘楼(しょうろう)がある。
8メートルそこそこの建物だが、お神輿(みこし)を思わす上部の朱塗と、腰から下につけられた袴腰(はかまごし)の白壁塗りとが鮮やかなコントラストとなって、一際目を惹く。

小路を十数メートル登ると、不動院墓苑。
一般墓標に混ざって、中興開山恵瓊(えけい)の墓がある。
不動院案内によれば、室町末期に廃寺同然であったのを、戦国時代の傑僧恵瓊が再興したとある。
傍らには恵瓊を六万石の直臣の大名に取り立てた、太閤豊臣秀吉公遺髪墓がある。

本坊を不動院と命名しながら、広島城主として治世わずか二十年に終わった福島正則公や、安芸国の守護だった銀山城主武田刑部少輔之墓もある。

歴史の中の束の間の興亡、苔むした墓はさながら不動院の栄枯盛衰を語っているようであった。

墓苑にいること小半時、老松の下には不動院に安心を囲った様子の、件の母と子の笑顔があった。
 

 

(ひろしまファンクラブ 平成20年6月12日号
 

 

 

広島城主福島正則公の墓  太閤豊臣秀吉公遺髪墓  中興開山恵けいの墓  武田刑部小輔之墓

桜門前の石柱 国宝重要文化財 別格本山不動院とある  不動院 案内書き


武田山

馬返し
馬返し
ここから道が険しくなり、ふもとから馬で運んだ荷を
人の背に代えたことからネーミングされたという。



御門跡
御門跡
通路が直角に曲がるよう石が積まれている。
近世城郭の「桝型」の働きがあると考えられています。
(武田山ガイドブックより)


本丸跡
本丸跡

 

6月某日、標高410.9メートルの武田山に登った。中世、安芸の国を支配した武田氏の本拠のあった山である。

登山口はいくつかあるが、地元からモデルコースと呼ばれる祇園、山本ルートを選ぶ。

麓までぎっしり詰まった集落を抜け、上り坂にかかると果実畑に変わる。
「登山ですか、ごくろうさん」、
農作業中のお年寄りが、元気をくれる。竹林が続いた。
途中、表示に「武田一族の墓」への道とある。
左に下ると回り道になるが、寄ることにした。
一族の誰のものだろうか、丸っこい石を重ねただけの姿が、途絶えた家の哀れを誘うのだ。本道に引き返す。

武田山憩いの森を過ぎると原生林が目立ち、道幅が狭くなる。坂道に沿って、ところどころにシャシャンボ、コナラ、シロダモ、アラカシ、ネムノキなどの植樹を見る。
樹木には、それぞれ学名、特性、植樹年月日が付され、「まちづくりプランプロジェクト」とある。
中には小学生による植樹もあって、山の美観が地元ぐるみで守られていることをうかがわせる。

しだいに急になる道を尾根に辿ると「馬返し」に出る。道が険しくなり、ここで馬の荷を人の背に代えて運んだことから、その名がついたという。

尾根を左にとると、巨岩の組み合わさる御門跡だ。
入門する者をチェックしていたのだろうか、通路は芝居小屋の木戸を抜けるように狭くなり、直角に右廻りする。

さらに杉林に続く細道を抜けると、千畳敷とよばれる本丸跡に出る。
跡地の広場にそれらしいものはないが、周囲に茂る矢竹がありし日の山城の姿を偲ばせる。
ここから一際急坂となる。
進むこと十分余、やっと巨岩の並ぶ山頂に立った。

眺望がよい。
眼下に祇園平野を収め、遠くに太田川を望むのだ。防御に適った山・・しばし銀山城主の気分でいると、「オーイ、頂上が見えたぞ」林の向こうから聞こえる声だった。
別の声も遠くから聞こえた。

風の運んだ声は、中世、戦いに備えた武田山が、市民に人気のハイキングコースに変わっていることを知らせた。

山頂より南を望む
山頂より南面を望む。市中心から瀬戸内海が一望できる。

  (ひろしまファンクラブ 平成20年8月7日号
 

白島沿線界隈

 
八丁堀の電停で出発を待つ
八丁堀の電停で出発を待つ

広島女学院前の藤棚
広島女学院前の藤棚

広島県立美術館
広島県立美術館

広島県立美術館内サロンから見た縮景園
広島県立美術館内サロンから見た縮景園

縮景園 茶室 明月亭
縮景園 茶室 明月亭

白島線 地図

 

路面電車は近年、多くの都市で廃線になってしまったが、広島では市民の足として親しまれている。

車両は大阪、京都などから譲り受けたレトロ調のものから、ドイツ製や国産の超低床などあって、街に彩りを添えている。

白島線は繁華街八丁堀と白島を結ぶ路線で、間には女学院前、縮景園前、家庭裁判所前の電停がある。七分間隔で走る一両電車はゆったりとして、速度も適当で寛げる。

八丁堀で試乗する。
最初の電停は女学院前、東側に広島女学院、西側にハローワーク広島がある。
広島女学院の藤棚や桜並木はつとに知られ、道行く人を楽しませる。
校庭に華やいだ声を聞くが、1945年8月6日の悲劇は「聖書の女子塾」として誕生した学園を襲っている。
折々の花、明るい木陰は、犠牲となった生徒教職員や多くの市民のレクイエム(鎮魂曲)であろうか。

ハローワーク広島には「一日平均千二、三百の人が訪れます」、ニコヤカな応対は所長さん。
「職業相談、職業紹介を受けたい、子育てしながら働きたい、(就職のための)知識や技術を身につけたい、・・・などの人を、ハローワークは支援します」、淡々とした口調が、人間行政の暖かい眼差しを感じさせる。

電停縮景園前で下車すると、目を引くのがセピア色の広島県立美術館。ここは世界の名作が揃う殿堂であり、県民の創作活動発表の場だ。
採光のよい、ひろびろとした展示室で名作に向き合い、気ままに楽しめるのが嬉しい。

少し飽きたら、お隣の縮景園に歩を進める。縮景園は初代藩主浅野長晟(あさの ながあきら)が、別邸の庭として築造した回遊庭園である。
中央に京橋川から水を引いた濯纓池(たくえいち)がある。石造りのそり橋、跨虹橋(ここうきょう)がある。
その左右に大小の島々を浮かばせ、池の正面にお殿様が休んだ清風館と、池畔には夕照庵や悠々亭などがある。

庭園の樹木をくぐりながら北へ進むと慰霊碑がある。
原爆投下の犠牲者の碑だ。
この長閑な庭園に、あの日、想像もできない阿鼻叫喚の地獄絵図があったのだ。黙祷した。
家族は、身内は、あるいは無縁墓だろうか・・・。厳粛にして、胸が締め付けられる思いであった。

家庭裁判所まで足をのばすことにして、縮景園前の電停に立つ。
かつて白島線は渋滞緩和で廃線?の噂もあったとか・・・だが、今ではチンチン電車どころか、街の顔である。山の手特有の落ち着きとオシャレを兼ね備えた白島線の今昔を思いながら、次の車両を待った。
 



 

  (ひろしまファンクラブ 平成20年9月18日号



 

 


並木通り

ひろしまドリミネーション
『ひろしまドリミネーション2008』点灯式当日撮影

沢胡桃の緑が豊かな並木通り
沢胡桃の緑が豊かな並木通り

(並木通り商店街振興組合所蔵)

鉄製のオブジェ
鉄製のオブジェ

絵タイル
あちこちにある「絵タイル」の一部。
 

ローマ字で広島並木通りとある。


住民が手入れする花壇
住民が手入れする花壇

 

並木通りは全長340メートル、本通りと金座街の交差するあたりから、南に向かって百メートル道路に行き交うまでの通りをいう。
米国風にいえば東西の本通りがストリート、南北に走る並木通りはアベニューであろうか。

散策する。
8メートルの車道を挟む両側の歩道(6メートル)には、沢胡桃(さわくるみ)の豊かな緑が、おしゃれな通りと映えあっている。
立並ぶあの店この店、どの店にも個性があって、目に楽しい。

どんな店・・・、興味に惹かれて、並木通り商店街振興組合を訪ねる。
「ブティック、レストラン、美容室、居酒屋、陶芸店、情報やカルチャースクールなど、ざっと66店舗ぐらいですかね(2008・9・1現在)」、笑顔を向けられたのは、たおやかな女性だ。
いただいた名刺に、副理事長 K、とある。

並木通りは、広島城の築城用水路として掘られた平田川を、埋めたてて造られた道である。
被爆後に植えた沢胡桃が育って、美しい並木に。
いつしか「並木通り」と呼ばれるようになると、店舗の構えも斬新な装いに変って、かっての裏通りは若者達の集まる街によみがえる。

それには全国に先駆けた道路のCAB(電線など地中化)、ストリートファニチャーなどの環境整備やさらに住民が率先した「花壇づくり」、「絵画・写真展」、「イルミネーション・ショップ」など、地域ぐるみの数多くの取組みがあると、控えめに話されるKさんだ。

なるほど、目を並木の根方に向けると、赤や黄や白い花をつけた花壇がある。
いくつもいくつも競うようにある。
注意深く見ると、歩道のところどころに「絵タイル」がはめこまれ傍らには誰の作品だろう、鉄製のオブジェもある。

木陰の多い遊歩道、公園の雰囲気を持つ並木通りは、住む人たちの細やかな心配りからなる道だった。
振り返ると大きく育った樅の木がある。

やがて冬の商いのシーズン、木々はイルミネーションに飾られて、ますます多くの若者を呼ぶだろう・・・。
電線の無いのびやかな空間に寛ぎながら、通りに思いをするのである。
 


 

  (ひろしまファンクラブ 平成20年12月4日号



 

 


問屋街の風景

 

中国地方最大規模の広島市西区の商工センターに、白亜やチョコ色をした低層建築の連なる一角がある。
問屋街だ。

仲のよいお隣さんの雰囲気を残す、長屋風共同店舗の佇まいがいい。
惹かれて散歩する。
店々に掲げる漢字、カタカナ、ローマ字など様々な看板が目を引く。
車や、道行く人影が意外に少ない。そのせいか、街路の広さが目立つ。
ゆっくり、ゆっくりと街の鼓動に耳をあてがう思いで、歩く。

「ご散歩で・・・」、Kさんだった。
名刺に、N繊維会社「業務部長」とある。

「問屋街は、随分繁盛しました。」
口を吐くのは、小売店主が仕入れに押し寄せた頃の賑わいだ。

83年に完成した商工センター(西部流通センター)は、卸売業をはじめ食品、鉄工、家具木工、印刷、倉庫などが集中する一大産業拠点となる。
中心には問屋街・広島総合卸センターがあって、西日本有数の商品流通を誇ったのだ。

その町に翳りが生じ、衰退がはじまる。
生産者と大型量販店など小売業者との直接取引がメインとなると、流通の主導がこの街を素通りするようになる。

「でも、祭りの日は別」と、その日の賑わいに目を細められるKさん。

「A・G・T(アジト)祭」だった。

協同組合 広島総合卸センターのW専務理事さんは、「アジトのネーミングは『エリア』『ジェネレーション』『チーム』の頭文字である」と、一昨年からはじめた問屋街の祭りの由来を語られる。

法(流通業務市街地整備法)の縛りで、小売りに参加できなかった問屋街の一部を規制緩和し、繊維業などを小売りに自由に参加させて、街を再生するのだと・・・。

A・G・T祭は、問屋街が小売りのノウハウを体現する場でもあったのだ。
人がきて・・・ものがきて・・・、人とものとが出会う場として賑わう街をめざす。

氏の名刺にある文言が、地域ぐるみの力強い取り組みを語っている。

「ショップは消費者ニーズが掴めて、販売戦略に役立っている」と言われるのは、ベビー用品卸売りに携わるA社長さんだ。
A・G・Tの体験を基に、事務所の一部ではじめたパイロット・ショップの衣料・玩具類の直売が好調ですと、表情が明るい。

小売りに参入する問屋街は向こう三軒両隣を思わす、横に広がるデパートメント・ストアだ。
それだけに、地域活性化に果たす力も大きい筈。
A・G・Tの浸透とともに、やがてこの街は輝きを増すだろう。

その胎動を問屋街に感じながら、しずかな佇まいの中を歩いているのであった。

  (ひろしまファンクラブ 平成21年3月5日号
 

広島市西区商工センターにある問屋街(南通り)
広島市西区商工センターにある問屋街(南通り)

広島市西区商工センターにある問屋街(北通り)
広島市西区商工センターにある問屋街(北通り)

小売業に参入した問屋街の一画
小売業に参入した問屋街の一画

衣料・玩具の直売
規制緩和で事務所の一部ではじめた
パイロット・ショップ衣料・玩具等の直売


問屋街に賑わいをとりもどしたA・G・T祭
問屋街に賑わいをとりもどしたA・G・T祭
(写真提供:協同組合広島総合卸センター)
 


 


広島城~球団の名を背負う城

 

球団の名を背負う城

 広島は昭和二十年八月六日の原爆投下で、灰儘(かいじん)に帰した。しかし、今では町の人口百万余、平和を語る文化都市として中・四国地方きっての大都市に発展している。

 町復興の精神的な支えの一つに、広島城がある。鯉城(りじょう)ともいう。被爆から五年後、市民の熱い思いで「広島カープ」が誕生したが、この球団の名の元になったのがこの城である。
 

五層の天守閣
五月の若葉の中に姿を見せる
五層の天守

 
本丸南側
本丸南側の表御門と御門橋
右側は平櫓(脇櫓)

平櫓と多聞櫓と太鼓櫓
お堀に影を落とす平櫓(左)、
多聞櫓(中)と太鼓櫓(右)

 

 広島城は、市のほぼ中央に位置する。一番の繁華街、紙屋町交差点から鯉城通りを北へ進み、県庁、市民病院などを過ぎて行くと、内濠に達する。晩春の陽射しを受けたお濠端には、多聞櫓や太鼓櫓が影を落として、都会の中とは思えない静かさがある。

 カラータイルの舖装路カルチャー・プロムナードを右に折れると、ベンガラ塗りの頑丈そうな門扉がある。櫓門式の表御門だ。向かって左は銃口らしい小穴の開いた黒塗りの塀で固められ、右側に不寝番の詰め所、大屋根を葺いた白壁作りの平櫓の連なる姿は、それらがレプリカであることを忘れさせる。タイムスリップした世界へカメラを向けると、「(御門)橋の人たちが通りすぎて、撮ったらいいよ」と保安要員らしい人の声がかかる。橋上には、外人や就学旅行の学生らしい姿が欄干の擬宝珠(ぎぼし)にもたれて、思い思いのポーズを決めている。
 

  ・・・がれきの山だった広島城に、観光客が訪れる・・・なんとなく嬉しくて、親切なその人に会釈をするのであった。

 本丸跡は想像以上に広く、ぐるりを囲む苔の張り付いた石垣や、合間にある櫓跡を思わせる石畳は、在りし日の鯉城の勇姿を偲ばせる。
 

 

 広場の中央に、緑の木立の生い立つ本丸御殿跡がある。並ぶようにして大本営跡があり、かたわらに被爆したクロガネモチのあるさまは、さながら日清・日露戦役の勝利と、その後の大日本帝国の崩壊を思わせる。

 復興のシンボル五層の天守は、爽やかな五月の若葉に浮かんでいた。芝の小路には、天守を目指す人たちが、三々五々と続き、お年寄りのグループやヨチヨチ歩きの坊や、赤い服の可愛い女児を連れた家族もいた。本丸跡は、市民、みんなの憩いの場であった。


(ひろしまファンクラブ 平成21年5月28日号
 

大本営跡
大本営跡
被爆したクロガネモチ

 

寺町界隈

 広島市中区寺町の本願寺広島別院を訪ねた。六月のはじめだった。
 生地の粗い、コンクリートの寺門をくぐると、大講堂に直面する。これもコンクリートづくりだ。被爆前の塔頭(たっちゅう)は知る由もないが、庭園右手の編み笠をかぶり、杖を手にした昔ながらの親鸞聖人像の姿が、在りし日の別院のよすがをしのばす。

  「よくいらっしゃいました」
迎えてくださるのは、随行(ずいぎょう)さん。名刺には、安芸教区教務所 副輪番 賛事とある。重々しい肩書きだが、眼鏡の奥の瞳は柔和だ。
 「原爆で、一切を失ったが、復興した新しい別院は安芸門徒の中心道場です」と、視線を講堂に向かう信徒達に向けられる。

 本願寺広島別院の歴史は古い。渡された「参拝のしおり」には 長禄3年(1459年)、天台宗として武田山の麓に建立された龍原山仏護寺にはじまり、本願寺広島別院と改称したのは、明治41年(1908年) とある。

 「ヒロシマの宗教は、平和の環境づくりに軸足を置く」と、隋行さん。平和に向けたシンポジウム、平和を願う念仏の集いなど実例を語る隋行さんのソフトな口調が、被爆した町、被爆した寺院の、強い意志を感じさせるのであった。
 

正面から見た本願寺
正面から見た本願寺広島別院大講堂

東側から見た本願寺大講堂
東側から見た本願寺大講堂。
かたわらに本川の流れのある並木道は
目に優しい。

 

 寺町界隈
寺町界隈の変わったデザインの寺のある風景

入江富士子さんのお墓
光福寺にある、三味線の名手
入江富士子の墓
(台石が三味線の胴をかたどっている)

左から2番目に
「昭和6年11月21日亡 入江富士子」
と記載あり。


 

 この日、寺町を歩いた。城の守りとして福島正則が、寺を集中させた町割りだ。

 通りをはさんで東側に浄専寺、徳応寺などの寺がある。西側に円竜寺、元成寺などの姿がある。全部で十六寺ある。寺らしからぬ変わったデザインのものもあるが、みんな広島別院同様にコンクリートづくりだ。低い塀越しに、どの寺からも墓標が見え隠れする。 墓参する家族連れの姿もある。『がんす横丁(著者 浦田太郎氏』は、こんな寺の有名人の墓を紹介している。

 『光円寺の力士巌巻善太夫、正善坊の力士霧島甚八、超専寺の俳諧画家中西蘭陵、光福寺には昭和の初期、三味線の名手といわれた入江富士子、などなどの墓がある』

 みんな知らない人達だが、光福寺を訪ねることにした。弟子達が寄進したという、三味線の胴をかたどった入江富士子の墓に興味をもったのだ。

 「三味線の名手ね、そんなの聞いたことがない」と言いながら、妻は墓のレイアウトを手に先導してくれた。並ぶ墓はどれも古い。文字も分かりづらい。レイアウトとニラメッコすること小半時、やっと入江姓のある墓を妻が探し出す。墓標の裏面の没した家族名の中に、昭和6年11月21日没、入江富士子とあった。日本が危うい戦争に突入する前の片時の平和が想像され、感慨がわく。傍らでは妻が「こんなお墓が寺にあったのね」と、これも感慨深そうだ。しばらく両手を合わせていた妻から「先祖は、大切にするものよね」と、呟くような声が聞こえた。

注 本願寺広島別院へは、西紙屋町電停から横川行き電車で、別院前下車。所要時間十数分。

(ひろしまファンクラブ 平成21年7月9日号

 


ミソ地蔵

■才蔵寺の「ミソ地蔵」■

才蔵寺は小高い丘の上にあった。
山寺の風情を残す平屋造りの建物は、開発のすすむ周囲とは対照的で、懐かしさを誘う。少し急な石段を登ると、地蔵尊に迎えられる。 目を凝らすと石仏には
「脳病全快 智能啓発 ミソ地蔵 進学就職 願望成就」
とある。口コミで伝わる、あのミソ地蔵だ。願いかなった人達のお供えであろうか、背後にはビニール袋入りのみそが、うず高く積まれている。 と、ご利益を求めてふもとで礼拝していた老婦人の光景が、よみがえる。 石段下の道脇に設えられた地蔵(本尊ではない)を撫ぜながら、経文らしきものを唱えるごとに、一礼をするのだ。

「お参りですか。」と、さり気なく声をかけると
「ええ、(丘の)上の本尊は、あの坂(石段)が厄介なの。」と、笑顔を見せた。地蔵信仰者は身近にもいた。友人のはなしだ。 インテリの彼が、大学受験を控えた孫娘のために、ご利益を求めてこの地蔵に願掛けをしているのだ。

静寂な境内に歩を運び、案内を請う。本堂に案内されると、不動明王・愛染明王を脇仏にした、弘法大師像が目に飛び込む。瞑目する。
「やあー、いらっしゃい。」 屈託のない声の主は、意外にも女性だ。 名刺には、真言宗 明王院才蔵寺 住職 笠継 智光とある。お歳はかなりのようだが、きりっとされている。
「年寄りはもとより、若い人からも相談が多くてね。」
病気のこと、家族関係のこと、先祖の供養のこと、若い人からは人間関係の悩みごと などが持ち込まれると、微笑まれる。

「寺には、可児才蔵(かにさいぞう)が祭られていると聞きましたが。」と、話題を変えてみる。
「そうなの。」
住職のはなしは、関が原合戦の戦功で、芸備四十九万石の太守として広島に入城した後の福島正則(ふくしままさのり)と、家臣・可児才蔵 主従の哀歌にまつわるものであった。

…広島城の石垣が河川の氾濫で崩壊し、それを無断で修復したとして咎められ、福島正則は信州川中島に流された。才蔵は、主君が再び広島に帰ってくると信じ、 旧の屋敷に留まった。正則の後に入った浅野長晟(あさのながあきら)から、才蔵らに退去が命じられたが従わなかった。 当然合戦となり、長期戦となった。才蔵は屋敷のそばに地蔵を安置した。
「地蔵は、首から上の病はすべて直す、願掛けにはミソを供えよ。」と人々に説いた。 それが、ミソ地蔵の始まりであると…。

ややあって、住職は一枚の書状を取り出した。ミソの寄進を受けた某所からの寺への感謝状だった。可児才蔵、死してなお貢献するか。 遠い昔の悲劇の武将を思いながら、ミソ地蔵に手を合わせるのであった。


(注)【才蔵寺(広島市東区東山町1-11)への道】
バスの場合-府中方面行き広電バスの「曙町」か「矢賀入口」下車、徒歩約5分
電車の場合-JR芸備線「矢賀駅」下車、徒歩約15分


(ひろしまファンクラブ 平成21年8月27日号
 


麓のお地蔵さん
才蔵寺の麓にあるお地蔵さん
本尊ではないが、お年寄りの参拝者も多く見かける


ミソ地蔵
ご利益を求めて多くの参拝者のあるミソ地蔵
(前面には可児才蔵の家紋・笹の葉がある)


可児才蔵の墓標
ミソ地蔵の背面にある可児才蔵の墓標

才蔵寺の護摩壇
真言宗 明王院才蔵寺の護摩壇
中央に引法大師像が安置されている


才蔵峠
参勤交代の大名が往来した旧道の才蔵峠である
才蔵寺のそばにある


 

広島の奥座敷、湯来温泉

湯来町は、山あいに広がる静かな田園郷である。都心からも近く、川魚や山菜料理などの豊富なことから、広島の奥座敷とも呼ばれている。

秋日和に誘われて、田園郷を訪ねた。周囲の山々は黄葉をはじめていた。水内川の豊かな流れと黄葉が映え合い、落ち着いた風情をみせていた。

町には、湯来温泉と湯の山温泉の二つの温泉がある。
湯来温泉は水内川の支流、打尾谷川に沿ってつづいている。小さな温泉郷だが、清流に架かる朱色の橋、朱色の灯篭、川面に伝わるせせらぎの音が湯の町の情趣をそそる。

「今は、国民宿舎湯来ロッジと旅館三軒です。昔は、温泉宿には遠方からの入浴客が押しかけて、賑わったようです」、話されるのは光井さん。氏によると、慶長年間(1596~1615年)には、芸陽唯一の温泉場として賑わったという、記録が残っているそうだ。

湯来温泉の宿泊施設はロッジの他、F旅館、M荘、K荘がある。どの建物も田舎風で、親しみやすい。
「一寸、寄ってみない」、
光井さんは湯来町観光協会会長で、F旅館の主人でもある。訪ねることにした。応接室に通されると、直様(すぐさま)の電話。予約を希望する客からのようだ。
  「お忙しいですね」、
  「ええ、ぼちぼち」、

光井さんは四季折々の料理にファンがあると、山菜、ヤマメ、鮎、ぼたん鍋(猪料理)などの名を上げる。自慢の一番は「湯」にあるらしく、裏手に設えられた露天風呂に案内される。手を入れる、人肌のぬくもりが心地よい。壁面には「訓」らしきものがある。
一項「一日幸福でいたかったら、早起きするがいい」にはじまり、「一生幸福でいたかったら『F』の露天泉湯に浸かるがいい」と、五項まである。読み終わった筆者に目が合うと、髭を蓄えた光井さんの顔がニッと笑う。客をもてなす温泉宿の優しい主の顔である。

 

打尾谷川に架かる朱の橋と灯篭
打尾谷川に架かる朱の橋と灯篭

F旅館の露天風呂
F旅館の露天風呂。背面には
「一生幸福でいたかったらFの露天風呂に浸かれ」
とある


湯来温泉の道路沿いにある足湯
湯来温泉の道路沿いにある足湯
誰でも自由に利用できる

 
湯の山温泉の「旧湯治場」跡
湯の山温泉の「旧湯治場」跡

リニューアル後の国民宿舎湯来ロッジ
リニューアルオープンした
国民宿舎湯来ロッジ

 

湯の山温泉は、湯来温泉の下手(しもて)にある。かつて、広島藩主浅野家が湯治場として利用した由緒ある温泉である。ひなびた温泉郷のなかで、ひときわ人気のあるのが「うたせ湯」で、名湯として聞えている。

11月1日、湯の町・湯来に新しい名所が誕生した。国民宿舎湯来ロッジがリニューアルオープンしたのだ。客室は21室(定員80人)。ヒノキと大理石造りの2種類の大浴場があり、露天風呂では水内川の清流や周囲の景色を眺望しながら、寛げる。地元農産物を販売する特産品市場館や農業体験場もある。筆者が訪ねた日は、大きな会合が重なり大盛況であったが、ここが湯の里の核になることは間違いない。

静寂が売りの湯来温泉とリニューアルされた湯気ロッジが響き合いながら、名実とも、広島の奥座敷に発展するだろう。そんな予感を感じながら田園郷を後にした。

 
★湯来温泉への道・・JR五日市駅からバスで約1時間。
★湯泉は放射能泉、浴用に加熱。
★水内川や支流の打尾谷川にはホタルの飛翔地があり、鮎やヤマメが生息する。

 

 

(ひろしまファンクラブ 平成21年12月3日号


国泰寺を訪ねて

標高二百メートル、己斐峠に建つ浅野家菩提寺、国泰寺を訪ねた。十二月中旬だった。

「蓬莱山国泰寺」と標示のある、山門をくぐる。正面に大きな本堂が、右手にこれも大きな庫裡と、左手には仏舎利塔がある。堂宇のコンクリートづくりに違和感もあったが、(今日の建築事情では仕方がないだろう)、勝手な思いをしながら案内を請う。

幸運だった。三十世 (註1)、野間住職はいらした。
固太りの体躯に茶色の僧衣姿をまとった柔和なお姿に仏道にある人の温もりを感じ、つい「人を殺めたり、自殺者の頻発する荒んだ世相での仏教(禅)の位置づけは」と、愚問を発する。
三十世は「人は生かされていることを忘れ、驕って感謝の気持ちを失くしている。生まれながらに人には仏性がある、頭を空っぽにして座していれぱ、(何か)得るものがある」などと話され、道元禅師 (註2)の『座れば一寸の仏』で結ばれた。心に残る言葉であった。

寺務を預かるSさんに、境内を案内してもらった。手渡された「国泰寺略史」をめくる。秀吉、僧・恵瓊(えけい)、福島正則、浅野長晟(あさのながあきら)等、寺に縁の歴史上の人物に雑じって、異色の人の名があった。赤穂浪士、大石良雄の妻、理玖(りく)である。興味をそそられ墓地から回ることにした。その墓には墓誌銘「香林院花屋壽樂大姉」とあった。墓前には黄菊、白菊が供えられ、新鮮なその芳しさは偶然訪ねた今日が、十二月十四日(討ち入りの日)であることを思わせるのであった。

本堂には威儀を正して入った。中央に三尺余の金ぴかの釈迦座像が鎮座ましましている。神妙に手を合わせ、瞑目を終わると、「こちらへ」というSさんの招きで小部屋に回る。位牌安置室で、初代長晟公から十七代までの殿様の位牌が祀られていた。十二代までが○○大居士、十三代から○○命名に変わって浅野家が仏教から神道へ宗旨替えしたことを示していた。廃仏毀釈、神仏分離令(慶応四年~明治元年)は、仏教界に大混乱を招いたが、位牌はその歴史をつぶさに語っていた。

禅堂に回った。四十畳はあろうか、広い部屋である。Sさんは「五、六十名は座れる」といいながら「曹洞宗の国泰寺では、壁を背に座る」と、座禅の方式までを説明する。しかし、筆者の目には別の世界が映っていた。一切の余分なものを置かず、板壁でぐるりと囲んだ大部屋は、ただ寒々とした空間に見えたのだ。そんな筆者の気分にかかわりなく、Sさんは続けた。
「出家は朝六時から毎日、檀家の人は朝八時から精進しています」
「お年寄りも座るの」寺に来るまでの遠い山路を振り返ったのだ。
「勿論です、中には山坂を歩いて参られる人もいます」Sさんの口振りは、その方が仏道への早道のようにさえ聞える。「座れば一寸の仏」か、先ほどの三十世の言葉をなぞってみる。と、過日、平山画伯が亡くなったことを思い出した。画伯は広島で被爆し、この世の地獄を見ておられる。
「平和を描きたい・・」、そして書き上げられた大作が、平和をテーマにした「仏教伝来」と聞いている。
道元禅師、平山画伯、そして国泰寺の三十世と、みんな究極の平和は仏教にある、といわれている。
「座れば一寸の仏」、寺を訪ねてなんだか得したような気分になった。

註1 一世は、福島正則が1601(慶長6)年に入国した際に招いた普照(ふしょう・福島正則の弟)。
註2 鎌倉初期の禅僧。1244(寛元2)年、越前に永平寺を開く。



 
国泰寺の堂宇
国泰寺の堂宇
手前から仏舎利塔、本堂、庫裡
遠くに己斐のテレビ塔も見える


国泰寺本堂
国泰寺本堂


理玖の墓
赤穂浪士大石良雄の妻、
理玖の墓



浅野家歴代の殿様の位牌
浅野家歴代の殿様の位牌(初代から17代まで)
最上段左が初代長晟公、下段右17代で
「長愛命 神儀 平成19年1月6日 長愛公81歳」とある



三市内を望む
標高200メートルの墓地から三市内を望む 

(ひろしまファンクラブ 平成22年1月14日号

 


毘沙門堂を訪ねて

広島市の北東、権現山(標高397m)にまします毘沙門堂は、正確には「真言宗権現山毘沙門堂」という。安置される毘沙門天像は、武の神であり、財宝の神でもある。
ありがたい神様にお目にかかりたくて、お参りした。二月初旬であった。
鳥居を潜る。押し寄せる大団地の家並みはここで塞き止められ、檜など古木の立並ぶ鎮守の森となる。神域の玄関、(階層式の)仁王門に差し掛かる。両眼をカッと見開いた赤ら顔の仁王像に会釈し、二階の鐘撞堂に回る。
「ゴーン」
無人の中で撞いた鐘は、木霊を呼んで遠くまで響く。

仁王門から急坂となる。参道には手摺りが儲けられ、路面は自然石を組み合わせた石段に変わる。(道の)脇に祀られた布袋など七福神に手を合わせながら、ゆっくり登る。
由緒ありげな、石碑に惹かれる。碑文は・・治歴元年(1065)、僧教尊が建立し、戦国時代には銀山城主武田氏の守護寺となる・・と、縁起や、中世、武士の尊敬を集めた毘沙門堂の様子を伝えていた。筆者は、先のNHK大河ドラマ『直江兼続』の一齣(ひとこま)を思った。洞穴に籠った上杉謙信の一心祈念する場面だ。戦国の武将を、不識庵謙信と名乗らせるまで帰依させた毘沙門天とは・・、これから拝む毘沙門像の形相、いでたちなど想像しながら、坂道を登った。

神前に手を合わす。堂内を覗うが目線は締め切られたすりガラスの大戸に遮られ、先に届かない。

迂闊(うかつ)だった。ご本尊を拝めるのは、ご開帳の日ということに気付かなかったのだ。がっかりだった。気にさえしなかった山風の冷気を感じた。と、 カラコロと、乾いた音を耳にした。風に触れ合う絵馬だった。興味半分、目をやる、
・広島大学に合格するように
・〇〇さんと結婚できますように
・習字がうまくなりますように、などの願いごとであった。

「毘沙門堂は、庶民の福神」、微笑ましくなった。陽気にかえった目線が、小さな張り紙をとらえた。「初寅祭り 2月20日(土)、2月21日(日)」、祭りの案内だった。毘沙門像は是非、拝みたい。改めてお参りすることにした。
当日(2月20日)、駐車場は満車の盛況だった。社(やしろ)に隣接する団地のご婦人やお年寄りが、車の整理に当たっていた。善男善女で溢れる境内の案内も、ハンドマイクを手にしたこの人達だった。昆沙門堂と団地の協力、筆者には都市型の社のありように思えた。

この日、午後零時三十分、ご開帳。想像を超える参詣者に、毘沙門像のお姿を人波越しに遥拝した。


 

(註)毘沙門天は、広辞苑に北方世界を守護する神とあるので、文中、神の表現で統一した。

毘沙門堂への道順…
1.広島バスセンターから毘沙門台行きバスで終点バス停下車。
又は、可部方面行きバスで中緑井バス停下車、徒歩50分。
2.JR可部線、緑井駅下車、徒歩50分。



(ひろしまファンクラブ 平成22年3月25日号)
 
階層式の仁王門
階層式の仁王門(二階が鐘撞堂)

仁王像
カッと目を見開いた仁王像

道路脇に祀られた布袋に手を合わすお年寄り
道路脇に祀られた布袋に手を合わすお年寄り

自然石の石段を上がっていく善男善女
自然石の石段を上がっていく善男善女

人波越しに遥拝する毘沙門像
人波越しに遥拝する毘沙門像(中央の像)


三瀧寺のせせらぎ

 

『大同4年(809年)、弘法大師が唐の留学を終えての帰路、当山に巡錫(じゅんしゃく)され「末世有(まっせにありて)の霊地である」と、聖観音菩薩の梵字を白然石に刻まれ、滝の飛沫のかかる岩窟に安置されたことに始る…』
三瀧寺縁起は、この寺の開創に滝や飛沫による静けさが係わっていることをうかがわせる。

四月某日、三瀧寺に参詣した。参道沿いの小川のせせらぎが、耳に心地よい。優しい瀬音は、三滝駅に降りたときの「お山が、大団地に囲まれている」と、感じた戸惑いを忘れさせる。

原爆の無縁仏の墓を過ぎ、境内に入る。右手高台の若葉に映える朱色の多宝塔(県指定重要文化財)が目をひく。原爆犠牲者の供養のため、広八幡神社(和歌山)から昭和26年(1951年)に移築したものだ。句碑がある。
「焦土かく風たちまちにかをりたる 万太郎」
小説、戯曲に数々の傑作を残した久保田万太郎の参詣を知り、わけもなく嬉しくなる。

想親観音堂を右に見ながら緩やかな石組みの道を登ると、鐘楼がある。「手を合わせ 鐘ひとうち ほとけ道」、立て札の句に誘われて、一つ打つ。のどかな鐘音が、緑の木立に消えていく。何気なく見つめる目線に、蘇苔(こけ)をかぶった自然石の文字が映る。よく見ると流麗なかな文字で、「わが如く こえなつみつ、人やありし ふみすべしたり山かげの草 八郎 歌人 柴舟文学博士 尾上八郎の歌」 とある。

柄にもなく旅情を感じ、旅をこよなく愛したといわれる歌人に、しばし思いをはせる。と、風が運ぶ読経の声。木の間隠れに見えるのは、黄色い袈裟の坊様が、十三重塔に手を合わせる姿だ。喪服姿の人もいる。読経が止むのを待って訪ねる。碑文に、『戦争裁判によって死刑に処せられた、広島県出身の56柱の英霊の供養のため、この浄域に(十三重塔を)建立する… 』とある。後ろに駒が滝の細い滝が落ちて静かにたてるせせらぎは、レクイエム(鎮魂歌)のようだ。

 

尾上八郎の歌碑
歌人 柴舟文学博士 
尾上八郎の歌碑

十三重の塔
十三重塔。
坊様の後ろには遺族の方が。

 
多宝塔
多宝塔(県指定重要文化財)
和様と唐様の折衷様式で、
室町期の建築様式をとどめる
三滝寺の鐘桜
三瀧寺の鐘楼
お参りのときに打てと注意書きがある
(帰りに打つとご利益が失せるとも。)


 

三滝は秋の紅葉、春の桜がいわれるが、木漏れ日を浴びながら若葉の中を歩くのも、実によい。原爆慰霊三十三歌碑、アウシュビッツ犠牲者供養平和宝塔、十六羅漢を目にしながら、耳にせせらぎを楽しむ。六角堂で、一休み。先客がいた。男女数人のお年寄りに、「どちらから」と、声をかける。
「地元ですが、梵音(ぼんおん)の滝がここからよく見えて、一休みにちょうどいいの」、なるほど、見上げれば50メートル余の絶壁から落下する滝の様は、なかなか見事だ。

石畳の坂道をさらに進むと、舞台づくりの本堂がある。厳しいお顔の金剛力士と不動明王に会釈して、御本尊に手を合わせる。祈りを終え本堂脇の『三瀧寺縁起』に見入っていると、穏やかな表情のお年寄りたちに出会う。中国三十三観音霊場めぐりをされている岡山の人たちで、岡山を振り出しに、福山、尾道のお参りを済ませて来たという。水音に誘われ本堂裏手に回る。水量豊かな幽明(ゆうみょう)の滝が落ちて、神々しい雰囲気がある。そばにまつられている天神さんの鎮守堂、三十三観音像、水子七尊像にはサラリーマン風の入、受験生らしい親子連れやご婦人の手を合わす姿がある。

せせらぎが、人々を安らぎに誘うからだろうか、祈る姿の絶えることのない三瀧寺を思いながら石畳の参道を下ると、「コンニチワ」、三、四歳ごろか、若い母親に手を引かれた可愛い姉妹に声をかけられた。なにやら豊かな気分にさせられ「コンニチワ、ジョウチャン」と、返していた。

※三瀧寺道順…JR可部線三滝駅下車、徒歩約10分
住所: 広島市西区三滝山411
Tel: 082-237-0811
 


本堂回廊の金剛力士像
本堂回廊の金剛力士

 


(ひろしまファンクラブ 平成22年6月10日号


広島(宇品)港界隈と宇品島

広島(宇品)港界隈と宇品島

♪空も港も夜ははれて
  月に数(かず)ます船のかげ…

唱歌「港」(注1)は、広島(宇品)港がイメージされているという。
広島県令(知事)千田貞暁が築造した広島港と、広島駅が宇品線で結ばれた頃、1894年(明治27年)の風景と思われる。

徳富蘆花(1868年~1927年)は代表作「不如帰(ほととぎす)」に、軍都広島の賑わいや、悲劇の主人公、川島武男海軍少尉が連合艦隊旗艦「松島」に乗り込み、宇品港を出港(1894年)する様子を描写している。また、広島県大百科事典(中国新聞社)には当時の文学者、国木田独歩(1871年~1908年)、正岡子規(1867年~1902年)、田山花袋(1872年~1930年)が従軍記者として広島港を出立したことが記述されている。

路面電車で、歌の古里を訪ねた。七月初旬だった。
「広い」、
終点広島港に降り立っての感想だ。県営桟橋前に拡がる、広い駐車場。海岸通りに続く落ち着いたビルの家並。住宅地や商店街を迂回しながら、東西に延びる高架高速道路。張り巡らされた幅広な道には、ヒンターランド(港の背後地)の工場団地や、内・外貿埠頭に往来するトラックの姿がある。

東方に目をやる。二隻の大形貨物船が停泊している辺りが、一万トンバースだろうか、小船の出入りする港の賑わいを胸中に描き、散策することにした。途中、二つの公園に立ち寄った。宇品波止場公園に、時代の役目を終えた宇品線廃線記念の標識があった。
 

宇品灯台
市民の「心のともしび」とある宇品灯台
高さ約21メートル(地上から)


クスノキの巨木
楠の巨木群
尺余の幹周りに瞠目する

宇品中央公園に、唱歌「港」の歌碑があった。変わりいく広島港界隈は、
 ♪端艇(はしけ)の通いにぎやかに…
と、歌われる唱歌の味わいを残しながら、平和都市広島の海の玄関に相応しい飛翔をみせていた。

広島港界隈と橋一つ隔てて、瀬戸内海国立公園、宇品島がある。東西に0.5キロ、南北に1キロの島は、常緑樹がおおう緑の森だ。都会の近くにこんなに自然が…、足取り軽く遊歩道を歩く。ここかしこに生い立つ尺余の巨木が、原生林を思わせる。斧の入らない森は「枯れた木以外は葉っぱ一枚とってはならない」と戒めた、狗賓(ぐひん)さんの民話(注2)を思い起こさせる。と、
「何の樹でしょう」、背後の声にふり向く。カメラ片手の中年の婦人だった。
「クスノキ(楠)でしょう」、断定しきれないままに答える。クスノキだった。ほどなく、広島県立広島工業高校と宇品小学校の連名の標識『クスノキのひこばえ群』(注3)を、目にするのだ。

標識は海沿いの遊歩道にもある。節理(せつり)、断層(だんそう)、岩脈(がんみゃく)など露出した地層に立つ懇切な説明が、自然を大切にする人たちの心を感じさせる。

南にしばらく歩くと、空天にそびえる灯台(注4)に出る。「灯台は市民の『心のともしび』」、説明にある柔らかい響きに心を打たれる。

また、眺めの素晴らしいこと。目前に安芸の小富士、似島がある。遠景に日本三景の一つ、宮島が望まれる。蒼い海にはいく艘もの釣り人たちの小船が、ゆらり、ゆらりと揺れていた。

景色に誘われて浜辺に出る、と、
「おじちゃん、キスゴだよ」、「おれのは、カレイ」、
ビクを見せあいながら、釣りを楽しむ小学生たちの笑顔があって、島の時間はゆっくり、ゆっくり過ぎていくのであった。

 

歌碑と歌碑の建立由来記
唱歌「みなと」の歌碑の建立由来記
作詞 旗野十一郎/作曲 吉田信太
「みなと」は作曲者の思いに、広島港の風物が
想定されたといわれる


クスノキのひこばえ群 標識
宇品小学校と県工高が立てた
「クスノキのひこばえ群」の標識

地層を説明した標識
節理(せつり)、断層(だんそう)など
地層を説明した標識。
写真は、岩脈(がんみゃく)で、
右部分の割れ目を指している
注1 唱歌「港」
作詞は新潟の人、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授、旗野十一郎(はたのたりひこ)、作曲は広島高等師範学校教授、吉田信太。作曲者の思いに港の風物が想定されていたといわれる(広島県文化百選より)

注2 民話
宮島に住む天狗の頭をした狗賓さんが島にやって来て、「枯れた木以外は草木一本もとってはならぬ」と戒めたという。(ひろしまマイタウンより)

注3 ひこばえ
倒れた木や、伐った木の根株から出た芽のこと。当時の宇品小学校校長(現・似島臨海少年所長 牧野先生は、生徒に自然の知識と自然を大切にする心を育むため、標識作りに参加したとのこと)

注4 灯台
宇品灯台は、白光37,000カンデラ、赤光15,000カンデラで、夜間のみ点灯するとのこと(第六管区海上保安部広島海上保安部より)

灯台への道順…広島電鉄宇品線(路面電車)広島港行、又は広島バス・広島港行・元宇品口下車、徒歩40分ぐらい。

 

 

(ひろしまファンクラブ 平成22年8月12日号


横川界隈~横川界隈を訪ねて広島の原風景をみる

 

横川はお酒落な町である。それでいて、気取らないところがいい。町の貌(かお)を探して、ブラリ歩いた。11月初旬だった。

路面電車を終点横川で下車。眼に映るのはクリーム色の壁と、草色の屋根でリニューアルされたモダンなJR横川駅。広場にはレトロなバスが飾られて、新旧対象の妙をみせている。バスの名は「かよこバス」。100年前、国産初のバスとして横川―可部間を走ったという年代物を、地元民の熱意が復元させたのだ。 駅舎を右に折れ、東方に向かう。クロスロード、星のみちなどの通りを抜け、横川商店街振興組合を訪ねる。

「いらっしゃい」、理事長の村上さんだ。「親しまれ、愛される商店街」、名刺にあるとおり親しみやすく、会話の楽しい人だ。
横川の地名が、城郭を水害から守るため太田川を枝分かれさせた(注1)「横の流れ」に起因すること、緊急避難として水を流す西側の低地は、かつて住まいが許されて、免税にされたことなど、歴史の裏話にも詳しい人だ。

横川界隈は多くの地場産業が育ったことで、知られる。日本針、鋳物、ゴム、ガラス、味噌、ソースなどは、児童生徒の社会見学の対象としておなじみだ。中に、飛躍を遂げた企業がある。
サッカーなどで、国際試合に名を馳せたボールのM社、台所の味として定着した味噌のS社、「広島焼きお好み」の味の決め手となるソースのO社など、今にブランドを誇る会社の揺藍期が、この地にあったことを「マイシティ よこがわ かわら版」が教えてくれる。

横川が粋で、お酒落な街に変貌した要因は、モダンな駅舎にあわせ、駅前周辺や商店街の再整備にある。が、この町に若者を呼び、定着させたのは、ソフトの展開が大きい。その仕掛け人(の一人)と思われる、「横川シネマ」を訪ねる。40席足らずの客席は空席が目立つが、溝口支配入は臆することなく、「レアな映画の、ミニシアターをつづける」と、胸を張られる。

レアとは、アートな作品のようで、支配人のこの情熱が、若いアーティストたちに刺激を与えてきたことを感じさせる。ワクワクする話を耳にした。横川シネマに集る若者の一人が、演劇小劇場「山小屋ホール」を立ち上げているのだ。早速、施設のあるアンゴラビルを訪ねる、がこの日は休館。やむなく、同ビルのカフェ・チアスに立ち寄る。幸運だった。マスターの須毛田氏(52)は、芸術活動に熱心な方だった。3、40名は収容できそうな客室の片隅にはピアノが置かれ、飾り棚には由緒ありげな陶器が並んでいる。筆者の目線を感じられた須毛田さんは、 「ここで、定期的に音楽会などやっています」と、クラシック、ジャズ、和風ものなど、幅広いジャンルをあげられる。「ここにも、若いアーティストたちが育っている」、いつか見たポスター『アーティストに優しいまちづくり』を思い出し、感慨するのだ。

アートな喫茶店にお別れし、寺町の参道として発展した横川商店街界隈を歩く。手作り模型玩具の専門店、グッズ専門店、洋装品店などなど、目にするもの全てが、知的に洗練されていて見飽きない。やがて街路が尽きると、横川橋。被爆を逃れた唯一の吊橋横川橋も、アートでモダンな姿に変った。橋下を静かに流れる碧色の水に、風情をみる。東から西へ、別院の姿を映して流れる横川が、この町の原点を見る思いにさせたのだ。

注1 薄田太郎氏の「がんす夜話」によれば、広島の7つの川(現在は6つ)の本流は本川といわれ、寺町の広島別院の北岸で別れた川を「横川」という、とある。


(ひろしまファンクラブ 平成22年12月09日号

横川駅南口
 横川駅南口

広場の中のかよこバス
広場に飾られている、かよこバス。
(建物の中に展示)


星のみち商店街
星のみち商店街

横川シネマ入り口
横川シネマ入り口

天満川にかかる横川橋
天満川にかかる横川橋
 


黄金山

 

1月某日、黄金山の朝は快晴だった。
標高221.7メートルの黄金山の本丸跡(注1)に立つ。眼下の北西方面の市街をおさめるこの山が、中世、堅固な要塞の地であったことに、思いをはせる。陸続きとなった今では想像し難いが、当時、この山は仁保島と呼ばれる広島湾に浮かぶ島の一つだったという。

「左が武田山(安佐南区・注2)、手前が二葉山と牛田山(いずれも東区)、遠くの山が白木山(安佐北区)です」

展望台の先客は、段原町(北東に約1キロの町)からのTさん(68歳)だった。3年前のリタイヤから、片道1時間余の山登りを続けているTさんは、「比治山ほどに有名でないが、眺望のよさは、ここが一番」と、黄金山を持ち上げる。

頂上まで幅広な道(6~8メートル)で行けるのもこの山の人気で、肌寒いこの日もバイクの若者、子供連れの家族、双眼鏡を手にする外人のアベックなどの姿を見かけるのだった。

「南の景色もいいですよ」、北西方面の景観に見とれる筆者に、Tさんは瀬戸の海を望む二の丸跡(注3)への移動をすすめる。

早速、そこに向かう。途中、駐車場兼務の小公園に足を止める。表示板に貼られたイラスト入りの黄金山案内(『黄金山の伝説を歩こう』)や、かたわらに立つ黄金山の小史を著した標識に惹かれたのだ。そこには、地元の人が育てた800本とも言われる黄金山の桜並木のこと、黄金山の名前の由来とも言われる仁保島城主の菩提寺、観音寺(称号黄金山)のこと、この地の氏神(ふもとに、邇保姫(にほひめ)神社として祀られている)爾保都比売(にほつひめ)が、白然の赤土から丹(飛鳥・藤原京の神社、仏閣の塗装に使われた)を取り出す技術を持っていたこと、大内氏と武田氏と、また、武田氏滅亡後は毛利氏が加わって、仁保島の争奪を繰り返したなどの記述があった。

にわかに仕込んだ黄金山の知識で、二の丸跡に立つ。
西方面に(厳島)合戦のあった宮島を見、東寄りに元宇品、似島、金輪島、能美島、江田島などの島々を一望する。そして、眼下に宇品大橋、広島南道路、マツダ宇品工場
と、さらに広島大橋、海田大橋までを見下ろすのだ。

黄金山周辺や海田湾の一帯は、かつて牡蠣(かき)や海苔(のり)など海の幸に恵まれて、安芸の国名の由来(注4)となったと聞いている。

豊饒な海が西日本の大動脈と化した、その姿に一瞬戸惑ったが、すぐ感動する気分にかわった。黄金山は、広島市の東南の外れにありながら、時代のトップランナーであることに気づいたのだ。

城跡の緩やかな勾配に、桜の苗木が植わっていた。苗木はあちらに、こちらにもあって、それぞれ名(札)を負っていた。一人だけのものや、微笑ましいアベック連れの名もあった。あの見事な「黄金山の桜並木」もこうして始まったのだろうか、苗木を見つめながら、黄金山を愛する人々の心を感じているのであった。

本丸跡の展望台
駐車場兼務の小公園から本丸跡の展望台を写す
白い建物は広島テレビの放送送信所

禰保姫神社
神功皇后の古事によって島の鎮守として
創建された禰保姫神社
黄金山麓に祀られている

二の丸跡から眼下に望む風景
二の丸跡から厳島、元宇品、似島を望む
宇品大橋、広島南道路、マツダ宇品工場を眼下に見る

海田大橋、広島南道路を臨む
二の丸跡から海田大橋、広島南道路を望む

アベックによって植えられた桜の苗木
二の丸跡の側面に植えられた桜の苗木
一平・理子のアベックが植えたとある。


 

注1 仁保城の本丸跡。広島テレビの放送送信所であり、展望は市内で一番といわれている。
注2 標高410.9メートル。中世、安芸の国を支配した武田氏の本拠のあった山。
注3 本丸跡より南に200メートル足らずに位置する。中国放送の放送送信所があり、瀬戸内海の眺望がよい。
注4 牡蠣などの、土産多く満ち足りて飽くの「飽く」が安芸に転じた、と言われている。

道順・・仁保車庫行きバス(広電)で、本浦本町下車、徒歩40分。マイカー利用も可。


(ひろしまファンクラブ 平成23年2月3日号


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