宿場(しゅくば)

江戸時代に五街道をはじめ脇街道において、駅伝の事務を扱うために設定された町場のこと。規定の人馬を常設し不足の時には助郷を徴発しました。公用人馬の継ぎ立てや公式の宿泊に本陣(広島藩では御茶屋)・脇本陣・問屋場が、他に一般の旅籠・茶屋・店舗などがありました。

(1) 広島城下の宿場 愛宕町界隈

京橋から猿猴橋を越え、東郊の尾長に至る愛宕町界隈は、火除けの神の愛宕神社を基に、東の宿場として繁栄し、馬60匹が設置されました。旧古川に架かるがらがら橋は、西国街道の往来を見続け、直線状に町並みが続きました。


『芸藩通志』巻五より 「巌鼻の図」
西国街道沿い、現在の尾長と矢賀との境にあった景勝地。 福島正則は左手に大門を設置し、城下町の東の出入口とした 。 ここの石材が広島城の石垣に利用された。

(2)広島城下の宿場 堺町界隈

本川橋(猫屋橋)から旧塚元町を抜け、西へ続く町並みが旧堺町。和泉国の堺から商家の境屋が移住し命名されました。この町は西国街道と出雲石見街道の分岐点にあたり、馬40匹が置かれ、宿場は天満橋から西へと延びました。分岐の道標となった常夜灯は今も空鞘稲生神社にあります。


常夜灯

(3) 廿日市宿

古くは廿の浦と呼ばれ、鎌倉時代に厳島神社の神主として鎌倉から藤原氏が移住しました。その頃から交通の要衝の地に、毎月廿日に定期市が立ち、廿日市の名が生まれました。西国街道の宿駅として馬15匹が置かれ、本陣は山田屋が代々務めました。石見国津和野への津和野街道も通り、津和野藩の御船屋敷などが置かれました。陰陽の交易の要所として、また厳島参詣の中継地として繁栄し続けました。


本陣跡の石碑と周辺の町並み。
(廿日市市廿日市)

(4) 海田市宿

平安時代に瀬野川の河口部に開田庄が拓かれ、二日市を中心に発展した宿場町。室町時代の歌人・今川了俊が著わした「道ゆきぶり」に海田浦として載っています。福島正則は総鎮守の熊野神社の西に本陣の御茶屋を置き、後に海田市宿には馬15匹が置かれました。安芸郡の郡本(後の郡役所)として発展し、千葉家・三宅家などの旧家を中心に町並みができました。江戸時代の尾張の商人・菱屋平七の「筑紫紀行」にその繁栄が載せられています。


上市周辺の商家の前は、荷車を着けやすいようジグザグになっている。

(5) 間宿 上瀬野一貫田宿

旧上瀬野村の一貫田は、中世の世能庄の中心で鎮守の平山神社の麓に発展しました。近世には海田市宿と西条四日市宿との中継地の間宿となり、本陣が置かれました。水力を利用した広島藩の油御用所が置かれ、明治に入ると、官営の綿糸紡績工場が、士族授産の施設として開設されました。西国街道から熊野川に沿って、熊野・矢野・呉方面と交流がもたれ、難所の一つ大山峠へ至っています。


海田市と西条四日市の間宿として栄えた一貫田。

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一里塚(いちりづか)

街道の1里(約4km)ごとの両側に設けられた塚のことで、多くはその上に榎を植えて旅人の目印にしました。1604年に江戸日本橋を起点として、東海道・中山道・北陸道に設置されたのが始まりで、西国街道にも江戸初期の寛永年間にすでに設けられました。

(6) 岩戸山一里塚跡

◎広島城下から西3里
  廿日市市佐方本町の岩戸山の麓に石碑があります。

(7) 龍神山一里塚跡

◎広島城下から西2里
 西区井口鈴が台一丁目の龍神山頂上部にあります。

(8) 高須一里塚跡

◎広島城下から西1里
 西区高須一丁目と二丁目の境の住宅地にあります。

(9) 矢賀一里塚跡

◎広島城下から東1里
 東区矢賀新町三丁目の県道84号沿いにあります。

(10) 海田市一里塚跡

◎広島城下から東2里
 安芸郡海田町新町の市街地にあり、石碑が建っています。

(11) 鳥上(とりのうえ)一里塚跡

◎広島城下から東3里
 安芸区中野二丁目の市街地にあり、石碑が建っています。

(12) 落合一里塚跡

◎広島城下から東4里
 安芸区瀬野二丁目の河岸上にあり、石碑が建っています。

(13) 涼木(すずむき)一里塚跡

◎広島城下から東5里
 安芸区上瀬野の山陽線下にあり、石碑がたっています。

(14) 長尾一里塚跡

◎広島城下から東6里
  東広島市八本松宗吉の国道2号沿いにあります。雌雄四本ずつ、あわせて八本の松は、この地の語源で、跡地には石碑があります。

一里塚のイメージ図です

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街道松(かいどうまつ)

街道の景観に変化をつけるため両側に植えられた松並木。江戸の五街道を始めとして、戦国時代には脇街道にも松並木が一条に延びました。西国街道では約3間(5m強)ごとに植えられましたが、現在では廿日市街道松の1本、佐伯区楽々園の3本、安芸区砂走の出迎え松の6本の計10本が残るのみとなりました。

(15) 廿日市街道松

廿日市市桜尾本町の桜尾公園東側。当時は68本もの松並木でしたが現在は1本のみが残ります。

(16) 楽々園街道松

佐伯区楽々園一丁目の市街地沿いに3本あります。

(17) 砂走出迎え松

安芸区中野一丁目の瀬野川沿いに6本が連なって立っています。
参勤交代を終えた安芸の国の藩主を、家来達がこのあたりまで迎えに来たという言い伝えに由来しています。

(18) 広島城下の大手筋

中区大手町・鉄砲町・幟町

広島城外堀に西から向かって、一丁目御門・真鍋御門・立町御門があり、南の西国街道に沿う今の本通に向け街路がありました。一丁目御門からは白神一丁目〜六丁目に大手筋が延び、東の外堀には京口門があり、幟町・橋本町を通る京橋筋にも大手筋があり、歴代藩主たちが往来しました。参勤交代は殆ど白神筋を通り、鷹野橋沖に御座船を着け瀬戸内海を航行し、大坂から江戸に向け陸路を往来しており、幕末には京橋筋を利用するようになりました。

西国街道プレート
旧町名のプレートは全部で9枚

本通
繁華街の本通は、実は西国街道のメインルート。元安橋から中央通りまで、西横町・東横町・革屋町・播磨屋町・平田屋町と、町が続いていました。この辺りには、江戸から続く老舗も残っており、昔も今もたくさんの人でにぎわう通りです。



広島市レストハウス
平和記念公園を東西に貫く道路も西国街道のルート。このあたりは戦前まで繁華街として賑わいました。現在の広島市レストハウスは、昭和初期に建てられた大正屋呉服店で、当時では珍しい鉄筋コンクリート製のモダン建築でした。原爆投下では全壊を免れ生き証人として存在しています。

(19) 西国街道の難所・大山峠

東広島市八本松

古代山陽道から近世西国街道に至るまで、西の安芸郡と東の賀茂郡の間に、藩内一の難所・大山峠があります。14世紀の今川了俊の紀行「道ゆきぶり」にも載る峠には、安芸郡唯一の刀匠・大山鍛冶の碑があります。また郡境付近に幕府巡検使を迎えるお迎え場があり、参勤交代の籠立場もありました。


大山峠の麓に立つ万葉歌碑

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